感情がキラキラ、あなたでキラキラ。

 この甘い世界、嘘になるなら。

 それ以外のことなんていらないよ。

 愛を唄っていようよ――この部屋の中なら。


「きっと明るいよ」


◆◆


 その再会を遮る者は、もうなかった。
 シュヴィの追撃は二体の英霊に阻まれて届かず。
 地獄への回数券で増強された身体能力は、しおの足取りをより速く確かなものへと変えた。
 地を蹴って、足を弾ませる。
 一度は見送った再会は、まるで我慢のご褒美のようにしおを待ってくれていて。
 視界の先にあった、忘れる筈もない面影を見つけるなり――自然と足が止まった。

 見渡す限り、廃墟の町。
 焼け野原も同然の大地を咲いて、桜の苗木が芽吹いている。
 それがまた大きく育って、花弁を散らす。
 さくらいろ。まるで、彼女の髪のような色。

 桜の舞い散る中に。
 一筋の黒が、歩み出た。
 黒。星空の黒。月のような純粋さを、甘く蕩ける糖蜜のように際立たせる蒼黒。
 それをまとった少女の足取りは、ふたりが出会った頃と何も変わらない。

 あれはそう、雨の日。
 ひとりきりのしおは、彼女と出会った。
 桜色の女の子。きれいで、かわいくて。とっても優しい女の子。
 空っぽのビン。だけど壊れてない。
 何かを信じているから。だから、壊れない。

 私、なれたかな。
 あなたのビンを埋めるきらきらに、なれたかな。

 忘れてたこと。
 忘れたかったこと。
 もう、今は痛くない。
 全部、あなたのおかげ。
 甘くて痛くて、飲み込めないほどの。
 初めての気持ちを私にくれた、あなた。

『全部忘れていいよ。大丈夫』
『忘れても生きていけるよ』

 この気持ちになんて名前をつけたらいいのかは、今でもわからない。
 すきとか、大事とか、それも間違いじゃないけどきっとそんなありふれたものじゃない。
 だってそれは、私の。
 神戸しおという女の子の、はじまりだから。
 そんな簡単な言葉で、言い表せるわけがないんだ。

 あの日、あの屋上で。
 息が詰まるほど熱くて苦しいてっぺんで。
 ふたり一緒におそらへ落ちて、でも私だけが死ねなくて。
 あなたに助けてもらって、生きながらえて。
 白くて四角い、甘さのなごりが残るだけの病室で、ずっとずっと考えてた。
 あの時、どうして私だけを生かしたのか。どうして、先に行ってしまったのか。
 考えたところでもう全部遅くて。
 あなたは、どこにもいなかったけれど。

 でも、今なら分かる。
 お別れを知って。
 誰かが誰かを想う気持ちは、無限大なのだとそう知った今なら。


 ――生きるために、愛するんじゃなくて。
 ――愛するために、生きて、死にたい。
 ――あなたは、そう思ったんだね。
 ――だから私を、たすけたんだ。


 心のどこかで信じてた。
 誰に何を言われようとも。
 あなたの不在を、感じ取っても。
 それでも信じてた。
 私達は、死で分かたれてしまったけれど。
 じゃあ、それで私達の愛が終わってしまうのかと言われたら。
 きっと、そんなことはない。
 そんなこと、ないよ。そう、信じてた。

 甘い。
 だけど、痛い。
 口の中がいっぱいで、とてもじゃないけど飲み込めない。
 この気持ちに、名前をつけるなら。
 すきとかきらいとか、恋とか……"愛"でさえきっと足りないと分かるから。
 私は、決めた。この気持ちに、名前をつけるなら。
 それはきっと、あなたの名前がいい。


「――――――――さとちゃん」


 名前を呼んで、びっくりした。
 この世界でも何度だって口にしていた名前。
 らいだーくんに、とむらくんに、アイさんに、話していた筈の名前。
 なのに今はまるで、何年もずっと口にしていなかったみたいな感覚だった。



 ――しおを見つめる、瞳が揺らめく。
 彼女は、ただそこに立っていた。
 桜の舞う渋谷区の中で、ただ一人。
 しおを、待っていた。
 彼女にとっては、一ヶ月ばかしの別離。
 されどしおにとっては、永遠と見紛う永い時間の果ての再会。
 そこには無限大の差があるのに。
 それでも、彼女達の抱く熱と想いはまったくの同じ。
 同じ温度と、同じ深さを保って……ただ互いだけに向けられていた。


「しおちゃん――――――――」


 名前を呼ぶ。
 名前を、呼び合う。
 それだけでああどうしてこんなにも愛しいのか。
 こんなにも胸が高鳴って、止まらなくなってしまうのか――。

 気付けばしおは、駆け出していた。
 そこには何の理由も必要なかった。
 さとうがいて、自分がいる。
 それだけで、他の何もいらなかった。
 この時、彼女達は確かに世界でふたりきり。

 飛び込んできた、しおを。
 さとうは、両手で迎え入れた。
 驚きなんてどちらも浮かべちゃいない。
 愛し合い繋がれたふたりは、こうして顔を突き合わせるまでもなく感じ取っていた。
 しおは、雷霆を。
 さとうは、電刃の音色を聞いて。
 互いの存在を感じ取り、再会を予感していた。

 これはただ、そんな予定調和が叶ったというだけのこと。
 愛し合うふたりがまた巡り合うのは当然のこと。
 だから、驚きになんて値するわけもない。
 これは――ごくごく当たり前のことなのだから。

 でも。


「さとちゃんだ……さとちゃんの、においだあ……」

 世界のすべてが空白になることくらいは、許されるべきだろう。
 彼方から聞こえる轟音も地響きも、今だけは何も聞こえない。
 永い離別の果て、再び巡り合った想い人の胸に顔を埋めて。
 深呼吸をして、その匂いと熱を鼻いっぱいに吸い込みながら。
 しおは、本当に幸せそうに笑った。
 そんな彼女の小さな頭を、その蒼の髪の毛を、さとうの手が優しく撫でる。

「……しおちゃんだ。ほんとに、しおちゃんなんだね」
「うん。しおだよ。えへへ、さとちゃんったら触っただけでわかるんだ」
「わかるよ。だって、大好きなしおちゃんのことだもん」
「私も、さとちゃんのことならなんでもわかるよ。だいすきなさとちゃんのことだもん」

 まるで、ふわふわな動物の毛並みを撫でているよう。
 甘くてとろけるような香りは、全部あの頃のままだ。
 記憶にあるよりも少し大人びた声色は、それでも昔のように澄んでいる。
 華奢な身体つきの感触もまた変わらない。
 全部全部、昔のままだった。
 さとうの知る頃と同じままの、神戸しおという女の子のカタチをしていた。

 それがどうしようもなく嬉しくて、しあわせすぎて。
 ――舌が馬鹿になってしまうほど、甘い。

「ほんとはね。さっき、すぐにでもこうしたかった」
「……うん」
「でも、かえらなくちゃいけなかったから。
 私ね、友達がたくさんできたんだよ。さとちゃんは嫌がるかもしれないけど、みんなでがんばってここまでこれたの」

 最初は、ひとりで戦うつもりだった。
 チェンソーの彼という武器を携えて。
 ひとりで、なにもかも壊して。
 そうやって聖杯を手に入れるつもりでいた。
 でも、違った。たぶんそれじゃ、自分は此処まで来られなかったと今ならそう思える。

 いつだってそばに誰かがいた。
 それは、世界を呪う魔王であり。
 それは、蜘蛛糸の紳士であり。
 それは、星を宿す偶像であり。
 それは、夢の残響を纏う神であり。
 それは、破滅を憩う凡人であり。
 それは、愛のままに生きた女であり。
 それは、この愛を拾い上げてくれた少年だった。

 もういない誰か。
 まだ生きている誰か。
 彼らの存在が、いつだってしおの武器だった。
 歩むことをやめた者から消えていくこの世界で、しおはいつだって孤独ではなかった。
 それはきっと、少女にとっての何よりの幸運であり。
 翼がちぎれて病室に堕ちた天使を再び空へと戻す、驚くほどやさしい答えであった。

「そっか」

 大きくなったな、と思う。
 身長の話だけではない。
 かつて出会った頃のしおは、もっと幼くて脆く見えた。
 それこそまるで、砂糖菓子のような。
 強く触れたら崩れてしまいそうな、脆さ弱さと表裏一体の尊さがあった。

「がんばったんだね、しおちゃん」
「――うん。とっても。さとちゃん、ほめてくれる?」
「もちろん。私、とっても嬉しいよ」

 けれど今は違う。
 目の前にいる彼女は、あの頃よりずっと強かに見える。
 自分の足で立って、自分で考えて歩いてきた強さがある。
 それは、ほんの少しだけ。
 ほんの少しだけさとうにとっては、寂しいことだったけれど。

 でも、今腕の中で幸せそうに微笑む姿は確かにあの頃のままで。
 ただそれだけで、こんなにも胸が温かくなる。
 こんなにも満ち足りてしまう。
 彼女が自分の足で、時に喜び時に苦しみ、傷つきながら此処まで歩いてきてくれたことが嬉しくて嬉しくて堪らない。

(……変わったのは、たぶん私も)

 さとうは心の中で、小さくそう呟く。
 目指す理想は変わらない。
 しおも同じものを求めてくれていると、確認するまでもなくさとうはそう信じている。
 即ち、永遠不変のハッピーシュガーライフ。ふたりきりの、誰にも邪魔されず穢されることのない幸福の時間。

 ただ――だとしても。
 ずっとずっと会いたかった人。
 大好きで、大好きでたまらない――しおちゃん。
 もう二度と離れたくない、大切な人。その成長が、あんなにも嫌っていた彼女の変化が、どうしてだか今は嬉しくて。

「しおちゃん」
「ん。なあに、さとちゃん」

 だから、さとうは言うのだ。
 ずっと言いたくて言えなかった言葉を。
 この世界に来てから、ずっと言いたかった言葉を。
 初めて会った時からずっとずっと伝えたかった気持ちを込めて。
 ありったけの笑顔で、砂糖菓子の時間を共に歩む片割れに囁いた。

「おかえりなさい」
「うん。ただいま」

 ぎゅ、と。
 抱きしめる腕にもっと力を込める。
 愛しいあなたに"おかえり"を。
 愛しいあなたに"ただいま"を。
 そして、これからの未来に"おはよう"を。
 ずっと言いたかった言葉たちが、やっと言える。

 だから、嬉しくてたまらなかった。
 だから、幸せだった。
 だから――

「もしかしたら、ここも危なくなっちゃうかもしれないから」

 しおはそう言うと、さとうの胸から少しだけ離れて。
 そして目の前の彼女に、花咲くような微笑みを浮かべながら両手を広げた。
 それは、ふたりの合図。
 この世のどんなことよりも甘く幸せな、ふたりきりの時間のはじまり。

「せっかく"おかえり"も"ただいま"もできたんだし――ちかいのことば、しよ?」
「いいよ。ふふ、なんだかご褒美みたい」

 さとうは、此処が戦地であることも忘れて彼女の前に跪いた。
 まるで結婚式の、本当の"誓い"のように。
 この瞬間だけは、争乱も時間もすべてを忘れた。
 ただお互いだけを瞳に映して――あのお城の時間を取り戻す。

 そう、これは"誓いの言葉"。
 愛し合うふたりにとって、何よりも大切だった儀式。
 此処は、あのお城ではないけれど。
 月明かりの差し込む、ふたりだけの部屋ではないけれど。
 そんなこと、何の問題にもならない。
 あの部屋に戻らなくたって、さとうとしおは今この瞬間だけは、世界でふたりきりだった。

「やめるときもすこやかなるときも、とめるときもまずしいときも」

 まるで、絵本の読み聞かせをするように。
 口を寄せて、しおはそっと言祝ぐ。
 愛おしさを隠さずに囁く。
 ふたりの"ちかい"は、途切れなく。
 世界の垣根を、いやそれ以上の隔たりをすら超えて、此処に再び結ばれた。
 そう、それはまさに――

しがふたりをわかつとも(・・・・・・・・・・・)

 死が二人を分かつとも、途切れない誓い。
 この世界の誰にも、断ち切れない絆。
 愛し合うふたりだけに許される――本当の永遠。

 彼女たちは、あの夜永久に分かたれた筈だった。
 さとうは死んで。しおは、生きる。
 その永遠の別離は、今この瞬間に覆された。
 それを、人は。奇跡と、そう呼ぶのだろう。
 けれど彼女達だけは違う。彼女達は、それが必然であることを知っている。

「私は、さとちゃんが大好きなことをちかいます」

 ――誰かを愛する気持ちがあるならば。
 ――やってはいけないことなんて、この世にはない。
 ――ならば。
 ――愛し合うふたりに、不可能だってあるものか。

 甘く、とろけるような。
 清らかに、祝福するような。
 うんとキラキラするものだけ集めて飾った、かわいい小瓶のような。
 そんな言葉を囁きながら、しおはさとうの額にちゅっと口づけた。
 その小さな唇の感触が、さとうには何より心地よい。いとおしい。
 あの頃。手当たりしだいに漁って探していた"愛"なんかとは違う、どこまでも深く底のない愛が今自分に触れている。

 互いの熱を交換し、幸福を分け与えるように。
 しおの唇が、しばらくそうして触れていた。
 痛みも、苦しみも、恐怖も、寂しさも。喪失感も。
 なにもかもを埋め合わせる、愛の砂糖菓子。

「……だいすき、さとちゃん。またあえて、ほんとにうれしい」
「私も。大好きだよ、しおちゃん。ずっとずっと、ずうっと会いたかった」

 さとうは、お返しみたくしおの頬に自分のそれを重ねる。
 ちゅ。甘い感覚と熱を、分かち合う。
 どこまでも、幸せだった。
 見果てぬ幸せがふたりを囲み、その行く先を祝福していた。

「もう、ずっといっしょかな?」
「きっとそうだよ。だって、こうしてまた会えた」
「私ね、絶対に勝つってきめてたの。さとちゃんのためにも、私自身のためにも」
「うん。知ってる。たくさんがんばったんだもんね、しおちゃん」
「だけどね。もう、かつぞー!って気持ちじゃないんだ」
「どうして?」
「だって、さとちゃんに会えたんだもん」

 ぎゅう、と。
 しおは、再びさとうに抱きついた。
 さとうも、同じ強さで彼女を抱きしめ返した。
 この再会を。そしてこの愛を。
 噛み締めて、舌で転がすみたいに。
 このうんと甘い確信を、味わって離さない。

「私とさとちゃんがいっしょにいるのに、他のだれかに負けるなんてあると思う?」

 にぱ、と笑って。
 天使は、そう告げた。
 そうだ、彼女は天使だ。
 お月さまのようにきれいな、蒼い天使。
 この世のすべてのものに愛され、この世のすべてに愛を振りまく。
 さとうの愛した少女は、そういう存在だった。そして今はもう、その愛はさとうだけに注がれている。

 そんな彼女が、こう言うのだ。
 であれば、そうなのだろう。
 地平線の果てに向かう物語は、此処で結末が定められた。
 愛し合うふたりを阻めるものなんて、この世にはもうなにもない。

 死さえ超えて輝く砂糖菓子の絆は、他の誰かになんて決して切れないのだから。

 さとうは、しおのことが大好きだった。
 初めて会った時からずっと、今も変わらずに好きだ。
 彼女のためなら、なんだってできると思った。
 彼女の笑顔のためならば、なんでもすると。
 今でもそう思っている。だから――

「うん。勝とう、しおちゃん」
「うん。いこう、さとちゃん」

 聖杯戦争に。
 地平線の彼方に。
 ふたりで手を取り合って、そう誓った。
 そして見上げる――桜の天蓋を。
 さあ、嵐が来る。春の嵐が、この渋谷にやってくる。


 一筋の稲妻が、天地を引き裂きながら轟いた。


◆◆


 空を自由自在に舞う人型の爆撃機が、地上を埋め尽くす砲火を放ち続けていた。
 尽きることのない手数に物を言わせての圧殺戦法は、言わずもがなとんでもなく凶悪な代物である。
 そも、シュヴィというサーヴァントはこの界聖杯戦争の役者すべてを見ても文句なしの上澄みに食い込めるだろう領域の存在だ。
 そんな彼女がこうして行う釣瓶撃ちを、涼しい顔で受け流すなど当然大多数のサーヴァントにとってはむちゃくちゃな無理難題だ。

「ッあああ! どんどこどんどこうるせえなあ、この全身戦争犯罪女がア!!」

 デンジが悪態つくのも無理はない。
 一人でこれと戦わされていたらと考えると、思わず背筋が寒くなる。
 まず間違いなく、目論見通りに踏み潰されてしまっていたことだろう。
 しかし――チェンソーでは落としきれないだろう銃弾砲弾の雨霰を、真横から薙ぎ払う輝きがある。

 蒼き雷霆(アームドブルー)、ガンヴォルト。
 雷の帯が爆発と炎を消し飛ばし、飛ばす避雷針はシュヴィでさえ意識を集中しなければ回避し損ねかねない牽制弾だ。
 片手に顕現させたスパークカリバーに、デンジのチェーンが巻き付いて。
 その状態でホバリングを行うことにより、チェンソーマンは空へと躍り出た。
 彼の全身が蒼く輝いているのは見間違いなどでは断じてない。
 現に、ほら。彼は勇猛に叫んでいる。

「ギャアアアアアアアアア! ビリビリするゥ~ッ!?
 おいアーチャー! テメエなぁに俺まで感電させてんだよ! アッちいんですけど!?」
「四の五の言わないでくれ。これでも出力を抑えてるんだ」

 全身を流れる高圧電流は、彼に限っては致命傷にはなり得ない。
 なぜなら彼は武器人間。支配の悪魔がウェポンズと呼称した、そういう者達と同類の存在。
 身を焼かれ、激痛に絶叫しながらも――ぶうんと刃音響かせ、しぶとく蔓延り続ける。

 やけくそ気味に腹を括ったチェンソーマンが空を駆ける。
 チェーンを駆使して立体的な機動力を発揮し動く様は、まさにコミックの中のヒーローじみている。

 電刃が黒槍と火花を散らす。
 一合二合三合と切り結ぶたびに、周囲の空間が歪曲していく。
 チェンソーの刀身を蒼き稲妻が幾条にも走り抜けるその熱で陽炎が生まれているのだ。
 シュヴィは錐揉み状に回転しながら砲撃を放つも、功を奏していない。
 更に両者の競り合いへ横槍を入れたのは、蒼き雷霆の少年であった。

「っ…………!」

 煌く雷撃一閃。
 ボディに亀裂を入れられ、シュヴィが呻く。
 それでも尚彼女は即座に反撃を試みようと黒槍を構え直したが、そこには既に敵の姿はなかった。

「シャアアアアアアアアッ!!」

 ――上……!

 雷鳴轟く。
 デンジはガンヴォルトによる雷撃での疑似魔力放出をブースター代わりにし、上空からの振り下ろしを敢行していた。
 このままでは唐竹割りだ。危機を察したシュヴィは咄嵯に槍を振り上げ、その切先を受け止める。

「――――捉えたぞ、アーチャー」

 だがそれは悪手だった。ガンヴォルトはシュヴィの対応を確認すると同時に、電撃を解放していた。
 一瞬の眩さ。蒼い閃光が視界を覆い尽くし、次いで訪れるのは凄まじい爆音である。
 落雷によって大地を揺るがせるほどの衝撃が発生し、シュヴィの身体が弾き飛ばされた。
 視界が歪む。ノイズが強くなり、今度は彼女自身の身体から火花が散る。
 なんとか致命傷を避けられたのは咄嗟の判断の賜物だった。
 後わずかでも精霊を暴走させ、自爆同然に自らを吹き飛ばして後ろに捌けるその判断が遅れていたならば、今頃シュヴィはスクラップと化していたことだろう。

 だが、それでも痛手であることに変わりはない。
 歯噛みしながら展開する弾幕が瞬時に貫かれ、炸裂して炎の壁になる。
 シュヴィには見えていた。その向こうから身を焼かれることも厭わずに突っ込んでくる、チェンソー頭の怪人の姿が。
 なんて出鱈目。なんて、無茶苦茶。槍を握る手に力が籠もる。
 同時に、シュヴィは再度のケイオスレギオン・アポクリフェンの解放を即断した。

 ――接近戦じゃ、不利なのは此方のほう………! なんとか状況をリセットしなければ、此処で狩られる…………ッ

 漲っては溢れ出す、混沌の魔力。
 ケイオスマターの解放は、シュヴィが持つ他の武装と比べて極悪なまでに燃費が悪かった。
 マスターへの負担が気にならないわけではなかったが、しかしこの状況では背に腹は代えられない。
 ここで負けるわけにはいかない。想像しただけで怖気の走る未来を振り払うように、シュヴィは闘争の偽槍を解き放った。

 が。

「な…………あ、っ?!」
「へへっ、お前よぉ! さては慣れてねえだろ、武器使って戦うの」

 その手が、直前で絡め取られた。
 巻き付いたチェーンが、投擲の軌道をあらぬ方向へと逸らす。
 重ね重ねになるが、シュヴィは決して身体能力に優れたサーヴァントではない。
 膂力勝負など以ての外だ。ケイオスマターという破格の素材を使って鍛造した偽槍はその脆弱性をある程度カバーしてくれてはいたが、それでも動作の繊細さやいざという時の機転の巧拙までは補いきれない。
 少なくとも実戦――なんでもありのダーティファイトという土俵において、彼女は眼前のデビルハンターよりも確実に格下だった。

「そんな大振りの動きで構えてたらよォ、バカでも邪魔しに入るってモンだぜ」

 結果として。
 必殺かつ起死回生の一手となる筈だった黒い流星は、遥か天空へと昇っていく。
 それはさながら、この混沌の本来の担い手である男が辿った末路をなぞるように。
 そしてシュヴィが晒したその隙は、当然の如く致命的なものだった。
 蒼き雷光が瞬く。ルール無用のヒーロー/ヴィランが、武装の展開が完了するのを待たずしてシュヴィへ迫る。

「く、ぁ――――!!」

 電刃ならぬ、雷刃一閃。
 シュヴィの胴体に深く裂傷が刻み込まれ、少女は蚊蜻蛉のように地へと墜ちていった。

 どしゃりと落下したシュヴィを、落下のエネルギーが齎す衝撃波が打ち据える。
 霊核こそ砕けてはいないものの、それでも損傷は明らかに甚大だった。
 右腕は砕けて内部の配線が露出し、胴体部分も内側が所々ひしゃげている。
 華奢な肢体は、もはや立つことさえままならない――本来ならば。

「…………ま、だ……!」

 だが、それでもシュヴィは立ち上がる。
 未だ彼女の双瞳からは闘志が消えていない。その身が放つ覚悟は微塵も衰えない。
 それは、本来ならば合理の結晶である彼女ら機凱種には不自然な粘り。
 どう考えても最適解は即座の撤退であるというのに、尚も継戦を選ぶのはあまりに"らしくない"行動だった。

 もはや戦線は始まっている。
 二組の主従が据え膳のように並び立ってくれたこの機会を逃したくはない。
 マスターの。あの心優しい、そしてあまりに哀しい男の願いを叶えるためにも。
 だからこそシュヴィは合理に背いて、可能な限りの応戦と勝機の模索を選択した。
 損傷は無視できない域だが、幸いにして直ちに生死に関わるほどのものではない。
 言うなれば──無視できる。
 ならば尚更ここで退くわけにはいかない。彼女は己が身を奮い立たせ、次なる行動へと移った。

「【典開】…………!」

 精霊の抹殺に伴い、地に墜ちたシュヴィの翼に魔力が満ちる。
 その色は、まるで彼女の焦燥を表すように荒々しく濁っていた。
 この行動をしかし、見逃さなかったのはガンヴォルトだ。
 彼はすぐさまシュヴィの頭上へと躍り出ると、此処まではデンジへの援護に用いていた雷剣を振り被った。

「《SPARK》───」

 蒼く迸る刃は神罰もかくやの荘厳と、艱難辛苦と世界のあらゆる過酷に挑む少年の青を併せ持つ光閃だった。
 全力なのは何もシュヴィだけではない。彼女という格上に挑む側も同じなのだ。
 その証拠に、ガンヴォルトの雷電の出力は先ほどまでと比べても明らかに向上していた。
 空から落ちる蒼き稲妻の聖剣が、少年の咆哮と共にその銘(まな)を解き放つ。

「―――《CALIBUR》……!!」

 轟々と音を立てて迫る轟雷一閃。
 もはや宝具の解放にさえ匹敵するその出力は、ある程度の無茶に起因したものだ。
 喰らえば木端微塵に消し飛ぶか、そうでなくても霊核を砕かれ機能不全に陥ることは免れないであろう一撃をしかと見据え、シュヴィは武装を行使する。
 取り出したのは攻撃ではなく防御のための武装。
 集束、集束、集束、集束――ただ一点に。

「―――『進入禁止(カイン・エスターク)』!」

 機凱種の本領は、何も手数に物を言わせた飽和攻撃だけに非ず。
 彼女の持つ武装は、決して無限に湧き出る訳ではない。

 しかし、その悉くが強力無比。サーヴァントの虎の子に匹敵する破格の性能を誇っている。
 例えばこの『進入禁止』は、束ねに束ねて密度を上げれば戦神の一撃すら凌いでのける至高の盾だ。
 十六種族(イクシード)が死力を尽くして殺し合い、血で血を洗って世界を穢したあの大戦にて彼女達を脅威たらしめていた技術力の数々。
 それは機凱種の異端児/世界に打ち勝った夫婦の片割れとして英霊の座に登録された今も、シュヴィの身を存分に助けていた。

(ッ、硬い……そして分厚い! 押し切れない……!)

 ガンヴォルトの焦燥を、シュヴィは鋭敏な観察機能によって察知する。
 肌の血色。体温の変化、発汗。呼吸の乱れ。
 あらゆる生体反応が、シュヴィにとっては相手の思考を逐一垣間見ることのできるスピーカーだ。
 雷剣を凌ぎ、防ぐ。それと同時に、続けてまたしても非攻撃用の武装を典開。

「【典開】」

 刹那、地に膝を突いていた筈のシュヴィが消えた。
 瞠目するガンヴォルト。
 どこへ消えた、その答えをくれたのはチェンソーマンだった。

「逃げられてんじゃねえか! 上だアアアア!!」
「……ッ、瞬間移動(テレポーテーション)か!」

 そう、真上。
 彼らよりも遥か上空の高みに、わずか一瞬にしてシュヴィは転移を果たしていたのだ。
 長距離移動用武装『一方通行(アイン・ウィーク)』。
 空間を破壊し、それを即席のワープゲートとして利用する――ある世界では"魔法"の一例として挙げられる芸当。
 それを苦もなく奇跡にも頼らず、あくまで技術力の一つとして当たり前に成し遂げながら上を取ったシュヴィ。
 更に典開、三度目。此処でようやく、シュヴィ・ドーラはガンヴォルト及びチェンソーマンへの攻撃を再開する。

「【典開】……………………!!」

 いや――違う。
 これはそんな次元ではない。
 ガンヴォルトもチェンソーマンも、そこに集約される魔力の桁を感じるなりそう確信した。

「おい……なあ、アーチャーさんよ」

 まるでそれは、爆発寸前の核爆弾。
 破局噴火を二秒後に控えた活火山。
 超新星爆発を起こす、その今際の星。
 ケイオスレギオン・アポクリフェンは所詮小手先の模倣だった。
 だがこれは、紛れもないシュヴィ自身の――『機凱種』固有の極大武装。
 故に、その威力・出力はこれまでシュヴィがこの地で見せてきたどの攻撃と比べても次元が違う。

「――あれ、流石にまずくねえか」

 とはいえ、模倣であることに違いはない。
 機凱種の特技とは猿真似(コピー)。贋物を作り、蓄えること。

 差異があるとすれば年季の有無。
 改良と分析を重ね、より効率化されたケイオスマターならばいざ知らず、精製から数時間程度ではポテンシャルを引き出すのにも限界があった。
 しかし重ねて言うが、これは違う。
 これはかの大戦の中で模倣され、機凱種の秘奥の一つとして格納されていた虎の子だ。
 最高効率で放たれる《大戦》最強の暴力の一つが今、雷さえもかき消す輝きと共に放たれた。


「――――――――『偽典・天撃(ヒーメアポクリフェン)』」


 それは。
 十六種族の中でも極めて高い武力を保有する種、天翼種(フリューゲル)の最大最強の一撃。
 本家本元には劣ろう。しかしてそれは、この武装が弱く惰弱なものであることを意味しない。
 霊核の粉砕はおろか、英霊二騎が此処に存在していた痕跡すら残さず消し去るのに十分過ぎる光の波濤が降り注ぐ。
 チェンソーマンには言わずもがな為す術もない。
 光を斬るなど、さしもの彼でも不可能だ。ましてこれだけの熱と破壊力を秘めた、"爆光"ともなれば。
 ああ、こりゃ――死んだかもな。
 そう悟る彼の視界を、光が無情に覆い尽くしていき……


 その、一面の白(しろ)の中で。
 黒(シュヴィ)は、確かに見た。
 一縷、ほんの一縷。
 天翼の無慈悲なる裁定を、引き裂いて迸る蒼の星を。


 世界が、爆ぜる。
 否、その表現は正しくない。
 正確に言えば、それは──空が、哭いている。
 天が地を撃する神罰と、その幕切れを良しとしない雷が衝突して。
 あまりに巨大すぎる熱と熱の衝突により、空間そのものが軋み悲鳴をあげているのだ。
 混沌と女王、そして日輪の子が……三つ巴の末に遭遇した現象にも似た異常な光景。
 アポカリプティック・サウンドを思わす音色の中で、シュヴィは確かにそれを見た。


 ――嘘。相殺、した……? 出力最大の、『偽典・天撃』を…………!?


 蒼き雷霆。その、怜悧かつ勇猛な眼光を。
 彼の手から立ち昇る、どこまでも鋭く猛る蒼の色彩を、見た。
 信じられない。あり得ない。如何に霊基を強化されたサーヴァントと言えど、この一撃を正面から打ち破るなど。
 それは。それは、あの大戦の中でさえ通用する……文字通り、天を墜とすがごとき偉業に他ならないのだから。

 もっとも、天射りを成し遂げたガンヴォルトの姿もまた壮絶なものだった。
 全身の至るところを重度の火傷が這い、骨の折れている箇所も一箇所や二箇所ではない。内臓も複数個潰れているだろう。
 極めつけは片目だ。血を流しているそれは、開かれぬまま沈黙を保っている。
 どうやら今の激突の余波で焼き切れ、潰れてしまったようであった。

 ――けれど。
 ――それでも。
 ――ガンヴォルトは依然として健在。何に怖じることもなく、空の機械天使へ向け駆けている。

「迸れ、蒼き雷霆よ」

 無論。
 これは、理論なき番狂わせではない。
 ガンヴォルトの霊格は決して高くない。彼の強さは、サーヴァントとしては精々並程度が良いところだ。
 だが、彼には奥の手がある。『満ち行く希望(フィルミラーピース)』。かつては『新たなる神話(プロジェクト・ガンヴォルト)』とも呼ばれた、ひとつの幻想。

 戦えば戦うほど。
 交われば交わるほどに蓄積されていく威信――クードス。
 それが満たされ条件を達成した時。
 ガンヴォルトは、己の器を凌駕する。
 そして今、皮肉にもこのシュヴィ・ドーラとの共鳴を通じて彼はその性質にさえ変化を及ぼすに至っていた。

 クードスを介さずの自己変容。
 威信蓄積の成果の、先取り。
 これを以ってガンヴォルトは、自らの霊基を劇的に強化する手段を一つ手中に収めた。
 燃費は劣悪。長時間の解放はマスターであるさとうの身を蝕むことになる。そのことは、百も承知だ。
 だが――それでも今この場だけは、使わずに切り抜けることは不可能だと判断した。
 愛し合う二人を守るため。小鳥の誓いを守るため。蒼き雷霆の少年は、黒死牟と相対した時でさえ片鱗を覗かす程度に留めた強化形態を開帳したのだ。

「天を騙る鋼を打ち砕き、永久の愛を寿ぐ光明となれ……!」

 その上での超出力。出し惜しみのない一撃は、模倣された天撃を相殺し。
 少なくない代償を支払いながらも、最後の一手を打ち込むに至らせた。
 次、致命に怯える羽目になったのはシュヴィの番。
 機械仕掛けの思考回路が、二つの選択肢を示す。

 ――もう一度『偽典・天撃』を放って、撃ち落とす。
 ――もう一度『進入禁止』を展開して、受け止める。

 どちらを選んでも賭けになるのは間違いない。
 『進入禁止』は本家本元の『天撃』をさえ防げる武装だが、本物の天翼種を知るシュヴィにさえ今のガンヴォルトの力は未知数のそれに写っていた。
 逡巡の時間は一秒にも遠く満たない、時間に直せばほんの一瞬のこと。
 が。そのわずかな迷いは、横から乱入したヴィランの介入によって押し広げられた。

「撃たせるかよクソガキがァアアア! 丸焼きは百歩譲っていいけど消し炭は御免だぜェ!!」

 チェーンを伸ばしながら迫る、チェンソー頭の怪人。
 まさにヴィラン然としたその姿が、今のシュヴィにはかつてないほどの脅威に見えた。

(まず、い……! 彼に対処してる暇は、ない……ッ)

 浮かんだ選択肢をねじ伏せて。
 傲岸不遜に三つ目を要求してくる、チェンソーマン。
 シュヴィの頭脳であれば、それを捻出することも決して難しくはないだろう。
 しかしノータイムでとは行かない。信号の伝達、演算の過程。そこにはどうしても、僅か……ほんの僅かながら時間が生じる。
 そしてその"時間"は、迫る雷霆がシュヴィの痩身を消し飛ばすには十分すぎた。

 ――間に合わ、ない……。嘘、駄目、駄目駄目駄目駄目……ッ! そんなの、だめ……!!

 死ぬ。ここで終わる。
 終わってしまう。彼の夢が、失われてしまう。
 それは嫌だと、少女の中の0と1では表現することのできない心が悲鳴をあげる。
 それは、それだけは、絶対に受け入れられないと。
 その想いだけがシュヴィを突き動かし、思考回路をショート寸前まで高速で稼働させた。

 ――あの人は……マスターは……。あの、優しい人は……ッ
 ――シュヴィのこと、信じて……待ってて、くれてるんだから……!

 ――こんなところで、終わらせない……!
 ――絶対、負けたりなんかしない……ッ
 ――だからお願い、答えを……!
 ――答えを、シュヴィにちょうだい……!!

 哀願は、されど奇跡を起こすことなく。
 武装の展開ももはや、今となっては間に合わない。
 迫るチェンソーマンを咄嗟の迎撃で弾くことはできたが、精々それが限界だった。
 追い詰められたシュヴィが縋ろうとしたのは正真正銘、最後の手段。
 できることなら。本当に、使わぬまま終わりたかった奥の手。

 ――ごめん。ごめんなさい、ごめんなさ、い。
 ――ごめんなさい、みんな。

 間に合うかどうかは分からない。
 そも、本当に使えるのかどうかも。
 だからシュヴィは此処までこれだけは使おうとしなかった。
 いざ開帳を試みて本当は使えませんでした、では洒落にならないから。
 それが合理的な理由。もうひとつ。非合理な理由も、ひとつ。

 ――裏切って、しまって。ごめんなさい。

 この武装を。
 この『宝具』を、使うことは。
 それそのものが、"彼ら"の生き様に対する何よりの冒涜だったから。
 けれどもはやシュヴィが縋れるものはそれを除いて他にはなく。
 迫る雷霆を前にしながら、ぎゅっと目を閉じて己の回路の奥深くまで意識を潜行させた。


 まさに、そんな時の出来事だった。
 戦禍の渋谷区、春が夏を食らう満開の廃都。
 そこに居合わせた全員が、一人の例外もなく……全身の内臓と骨を凍てつく氷に置き換えられたかのような、壮絶な寒気を覚えたのは。


「――――か、ッ」

 雷が、落ちた。
 ガンヴォルトが放ったものではない。
 その雷撃は、他でもない彼を叩き伏せるものだったから。
 走った閃光と、轟いた衝撃の激しさに眼球が裏返る。
 咄嗟に舌を噛まなければ、確実に失神していただろう。
 そうでなくとも脳が軋み、意識が撹拌され、視界が千千に乱れる重さだった。

 何が起きた。
 いや、分かっている。
 ガンヴォルトも、更に言うなら直接矛を交えたわけではないがデンジも、この気配を知っていた。
 ただし、それは彼らにとって何の救いにもなりはしなかったが。



「おい。仮にも一時はウチの旗ァ貸してやってたんだ。おれの目の届く場所で無様な戦いしてんじゃねェぞ」



 確かに、気配は同じだ。
 声も、彼らの知るものだ。
 得物も外見も、何ひとつとして変わったところはない。
 だが、分かるのだ。分かってしまうのだ――別物だと。

「お、……前は………!」

 血を吐き、地に臥せりながら。
 それでもなんとか立ち上がろうと試みつつ、ガンヴォルトは口の朱を拭うのも忘れてその巨体を睨み付ける。
 見上げなければ全体像を認識することすら困難な巨体は悪い冗談のようで、今でもこれと初めて相対した時の衝撃は色褪せず彼の中に焼き付いていた。
 だというのに、ガンヴォルトは言う。言わずにはいられなかった。

「お前は、……誰だ……!」

 ――この戦いが始まったその時から、彼は最強の存在だった。
 まさしく不動明王。戦神。龍王にして鬼の王。
 武の化身、力の象徴、悪魔の如き男、次元の違う生き物。
 その称号が揺らいだことは一度としてない。
 だが、彼に並び立つ者はこの地で既に複数誕生していた。

 混沌の王と化した、星を統べる蝿の王ベルゼバブ
 遍く事象を斬り伏せて悪鬼滅殺を成す日輪継国縁壱
 皇帝殺しを成し遂げた白の魔王死柄木弔
 ある心優しい青年の内に棲まう、煌翼の救世主ヘリオス。
 時を超え、死を超えて再び龍の前に立った侍光月おでん

 "彼"の強さが翳ることはなくとも。 
 "彼"を討ち果たし得る者達は、次から次へと現れた。
 であれば、一人だけ胡座を掻いてもいられまい。
 世界最強の生物でさえ、歩みを止めてはいられない状況がやって来たのだ。

「百獣海賊団"総督"。海の皇帝。そして――この戦"聖杯戦争"の"勝者"」

 彼は、常に最強だったわけではない。
 最初は挑む側だった。時には追い越されることも、あった。
 敗北を重ね、仲間を失い、囚われて断頭台に押し込まれることだって数ほどあった。
 不覚を喫した相手との決着を、不本意な形で取り逃すことさえ――あった。

 そしてそのたび、彼は自らを鍛え上げてきた。
 強くなることで、その敗北と後れを強引にねじ伏せてきた。
 強くなればなる程、彼の前に敵はいなくなる。
 あらゆる敵を屠り、踏み潰し、乗り越えていく。
 その果てに辿り着いた場所こそが――この玉座。
 荒ぶる海を統べ、荒くれ者どもを率い、遂には界の海さえも踏破せんとする偉大な皇帝。

カイドウ。お前ら、全員この場に首と身包み置いていけ」

 最後の皇帝・カイドウは名乗った。
 そうすることで、己に刻み込むように。
 自分が此処にいる事実を、天地全ての存在へ告げるように。

 彼は、強くなった。
 この期に及んで更にその強さは膨れ上がっている。
 成長は、覚醒は……先に挙げた者達の専売特許に非ず。
 誰より真面目に研鑽を重ね、頂の位を守り続けてきたこの男に。
 他の者にできたそんな当たり前の所業が、不可能である筈がないのだ。

「死ぬにはいい景色だろう。此処がてめえらの旅の終わりだ、超新星(ルーキー)ども」

 夜桜前線、北上完了。
 桜の花弁に包まれながら、今、最後の鬼が暴れ出す。
 黒い稲妻を纏いながら立つその姿を――ああ。
 荒神と呼ばずして、他に何と呼べばいいのか。


◆◆


 桜が、咲き誇る。
 焼き払われて大半が消えた筈の桜が、再び地を裂いて街を彩り始める。
 清らけき永久の春。或いはいと悍ましき、永劫の春。
 そんな中に一人、形を結ぶシルエットがあった。
 貼り付いたような笑みを浮かべて、永遠を誓い合った二人を見つめる彼こそはこの桜檻の主。
 四皇カイドウを従え。
 機凱種シュヴィと手を組み。
 この"夜桜事変"を主導した、全ての元凶だ。

「さあ、始めようか」

 さとうが、しおの手を握る。
 しおがそれを、握り返す。
 皮下真は、上等だと笑みを深めた。

「答えをくれた礼だ。此処にお前らの愛の墓標を立ててやるよ」

 桜の樹の下には、死体が埋まっているという。
 この華やかな桜の園が、誰かの愛の墓標になる。
 さとうとしおか、皮下真か。それとも、彼の同盟相手であるこれまた"愛"抱く青年か。

 満開の時、来たれり。
 これは、"愛"を貫く戦いである。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2023年08月27日 23:41