自分、皇魁准尉は、かつてルワンダ難民救援隊の一員としてザイールのゴマを訪れていた。
 指揮官に第二師団の神本光伸一佐を据えた、国内初のPKO法に基づく派遣であった。

 総員260名の、各師団の混成部隊である。
 部隊の編成から派遣までの準備期間は一か月もなく、互いに見知らぬ各部隊間の連携をとるのには多大なる苦労があった。
 況や指揮官においての状況は推して知るべきである。


 また、現地での環境も相当に劣悪なものであった。
 宿営地に於いては盗難が頻発し、夜間に銃声の聞こえぬ日はなかった。
 直径90センチメートルの蛇腹鉄条網は、現地人にとってはサボテンの棘ほどのものでしかないようだった。

 部隊に支給された武器は、幹部に拳銃、曹士に小銃。
 そしてわずかに、一挺の機関銃のみであった。それでもこれら武装の携行には国内で大いに揉めたらしい。
 47名の警備隊が編成されたものの、その他隊員の多くは丸腰であり、しかもこれらの武器使用は、隊員の正当防衛に限られていた。
 装備品の防衛などに、これら武装を行使することはできなかった。

 治療隊に用意された設備も、診断と投薬を行う程度の一次医療を想定したものに留まっていた。
 ゴマ総合病院の資材を流用しても、手術用のベッドや医療器材の不足は如何ともしがたく、一件一件の処置をHIV感染の危険と隣り合わせで行なっていた。

 死者の出ることが予期される環境下であっても、死体袋(ボディバッグ)の用意さえなかった。
 難民の墓穴は既に数千人の死体が鯖の押し鮨のようにぎっちりと押し詰められ、銀バエと死臭に覆いつくされていた。

 現地入りしていたNGOは、我々自衛隊による治安の維持と保護を期待してやまなかった。
 しかし、法律はそれを許さなかった。
 自衛隊の職務には、治安維持も、NGOの保護も、そのような活動は規定されていなかった。


「……なんでやろなぁ。皇はん、うちら、難民を支援しにきとるはずなのに、なんでルワンダ難民から目の敵にされとるんやろ……」


 宿営地である夜、自分にそう漏らしたのは、同僚の葉沼巴であった。
 現在、彼女は自分とともに死者部隊(ゾンビスト)に所属し、“申”の独覚兵、マコラとして活動している。
 夜間に平気で男性自衛官である自分の元に愚痴をこぼしにくる点からもわかる通り、豪胆かつ繊細な、少女らしい自衛官であった。

 ルワンダ難民は、ツチ族とフツ族の民族抗争のさなか、ルワンダ政府を陥落させたツチ族を恐れて隣国ザイールに流入した、多数のフツ族によって構成されていた。
 我々は極力中立の立場を維持して活動しているつもりであったが、日本政府は、ツチ族によるルワンダの新政府を承認していた。
 そのため、フツ族の難民の一部からは、むしろ日本の自衛隊はツチ族の味方なのではないかという嫌疑をかけられていた。
 彼女はその日、支援に当たっていた難民たちから直接、その言葉をぶつけられたものらしい。


「……人間同士が理解し合うことは、同じ文化を持つ彼らの中でも困難なことなのだと思われます。
 文化の異なる我々と彼らとの間では、なおのことその相互理解は難しいのでしょう」
「なんで皇はんはそない平然としてられるんや! 着実に成果は上げとるとはいえ、こないに思われてたらうちら自衛隊の立つ瀬ないで!?」
「葉沼。任務と感情は切り離すべきであると思われます。彼らの苦悩は推察されますが、我々はここのインフラ整備と難民の支援を続ける他ありません」
「うっわ、勤勉なジャポネのお手本やわ、皇はんは……」


 呆れた顔で葉沼が関西人らしい大仰なジェスチュアをした時、そう遠くないところから複数の銃声が聞こえた。
 時刻は午後9時になろうかというところだった。
 天幕から顔を出してその音を確認した時、激しく連続する銃声とともに、頭上を赤い火の玉が尾を引きながら通過して行った。
 その火の玉の数を数えるに、優に十数発が空を飛んでいる。


「曳光弾……!」
「宿営地の国境側で撃っとるみたいやな……。曳光弾は3~5発に一回混ぜるから……、もう50発以上の弾丸が飛び交っとるってことやで!」




 葉沼は即座に、防弾チョッキと鉄帽を手に、出入り口に向けて駆け出していた。
 慌てて自分は、彼女を制しようとした。

「何をするつもりでありますか! 危険であります、葉沼!」
「交戦地点は近いで! 住民が撃たれとるのかも知れへんやろ! 避難させたるんや!」
「指揮官殿の指示を待つべきであります! お待ち下さい!」
「うちに追いついたら待ったるわ!」

 一面に墨を塗布したようなザイールの暗闇を、彼女は脱兎の如く走り去っていく。
 追いかける自分の背後で、「退避! 総員コンテナの陰に隠れろぉ!!」と叫ぶ幕僚の声がしていた。
 自分は逡巡した。
 そして一度だけ振り向いて、闇の中の葉沼を追った。


 彼女は、意外にもすぐに見つかった。
 自力で逃げ出してきた2人の現地住民を発見し、保護していたのだ。

「近くに住んどるザイール人や。こん人たちのとこにザイール兵がバナナを奪おうと踏み込んできて、制止したら発砲されたらしいで。
 どうもこの戦闘、その発砲を引き金にしてルワンダ軍とザイール軍の銃撃戦に発展したみたいや。
 シリアスにアホ臭くて敵わんわ!」

 2人のうちひとりは、左の大腿部に大きな貫通銃創があり、闇の中にピチャピチャと水音を立てている。一見して重傷であった。
 宿営地の警備幹部に彼らを渡して、即座に治療部隊の野外手術システムに運び込んでもらうべきであろう。
 そう考えて彼らを送り始めた時、葉沼は今一度夜の中に走り出していた。

「葉沼! 早急に帰還すべきです!」
「アホタレ! こん人たちだけやないでぇ!」

 彼女は更に住民を避難誘導するつもりであるらしかった。
 銃声は未だ間欠的に飛び交い、その発生地点を宿営地の北方から徐々に南方へと移していた。
 戦闘が、どちらかの優勢にて続行しているのだ。一方の勢力が敗走しかかっているのかも知れない。

 自分は歯噛みして、彼らに宿営地の方向だけ教え、彼女の後を追った。
 作戦行動からの逸脱もいいところである。
 しかし確かに、命の危険を押してでも、人命救助たるものはこうして遂行されねばならないのではないかという疑問も、自分の中には生じていた。


 そして訪れた戦闘の現場は、血臭に埋められていた。
 空港の滑走路を横断する道路の端々から、呻き声と銃声がこだましてくる。
 目を細めて見回してみれば、胸を撃たれた者、腹を撃たれた者、頭部を撃ち抜かれ即死した者。
 兵士とも住民ともつかない人の形をしたなにかが、そこここに散乱していた。


「あっ、皇はん! あっこや! 子供が一人で逃げてはる!」


 言葉もなく立ち尽くしていた自分に、葉沼はそう叫んで前方を指さしていた。
 親とはぐれたのか、そこにはせいぜい4~5才かと思われる現地人の幼女が、泣き叫びながら歩いていた。
 葉沼は、彼女へ向けて、手を広げながら駆け寄っていた。


「もう大丈夫やで! お姉さんとこおいで!」


 自分の背中を、スコールのように汗が流れていた。
 息が荒くなる。
 えも言われぬ不安感が、自分の脳内を埋め尽くしていた。

 ――駄目だ。葉沼、近寄ってはいけない。

 なぜか、自分の脳はそんな思考を発火させていた。
 開いた瞳孔の奥にふと、小銃の銃口の閃きが映る。
 そこには、泣き叫ぶ子供と葉沼とに向けて銃を構える、兵士の姿があった。


 ――暗闇の中で、大きな音声は最大の的になる――。


「葉沼ぁあああああああああああ――!!」


 弾丸のように、自分は走っていた。
 ステップを踏み、左後方の外側から、葉沼の腰を掠め取るように確保して、右へ跳んでいた。
 わずか一瞬の後に、さっきまで葉沼がいた空間は、数発の銃弾によって貫かれていた。
 葉沼を確保したまま瓦礫の陰に転がり込んで、息を潜める。

「あっ、あっ、ああっ……!?」

 突然の事態に混乱する葉沼の口を塞ぐ。
 呻きながらもがく葉沼の視線の先に、地に倒れた幼女の姿があった。
 彼女はもうピクリとも動かず、ただその体からは黒い地面に、静かに液体が広がってゆくだけであった。

 葉沼の歯が、自分の掌に激しく噛みついていた。
 その目からは涙が溢れてきている。
 自分は、葉沼を諭すように声を潜め、笛のように囁いていた。


「任務と感情とは、切り離すべきで、あります。葉沼。帰還、いたしましょう――」


 言いながら、自分の眼からも、溶岩のような熱さを持った液体が流れ、頬を伝っていた。




 ――ああ。
 もっと自分が速ければ、葉沼とともにあの幼女も、助けられたかも知れない。
 もっと自分が冷静であれば、より早く、行動を決断できたかも知れない。
 痛みや恐怖や感情に流されることなく、ただただ状況を正確に理解し、最善の行動を導き出すプログラムとなっていれば、任務を遂行しながらより多くの命を、救えたかも知れない。
 荒野でも。
 摩天楼でも。
 どんな環境下でも。
 迅速に決断し、冷徹に遂行し、即座に反応し、瞬息に行動できる力さえ自分にあったならば――。


 それこそ、皇魁である自分が、アニラという名の自分に抱いた願いだったのだろうと、今となってはそう思われる。
 そこには何の後悔も、疑念もない。
 アフリカの地にて、自分の背骨の奥から沸き上がったその願いこそ、恐らくは自分の原点たるものなのであろうから。
 もしかすると、後悔という感情さえも、今の自分からは、切り離されているのかも知れなかった。


    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


 私の指先に、月が回る。

 会陰。
 脾臓。
 臍。
 心臓。
 咽喉。
 眉間。
 頭頂。

 背骨に沿ってゆっくりと月を上げ、そして下ろす。
 精確に精確に、綺麗な螺旋を描くようにして、『私だけの現実』に月を回す。
 練り上げられてゆく蛇のとぐろのような炎を腕に這わせ、指の先から細く細く紡ぎ出した。


「……最小範囲でっ……、『第四波動』!」


 肉の焦げる音と臭い。
 私の指の上からはどばどばと大量の消毒液が掛けられ、その熱の伝播が防がれる。


「ぐうううう……!! ぎいいいいいい……!!」
「ウィルソンさん! 頑張って! 耐えて下さい!」


 私が第四波動で焼いているのは、ウィルソンさんの手首と脚の傷口だった。
 初春と北岡さんが、浴衣をお仕着せた彼のもがきを必死に押さえている。
 その上から、傷口に向けて、皇さんが惜しげもなくボトルの消毒液を流し続けていた。

「す、皇さん! 大きな血管は全部止めたわ。これでいいのよね!?」
「出血点は全て焼灼願います。市販の消毒液には鎮痛薬が含まれておりますので、逡巡なさらぬよう」
「……っ、見てらんないねぇ……」

 こぼれる消毒液と血液を、下に敷いたペットシーツに吸わせながら、皇さんは淡々と言う。
 黒いスーツ姿の北岡さんが、それでも呼吸の荒いウィルソンさんを一瞥して、苦々しい顔で眼を逸らした。


 ここは百貨店の6階。私たちが物資を運び込んでいたレストラン街だ。
 赤黒いヒグマを倒した後、私たちは凍った津波の上を百貨店まで戻ってきていた。
 皇さんは浸水していない3階の窓ガラスを北岡さんと一緒に叩き割ってフロアに上がり、右手と左膝下をなくしたウィルソンさんの手当てのために、てきぱきと用意をしていた。


 皇さんは、この場で医療行為を始めるつもりらしかった。曰く、ザイールでの難民救援の時よりかは格段に良好な環境であるとのこと。
 私たちは、この百貨店に残っていた物品で、なんとか彼の手当てを始めたのだ。


 まず、ほとんど裸だった彼に、北岡さんが洋服売場の男物の浴衣を合わせた。
 その間に、私が家具売場からホットカーペットを持ってきて彼をそこに寝かせた。
 確保してた食料品の中から初春がスポーツドリンクやジュースを探し出し、皇さんは消毒液だの包帯だのペットシーツだのを見繕ってきていた。

 そして処置の要になったのは、私の『第四波動』だ。
 皇さんは、私のこの能力で生み出される熱を、電気メスのように使って、ウィルソンさんの傷口の出血を止めろという無茶振りを平然と言い渡してきたのだった。

『はぁ!? そんな使い方、できるわけないじゃない!?』
『初春女史の着衣を遠方から跳ね上げる操作性があるのならば、十分に可能であると見受けられました』
『ぎゃあああ!? あんたそこ見てたの!? あれは、あれは私と初春だから許されるものであって男の人が見て良いもんじゃないのよ!?』
『佐天さんでも良くないです!!』

 そんな会話のあと、二の足を踏む私の背中を押したのは、初春だった。
 スカートのことは置いといて、と前置きした後、初春はこう言った。



『佐天さんは、ここに来てようやく、「自分だけの現実」を見つけられたんです。
 佐天さんは今まで、ずーっと努力してきたんじゃないですか。そこに、自分の才能を見つけられた。
 きっと佐天さんが思ってるより、簡単なことですよ。
 いつもの佐天さんらしさを、もっともっと出せば良いだけだと思います。
 おにぎり握りながら、エカテリーナ二世号改の操縦、覚えちゃったじゃないですか』


 語る同志の耳打ちは、私の惑いをかき消していた。
 そう。
 私には、彼方の地で待つもう一人のサテンさんがいる。
 私たちの帰りを待っている、御坂さんや白井さんがいる。
 私が憧れていた超能力の境地。
 その高みで待っている仲間が、そこにいる。

 超能力に目覚めても、レベル0のままでも、私は私。
 私だけの歪みを、せめて美しく、私らしく磨いて行けばいい。
 きっとそれが、私に授けられたその地への道なんだ。


「熱吸収、かーらーのー……」


 右手を浸けていた洗面器の水面や、傍にあったジュースのパックが結氷していく。
 洗面器から濡れタオルを取り、適度に溶かして絞りながら、ウィルソンさんの頭に乗せる。
 右腕から上ってくる炎の蛇を、心臓に回して、左手へ向けて流した。

 細密な範囲に熱を集中させるのは、大火力の熱を扱うよりも格段に難しかった。
 少しでも呼吸が乱れれば、増幅した熱がすぐに体の他の部位へ散逸してしまう。
 呼吸を、血流を、月を、体内の現実に明確に演算して回さなければならない。
 しかしその分、少量の熱でも一点集中させることで途轍もない温度に高めることが可能だった。
 初春の助けがなくても、集中さえできれば炎が起こせる。
 それがわかったことだけでも、大きな収穫だった気がする。

 なんてことはない。
 コツさえわかって落ち着けば、後はとても簡単だった。


「最小範囲『第四波動』!!」


 細く吐息を伸ばしながら、私はその指先に赤熱を灯した。
 滲み出す血を悉く灼き止めて、ウィルソンさんの手首と膝下の切断面は、わずかに覗く黄色い皮下脂肪の他は一面真っ黒に炭化していた。
 皇さんがそれを消毒液で洗い流し、出血のないのを確認した後、新しいペットシーツで覆って輪ゴムで止める。
 上から包帯を巻いて、治療は完了していた。


「で、できた……」
「ウィルソンさん、気分悪くないですか? 水分摂れますか?」

 一気に緊張が解けてへたり込む私に代って、今度は初春が甲斐甲斐しく動き始めていた。
 ウィルソンさんの背中にクッションをあてがって起こしてあげながら、半分に薄めたスポーツドリンクを吸い飲みに入れて彼に勧めている。

「ああ……。ありがとう、佐天くん、初春くん。必ずや、謝礼を尽くそう……」
「まずはウィルソンさん自身が治らないと。無理なさらないで下さい」

 朦朧としながらも、ウィルソンさんはただただ私たちに感謝ばかりを述べていた。
 いたたまれなくなる。
 血は止めたとはいえ、彼の顔は血の気が失せて真っ白だ。
 皇さんが早くも、道具を片付けたついでに毛布を探し出してきてホットカーペットとともに彼の体をサンドしているが、彼の体温は依然として冷たいままだ。
 ウィルソンさん自身、少しずつでも初春の吸い飲みに口をつけて、自分の体液を冷静に補充しようと試みているが、正直、ここから持ち直せるかどうかは微妙かもしれない。

 その時、私たちに向けて皇さんが、初めにウィルソンさんの血を拭き取った4つ折りガーゼの束を舐めながら口を開いていた。


「出血量は、傷口の状態から見て1リットル内外で済んだものと見受けられます。
 また、フィリップス氏の内分泌は正常な反応を維持しており、適切な対処をすれば回復に向かうものと考えられます」
「本当? 治るのね? なら良かったわ……」
「そんなことも解るんですね、皇さん。ありがとうございます」


 私と初春の不安げな表情を見かねて、安心させようとしてくれたものらしい。
 医学の知識もない、ただの中学生である自分たちにここまでのことができたのは、間違いなく皇さんの的確な指示のおかげだった。
 彼の迷いない指摘には安心感がある。

 二人して顔を見合わせて笑うが、その横を、ふと立ち上がった北岡さんが通って行った。



「おい……。あんた、スメラギとか言ったか」


 皇さんはその声に爬虫類のような眼を振り向ける。
 北岡さんは彼を睨んで、言葉を続けた。

「なんでこんな野蛮な治療でウィルソンさんが助かると言い切れるんだ。
 お嬢さんたちを酷使して、ウィルソンさん自体にもこんな苦痛を与えて。
 病院があるんだろう、この島には。そこに向かった方がマシだったんじゃないのか?」

 確かに、初春が調べてくれた詳しい島の地図では、南のC-6に総合病院があるらしかった。
 しかし皇さんは、それを差し置いて、ここでの処置を優先させた。
 最低限の指示だけを出して高速で店内を移動しながら準備する彼の姿に、私たちは流されていた形にはなる。


「……佐天女史及び初春女史に、延べ1キロメートルを越す水面を凍結させていただきながらフィリップス氏を搬送し得る体力は残っていないものと判断いたしました。
 また、搬送及び院内の探索にかかる時間でフィリップス氏の状態が悪化する可能性が高く、リスクの大きさは現在の選択の方がより小さいものと考えた次第であります」


 皇さんが淡々と答えた通り、病院まではこのC-4からエリアを丸々ひとつまたぐ形になる。
 津波さえ来ていなければ、皇さんがウィルソンさんを担いで跳んでいくのに、後から私たちが走って追いつけば済むかも知れない。
 しかし水没したその距離を、体力の残っていない私たち全員が水面を凍らせながら向かうのは、確かに遠すぎるだろう。
 まずもって皇さんが慮ってくれた通り、いくら初春の力を借りても、流石にそこまで私の『第四波動』が持つ気はしない。


「なお、フィリップス氏の回復の兆候を知りうることに関しましては、我々独覚兵の感覚が通常よりも鋭敏になっているが故のものとご理解ください」
「……そこなんだよね、意味が解らないところは」


 北岡さんは、忌々しげな視線を皇さんに固定したまま、彼の全身を指さして上から下までなぞった。

「あんたは、本当に殺し合いに乗る気がないの?
 実験でそんな体になった自衛官とかいう話だが、どう見てもあんたは人間かどうかすら怪しいぞ?
 俺たちをだまくらかして皆殺しにする算段なんじゃないのか?」


 皇さんの真っ黒な鱗。
 竜かトカゲのような鋭い牙と目元。
 恐竜のような爪。
 長い尻尾に皮膜の翅。
 たてがみのように伸びた薄い金髪。

 どれを見ても皇さんは、一見して人間には見えないパーツの集合体だった。
 恥ずかしながら私だって、初春の無事を知るまでは、ずっと皇さんを化け物か何かだと思っていた訳だし。北岡さんの疑念はわからなくもない。

 彼のスーツの腰には太いベルトが出現しており、手には緑色のケースが握られている。
 いつでも戦闘できる体勢というわけだ。
 その姿に対して、皇さんはただ、静かに北岡さんの言葉を聞いているだけだった。
 口を挟む時間を与えず、北岡さんは更に言葉を繋ぐ。


「ご親切にも、あんたは自分から食人欲求があると供述してくれちゃった訳だしね。
 他人の苦痛を無視して、自分の有罪を是認してるようなヤツを信用できるわけがないだろう。
 このお嬢さんたちだって、あんたが恐ろしいから従ってるだけだ」
「ちょっ……! 北岡さん、そんな……」
「あんたが本当に他人を助けようとしてるんなら、他人の信用を失うようなその容姿じゃさっさと何処かに去るべきなんだよ。
 一般人の気持ちも痛みも理解できないで、他人と同行しようなんて、甘いことしてんじゃないよ!」


 北岡さんは、私の言葉を掻き消すように一気に捲し立てていた。
 皇さんはただ黙って、その怒声に耳を傾けていた。


   ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




 北岡秀一のカードデッキが、洗面器の水面に映っている。
 ベルトの巻かれているスーツは、真新しいものだ。
 ウィルソン上院議員の浴衣を探しながら、彼は仮面ライダーゾルダの変身を解いて、血糊のついたスーツを売場にあった別のものに着替えていたのだった。
 傍から見て、北岡の佇まいに怪しいところは見受けられない。


 正義の弁護士が、ヒーローとして怪物に立ち向かおうとしている構図に見えるはずだった。


 目の前に立つアニラに対して、北岡には十分対応できる自信があった。
 マグナバイザーを召喚と同時に抜き撃つ用意はできている。
 その上北岡には、アニラが自分に対して攻撃などせず、そもそも殺し合いにも乗ってはいないだろうという確信もあった。
 本当に皆殺しにするつもりならば、わざわざヒグマと津波の中から自分たちを助けようとはしない。
 そして、彼の身体能力なら、いつでもこの場にいる人間を瞬殺し得たからだ。


 彼はなぜアニラに向けそんな啖呵を切ったのか。
 それは一言で言えば、アニラが『邪魔』だったからに他ならない。


 アニラの判断が最善手だったかはさておき、ここにいる面々は大筋でその判断に従っている。
 確かに彼は相当の知識や技術を有しており、そこだけ見れば北岡にとっても有用な人材だ。
 しかし、その容姿はどう見ても人間のものには思えない。
 まずもって他の参加者は敵愾心と恐怖心を抱くであろう。
 その上、質問すれば彼はバカ正直に、自分が人喰いであることまで喋る。
 参加者の協力を取り付けるには、この上ない妨げに思われる要素だった。

 また、この状況でウィルソン・フィリップス上院議員が中途半端に助かってしまうことは、大きな損害であった。
 怪我人が死んでしまえば、以降その面倒を見る労力も資材も時間も消費しなくて済む。
 しかし、片手と片足を失った明らかな足手まといが助かったところで、今後ヒグマに立ち向かうにつけて役に立つとは、北岡には全く思えなかった。
 そのくせ、その看護や世話には、現在の状況と同じく、二人かそれ以上の人間の力が割かれることになる。

 以上の二点は、利益よりも明らかにリスクの方が極端に大きい。
 そう判断して、北岡はアニラとウィルソン議員を排斥することにしたのだった。


 佐天と初春という二人の少女にしても、こんな竜人に同行している理由は、恐怖以外にないだろう――。


 従わなければ殺されるかもしれない。そんな思いが内心にあったのだろうと、そう北岡は考えていた。

 北岡の予測では、ここでまず間違いなくアニラは引き下がる。
 アニラはアニラで、単身で十分ヒグマと渡り合える能力を持っているのだから、一人で勝手に戦ってもらえばいい。
 そして、内心の恐怖が解かれた少女二人は自分に感謝するだろう。
 ウィルソン上院議員は衰弱して死に、その死を悼みながら自分は彼女たちを慰め、スーパー弁護士の仮面ライダーとして彼女たちを率いて仲間を増やしていくのだ。


 そんな画策を胸に、北岡秀一は黒い竜と対峙する。
 アニラは半透明の瞬膜で、一度瞬きをしていた。


「――この容姿となり、自分は以前着用していた衣服の一切を処分することとなりました」

 か細い笛のような声で、アニラは鳴いた。

「同僚と飲食店に立ち入ることはできなくなりました」

 縦に切れた爬虫類のような瞳孔の上に、何度も瞬膜がかかった。

「自分の形態及び行動変化の異常性は、十分に理解している所存でありました」

 笛の音は、その管内に唾が詰まってしまったかのように途切れ途切れになっていた。


「――しかしながら、自分の痛覚は、通常の生物のものと全く異なるものに変容しております。
 痛みは、自分にとって単なる電気信号としか捉えられなくなりました。
 全ての感覚は全くの客観的情報として、自分が未だ人間の容姿であった際に抱いていた恐怖や怒り、憎しみといった感情とは、結びつかないものとなっております」


 抑揚もなく、表情の変化もなく、しかし訥々と竜は語り続けた。


「これは恐らく、自分自身が独覚ウイルスに望んだ効果なのであります。自分の根底から、自分はこの容姿と能力を得ました。
 そのため、自分の思考いたします恐怖が、その他の方々の認識とは大きく異なっていることは当然想定されます。
 北岡氏には、その点をご指摘いただいたことを感謝いたします」

 アニラは、目の前で構える北岡へそのうなじを差し出すかのように、深々とその頭を垂れていた。
 そしてゆっくりと首をもたげ、もう一度口を開いた。

「……自分は疲弊いたしました。
 自分はこの地において無闇に参加者を殺傷する所存はありません。しかしながら、皆様が自分を信用できず、役に立たないと認識されるのであれば、どうぞお捨て置き下さい。
 皆様の目の届かぬ処にて就寝いたします」


 アニラはそう言葉を切ると、佐天涙子が脇に置いていたジュースのパックを取り上げた。
 傍のテーブルに4枚の皿を並べ、その上に、その1リットル紙パックを左手で摘んで掲げる。

 サクッ、サクッ、サクッ、サクッ。
 右手の手刀が、その紙パックを2往復した。

 『第四波動』の熱吸収で凍結していたオレンジジュースが、豆腐のような四角柱となって、切断された紙パックとともに皿の上に綺麗に落ちた。
 アニラは紙パックを凍ったジュースから外し、その山吹色のシャーベットの姿を露わにする。
 摘んでいたパック上端の氷を舌の上に落として咀嚼しながら、彼は皿の一つ一つにスプーンを置いた。


「――お嫌でなければ、皆様の疲労回復の一助になさって下さい」


 ジュースの紙パックを小さな球に丸めながら、アニラは振り返ることなく、厨房の奥に立ち去っていった。


    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


 立ち去るアニラの背がレストラン街の奥に見えなくなってから、北岡秀一は満面の笑みを浮かべて振り返った。

「――さあお嬢さんたち。もう怖がる必要は……」

 彼に返って来たのは、女子二人の剣呑な視線だった。

 笑みを覆っていた余裕が一瞬でめくれ返る程の鋭さと硬さを持った眼力に、思わず北岡はその台詞を中途で止めざるを得なかった。
 まず初春が視線を落とし、立ち上がりながら北岡に向けて言う。


「北岡さん。あなたは私たち以上に皇さんを知らないので、皇さんを怖がるのは当然だと思いますが、いくらなんでも、あれは言い過ぎだと思いますよ」

 アニラが置いていったオレンジシャーベットの皿を両手に運びながら、彼女はもう一言付け加えた。


「あんな親切な人にそこまで恐怖するなんて、随分腰抜けなんですね」


 そして初春は、皿の一つからシャーベットを掬って、朦朧としたウィルソン議員に「食べられますか?」などと優しく問いかけ始めていた。

 北岡は状況の意味が理解できなかった。
 ただただ、呆然とした顔を晒している彼へ、ずっと半眼の視線をぶつけていた佐天が口を開く。


「あんた、後で皇さんに謝りなさいよ。私以上に失礼なこと言ってんだから。
 じゃなかったら、私たちといても邪魔だから別のとこ行った方が良いわよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! あんたたち、あの男が恐ろしいから仕方なく従っていたんじゃないのか!?
 俺は、その恐怖を拭ってやろうと思って……」


 佐天の低い言葉に、北岡は慌てる。
 その様子に、佐天は思わず吹き出していた。

「アッハッハ……。あんた、ヒグマから助けてもらっておいてどうしてそんなこと思えるわけ?
 人喰いの獣人なんかよりよっぽど恐ろしいものを目の当たりにしてるのにさぁ……」



 ――あとねぇ。


 佐天は床からふらりと立ち上がり、訳の分からぬまま立ちすくむ北岡の両手を握った。


「この島で人殺しをした経験のある人が、このフロアには一人いるのよ。誰だと思う?」
「……そ、そりゃあ、あのスメラギってやつじゃあ……」
「残念。私でした」


 にっこりと微笑んで、佐天は北岡に向けて小首を傾げる。

「北岡さんって弁護士なのよね。日頃から凶悪殺人犯の見すぎで、人一人殺したくらいじゃわかんなくなってるのかしら?
 当然、皇さんは元々自衛隊の人だし、人喰いに改造されちゃったから何人も戦争で殺してるのかもしれないけど。
 それはあの人の仕事だから。ある意味しょうがないことよ、たぶん」

 佐天は、細めていた眼を開く。
 彼女に掴まれている北岡の手首は、次第に左が冷たく、右が熱く感じられるようになってきていた。

「……なにより、この場にいる全員が、全員を簡単に殺せるんだから。
 北岡さんにはなんか大きな銃があるし。
 皇さんはあの鉤爪で蹴れば良いだけだし。
 初春もウィルソンさんもナイフを持ってるし。
 私だって、あなたの体半分フリーズドライにして、もう半分をミディアムレアに焼いてあげることくらい簡単なのよ?」

 北岡のこめかみを冷や汗が伝う。
 左半身は震えるほど寒く、右半身は燃えるように暑かった。
 掴んでいる佐天の手を振り払おうとしたが、力が入らなかった。

「怖がる意味なんてないわ。重要なのは、そうであってもお互いが助け合っていられる事実よ。
 だから、わざわざその助け合いを壊すような言葉、金輪際言わないでくれる?」


 それだけ言って、佐天は北岡の腕を離した。
 溶けちゃうから早くあんたも食べなさいよ。
 と呟きながら、彼女はアニラの残していったシャーベットの皿を取って、初春とウィルソン議員の元に座り込んでいた。


「あれ!? すごい美味しいんじゃない、これ!? ジュース凍らせるだけでこんなになるの?」
「皇さん、消毒液扱いながら尻尾でこまめに振ってましたから。いい具合に氷の結晶が散って口当たりがなめらかになってるんですね」
「『第四波動クッキング』ね……。帰ったらレパートリー増やそうかしら」
「うむ……、旨い。彼にも、後で謝礼を尽くすと伝えておいてくれ……」


 膝崩れになった北岡を放っておいて、3人はシャーベットを口に運んでいる。


 理解不能だった。
 一体、彼女たちとあの竜人の間に、何があればそれほどの信頼が築かれるというのか。
 あの容姿と愚直さからは想像しがたいことであるが、皇魁という自衛官に、容姿のディスアドバンテージを補って余りあるコミニュケーション能力があるのなら、自分の画策していた行動案は全くの裏目であったということになる。

 外部に敵を想定することで、味方の結束を強めるという手口は、古来から戦術の常套手段であった。
 しかし今回、北岡はその仮想敵の設定を完璧に間違ってしまっていたことになる。

 本来の参加者の敵は、明らかに敵対者であるヒグマ、もといこの殺し合いの主催者であり、参加者同士ではない。
 参加者同士で足を引っ張り合っていたら、戦えるものも戦えない。況や、士気や統制を乱すような言動は御法度なのだ。
 負傷者が出たときにそれを見捨てるのも、味方の間に戦いへの恐怖と不信感が蔓延する原因になる。
 例え足手まといにしかならずとも、状況に余裕があれば極力彼らを助けることが士気の向上にも繋がるのだ。
 佐天涙子、初春飾利の両名は、北岡以上にその重要性を理解していたということになるだろう。



 自分が彼女たちを率いるつもりが、すっかり団体内の立場が下がっていることに気づいて、北岡は愕然とした。
 むしろ津波の上に蹴り出されたり殺されたりしなかっただけ、だいぶマシかもしれない。


「……ただ、北岡くんの言っていることは、大方では正しいよ。アニラくんを恐れない、わしやお嬢さんたちの方が、珍しいだろう」


 呆然とする北岡の背中に、ふとウィルソン議員の声がかかっていた。
 紙のような白い顔で呟く彼は、隣にいる佐天と初春にも言い聞かせるように言葉を繋ぐ。


「……アニラくんは恐らく、『鬼骨』を回してしまったのだ。だが、それでも、わしらと同じ人間であり、人間であろうとしていることには、変わりない。
 彼が人々に受け入れられづらいのなら、それを排斥するのではなく、認めてもらえるよう、後援しようじゃないか」


 彼は北岡に言い聞かせるように、毛布の上に身を起していた。


「北岡くんも弁護士なら解るだろう。裁判には、より多くの証拠を集めねば勝つことができない。
 わしら議員も、選挙には、より多くの票を集めねば勝つことはできない。
 人と情けは味方、仇と恨みは敵なのだ……」


 その言葉は、北岡に対して敵愾心を抱いた佐天と初春に対しても刺さるものだった。


「謝る必要はない。だがせめて、アニラくんを温かく迎えてやってくれ」
「……随分甘い考えに聞こえるが……、有り難く拝聴しておきます……」


 ウィルソン議員の切実な眼差しに、北岡は口の端を引き結びながら溜息をつく。
 彼は立ち上がって暫くした後、シャーベットの皿を手に、アニラの後を追ってフロアの奥に消えた。


    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


「……ッハァ――」
「ウィルソンさん!?」


 北岡秀一の背中が見えなくなった後、ウィルソン・フィリップス上院議員はどっと仰向けに倒れていた。
 荒い息をつく喉元に、ぷつぷつと冷や汗が浮かんでいる。
 初春と佐天が慌てて彼の体を支えていた。



「無理しないでよ本当に!! 私たちが頑張った意味がなくなっちゃうじゃない!!」
「ははは……。気力だけでは、威厳を保つのも、難しいな……。わしも、『波紋』の一つくらい、回せれば良いのだが……」
「……ハモン、ですか?」

 初春が、ウィルソンの呟きの端を耳に留めた。
 先程、彼がアニラを評して言った『鬼骨』という単語も、聞きなれないものである。
 ウィルソンは、吸い飲みのドリンクを3口ほどたっぷり飲み込んだ後、ゆっくりと口を開き始めた。


「……いや、な。佐天くんと言ったか。君の技術を見ているうちに、昔イタリアで体験した記憶が蘇って来たんだよ。
 君は、その技術を、どうやって使っているんだ……?」
「え……? 『第四波動』の? と言われても、パーソナルリアリティの話になるからなぁ……」
「イメージだけでもいい。教えて欲しい」


 意識をふらつかせながらも、ウィルソンの表情は真剣だった。
 彼がレスリング部のキャプテンを務めていた時分の漢気が、周囲の女子二人にも伝わってくるようだった。
 佐天涙子は、その眼差しに導かれるように、その指先を顔の前でくるくると回した。


「月を――、回すんです」


 訥々としたその口調に、初春とウィルソンの意識が引き込まれていく。

「体の細胞一つ一つに、月のような、真っ白い炎の輪のようなものがイメージできるんです。
 歪んだその輪っかを、周囲の世界から熱を引き込むことによって回し、どんどん大きく、速く、綺麗にしていきます。
 それを、体の中心を通して螺旋みたいにぐるぐる回して――。
 練り上げた炎を、一気に腕や手の先から噴き出させる。……みたいな感じ、かな?」


 余りに集中して聞き入ってくる二人の視線に、佐天は気恥ずかしくなって照れ笑いを見せた。
 小首を傾げて頭を掻き、冗談めかして腕を広げてみる。
 しかし、初春もウィルソンも、その興味深い眼差しは崩さなかった。
 特にウィルソンは何度も頷いて、感慨深げに嘆息している。


「……それ、つい昨日までレベル0だったってことが信じられないくらいの正確なイメージじゃないですか?
 やっぱり佐天さんセンスあるんですよ」
「うむ……、よく似ている。『波紋』に。その呼吸が出来れば、佐天くんの役にたつかも知れない。わしの怪我も……治せるかも、知れん」


 体の奥深くから記憶を持ち上げてくるかのように、ウィルソン・フィリップスは深い呼吸とともに語り始める。
 オレンジシャーベットの芳香が、その口から匂い立っていった。


    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


 ウィルソン・フィリップスが過日、イタリアの視察にヴェネツィアを訪れた時のことである。
 気分転換に郊外の散策をしていたところ、彼は階段を踏み外して転落し、足首を捻挫してしまった。
 その時、たまたま通りかかった一人の男が、不思議な力を用いて、触れただけでその傷を癒してしまったことがあった。
 触れた部分に電気の走ったような、油を注がれたような、暖かな独特の感触。
 その男は、東洋系の褐色の肌に筋肉を満たし、ナマズのような長いひげを蓄えた丈夫であった。
 身に纏う衣服こそ古く、その体毛こそ白くなっていたが、ウィルソンより少々年上にしか見えぬ若々しい容姿だった。

 男はメッシーナという名の導師(グル)であった。
 謝礼としてウィルソンが彼を晩餐に招いた時、彼はメッシーナの年齢が100歳を越えていることを聞き驚愕した。
 そしてウィルソンが、自分の傷を癒し・体をそんなにも若く保っている件の不思議な力について尋ねた時、メッシーナは暫く話すことを躊躇っていた。
 しかし終には、彼は寂しそうな顔をして訥々と語り始めた。



 メッシーナが用いたのは『波紋』という、東洋において『仙道』と呼ばれる技術体系の奥義であった。
 彼はその技術を修めた波紋使いとして、このヴェネツィアで次なる波紋使いの育成に従事していた。
 波紋とは生命のエネルギーであり、太陽のエネルギーと同質のものと考えられている。
 彼ら波紋使いは、その生命エネルギーを呼吸法によって取り入れ、血流に載せて全身の細胞に行き渡らせ高めることにより様々な現象を引き起こすことができた。
 曰く、細胞を活性化させていつまでも若々しい容姿と身体機能を維持することができる。
 曰く、他の生命に流し込むことで、その傷の治癒を促進させ、痛みを和らげることができる。
 曰く、強い波紋を練り高圧で叩き込むことにより、多少の岩や金属ならば容易く砕くことができる。
 曰く、吸血鬼などの陽光に弱い妖物を、このエネルギーにより折伏することができる。
 人間でさえ、強力な波紋を受ければ、直射日光で日焼けを起こすように、高圧電流でショック死するように、深刻なダメージを負うことがあるという。
 折角のイタリア来訪なのに観光もできぬ密な視察に飽き飽きしていたウィルソンにとって、この話は彼の好奇心を刺激して余りあるものだった。

 『仙道』は現在、チベットや中国、インド、日本、ここヴェネツィアなど世界各地にその分派がある。
 各地で言い伝えられている内容には多少の差があり、『波紋』という名称を用いていない派閥も多い。
 しかしその原点は一貫して、主に呼吸法により、自己および外界に溢れている生命エネルギーを取り込んで高める点にあった。

 人体には、7つの結節点があるという。
 インドのヨーガの言い方では、それを『チャクラ』と呼称し、仙道にも同様の考え方が存在する。

 王冠のチャクラ、泥丸(サハスラーラ)。
 眉間のチャクラ、印堂(アジナー)。
 咽喉のチャクラ、玉沈(ヴィシュッダ)。
 心臓のチャクラ、膻中(アナハタ)。
 臍のチャクラ、夾脊(マニプーラ)。
 脾臓のチャクラ、丹田(スワディスターナ)。
 根のチャクラ、尾閭(ムーラダーラ)。

 これらは炎の輪、または華のようにイメージされ、脊柱の中のスシュムナー管という経路に仮想配置されている。
 波紋を練る際にはまず、特殊な呼吸法により、丹田(スワディスターナ)に外界から陽気を取り入れる。
 この呼吸法だけでも通常、身につけるのには数年の歳月を要する。訓練だけでも、一秒間に10回の呼吸をする、または10分間息を吸い続け10分間吐き続ける、といったようなおよそウィルソンには不可能とも思える修行をするらしかった。
 その後、その気をいったん尾閭(ムーラダーラ)に降ろして回す。
 そこは人体で言うと会陰、または尾骶骨に相当する部位である。
 ヨーガにおいては性力(シャクティ)、神智学においては進化力(クンダリニー)と呼ばれる、『螺旋状の蛇』に喩えられる力がそこに眠っているらしい。
 波紋法では、その力で水面に波紋を起こすようにチャクラを回していく。
 普段は眠っているこの波紋のエネルギーを全身に回していく修行は、『周天の法門』、中国においては『小周天』と呼ばれている。

 1つのチャクラの力を一定とした時、7つのチャクラ全てを回した際に生み出されるエネルギーはその7乗倍となる。
 人間の眠っている能力を呼び覚ますこの波紋法で、爆発的な力を得ることができるのはここに由来していた。


『それほどのものならば、さぞや有名なことでしょう。お弟子さんは今、何人ほどいらっしゃるのですかな?』
『……生きているのは、一人だけです。その一人も今は波紋の呼吸を止め、アメリカで暮らしていると聞き及んでいます』


 興奮気味に尋ねたウィルソンに返ってきたのは、意外なほど悲しみに沈んだ、メッシーナの呟きだった。
 メッシーナはワインの酔いに任せて、往年の寂寥を慰めるかのように、つらつらとその経緯をウィルソンに語っていた。


 人体のチャクラは、この7つ意外にも、存在を疑問視されていながら、あと2つあるのではないかということが示唆されている。
 頭頂よりさらに上、虚空に存在するチャクラ。月のチャクラ『ソーマ』。
 そしてもうひとつ。
 世界各地に同様の概念が存在し、人体の7つのチャクラを合わせた全てのエネルギーよりもさらに大きなエネルギーを秘めているとされる、尾骶骨の下位のチャクラ。
 中南米においては『キッシン』。
 中国においては『鬼骨』。
 インドにおいては『アグニ』。
 生命進化の根源であり、クンダリニーが発生する根源なのではないかと考えられているチャクラがそれであった。



 伝説のように語り継がれてきた、この『鬼骨』を見つけ出し回すことは、一部の仙道の者にとっての夢であった。
 眉唾と考えられているこの『鬼骨』であるが、過去に2人だけ、これを回してしまった男たちが確認されている。
 一人は、老子の弟子にして仙道の祖と言われる、赤須子である。
 赤須子は40年の歳月をかけてこの鬼骨を回したという。その途端、神仙の一人であった赤須子は獣に身を変じ、数百人の村人を喰らい、ついには老子の手によって、この世から抹殺されたという。

 そしてもう一人は、約50年前。
 スイス、サンモリッツから南東へ15キロ下ったピッツベルリナ山山麓でのことであった。


『その男の名は、カーズ。我々波紋使いが数千年間対立してきた、“闇の一族”の末裔なのです。
 彼らは波紋法や仙道ではなく、自身の開発した“石仮面”という装置でこの境地に至ろうとしておりました』


 彼らは赤須子らと同じく、古代の人々から神と畏怖されてきた一族であったらしい。
 人間の上に君臨し、支配しようと考える者たちであり、彼らによって波紋使いたちは一度滅ぼされかけていた。
 そしてその50年前にも、再び人間と闇の一族の命運を分ける決戦が起きていたのだ。
 メッシーナの弟子であるジョセフ・ジョースターという人物により闇の一族はカーズ以外が倒され、そのカーズもあと一歩のところまで追い込まれていた。
 しかし彼は、『エイジャの赤石』という波紋増幅装置で増幅されたエネルギーを敢えて受け、“石仮面”を作動させた。
 そして目覚めた彼の『鬼骨』は、恐ろしい力を生み出したという。


『弟子からの伝聞でしかありませんが、彼は自らを“究極生命体”と名乗り、あらゆる生物を自分の細胞から生み出すことができたそうです。そして、弱点であった波紋を、自ら操り、練ることができていたと』


 最終的に、弟子のジョセフは、その知略により地中海ヴォルガノ島をカーズ自身の波紋で噴火させ、彼を宇宙空間へと吹き飛ばすことで勝利したのだという。
 痺れるほどの勇気とスペクタクルに満ちた一連の話に、ウィルソンはしばし言葉もなく陶酔していた。
 食事のことも忘れて、青年期の熱い血潮を呼び覚ますようなその武勇伝に、彼はテーブルへ身を乗り出していた。


『素晴らしいではありませんか! その武勇伝があれば、誰しも喜んで貴方の元に弟子入りを請うでしょう。
 なぜもっと、積極的にその術を広めようとしないのですかな!?』
『先の戦いで、同輩や弟子も多く死にました。私も、波紋で繋げはしましたが、一時この腕を切り落とされる重傷を負ったのです。
 この様な危険と、辛い修行の待つ波紋の道には、むやみに人を引き込むべきではないと私は思っているのです。恐らく弟子のジョジョも、そう考えていることでしょう。
 なによりもう、波紋を以ってして戦うべき相手は、いないのですから』


 メッシーナは、久方ぶりの酒の味に、涙を滲ませているようだった。
 存在意義を見失った波紋戦士はただ、同輩と共に過ごした修練場を管理し、細々とその日を思い出に繋いでいるだけであった。
 ウィルソンも、彼の思いには一抹の憐憫と悲哀を感じざるをえなかった。
 しかし彼はアメリカ合衆国の上院議員である。
 職務に忙殺される日々では、いくら興味を持っていても、休日のジム通い感覚でそんな修行をすることはとてもできないであろう。
 『波紋』というその技術に後ろ髪を引かれながらも彼はメッシーナと別れ、イタリアを後にしたのである。


    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



「『波紋』……かぁ……」

 確かに想像してみれば、自分のイメージする能力の行使方法は、その波紋という技術に似ていなくもない。
 外界からエネルギーを取り入れ、自分の中で増幅させるという行為はそのまま同じことのようにも思えた。

「……やってみてくれないか、佐天くん。君なら、もしかすると、出来るかもしれない」

 初春の差し出す吸い飲みに口をつけて、ウィルソンさんは私の様子を静かに見守っている。
 私が初春を見やると、彼女は深く頷いて私を見つめ返してきていた。


 一瞬でケガを癒すだけではない、凄まじい応用の利く技術だ。
 時空も越えた伝聞情報だけで、果たして私が、こんな僅かな時間でその『波紋』を練れるものだろうか。

 疑問は尽きないけれど、やってみるしかない。
 ウィルソンさんのくれた叡智を下僕とするくらい、自分の歪みと、『第四波動』と『波紋』との類似性を信じるんだ。


 自分の生み出す熱エネルギーを、炎として出すのではなく、もっと穏やかに、繊細に織り上げて、全身の細胞の代謝を高めるようにしてみる――。


 そうイメージして、佐天は眼を瞑り呼吸を整える。
 スカートを直してあぐらをかき、重心を安定させる。
 胸の前で両手を合わせ、あぐらをかいた腿の上に落とした。
 深く深く、踵の底へと、大地の最奥からエネルギーを吸い上げるようにして息を吸う。
 高く高く、額の上から、天空の頂点へとエネルギーを吹き上げるようにして息を吐く。


「コオォォォォォォォォォ……」


 いつの間にかその呼吸は、体全体を共鳴腔にするようにして、音を立てて響いていた。
 佐天のイメージに回る真っ白な月の蛇が、いつもよりも格段に高速で回転していた。
 七つの車輪を辿りながら、会陰から頭頂までを登り、そして下って自らの尾を咬む。
 しかもその回転は、三日月のような欠けや、火炎のような揺らぎを伴わず、脊柱を軸として整然とした周回経路を保っている。

 回旋が、四肢の末端まで規則正しい律動を伴って波及する。
 自分の存在が無限遠まで拡大していくような浮遊感があった。
 目を開かずとも、前に寝そべるウィルソン・フィリップスや彼を抱える初春飾利の息づかいが、手に取るように感じられた。


 ――これは、いけるかも……!


 佐天はエネルギーの回転を乱さぬよう、注意深く眼を開いてゆく。
 そして綺麗な輝きを帯びたエネルギーを、細く細く、腕へと流してゆく。


 瞬間、佐天の両腕は、太陽のようなまばゆい光に満たされていた。


「えっ――!?」
「佐天さん!? もしかして、それが――」
「ああ、そうだ……。ヴェネツィアで見た輝きだ……」


 金色に輝く自分の腕に驚いて、その刹那に佐天の呼吸は乱れていた。
 瞬く間に、イメージの中で回転していた蛇が散逸する。
 体幹部から急速に消えていく輝きに狼狽しながらも、とっさに彼女はその両手を、ウィルソン・フィリップス上院議員の腹部に押し当てていた。


「山吹色の――ッ、『第四波動』!!」



 エネルギーの奔流が、両腕からウィルソン議員の体を伝わり、フロアの床一面を、波紋を描いて流れていくのが分かった。
 弾かれるように尻餅をついた佐天の前で、ウィルソン議員が、金色の輝きを纏って低く唸っている。


「おおおぉおおおおお……! こぉおおおおぉおおおおお……!!」


 体全体に響くような呼吸を佐天から受け継いだかのように、彼は深く深く息をし始めている。
 しかし、痛みのせいか、その音階は一呼吸ごとにずれてゆく。
 身を覆う輝きは、少しずつではあったが薄れてしまってきていた。


「ウィルソンさん! できます、できますよ! 頑張ってください!」
「やっぱり、血が、足りなすぎるのかも。『波紋』を体全体に送るには……」


 初春と佐天が括目して見守る中、ウィルソンは必死に、自分の中に咲く7つの華を見出そうと気力を振り絞っていた。


 ――いかん、今のわしでは、このエネルギーを完全に回して維持できるほどの『波紋』を練れない……!


 脊柱の周りに咲く華を見つめようとする意識の中で、ふと彼は、その7つの輪以外にもう1つ熱を放っている塊を、脇腹に見出した。
 左手を伸ばし、掴む。
 目を開けて翳してみれば、それは一振りの刀であった。

 ――獣電剣ガブリカリバー。

 しかもそこには、いつの間にか流麗な筆記体で『Brave』という文字が記されている。
 しっかりと刻印されたその文字は、金色の輝きを受けて発光し、崩れ始めていた。


 ――これは、あのヒグマが記したのか。この高貴な筆致は、ヒグマの血液で記されているのか……!?


 赤黒い血液で描かれた文字は炭化して剥がれ落ち、深々と篆刻されたその凹面に輝きがわだかまってゆく。
 エネルギーがそこへ収束し、印章の回路を通って再びウィルソンの体へと戻る。
 ウィルソンの意識の中で、その剣の先に、一輪の大きな華が咲いていた。


 ――この剣には、あのヒグマのブレイブが籠められている。
 そしてわしのブレイブも。
 わしにきっかけの『波紋』を与えてくれた佐天くんのブレイブも。
 初春くん、北岡くん、アニラくんのもだ。
 皆の勇気で咲かせたこの大輪の華を、7つのチャクラが並ぶスシュムナー管の、延長線上に置いたら……どうなる!?


「――ブレイブイン!!」


 ウィルソンは大きく声を上げ、ガブリカリバーをその頭の真上に掲げた。
 頭頂よりさらに上、虚空に置かれたその結節点に、ウィルソンの体内に回っていた熱量が噛みつく。
 7つの結節点に転輪していたエネルギーが、8つ目のループに掛け合わされる。
 瞬間、ウィルソンの体は眩いほどの光を放っていた。


「コオォォォォォォォォォ……!!」


 増幅していく音響と輝きが、空間を波立たせるように広がってゆく。
 レストランのテーブルから、何かが落ちる音がしていた。

 佐天と初春が見やれば、大量のメロンの種が急速に発芽し、その動きによって先ほど彼女たちが食べていたメロンの皮が床に落ちているところであった。


 その光景に二人が驚いていた時、ウィルソンが毛布を払って、むくりと起き上がる。
 ガブリカリバーを持った左手で凛々しく口ひげを撫で、張りのある低い声で彼は二人の少女に呼びかけていた。


「――世話をかけたな、君たち。だがおかげで、ようやく君たちにも恩返しができそうだよ」


 肌に瑞々しい血色を取り戻した上院議員は、その肉体を若々しい活気に溢れさせている。
 浴衣を着流した彼はそのまま右脚だけですっくと立ち、演説に臨むような堂々たる姿勢で、彼女たちに柔和な笑みを向けていた。
 山吹色の太陽のような輝きが、彼の細胞の一つ一つから、波紋のように湧きだしていた。


【C-4 街(百貨店6階・レストラン街)/午前】


【佐天涙子@とある科学の超電磁砲】
状態:疲労(小)、ダメージ(小)、両下腕に浅達性2度熱傷
装備:なし
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:対ヒグマ、会場から脱出する
0:これが、『波紋』なの……?
1:人を殺してしまった罪、自分の歪みを償うためにも、生きて初春を守り、人々を助ける。
2:もらい物の能力じゃなくて、きちんと自分自身の能力として『第四波動』を身に着ける。
3:その一環として自分の能力の名前を考える。
4:閃いた……。『オーバードライブ』って名前は、どうかしら……?
[備考]
※第四波動とかアルターとか取得しました。
※左天のガントレットをアルターとして再々構成する技術が掴めていないため、自分に吸収できる熱量上限が低下しています。
※異空間にエカテリーナ2世号改の上半身と左天@NEEDLESSが放置されています。
※初春と協力することで、本家・左天なみの第四波動を撃つことができるようになりました。
※熱量を収束させることで、僅かな熱でも炎を起こせるようになりました。
※波紋が練れるようになっているかも知れません。


【初春飾利@とある科学の超電磁砲】
状態:健康
装備:サバイバルナイフ(鞘付き)
道具:基本支給品、研究所職員のノートパソコン、ランダム支給品×0~1
[思考・状況]
基本思考:できる限り参加者を助けて、一緒に会場から脱出する
0:ウィルソンさん、本当に動けるようになったんですか!?
1:車いすとか、松葉杖か、義足みたいなものが必要かも……?
2:佐天さんの辛さは、全部受け止めますから、一緒にいてください。
3:皇さんについていき、その姿勢を見習いたい。
4:一段落したら、あらためて有冨さんたちに対抗する算段を練ろう。
[備考]
※佐天に『定温保存(サーマルハンド)』を用いることで、佐天の熱量吸収上限を引き上げることができます。


【ウィルソン・フィリップス上院議員@ジョジョの奇妙な冒険】
状態:大学時代の身体能力、全身打撲・右手首欠損・左下腿切断(治療済)、波紋の呼吸中
装備:raveとBraveのガブリカリバー
道具:アンキドンの獣電池(2本)
[思考・状況]
基本思考:生き延びて市民を導く、ブレイブに!
0:痛みは抑えられる……。何とか足手まといにならない程度には動けるかも知れないな。
1:折れかけた勇気を振り絞り、人々を助けていこう。
2:救ってもらったこの命、今度は生き残ることで、人々の思いに応えよう。
3:北岡くんとアニラくんを待って、更に市民たちを助けに行こうではないか。
[備考]
※獣電池は使いすぎるとチャージに時間を要します。エンプティの際は変身不可です。チャージ時間は後続の方にお任せします。
※ガブリボルバーは他の獣電池が会場にあれば装填可能です。
※ヒグマードの血文字の刻まれたガブリカリバーに、なにかアーカードの特性が加わったのかは、後続の方にお任せします。
※波紋の呼吸を体得しました。


    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



「……なんだ、これ」


 北岡秀一が奥の厨房に入った時、まず目に入ったのは、綺麗に洗って積まれた、発泡スチロールトレーの山だった。
 脇のごみ箱には、精肉のラベルのついたラップが何十枚か捨てられており、その上に、こぶし大に握り潰されたオレンジジュースの紙パックが乗っている。
 鍋やフライパン、調理器具などの下がったコンロを視線で舐めて、北岡は端の窓の方を見やる。


 その窓際の壁面に、黒い塊がへばりついていた。


 一見すると巨大なおはぎのようにも見えるシルエットをしているが、飛び出しているのは粒あんの皮のような丸いものではなく、棘のような鱗である。
 アニラが、猫のように丸まって、壁に張り付いたまま寝ているのであった。


「……ああ……、あのさ、皇さんさぁ。起きてるよな。
 ……十分な証拠もなく、俺の推定でものを言い過ぎた。そこまで落胆しなくていい。
 どうもあのお嬢さんたちはあんたを弁護する側らしいからさ……」

 ぎこちなく、北岡はその塊に声をかけたが、アニラはピクリとも動かなかった。
 恐る恐る、彼の張り付く壁際に近づくと、北岡の耳には規則正しい吐息が聞こえてくる。


「うそだろ……。マジで、寝てるわけ……?」


 最初は落ち込んで不貞寝をしているのかと思われたが、どうやらそういう訳でもないらしい。
 壁で寝て落ちないのかとか、そんな体勢で寝付けるのか、とか、色々と突っ込みたい事項はあったものの、再びの理解を逸した状況に、北岡はそうした疑問も口には出せなかった。

 そのさなかでよくよくアニラの姿を見れば、彼の長い尾が、窓の脇に置かれた店の伝票の束の上に落とされている。
 そこには備え付けのボールペンで、角ばった文字が書かれていた。


 “久しく発言を控えていたため、慣れぬ会話に体力を損耗いたしました。”
 “火急の際及び、自分をお連れ頂ける行動方針が立案されました際に、お起こし下さい。”
 “皇魁”


「……本当に、疲れただけなの……!? 俺の言葉で傷ついたとか、そういう訳じゃないの!?」


 北岡秀一は、持っていた皿をコンロの上に置いて、深々と嘆息した。
 脳裏に、先ほどのアニラの言葉が思い返される。

『全ての感覚は全くの客観的情報として、自分が未だ人間の容姿であった際に抱いていた恐怖や怒り、憎しみといった感情とは、結びつかないものとなっております』

 その言葉は誇張ではなかったのだろう。
 ただ彼は、人間であろうとする理性だけの残った機械のようなものなのかもしれなかった。


「……まあ、そういう物分りのいい人の方が、俺としてもやりやすいのかなぁ……。弁護士という職業柄からして」


 理論と証拠を並べていけば、感情を挟まずに判断してくれるというのなら、北岡にとっては、その他の一般人よりもよっぽど取りつきやすいかも知れなかった。
 彼の思考と精神面を理解して、有効活用することは、自分の生き残りにとっても都合がいいだろう。


 ――考えを改める必要があるかもね。


 北岡が口元を綻ばせてコンロに寄り掛かった時、電気風呂に浸かったかのような心地よい感触が、その全身を一瞬のうちに走り抜けていった。

 厨房から出てレストランの内を覗いてみれば、淡い光を纏ったウィルソン・フィリップス上院議員が、片脚で立ち上がっている。
 遠目からでも、その表情に浮かぶ血色の回復は明らかだった。


「……おいおい。こっちでも俺の予測は完璧に外れなわけ?」

 引き攣った笑みを厨房に引っ込めて、北岡はアニラの元に再び歩み寄る。

「なぁ、皇さん……。すまないが起きたら、俺の弁護をお願いできないかねぇ?
 このままじゃ裁判員の心象が最悪でさ。執行猶予なく網走送りになるかも知れないのさ。
 あんたの弁護も、今後してあげるから、ギブアンドテイクってことで、ね……?」


 反応のない大きなおはぎを横目で見ながら、北岡は溶けかけたオレンジシャーベットを掬った。
 口の中でほどける甘酸っぱさが、疲れの溜まった体の隅々に広がってゆくようだった。
 そういえばこれは、この殺し合いが始まってから、北岡が口にした初めての食べ物であった。


「……的確な味だよ。あんたらしい。ゴローちゃんには及ばずとも、結構、美味しいよ」


 二口目を舌の上に運ぶ北岡の前で、アニラの尻尾が、伝票の上を一回だけ叩いた。



【C-4 街(百貨店6階・レストラン街)/午前】


アニラ(皇魁)@荒野に獣慟哭す】
状態:喋り疲れ、脱皮中、仮眠中
装備:MG34機関銃(ドラムマガジンに50/50発)
道具:基本支給品、予備弾薬の箱(50発×5)
[思考・状況]
基本思考:会場を最も合理的な手段で脱出し、死者部隊と合流する
0:久方振りに会話を行なったため疲労が激しい……。
1:皆様のご意向に従います。
2:残りの参加者とヒグマは、一体どういった状況下にあるのだ……?
3:参加者同士の協力を取り付ける。
4:脱出の『指揮官』たりえる人物を見つける。
5:会場内のヒグマを倒す。
6:自分も人間を食べたい欲求はあるが、目的の遂行の方が優先。
[備考]
※脱皮の途中のため、鱗と爪の強度が低下しています。


【北岡秀一@仮面ライダー龍騎】
状態:仮面ライダーゾルダ、全身打撲
装備:カードデッキ@仮面ライダー龍騎
道具:血糊(残り二袋)、ランダム支給品0~1、基本支給品、血糊の付いたスーツ
[思考・状況]
基本思考:殺し合いから脱出する
0:ウィルソンさんも皇さんも、俺の予想以上に有能だったわ……。考えを改めよう。
1:お嬢さんたちともしっかり情報交換して、行動方針を立てられるようにしないとな。
2:皇さん、弁護してくれよ……? 俺も弁護してあげるからさぁ……。
3:佐天って子はちょいと怖いところあるけど、津波にも怪我にも対応できるアレ、どうにかもっと活かせないかねぇ……?
[備考]
※参戦時期は浅倉がライダーになるより以前。
※鏡及び姿を写せるものがないと変身できない制限あり。


No.120:野生の(非)証明 本編SS目次・投下順 No.122:帝都燃えゆ
本編SS目次・時系列順 123:Round ZERO
No.109:Tide 北岡秀一 No.124:ゆめをみていました
ウィルソン・フィリップス上院議員 No.137:月のない空
佐天涙子
初春飾利
アニラ(皇魁)

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最終更新:2015年12月27日 18:28