すっかり住み慣れた、けれど居心地がいいとはまるで思わない部屋。
鍵を開けて、扉を押して。目に入ったワンルームの中に、当たり前ながら
神戸しおの姿はない。
松坂さとうにとってこの瞬間は、ほんの一月前までは一日で一番わくわくする時間だった。
なのに、今はただただ虚しいだけだった。
この世界に甘いものは何一つとしてない。さとうにとって此処は、地上の地獄と言ってよかった。
もしも今のさとうが、神戸しおの居ない毎日に戻されたなら。
きっとこんな気持ちのまま、この先一生過ごしていくことになるのだろう。
さとうがしおと一緒に過ごした時間は、彼女の人生の中ではほんのわずかな間でしかない。
それでももう、しおの居る日常は彼女にとっての"当たり前"になっていた。
甘い、甘い、おとぎ話のような日々。とろけるほどに素敵な、飽きることのないシュガーライフ。
神戸しおの居ない世界で、もう松坂さとうは生きられない。
分かっているからだ。彼女と過ごす時間の甘さに並ぶものなんて、この先何十年生きても出会えやしないと。
今この苦いだけの世界で生きていられるのは、そうしてでも叶えたい願いごとがあるからに過ぎない。
それがなければさとうはきっと、とっくの昔に抜け殻みたいになっていた筈だ。
苦くて、辛くて、息も出来ないようなこの世界。
だけどさとうは、息を止めてでも歩き続ける。歩き続けている。そうしなければ叶えられない――理想(みらい)があるから。
「やあ。おかえり、さとうちゃん」
誰も居るはずのない部屋。
しかし、住人を人間に限らないのならさとうには同居人が居る。
それがこの鬼だ。頭から血を被ったような、禍々しく血腥い臭いを放つ、悪鬼。
さとうがこの鬼と一蓮托生の関係になってからもう一ヶ月になる。
耳障りな声で喋る鬼。目障りな笑顔で嗤う鬼。
愛するしおの居るべき場所に平気な顔をして居座っている、鬼。
さとうは、こいつのことが嫌いだ。自分の世界に知った顔で現れて、知った口で愛を騙るこいつのことを心胆の底から嫌っている。
……なのに、こいつが居なければさとうは願う未来を掴めない。
どんなに嫌い軽蔑しても、今はまだ切り捨てられない――そんなジレンマがあった。
「どうだった? お友達との再会は。
さしもの君も、少しは感じ入るものもあったんじゃないのかい?」
「特に何も。しょーこちゃんが居るとは思わなかったけど、それで私のやることが変わるわけじゃない」
その言葉に嘘はない。前半と後半、そのどちらにもだ。
まず前半。
飛騨しょうこ――かつての友人である彼女に腕を掴まれた時は、さとうも本当に驚いた。
さとうにとってしょうこという人間は、既に切り捨てた思い出の一つでしかなかった。
昔は確かに友達だった。と、思う。
他愛ない話をして、一緒に帰って、よくない遊びをしたこともある。
けれどあくまでそれは昔の話。さとうにとってのしょうこは、決して"現在(いま)"の存在ではなかった。
何故か。簡単だ。飛騨しょうこは、松坂さとうがその手で殺した存在だから。
誰にも侵されてはならない愛の城に踏み込もうとした小鳥。
殺すことに躊躇はなかった。彼女の言葉も、それが紡ぐ未来も、一切信用に足るものではなかったから。
飛騨しょうこはさとうの中ではもうとっくの昔に終わった存在で。
だからこそ――もう二度と顔を見ることもないと思っていた彼女に、必死の形相で手を掴まれた時は……真実、一瞬。思考を空白で染める羽目になった。
「泳がせるとは言ったけど、邪魔になるなら問題なく殺せる。
もし使えるならやれるだけ使う。それだけで、それまでだよ」
「徹底してるねえ、さとうちゃんは。あの娘が聞いたら悲しむよ?」
「知らないよ。しょーこちゃんとは、ただ"友達"なだけだから」
そして後半。さとうは、しょうこという"殺した筈の友人"であろうと問題なく利用出来る。
しょうこが自分に寄り添おうとするのならば、やれるだけ利用する。
もしもまた前のように、自分の邪魔をしようとするのならば――その時は容赦なく殺せる。
それほどまでに、さとうの中での優先順位は確たるものとして定められていた。格付けされていた。
飛騨しょうこは、確かに友人だったが。所詮、彼女は"友達"だ。
愛を教えてくれたあの子に、しおちゃんに比べれば。取るに足らない、吹けば飛ぶような軽い存在でしかない。
「そんなことより、キャスター。さっき言ってたよね、予選期間に戦ったサーヴァントの気配を感じたって」
「ん? ああ、そうだよ。
俺も色々なサーヴァントと戦ったけれど、彼とは一度じっくり腰を据えて話したいと思ったからよく覚えてるんだ。
昼間でさえなかったら部屋から飛び出していたんだけどなあ。この身の脆弱さが恨めしいよ」
「その"気配"。私の感覚を通じて感じ取ったって可能性はある?」
さとうはキャスターのクラスを持つこの悪鬼……真名を童磨という彼のことが嫌いである。
何しろ知った風な口を利く。そうでなくても無駄話が多く、まともに相手をしては苛立ちを掻き立てられるだけだ。
だから出先では聞き流すだけに留めたが、今思えば多少引っ掛かるところのある話だった。
故にこうして、時間差で掘り返した。何故あの時応じてくれなかったんだと怠い語り口で絡まれたなら初志貫徹して完全無視するつもり満々だったが、しかし幸いそうはならず。
「有り得ないとは言えないね。君と俺とは一蓮托生、何かと深く繋がっている身だからな」
サーヴァントの視点から語られたその意見に、さとうは一人思案を深める。
何しろ感覚を共有しているのだ。そんな彼が"感じた"というのを、一概に戯言と切り捨てていいものか。
"雷霆の弓兵"の話は、覚えていた。
仕留め損ねたサーヴァントのことは仔細に報告させているようにしていたのだが、その中でも特に童磨が熱の入った調子で語ってくれたのが件の弓兵だったのだ。
様々な欠点を差し引いても強力なサーヴァントであることはさとうをして認めざるを得ない童磨。
その彼が仕留め損ねた。その上、やけに高揚していたサーヴァント。
そんな英霊の気配を、彼が本戦に移行した今になって感じ取ったという。それも、自分がしょうこと再会を果たしあれこれ語らっていた間に。
この符号を単なる偶然だとして切り捨てるほど、さとうは無能なマスターではなかった。
「そっか。なら、しょーこちゃんのサーヴァントがその"雷霆の弓兵"なのかもしれないね」
愛を持って聖杯戦争を駆ける、雷霆の弓兵。
童磨がその気配を感じ取ったタイミングからして、それがしょうこのサーヴァントである可能性は十二分にあるとさとうは考える。
だとすればますます、彼女と一旦の停戦……ともすれば共闘にもなり得る関係を築けた事実はプラスだ。
「(でもこれはあくまで憶測。しょーこちゃんのサーヴァントがどういう手合いなのかは、なるべく早めに見極めておかないと)」
さとうはしょうこのことをよく知っている。
しおには到底及ばない、あくまでも友達でしかなかった彼女だけれど。
それでも分かることはある。しょうこは、いい子だ。
友のために、他人のために、身体を張って動ける。そういう少女だ。
それは過去、さとうの夢の日々を終わらせた忌まわしいものであったが。
願いを叶える過程上で利用出来るというのならば――やりようは、いくらでもある。
「ちょっと黙っててね、キャスター。電話するから」
「ひどいなあ、俺は邪魔者かい? 俺のことはどの道、いつか明かさなければいけないんだぞ」
童磨の戯言には耳を貸さない。
一ヶ月も共に過ごしていれば、彼が発するただただ耳障りなだけの雑音に対する対応も慣れたものだった。
この男はただべらべらと言葉を撒き散らすだけだ。
そこにはさしたる意味もなく、価値もない。
そんな言葉にいちいち反応し、怒ったり何やら考えたりするのはひたすらに無意味。時間の無駄以外の何物でもあるまい。
既にそう分かっているから、さとうは用がなくなったその時点で童磨の言葉に反応するのを止める。
それから、スマートフォン上に表示された数字をダイヤルし。ついさっき連絡先を交換したばかりの"彼女"へと、通話を飛ばした。
――しょーこちゃんは馬鹿だよね。
私にゴミみたいに殺されたのに、まだ私と話をしようとするなんて。
心の中で、さとうは語り掛ける。返事がないのは承知の上だ。
飛騨しょうこ。さとうの一番の友人にして、彼女がその手で殺した小鳥。
思えばあの時から、全てが崩れた。元々ギリギリのバランスで成り立っていたものが、どうやっても立ち行かなくなった。
飛騨しょうこは、松坂さとうのハッピーシュガーライフを破壊する存在だ。
何故なら彼女は優しいから。彼女は、さとうの幸福の踏み台にされてしまう"彼"の存在を知っているから。
だから彼女はさとうと愛する少女の城を揺るがす。完成された幸福(しあわせ)を、壊そうとする。
その結果しょうこはさとうに殺された。されど、彼女を殺してしまったことはさとうの愛する日常の終わりに繋がって。
さとうとしお、二人の愛に溢れた甘い日々が終わるまでの過程上から――今此処に居る砂糖少女は呼び出されている。
人喰いの鬼を従えて。自分がこの手で殺めた筈の友人が生きていることを知らされて。
それでも尚、空っぽだった自分に愛を教えてくれた唯一無二の光を追い求める、かつて空洞だった少女。
今は、他の何も入り込む余地がないほど――満たされている少女。
『……もしもし』
「もしもし、しょーこちゃん? 帰り道、大丈夫だった?」
何食わぬ顔と声色で、さとうは電話の相手……しょうこへと話しかける。
もちろん、心配などしていない。彼女は今のところは泳がせている停戦中の相手だが、聖杯を求め争う敵であることには何ら変わりない。
味方に出来れば好都合。それでいて、味方に出来ずどこかで勝手に朽ち果てたとしても同じく好都合。
自分の思い描く、理想の未来――それに近付くための足場になってくれる。
松坂さとうにとって飛騨しょうこという人間は、その程度の意味しか持たない過去の存在であった。
『……ん。別に何もなかったよ。
それより――あんたの方こそ、大丈夫だった? さとう』
「うん。特に誰とも出会わなかったよ」
『そっか。……なら良かった。
せっかくまた会えたのに万一のことがあったら、私きっと、どうすればいいのか分かんなくなってたよ』
しょうこはきっと、さとうが無事に家へ帰れたことに心から安堵しているのだろう。
彼女がそういう人間であることを、さとうはよく知っている。
当のさとうの方は、しょうこの安否など何とも思っていなかったのに。
生きていても死んでいても、どちらにしても好都合な存在だと、そんな風に思っていたのに。
しょうこは明らかに気の緩んだ、安心したような声色で、さとうの無事を喜んでいた。
けれどさとうは、彼女と他愛もない話をするために電話を掛けたわけではない。
用があったら、連絡するから。先ほどさとうはそう言ってしょうこと別れた。
それが、今こうしてわざわざ連絡したことの意味。用があるから、電話を掛けた。ただそれだけ。
「あのね、ちょっと外じゃ聞けなかったことなんだけど。
これだけは聞いておきたいなと思ったから連絡したの」
『……、』
「しょーこちゃんってさ」
人気のない場所であるならいざ知らず、さとうとしょうこが久方振りの再会の場所として利用したのは貸し切りでも何でもない喫茶店だ。
あれほど口論しておいて今更人目も何もないだろうと言われれば返す言葉もないが、それでも、あの場では出来ない話というものがやはりある。
それは率直に――聖杯戦争にまつわる話。友人同士ではなく、マスター同士としての話。
鎌を掛けて引き出した形ではあったけれど、それにしたって公衆の面前でするべき話題ではない。
不用意に人前でその手の話をして某かにマークされてしまうなんて展開、笑い話にもならないのだから。
「聖杯を手に入れて、それで何をしたいの?」
自分の願いが何であるかは、改めて説明する理由もないだろう。
生前、元の世界でしょうこが知ったさとうの真実。
そして先の喫茶店で交わした会話。口論。その中に、答えは全て揃っている。
初めての、きっと最初で最後だろう愛。この世で一番甘いもの。
神戸しお。彼女と暮らす幸せなシュガーライフを、もう誰にも脅かされることのない永遠のものにする。
さとうはそのために聖杯を求めている。そのためなら、誰だって何人だって殺せる。
……では、彼女は?
溺れるような甘い愛を知らないしょうこは、一体何を願って此処に居る?
ただ生き返りたいだけなのか。もしくは彼女だけが知る、胸に秘めた願い事があるのか。
それとも――
『……あのね、さとう』
「うん」
『私ね。やり残したことと、やり直したいことがあるの』
通話の向こうの友人は、心做しか力の籠もった声でそう言った。
それはきっと、狂的なものを持たない彼女に出来る精一杯の鼓舞だったのだろう。無論、自分自身に対しての。
呑まれないように、間違わないように。それでいて、怖がらないように。
二度と失敗を繰り返さないように。そこまでさとうが察したかどうかは定かではないが、しょうこはそのまま続けた。
『私に勇気をくれた子が居てさ。その子にお礼を言えないまま、あんたに……その、殺されちゃったから。まずは、それ』
最後の方はどこか気まずそうな、ばつの悪そうな口調だった。
彼女は絶対的にただの被害者であり、加害者であるさとうに気を遣う理由など一つもないのだったが、しょーこちゃんらしいなとさとうは思う。
『やり直したいのは……アンタとのことだよ、さとう』
かと思えば今度は、必死に絞り出すような。
聞いているこっちが苦しくなってくるような、拙くて痛々しい声になる。
それは愛のために生きる砂糖少女の同情を引くには至らなかったが、ひどくいじらしい、憐憫を誘う声だった。
怪我をした小鳥が必死に声をあげている。そんな光景を、ともすれば幻視してしまいそうになる。そんな、声。
『私が弱いからアンタを傷つけた。一番肝心な時に、アンタに信じてもらえなかった』
「……それが、しょーこちゃんの願いなの?」
『私は、やり直したい。今度こそアンタを傷つけないように――信じてもらえるように』
……死者が何の偶然か泡沫の現世にまろび出て。
その状態で願いを叶える願望器なんてものをちらつかされたなら、ほとんどの人間は最も安直でありふれた願いを抱くだろう。
生き返りたい。生きてまた、自分の日常に帰りたい。
それが普通で、正常な願望。けれど今、しょうこが口にした願いは。
震え、引きつった声でさとうに絞り出した願いは――彼女にとって予想だにしないものだった。
「何それ。しょーこちゃん、自分が変なこと言ってるの分かってる?」
『分かってるよ、そんなの。でも、これだけは譲れないから』
さとうとしては、少し威圧を込めて切り捨てたつもりだったのだが。
しょうこは打って変わってまた力強い声色で、自分の意地を通してくる。
そうされてしまっては、さとうとしても続く言葉がない。
数秒の沈黙が――お互い出方を窺うような沈黙が空いて。それを破ったのは、さとうの方だった。
「なんか変わったね、しょーこちゃん」
『変えてくれたのはあんただよ、さとう。あんたと――あの子』
「それって」
しょうこが先ほど口にした、さとうのことを傷つけたという言葉。
それが何であるかはさとうも知っている。というより、覚えているというのが正しいか。
そもそも彼女のことを試したのはさとうの方なのだ。
あの叔母を……誘蛾灯のように人を惹きつけ、歪んだ感情で虜にする異常者のことをしょうこに見せた。
あの時しょうこが目を逸らしたことを、別に自分は気にしていない。
少し痛いことを思い出したけれど、特に傷ついたわけでもない。
その時にはもう、自分にとっての世界はしおちゃんだけになっていたから。
――少なくともさとうはそう思っているし、そのことでしょうこを恨んでいるわけでもない。
ただ、これは当時から思っていたことだ。
何故あんな別れ方をしたしょうこが、ああして自分達の世界に踏み込んできたのか。
さとうとしては、しょうことはそのままバイト仲間に戻って、この先もなあなあに付き合っていくのだろうなとばかり思っていたのに。
この小鳥は――踏み込んできた。
そして死を経た今も、こうして不格好に飛んでいる。
本人は言う。自分に勇気をくれた子が居るのだと。
それが誰であるかは、もう分かっていた。
だってさっき、あの店で。熱意たっぷりに囀ってくれたから。
「しおちゃんの、お兄さんのこと?」
『――うん、そう』
その時さとうは、自分のミスを悟る。
しおを探していた、彼。捨てられ傷ついた小鳥を再び羽ばたかせたのは、彼だったのだ。
ああ、あの時殺しておけばよかった。そうすればきっと、あのお城が融(こわ)れてしまうこともなかったはずなのに。
そんな感情がぐるぐる、ぐるぐる、砂糖少女の頭の中を回り回って。
堪えきれないような不快な苦味を感じて、さとうは小さく溜め息をついた。
スマートフォンの向こう側からは、しょうこが不安そうにしている様子が伝わってくる。
「……やめよっか、この話。また喧嘩になっちゃいそうだし」
今更言ったって仕方のない話だ。
それに、聖杯さえ手に入れれば過去の失敗なんて全てなかったことになる。
永遠のハッピーシュガーライフ。終わりのない、いつまでも甘い日常。
さとうが居て、しおが居て。二人の喜ぶものと好きなものだけがある。
他の何も、自分達の世界に入ってこない――過去も今も、何もかもがその踏み台だ。
今こうして話している飛騨しょうこも、その例外ではない。
「私は夜になったら動き出すけど、しょーこちゃんは?」
話をすっぱりと切り替えて、目の前の現実にピントを合わせる。
聖杯戦争。目指すところは違えど、さとうにとってもしょうこにとっても共通の課題。
これを乗り越えないことには何も始まらない。生きて帰ることさえ、出来ない。
『……まだ決めてない。
でもやっぱり、何かしら動いた方がいいよね』
「勝ちたいんならね。けど危険もあるだろうし、アーチャーと相談したら?」
『うん――そうする。もし動くって決めたら、一応連絡した方がいい?』
「それはしょーこちゃんが決めなよ。私達、"友達"ではあっても、"仲間"ではないんだから」
時に沈黙は、どんな多弁にも勝る意思疎通の手段になる。
通話の向こうのしょうこが今の言葉に傷ついたろうことが、さとうにはちゃんと分かった。
けれど心は痛まない。痛むわけがない、だってただの事実を言っただけなのだから。
松坂さとうと飛騨しょうこは、かつての日々と変わらず友達。
何かあればこうして連絡もするし、もしかしたら助け合うようなこともあるかもしれない。
でも――さとうとしょうこは決して、"仲間"にはなれない。友達以上には、なれないのだ。
お互いの目指す未来が違う時点で、この大前提だけは何をどうやっても崩せない。
「とりあえず、聞きたかったのはそれだけだから。ごめんね、時間取らせちゃって」
聞きたいことは聞けた。
聖杯戦争に対するスタンスと、もう一つ。
それが叶ったのだから、もうこれ以上話を続ける意味もない。
形式通りの、他人行儀のようでさえある謝罪を添えて。
電話を切ろうとするさとうの耳朶を、しょうこの声が叩いた。
『あのさ、さとう』
「なに?」
『私からも一つだけ、聞いていい?』
さとうは何も言わなかった。
しょうこは、それを肯定と受け取ったらしい。
少し笑いながら、小鳥は囀る。
『あんなお別れにはなっちゃったけどさ。私達、一緒に色々やって来たよね』
「そうだね」
『一緒にバイトしたり、遊んだり。アンタがしおちゃんと出会うまでは、男漁りなんかもしてたよね』
今思えば危ない橋渡ってたわよ、あれは――。
そんな風に言うしょうこに、さとうはやっぱり何も言わない。
それに、何と言ってほしいのかも分からなかった。
また、何秒かの沈黙が空く。今度はしょうこが、意を決したようにそれを押し破った。
『さとうにとって私と一緒に居た時間は、苦かった?』
何を聞くのかと思えば、そんなこと。
問われたさとうの心は相変わらず冷たくて。
通話の向こうで懸命に声を紡ぐしょうこに対する友情も憐れみも見えなくて。
だけど、その頭の中には、条件反射のようにしょうこと過ごした日々の記憶が再生される。
「……別に」
どこか走馬灯のようもである、それ。今となってはもうどうでもいい思い出。
なのになんだってこうも鮮明に覚えてるかな、と思いながら、さとうは小鳥の問いに答えてやった。
「苦くもなかったよ」
――――ぷつん。
◆◆
「意外と優しいんだねえ、さとうちゃん。
なんだかんだ言ってちゃんとお話してあげるんだ」
「そんなんじゃないよ。聞きたいことがあったから電話しただけ。
あの子がいろいろ喋るから、ただ適当に聞いてあげてただけ」
通話を切るなり響く童磨の声。
相も変わらず不快な音色だったが、これにいちいち悪態を付いていてはキリがないのは学んで久しい。
これはこういう生き物なのだ。そう割り切って、なるだけ脳のリソースを割かないようにする。
普段は無視して、必要な時は手短に喋る。感情を出さない、その戯言を馬鹿正直に受け止めない。
戯言を撒き散らすスピーカーのようなこの悪鬼を喚んでしまった松坂さとうが身につけた、彼との付き合い方。
「でもよかった。
もし"戦わなくても元の世界に帰える方法を探す"とか言い出したら、あんまり長い付き合いは出来なそうだったから」
生き返るためだけに戦うというのなら、月並みだが別に貶すほどのことでもない。
ただしょうこがこんな現実を見ていない世迷言を言い出すようなら、さとうはきっと見切りを付けていた。
しかし彼女は彼女なりにちゃんと現実を見ていて、確たる願いを抱いていて。
少なくとも当分の間は、しょうこを泳がせて必要とあらば利用する――そんな立ち回りが出来そうだった。
「それに、分かったこともある。
良かったね、キャスター。あの子のサーヴァントは、多分あなたがご執心だった"雷霆の弓兵"だよ」
「鎌を掛けてくれたもんな、俺のために。さとうちゃんの優しさに、俺は嬉しくなってしまったよ」
その鬱陶しい物言いは無視する。反応すらしてやらない。
けれど鎌を掛けたのは事実だった。しょうこに対してそれをするのは二度目だったが、またしても上手く行ってくれた。
生来そういう心理戦に向いていない質なのか、それともそんな細かいことを気にしていられないほど、緊張していたのか。
多分どっちもなんだろうなと、さとうはぼんやりそう思う。
だがそのおかげで、彼女のサーヴァントにも当たりを付けることが出来た。
実力だけが取り柄の童磨が仕留め損ねた"雷霆の弓兵"。
厄介なサーヴァントであるのは間違いないと踏んでいたので、そのマスターがしょうこであるのならさとうとしても好都合だった。
いつ、どうやって排除するかはまだ未定だが……少なくとも真っ当に敵同士としてやり合うよりかは、格段に楽に処理出来そうだ。
『さとうにとって私と一緒に居た時間は、苦かった?』
不意に脳内で再生される、しょうこが最後に言った言葉。
松坂さとうにとって飛騨しょうこは、"その他大勢"の中の一人だ。
それは今も変わらない。一度殺したはずの彼女がまた自分の前に現れたのには驚いたが、その程度。
しょうこがどう変わろうと、勇気を出そうと、どんな"可能性"を有していようと。
さとうには関係ない。さとうにとって大切なのは神戸しお、彼女と過ごす未来だけ。
世界で一人、最初で最後。深い、甘い、この世の何よりも甘い愛を教えてくれたあの子のことだけ。
「(でも、そうだなぁ。しょーこちゃんが私の手を掴んできて、本当にびっくりしたから――)」
けれど、この世界にしおは居ない。
さとうの前に、しおは居ない。
苦いばかりの世界。不快なだけの世界。
そこに突然現れて、自分の手を掴んだしょうこ。
「(久しぶりに、苦いのを忘れられたかも)」
――少女に捨てられた小鳥は。
寂しさに惑い、地に伏すも。
それが本能とでもいうかのように。
再び羽ばたいて、地平線の彼方から……少女の隣に、戻ってきた。
【北区・松坂さとうの住むマンション/一日目・午後】
【松坂さとう@ハッピーシュガーライフ】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:鞄
[所持金]:数千円程度
[思考・状況]
基本方針:しおちゃんと、永遠のハッピーシュガーライフを。
1:どんな手を使ってでも勝ち残る。
2:しょーこちゃんとは、必要があれば連絡を取る。
[備考]
※飛騨しょうこと連絡先を交換しました。
※飛騨しょうこのサーヴァントが童磨の言う"雷霆の弓兵"であると当たりを付けました。
【キャスター(童磨)@鬼滅の刃】
[状態]:健康
[装備]:ニ対の鉄扇
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:もう一度“しのぶちゃん”に会いたい。
1:日没を待つ。それまではさとうの“感覚”を通して高みの見物。
2:雷霆の弓兵(ガンヴォルト)との再会が楽しみ。
[備考]
※予選期間中にアーチャー(ガンヴォルト(オルタ))と交戦しています。さとうの目を通して、彼の魔力の気配を察知しました。
※鬼同士の情報共有の要領でマスターと感覚を共有できます。交感には互いの同意が必要ですが、さとうは索敵のために渋々受け入れています。
◆◆
「はあ……。突然電話掛けて来たらびっくりするじゃない、もう……」
住み慣れた、けれど居心地のいい場所ではない我が家。
しょうこがその戸を開けて中に入るなり、すぐのことだった。さとうから、電話が掛かってきたのは。
靴を脱ぐのも忘れて電話に没頭して、通話が切られた瞬間に、身体の力ががくっと抜けた。
はは、と声が漏れた。自分でも分かる、苦笑いの音。
それと同時に、しょうこは思う。
……ああ、そっか。
やっぱり、さとうはさとうなんだ、と。
私の大好きだった、あの子なんだ――と。
『大丈夫かい、マスター』
「……うん、大丈夫。ちょっと気が抜けただけだから心配しないで」
気遣ってくれるアーチャーの声。
頭の中にだけ響くそれにしょうこはへらりと笑いながら答える。
別に危ない目に遭ったわけじゃない。九死に一生を得るような、そんな体験をしたわけでもない。
でも、今の電話は。そこでさとうに投げた問いかけと、彼女から貰えた答えは。
飛騨しょうこという"可能性の器"にとって、あまりにも大きな意味を持っていた。
――さとう。私の大切な友達で、大好きな女の子。
私を置いて、自分達だけのお城に閉じこもってしまった子。
まさかこの世界で出会うことになるとは思わなかった。
緊張もしたし怖くもあった。きゅっと心臓が縮むのが分かった。
だけど勇気を出して、しょうこは彼女に触れて。
でも、結局。砂糖少女とか弱い小鳥は、すれ違うだけに終わってしまって。
『いい意味で力の抜けた顔をしてる。
今度は……満足のいく話が出来たのかい、マスター』
「……そんな大層なものじゃないわよ。
でも、そうね。自分で自分を"頑張ったね"って褒めてあげられるくらいには、出来たかな」
『そうか。それなら、今度は言葉は要らないね』
「うん。世話の焼けるマスターでごめんね、アーチャー……」
彼女のサーヴァントであるアーチャーは、頑張ったと慰めてくれたが。
それでもしょうこにしてみれば、伝えられないことを何も伝えられなかった――そんな歯痒さと悔しさでいっぱいだった。
重い足取り、暗い気持ち。
こんなことでこの先やっていけるのだろうかという、漠然とした不安さえ感じながら家路に就いて。
鍵を開けて、家族の不在を確認して――電話が鳴った。
それがさとうからのものであると気付いた時。しょうこは、彼女に感謝すらした。
不甲斐ない、情けない自分に、さとうがチャンスをくれたと。そんな風にさえ感じられた。
「……私、頑張るよ。今更何を言ってんだって思うかもしれないけど、言わせて」
結局、ひどく不格好でがむしゃらに言葉を紡ぐことしか出来なかったのは変わらないけれど。
それでも、前は向けた。それに足るだけのものを、さとうはくれた。
多分さとう自身は、何のことかも分からないだろうけど――飛騨しょうこは確かに、彼女から素敵なものをもらったのだ。
あの日々は、甘くはなかったかもしれない。
でも、決して苦くはなかった。
しょうこにとってそれは、この世界の何よりも確かなことで。
さとうも、言ってくれた。苦くはなかったよ、と。
それだけでいい。
それだけで、十分だった。
それだけで――小鳥は、まだ飛べる。
『ボクは、君のサーヴァントだ。
君が飛べなくたって、ボクが君を連れて飛ぶ』
アーチャーの声が脳裏に響く。
小鳥が飛べなくても、飛ぶのを止めても、彼は飛ぶ。
でも。
『でも――君がその羽で飛ぶのなら。
ボクも、君と一緒に飛ぶよ。マスター』
【板橋区・飛騨しょうこの自宅/一日目・午後】
【飛騨しょうこ@ハッピーシュガーライフ】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:鞄
[所持金]:1万円程度
[思考・状況]
基本方針:さとうを信じたい。あさひくんにお礼を言いたい。そのためにも、諦められない。
1:――まだ、飛べる。
[備考]
※松坂さとうと連絡先を交換しました。
【アーチャー(ガンヴォルト(オルタ))@蒼き雷霆ガンヴォルト爪】
[状態]:健康、クードス蓄積(現在2騎分)
[装備]:ダートリーダー
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:彼女“シアン”の声を、もう一度聞きたい。
1:マスターを支え続ける。
2:……やっぱり強い人だね、君は。
[備考]
※予選期間中にキャスター(童磨)と交戦しています。また予選期間中に童磨を含む2騎との交戦(OP『
SWEET HURT』参照)を経験したことでクードスが蓄積されています。
時系列順
投下順
最終更新:2021年09月17日 00:03