枯死 ◆Ok1sMSayUQ
激しい嘔吐感。脳そのものが直接攪拌されるような気持ちの悪い感覚に、古河渚は幾度となく胃の中のものを吐き出しそうになったものの果たせず、
喉元まで込み上げてくる苦酸っぱい味を覚えるだけに留まっていた。
急速に自分の身体そのものが硬化を起こし、思うように動いてくれない。機能という機能が停止したようにも思え、
だから吐き出すことすらできなかったのかと鈍い納得を覚えた渚は、自分でもわけの分からない情動に突き動かされて掠れた笑い声を出していた。
血なまぐさい現実を直視してしまったことに対する失笑であり、今までを夢見心地で過ごしてきたことに対する嘲笑であり、
死なずに済んだ、という安堵感に対する哄笑でもあった。
未だにしっかりと握りこんでいる小さな拳銃も、そうした己の浅ましさを象徴するもののように感じ、
投げ捨てたいという衝動に駆られたがどうしても指が動かず、手はひとを殺す凶器を放そうとしない。
そうしてしまえば、自分の身を守るものはなくなってしまうから。
脳裏にこびりついて剥がれない鮮烈な血の赤色と、見捨てられた絶望が生み出した笹森花梨の嘆きが呪詛となって恐怖を駆り立てるのだった。
「……どうして」
それでも、振り上げて投げ捨てようとした。力いっぱいに叩きつけてしまえばあるいは壊れるかもしれない。
こんな恐ろしい武器を使わなくて済むかもしれない。こんなはずではなかった世界に、戻れるかもしれないのに。
恐怖がそれを邪魔する。捨てれば、殺されるという脅迫じみた重圧が銃を手放させない。
そこまでして己を守りたいのか? 普段ならば考えられない我が身の卑小さに戦慄し、渚は自分が自分でなく、
人間としての大切ななにかを失ったものに成り果ててしまったのではないかという疑念に襲われた。
つい昨日までは至って平凡な、日本人の学生らしい生活をしていただけだった。
病気により留年してしまったという経緯はあるもののそれさえ除けば一般的な、殺し合いなどとは縁もゆかりもない人生でしかなかった。
優しい父母に囲まれ、ささやかに暮らしてきただけの自分が、なぜこのように変質してしまったのか――
目の前で撃ち合いが始まったときから? 竹山と名乗る人物がこれは死後の世界だとか吹聴したときから?
それとも、最初に死人というものを見てしまったあのときから……?
色々と原因を考え、理解しようと努めてみた渚ではあったがなにひとつ納得が行くはずもない。
何も悪いことなんてしていない。しようとも思っていなかった。なのにどうして理不尽が自分の身ばかりに……
「……え?」
そこでふと、自分が悪くはないのだと必死に言い訳しようとしている己の姿に気付き、渚は思わず間抜けな声を出してしまっていた。
『わたしは悪くない』という言葉が自然に浮かんでいた事実がまるで信じられず、呆然とした面持ちで周囲を見回す。
無意識で行ったことだったが、数秒の後にそれも「狡く、浅ましい己の姿を見られたくなかったのではないか」という気持ちから発された行動のようにも感じられ、
渚は蒼白になった顔で「ち、違うんです……」と誰にともなく呟いていた。
「ひ、人のせいなんかに、しようと思ったわけじゃ……竹山くんも、笹森さんも悪くない、悪いのはわたしで、全部わたしが、情けないから……」
自分が悪い。自分が悪い。自分が悪い。己自身に言い聞かせるように、縋りつく声で弁解を続ける。
誰に? 何のために? 聞こえてくる疑問の声を幻聴だと無理矢理に思い、全ては弱い自分が為させた悪なのだと頑なに思い込もうとした。
弱いことがいけない。いつだって自分の弱さを理由にして諦めてきたから、今回の悲劇だって起きた。
甘えてしまったのがいけなかった。昔から変わってゆく皆を見つめるばかりで、変わろうともしなかったくせに優しさに身を委ねてしまったから他者が傷ついた。
現実を見ようとせず、そればかりか、「友達ができるかもしれない」などという期待を抱いてしまったから罰が下った。罰に人を巻き込んだ。
分相応にしていれば良かったのだ。ひとりで、最低限の人間関係の中で、悪い人間としての人生で。
でも、と。どんなに大声で喚き散らしても遮ることのできない、納得と理解を求めようとする、古河渚の本心が問いかける。
病気だったからって、弱かったからって、こんな馬鹿げた理不尽にどうして付き合わされる必要があるのか。
弱かったからという、ただそれだけの理由で、ほんの少し甘えることさえ自分には許されないというのか。
自分だって、人間だ。どこにでもある友人という関係くらい求めたい気持ちくらいある。それさえ許されないとでもいうのか。
普通以上は望んですらいない。なのに、弱者という、ただそれだけの理由で、自分は世界から否定されなければならないのか。
……それは、強くあることを押し付けようとする世界の傲慢ではないのか。
「違うっ!」
自分のものとは思えない絶叫が無人の林に木霊する。
悪いのは己の弱さではない、それを受け入れようともしない世界だと言い続ける本心を追い出すために振り絞られた声だった。
沈黙を返事にする姿なき『相手』は、見下しているようにも感じられた。
滑稽な見世物にされているようにも思い、渚は我知らず目の淵から涙を流す。
それがどんな感情から流させた涙なのかすらも分からず、うつむくことしか出来ず、歯噛みすることしか出来ず、反論のひとつも出来ない。
なにが「違う」?
さざめく風と共に、皮相な声が聞こえてきたような気がして、渚は絶望的な気分になった。
では、どうすれば良かったのだ? どうすれば、世界が認める強い自分になれたというのか。
努力。経験。勇気。そんな言葉は曖昧模糊としすぎていて、何の答えにもならない。
力不足を認め、それでも精一杯に溶け込もうとしてきた。やろうとしただけでは意味がないと言いたいのか。
上には行けなくとも、せめて普通には。それでは弱い存在でしかないというのか。
どうすればいいのか、分からない。弱過ぎる己を認めてしまった自分には、なにも……
助けてとも、抗ってやるとも言えず、渚はただ泣き続けた。
そのままふらふらと、当て所もなく歩き出す。
目的もなにもなく、弱さだけを抱き続けて。
――だから、なのかもしれない。
強者の傲慢を押し付けてくる世界が、次に突きつけてきたものは……
* * *
木陰に身をうずくまらせているはずなのに、頭がどうしようもなく茹っている。
まるで夏の熱気にあてられたかのように意識がぼんやりとしている。
それでいて、意識の滲みに一点、これだけ鮮明に浮き出てくる映像がある。
棗鈴に無力を実感させ、理不尽を痛感させ、僅かに残った生きるための灯火さえ吹き消そうとしてくる光景だ。
鈴は頭を抱える。
なにをすればよかった?
今更考えたところで過去が変えられるわけではないし、なくなってしまったものが戻ってくることはないのに、
それでも鈴の中に宿る後悔が考えさせずにはいられなかった。
一番初めに浮かんでくるのは、問答無用で邪魔者を排除すればよかったという考え。
アルルゥのような幼子が人間のうちに潜む悪意に気付けるわけがなかった。だから『ひとごろし』に近づかれるのを許してしまった。
自分はそれに気付いていた。気付いていながら、曖昧で漠然とした不安としてでしか片付けられず、結局は流れに身を委ねてしまった。
だから刺された。だから手遅れになった。
だから……嫌な予感がしたら、殺してしまえば良かった?
排除するとはそういうことだと結論を結んだ鈴は、しかし次には、それでは『ひとごろし』と同じだと思っていた。
呼吸でも行うかのように、ごく自然に人を刺してみせた『ひとごろし』は、今では守るための一つの手段なのだと思うことができる。
確かに、守れる。怪しいと思った瞬間攻撃していればこんなことにはならなかった。
だが一番確実だと割り切って、それでアルルゥがどう思うかという発想も持てず、己の気持ちを押し付けてしまうのは最低の行為ではないのか。
学もなく、敬語だって満足に使えるかどうか怪しい自分でも、やってはいけないことくらい分かる。
目的を全てに優先させ、共に行動する仲間の気持ちを無視するのは身勝手なものだし、無視されている方もつらい。何もいいはずがない。
兄だって――棗恭介だって、リトルバスターズに入ることを強制させはしなかった。
勧誘を行いながらも、最終的な判断は本人に任せた。
楽しいから、気が向いたら来い。その程度に言葉を残し、無理矢理に連れてくることはしなかった。
考えてみれば、バスターズのメンバーは最初から友好的に接してくれようとした。
なんのことはない。自分から関わろうという意志を持ち、関わろうとするものを知りたいと思ったから友人になろうとした。
あの『ひとごろし』は違う。バスターズメンバーのような意志はなく、自分も相手も騙して、信じるという気概も持てずにいるだけだ。
鈴にとって、人と人の関わりは何よりも大事なものだった。
時に鬱陶しく、時にお節介と思える厄介な代物。けれども大切なことも思い出させ、学ばせてもくれる唯一無二の代物。
口にも出してこなかったが、鈴はバスターズが大好きだった。正確にはそこに漂う雰囲気が、自然に誰かと何かをしてみようと思える空気があることが。
自分ひとりでは思いつきもしないこともやってみようと思わせる、勇気をくれる雰囲気があるのだ。
ゆえに人との関わりを捨ててしまう選択だけはしたくなかった。けれどもその選択が、アルルゥも古河早苗も失わせた。
失わせてしまったことが、鈴を苦しませる。この世界は、代償を要求してくる。
自らを犠牲にしなければ何も守れず、自らを保とうとすると誰かが犠牲になる。
自分の心を捨てずにいるか、他人の心を無視するか。突き詰めるとそこに行き着き、どちらも選べないからこそ鈴はうずくまるしかなかった。
理不尽だ。蚊の鳴くような声でそう絞り出すのが精一杯でしかなかった。
そして理不尽に対して、自分は無力でしかいられない。『ひとごろし』にならずに誰かを守れる力がないのは証明済みだし、どうすればいいのかも分からない。
けれども現実に迎合するつもりも持てずにいる自分は、我が強いだけの世間知らずに過ぎないのだろう。
結局、何も変えられていない。兄の背中を見ているだけだったときから、なにも。
だったらいっそ、諦めさせてくれ。強く生きろなんて、言わないでくれ。
どうしようもなく、自分は弱すぎる――この数時間で得た結論は、黙って待つしかできないということだった。
黙って待てば、いずれ……破滅願望に似た思いを抱きかけた自分に嫌悪し、顔を振ろうと少しだけ持ち上げたとき。
すぐ近く。足元に、誰かがいるのに、気付いた。
「ようやく気付いたようだな」
いつから立っていたのだろう。落ち着き払った声は男のもので、どことなくどっしりと構えている感覚がある。
少しだけ視線を移すと、男のものに比べて華奢な足が見える。白い足だ。いや、靴下なのだと鈴は思いなおした。
見覚えはない。他人という言葉が頭を貫いたが、何者であるかということは半分どうでもよくなっていた。
ただ恐らく、これは賭けになるのだろうという予感だけがあった。
「ここで、何をしている」
ゆっくりと尋ねる声。尋問じみた色ではないことに少しだけ安堵する。
単純に、うずくまっている自分の不自然さを問うているのだろうと思い、鈴は思いのほか素直に返事をしていた。
「……なにも」
「仲間が殺されたのに何もできなかった、か?」
心の中を読み取られたかのような男の言動に驚愕し、思わず上を向き、男の顔を直視していた。
そこにあったのは、仮面である。何かの骨のような仮面だ。
普段ならば「なんだおまえ!? こわっ、鬼こわっ!」とでも言っていたのだが、状況が状況だけにそんな言葉も出てこない。
ただただ言い当てられた事実に慄然とする思いだけがあった。
「なんで、わかった」
「体に血がついている。尋常の事態ではないことがあったと分かるさ」
「……なるほど、すごいな」
勘でしかなかったが、この男には力があるのだろうと鈴は思った。
これくらい観察できる能力でもあれば、アルルゥだって死ぬことはなかっただろうに……
「誰を殺された?」
「どうして聞くんだ」
「それが我々の仲間だった場合、殺した相手が脅威であることは間違いないからだ。君達の言葉で言うならば、我々は軍人なのでね」
「軍人さん……」
だとするとこの落ち着きようにも、観察眼にも納得がいく。そしてそれを公言したということは、逃げられもしないということだ。
たかが学生の自分に逃げ切れる道理はない。もっとも、逃げるつもりもなかったのだが……
「名前、だけでいいか」
「理由を聞く」
「……思い出すのが、つらい」
そこで男がはっと息を呑み、やがて「すまない」と小さく付け足していた。
「誠意が足りないっ」
「ぐっ」
途端、男が脇から小突かれていた。女のものだとすぐにわかる。
また少し視線をずらすと、長髪の凛とした顔があり、仮面の男に怒っているようだった。
「ハクオロさんさぁ、怖いんだからもう少し優しくしなさいよ」
「ど、努力はしている」
どっちが立場が上なのだろう。明らかに女は「ハクオロ」と呼ばれた男よりも年下……それどころか自分と同年代のようにも思えるのだが。
見られていることに気付き、女が苦笑して「ごめんね」と謝ってくる。
「でも、私も知っておきたいことなの」
だが、同年代でありながらも、精神は一回りも頑健なように感じられた。
知りたい、と尋ねられる誠実さ。これも鈴は持ち合わせているものではなく、ただ羨ましいという気になる。
この人たちは強いのだろうと簡単に納得することができて、だったら多少自分がつらいくらいなんだと考え直して口を開いた。
「アルルゥ。あと、さなえさん……」
「な……」
「なによ、それ……」
そこで二人が一様に信じられないという顔になり、鈴は最悪の偶然に出会ってしまったらしいと分かった。
アルルゥも、早苗も、この二人の知り合いであるらしい。
ひどい偶然だと思う一方で、なら二人を見殺しにしておめおめと生きている自分はもっとひどいのだな、と無力感が再燃する。
「誰が殺した! 誰が、アルルゥを……!」
胸倉が掴みあげられる。真正面に向かい合った顔にははっきりと分かる怒りの色がある。
当然だ。アルルゥの仲間だというのなら、あの小さな子が殺されるなどという事実に納得するはずがない。
その気持ちは自分も同じであり、だからこそ守れなかったという事実が悔しくてたまらず「知るもんか!」と怒鳴り返してしまっていた。
「いきなりやってきて、アルルゥを刺したんだ! あたしは気付けなかった! ばかだ! なんで、なんで……!」
「……お前」
じんわりと視界が滲んでくる。逃げている間に流しきったと思った涙が性懲りもなく溢れ出して来る。
悲しいし、悔しい。諦めようと思って諦められるものではない。ほんの数時間に満たない間だったが、確かに仲間だったのだ。
「ハクオロさん、やめてあげて……見殺しにしたんじゃないって、わかってるでしょう?」
女がそこで手を差し伸べ、ハクオロも激情に任せることはせずゆっくりと鈴の体を地面に下ろす。
開放された鈴だったが、涙は簡単に止まるものではなかった。
話さなければならないことはいくらでもあった。早苗の死もそうだし、二人の死について山ほど謝らなくてはいけない。
だが言葉が言葉にならない。悔しいという感情が口に蓋をしてしまったかのように、嗚咽しか出させてくれない。
女も、ハクオロも、それが分かっているからこそ何も言えずにいたし、やり場のない思いを苦々しい表情にするしかなかった。
「これだけ、訊いてもいいか」
返事ができる状態ではなかった。鼻を鳴らした鈴に構わずハクオロは続ける。
「アルルゥは……どんな子だったか」
「いい子、だった」
「分かった。ありがとう」
それで納得できているはずはなかった。だが無理矢理にでも、この場は納得して収めるしかなったのだろう。
そうせざるを得ないハクオロの立場が分かり、泣いているだけの自分が情けなくなって、こちらも無理矢理に涙を止めた。
止めきれるはずはなかったが、しっかりとハクオロを見返し、言葉を紡いだ。ぎりぎり涙声でなかったのは、鈴なりのけじめのつもりだった。
「……次は私ね。早苗さんって、言ったわよね」
「いった」
彼女にとっても大切な人だったのだろう。
許してもらえるはずもない。近しい人がいなくなれば誰だって悲しいし、つらい。
無力で愚かな自分は今ここで殴られても殺されても文句は言えない立場だ。
だから。だから、逃げることだけはしない。何もできないからって、それが逃げ出していい理由にはならないのだ。
「私の友達の、お母さんなの。その人……」
友人の母親。間接的な繋がりでしかないのだろうが、それでもショックを受けていることから早苗の人柄が……
本当は『優しい人』だったことが分かる。いや、彼女は実際に優しかった。
娘を守ろうとするあまりに、一度は『ひとごろし』に身を堕としてしまうほどに。
「知ってた。だって、早苗さん、こどもを守るからって、一度は……」
「え……それ、って」
否定を望む声色だった。言うべきか、一瞬躊躇してしまう。
しかしまたしてもそんな鈴の心を見抜いたかのように「言わなくてもいい」とハクオロが言っていた。
「辛いのなら、無理しなくていい。どうするかはお前が選べ。お前の心に、従え」
先ほどの激昂ぶりが嘘であるかのように、ハクオロの声は落ち着いていた。
だがその代わりに、自分を、死を目撃した一人の人間として扱っていることが感じられる。
厳しく問い詰める大人の声。以前ならば、怖いと思うだけだった声。しかし今は不思議なほど素直に受け止めることができていた。
逃げ場がないし、逃げられない己の立場もあり、そして逃げたくないと思っているからなのだろうか。
「早苗さん……アルルゥの友達――『ユズっち』、殺したって、言ってた」
ぐっ、とハクオロの目が強張るのが分かった。当然だろう。アルルゥの『おとーさん』なら、知り合いでもおかしくはない。
殺したという事実を知らされた女も、どうしてと途方に暮れている様子だ。
「だが、それでも、アルルゥはその女を許したのだな?」
「うん、許した……頭、なでてた」
今にして思えば、あれで早苗は救われていたのかもしれない。
優しい人だったから『ひとごろし』になり、『ひとごろし』であることに苦しんでいた。
一生苦しむはずだったその罪を、アルルゥは許した。許されたから、最後には身を投げ出してまで自分を助けようとしてくれた。
「すごかったんだ、アルルゥは」
思い返すと、償却されない罪をあっさりひっくり返してみせたアルルゥが、自分などには追いつけないものであるような気がしてくる。
誰かを、許す。簡単なようでそうではないこと。ただのケンカでさえ自分から謝るには相当の勇気と器の大きさが必要だというのに。
「そうだ。大した奴だった。……だから、連れて行かれてしまったのかもしれない」
「天国か?」
「神に、だな。神は有能なものを近くに置きたがる」
「……だったら、それ、ずるいな」
本当に神様が連れていったとは思っていないし、ハクオロも本心ではそうなのだろう。
ただ、何が一概に悪であると言えなくなっているゆえ、納得するための方便として神という単語を持ち出したのかもしれない。
「でも、早苗さんも殺された。誰に殺されたの? さっき言ってた、いきなりやってきて刺した、って奴?」
「ちがう。そいつは別だ。やったのは……バケモノ女だ」
「バケモノ?」
「なんか、映画で見たような機械っぽい女」
「……来栖川重工のメイドロボシリーズ、かしら……」
メイドロボ、という単語は見たことがある。確か井ノ原真人が読んでいた雑誌にそんなものがあったのを鈴は覚えていた。
そして確かに、あの機械女は異様な耳をしていたし、エプロンドレスらしき『メイドの服装』もしていた。
けれどもメイドの雰囲気を打ち壊すかのような気色の悪い金属骨格に、何より耳に残る、耳障りなモーター音……
「我々がやりあったのと同型か……もしくは、同一か」
「かもね。もうちょっと情報があればいいけど……」
「じょうほう……そうだ! あいつ、でっかいマシンガン持ってた! それでアルルゥと早苗さんを撃ち殺したんだ!」
「撃ち、殺した……?」
――その声は、この場にいる誰のものでもなく、後ろに佇む神社の影から、はっきりと聞こえたものだった。
会話の内容を盗み聞きされていたことに驚き、鈴を含んだ三人が一斉に振り向く。
現れたのは、先ほどまで話していた女と同じ制服の人間だった。同じ学校なのだろう。
顔面蒼白で、呆然と鈴の方に虚ろな視線を向けていた。
「渚……?」
やや間をおいて、声がかけられる。
その名前は、以前早苗から聞かされた名前だった。誰よりも大切な家族で、何よりも愛していた家族だと。
だったら、こいつが、早苗さんの娘さん……?
確かによく見てみれば、顔立ちはどことなく早苗に似ている。
「殺され……? 何言ってるんですか? 杏ちゃん、冗談、冗談、は、やめてください」
見ているのが痛々しくなるほどの泣き笑いを浮かべられ、杏と呼ばれた女はかける言葉を失ってしまったようだった。
彼女だけではない。ハクオロもいきなり現れた第三者に対応できていない様子だ。
「だって、お母さん、そんなことするような人じゃないし、される理由なんて」
「嘘じゃ、ない」
だから自分がやる。こうなってしまったことの一端を担っている者として、果たさなければならないことを果たす。
どうなるかは分からない。正直なところ、どうなってしまうか予測もつかない。ここで殺されても、文句は言えない。
ただアルルゥや早苗に、せめて恥ずかしくないようにしたいという一心で鈴は渚の声を遮って喋っていた。
「殺されたんだ。あたしを、かばって。いい人だった。すごくやさしかった。でも……殺されたんだ」
「……なんで」
「それは……分からない。でも――」
「なんで、お母さんなんですか! なんで、わたしじゃないんですか! なんで、なんで、なんでっ!」
鈴は声を詰まらせるしかなかった。
なぜ、という、それだけの問いに対して何も答えられない。
理不尽に晒されたひとりの人間を救うことはおろか、かけてやる言葉さえ持てない。
「なんで、わたしじゃない」。自分ですらそうだ。人を救えるアルルゥ。家族という世界の一員である早苗。
二人を差し置いて、自分だけが生き残っている。なぜと問われれば、何も答えられない。それほどまでに無力でしかない自分。
けれども、意味までなかったわけじゃない。
「だから、理由を探してるんだ。強く生きろって早苗さんに言われたから……納得できるまで答えを探す。
なんで早苗さんが殺されて、なんであたしたちが生きてるのか。あたしも知りたいんだ」
知りたい。知りたいから、まだ歩き続けている。どうしようもなくちっぽけでも、歩いている限り可能性はある。
歩き続けている限りは諦めてはいない。現在を駆け抜けることが、二人に恥ずかしくないことだと鈴は思っていたから。
そして渚を固く見据える。来い、とは言えなかった。本当は一緒に理由を探したかったし、たくさん謝らなければいけない。
しかし今言ってしまえば押し付けでしかないと思ったから、敢えて無言で呼びかける。一緒に行こう、と。
「強く……生きろ……?」
だが渚の口から漏れたのは、自らを嘲笑うかのような皮肉染みた音色の声だった。
意識してそうしたのではなく、それが現在の自分を極限まで否定しているがゆえに出させたものだったのかもしれない。
実際、渚はこの世の全てが信じられないといったような絶望に喘いだ表情をしていた。
喘いでいながら、笑っていた。何もかもを、親にさえ否定された。笑うしか術がないというように。
「強く……? じゃあ、わたしは……弱いから、悪くて、生きてちゃ、いけないんですね」
「え……おまえ、なにを――」
「わたしは悪くない!」
そこで渚が拳銃を持っていたということに、鈴は今更ながらに気付いた。
渚の手が持ち上がった瞬間、トリガーにかけられた指が動いていた。
* * *
なぜ。
果断なく繰り返される言葉が、渚を苦しめる。
頭の中で反響を繰り返し、頭痛と熱を以って苦痛を与え続けてくる。
強く、生きろ。
なぜその言葉を残した。
なぜその言葉を自分ではなくあの女に託した。
母の最期を思いも拠らぬ形で耳にしてしまったことの衝撃が、
最期を看取ってやれなかった情けなさと無念が、
次を託されたのが自分ではなくこの女だというどうしようもない怒りが、
何よりも、自分は母にさえ否定されたのではないかという理不尽が。
わたしは悪くない、という言葉となって飛び出していた。
「弱かったら……それで、それだけで、生きることさえ許されないなんて、わたしは認めない!」
ぐわんぐわんと耳鳴りが繰り返され、同時に誰も彼もから見下されている感覚を受ける。
弱さは罪だと謗るだけの連中を振り払うかのように、渚は手にした《チーフスペシャル》で発砲を続ける。
歪む視界と頭痛が邪魔をして上手く狙いがつけられず、目標に当たらない。
母まで取り上げたあの女を、否定し返すことができない。
先ほどからいくつもの悲鳴と怒号が混ざり合って聞こえる。
何が誰の声なのか分からない。友達の声と、怒鳴る男の声と、困惑した女の声と、やけに落ち着き払った男の声。
名前が呼ばれている気がする。いくつか見知った名前があった。竹山。ことみ。椋。仁科。春原。そして、早苗。
やめろという声がそこに重なり、弱さを認めず否定しようとしてくる「なぜ」も重なる。
「うるさい! 誰があなたなんか、あなたなんかに、あなたなんかにっ!」
苛む苦しみから逃れたい一心で渚はこれまで発したことさえない罵声で怒鳴り散らす。
「お母さんがそんなこと言うもんか! わたしがどれだけみじめでもお母さんはそんなことしない!
みんなあなたたちが持っていったんだ! それなのにまだこれ以上、何を持ってくって言うんですか!
ふざけないで! あなたなんかに助けてもらうもんか! わたしなんかとは違うくせに! お母さんを奪ったくせに!」
吐き出せるだけの呪詛を吐き出し、渚は弾を撃ちつくす。
いくら引き金を絞っても弾が出ないことをようやく理解したときには、もう自分を苦しめる三人の姿はなかった。
死体がないことから逃げられたらしかったが、どうでもよかった。
「……わたしは、悪くない……」
だらりと拳銃を下ろし、誰にともなく呟く。
理屈ではなかった。何もかもを否定された悔しさが、自分を受け入れてくれない残酷さが人を殺させようとしたのだ。
こんな自分でも、生きていたかった。誰かに受け入れてもらって、家族になりたかった。
死にたいはずが、不幸せでいたいはずがない。自分の代わりに誰かが幸せになるならまだしも、
たったひとりで、孤独にそうなってしまうのは、耐えられないことだった。
それだけの願いを持つことさえ許さない理不尽を、黙して受けるわけには、いかなかったのだ。
渚はまたふらりと歩き出す。
自分の居場所であるべき、ここではないどこかを目指して。生きていい場所を探して。
表情をなくした顔で、古河渚は救われるために歩き続けることを選択したのだった。
【時間:1日目18:30ごろ】
【場所:B-3 神社近く】
棗鈴
【持ち物:不明支給品、水・食料一日分】
【状況:健康】
藤林杏
【持ち物:H&K P2000(15/16)予備弾倉(9mm)×6、水・食料一日分】
【状況:健康】
ハクオロ
【持ち物:ゲンジマルの刀、
エクスカリバーMk2(0/5)、榴弾×15 焼夷弾×20
閃光弾×18 水・食料一日分】
【状況:健康】
※ミニバイクはb-2の近くに放置されています
※放送をどれだけ聞き取れたかは後続にお任せ
【時間:1日目18:30ごろ】
【場所:B-3 神社】
古河渚
【持ち物:S&W M36 "チーフス スペシャル"(0/5)、.38Spl弾×30、水・食料一日分】
【状況:頬にかすり傷、精神喪失】
最終更新:2011年10月05日 19:15