ざ、と。
 女が、少女達の前に姿を現した。
 初めて見る女ではない。少なくとも、霧子にとっては。

「あ……」

 彼女が誰であるのかに予想がついたのは、幽谷霧子ただ一人。
 アビゲイル・ウィリアムズを従え得る人物がいるとしたら、霧子には一人しか思い付かなかった。
 そして片目だけの色彩異常。とても綺麗な、宝石ともオーロラとも違う透明を湛えた眼(まなこ)。
 今はもう記憶の中だけにしかいない、透明な手を持っていた女の姿が脳裏によぎる。

「空魚、さん………」
「久しぶりだね。元気してた? あいつが迷惑かけたでしょ」

 女。紙越空魚は、再会に驚いた様子もなくそう言った。
 あいつ、というのが誰のことを指しているのかは言うまでもなく瞭然である。
 仁科鳥子。アビゲイルの、かつてのマスター。
 彼女が、名前を聞いただけで目の色を変えるくらい大切に想っていた人。

 その手には、一丁の拳銃が握られている。
 銃の銘を知っている人間は、もはやこの界聖杯には存在しない。
 誰も彼もが死んでいき、今残っている器は資格を失った者も含めて三人だけだ。
 マカロフの名は、紙越空魚だけが知っている。
 そんな事実もまた、彼女にとっては清々しく心地よくさえあるものだった。
 この銃もまた、もういない共犯者と紡いだ思い出の結晶なのだから。

「あと、死柄木を倒してくれてありがとね。あいつの力は危なすぎるから、できれば勝つのはあんた達であってほしいと思ってたんだ」

 紙越空魚は、人間ではなくなった。
 少なくとも彼女自身は、そう思っている。そう自らに科している。
 〈裏世界〉とは一歩でも足を踏み外せば永久に正気を失う狂気の園。
 それに照らして言うならば、足を踏み外した自分は〈彼ら〉の側に堕していなければならない。

 怪異と呼ばれる存在は、その無法とは裏腹にしばしば律儀にルールを守る。
 放課後の女子トイレ。三番目の個室をノックし、呼びかけることで現れる厠の少女。
 鳥居と五十音を記した紙。十円玉に指を置き、正しい手順で語りかけることで知恵を授けてくれる狐の霊魂。
 鏡の前、特定の角度に礼をすることで顕れる囁き喰らう破滅の女怪。
 曰く因縁渦巻く廃墟に踏み入ることでのみ霊障を振り撒く巣窟の住人達。
 夜、太陽の消えた闇の中にだけ存在することを許される人食いの鬼。

 だからこそ、〈裏世界〉をする二人組という怪異は。
 片割れを失ったことで、狂気のままに血を流す鬼女と化した。
 透明な眼を持ち、銃を携えて、子どもたちを殺す鬼女。
 果てしない蒼空の広がる地獄から来た怪人。
 空と鳥を隣り合わせて綴るあの妖鳥のように。
 紙越空魚は怪異として、世界の終わりに立ち塞がる。

 マカロフの銃口を、躊躇もなくまずは霧子に向けた。
 相手は小娘。ただのアイドル。そのことは、アサシンによる事前調査で既に割れている。

「最後に聞いておこうかな。鳥子は、あんたにとってどんなやつだった?」
「……鳥子さんは……」

 地獄への回数券(ヘルズ・クーポン)の服用は既に完了。
 峰津院大和という強大な敵から受け継いだ遺品も、全部使って勝ちを狙う心算だ。
 どうせこれが最後なのだから、温存しておく理由ももはやない。
 銃口を向ける空魚に、霧子は顔を伏せこそすれど怯えはしていなかった。
 アイドル。一般人。無力な、怪異には蹂躙されるしかない普通の女の子。
 けれどそんな人間でも、地獄に放り込んで一月も暮らさせたらどうやら多少は肝も据わるらしい。

「…………優しい、人でした」

 霧子は、死への恐怖を超克したわけじゃない。
 今この瞬間だってそれは変わっていない。
 彼女は今も昔も変わらず、小さな小さないのちでしかない。

「とても綺麗で、優しくて……。アビーちゃんが、あの子が慕うのもわかるような……すてきな、お姉さん。
 だけど空魚さんがいるってわかったら、すごく真剣な顔になって………空魚さんのことが本当に好きなんだなって、そう思いました……」
「そっか」

 だろうな、と空魚は思う。
 鳥子はそういうやつだ。
 仁科鳥子という人間は、まさに今霧子が言った通りのような人間だ。

 あんなに恐怖で溢れた世界を生きているのに、自分がちょっと倫理観のないことを言ったら複雑そうな顔をする。
 〈裏世界〉の存在がなければ、たぶん一生会うことも、そして合うこともなかっただろう類の人間。
 そういう女だった。だけどそんな女の中で、少しでも自分が特別であれたらしいという事実が空魚の心に一筋の風を吹かせる。

 ――やっぱりあいつ、私のこと好きすぎだな。
 私も、人のことを言えた義理じゃないけど。

「わたし……鳥子さんに、生きていてほしかったです」

 そう言って霧子は、我が事のように目を伏せる。
 知った風な口を利くな、と思わなかったわけじゃない。
 でもこの世界に限って言えば、鳥子のことを知らずに生きてきたのはむしろ空魚の方だ。
 だから怒るでもなく、その言葉の先を聞くことにした。

「いっしょにいた時間は、本当に……ほんとうに、短い間だけだったけど……それでも…………。
 わたしは、……わたしも…………鳥子さんのことが、好きでした……。だから――」
「だから?」
「…………、…………ごめんなさい」
「は?」

 一度目は堪えた。我慢をした。
 でも二回目は、内容もあってその限りじゃなかった。
 〈裏世界〉の存在も、あいつがどういう人間かもろくに知らないだろうガキがあれを好きと言っていること。
 自分があいつに対して抱いてる感情も知らないまま、そんな言葉をのうのうと吐いていること。
 その事実は、少なからず空魚の神経を逆撫でした。
 引き金に触れた指が、躊躇いではなく苛立ちで震える。
 けれど続いた言葉で、空魚は思わず拍子抜けしたような声を漏らしてしまう。

「空魚さんの、大事な人のことを………守れなくって、ごめんなさい…………」

 霧子の瞳に、涙はない。
 だがそのことが逆に、彼女の言葉がその場しのぎの心にもない本心ではないのだと空魚に告げていた。
 鳥子がいなくなってしまったこと。
 もう二度と戻らぬ身になってしまい、そのことが空魚に深い哀しみと悲しい覚悟を与えたこと。
 この霧子は、それを自分のことのように感じ取っている。
 決して薄っぺらな同情ではない。そのことが、空魚には分かってしまった。
 鳥子の死は霧子のせいなどではない。空魚もそれは分かっているし、だからこそ別にそこに関しての恨み言を彼女へ向けるつもりはない。

「――――、何言ってんだ……おまえ」

 馬鹿じゃないのか、と空魚は思う。
 狂っている、とさえ思う。
 こいつは、この霧子は、これを本気で言っているのだ。
 この状況でさえ、銃を向けている自分を憎み恐れるよりも自分を"そうさせた"鳥子の死を悼み、その死を空魚に詫びている。
 こいつ、頭がおかしいんじゃないのか。そうじゃなくても大馬鹿だ。それ以外にあり得ない。

「アビーちゃんを、止めてとか……誰かを殺すのは、よくないよとか……。そんなことを言うつもりは、なくて……」

 この世の多くの人間は、人類のマジョリティは圧倒的に善性だとそう信じてる。
 誰かの不幸を本気で哀しみ、誰かの幸福を本気で喜び、誰かが傷つかないように配慮と理解を深めていく。そんな人間が多数派だと信じて疑わない。
 けれどそれは、あくまで平凡な……お風呂上がりにふかふかのソファに腰かけてゆっくりスマートフォンに世迷い言を打ち込めるような、そういう安穏とした日常が保障されている場合にのみ適用される前提だ。
 自分の命が本気で脅かされている状況で、そんなカタログ上の善性を呑気に抱えたままいることのできる人間がいったいどれほどいるだろう?

 答えは簡単だ。
 そんな奴は、まずいない。

「ただ………ひとつだけ…………」

 別に、〈目〉で見たわけじゃない。
 〈裏世界〉の住人の真実を見抜き検める、あの峰津院大和にさえ高く評価された空魚の目。
 だからただ、普通の人間としての視覚で見ただけだ。
 その時、空魚に見えたものはごくごく牧歌的なそれだった。
 のどかで、暖かくて、優しくて、少し退屈な。そんな"ありふれた"概念。

「空魚さんの大好きな人は……鳥子さんは、この世界でも……とても素敵に、生きていたよって……。そう、伝えたかったんです……」

 ――〈お日さま〉。
 空魚の目に、幽谷霧子はそう見えた。
 万人を照らし、世界をいつだとて実直に見つめながら、それでも翳ることを知らず、汚れなくあり続ける。
 世界の善きものを寄り集めて奉ったような、光と熱に満ちた。
 けれどそれでいて誰の目も身体も焼くことのない、優しいだけの、ただそこにあるだけの光。
 いつだってそこにあり続けてくれるだけの、そういう光。そういうモノ。
 偶像。まさしくそうとしか言いようがない。

 ――〈空亡(そらなき)〉という妖怪がいる。
 全ての妖怪を逃げ帰らせる、夜の終わりに現れるもの。
 今や創作と知れて久しく、好事家に語れば鼻で笑われるのが関の山な与太話だが。
 もしもそれが本当にいるならば、こういうモノであったのかもしれないと空魚は感じた。

 〈空亡〉は夜の終わりに現れる。
 あらゆる影を、闇を照らし、晴らして消し去る。
 夜明けと共に現れて、闇夜を終わらす。自らの光で、闇を包み込む。
 その妖怪は、球の形をしている。
 夜明けと共に現れ、闇と影を照らし去る球。
 それを人は、こう呼んだ。
 それを畏れるからこそ、人は存在しない妖怪を生み出し、その輝きを定義付けた。

 ――〈太陽〉と。


「分かったよ。ご苦労さま、わざわざ伝えてくれて」


 この女は、殺した方がいい。
 誰からでも殺せるが、まずはこいつだ。
 恨みじゃなく純然たる嫌悪感で、空魚は霧子を選んだ。

 これは、この生き物は、怪異の生きる世界には不要なものだから。
 光があるのなら遠ざける。もしくはそのものを消す。
 百鬼夜行の終わり宜しく、照らされて消えてなどやるものか。

「そんで謝らなくていいから。"それ"は、私のものだ――勝手に触るな」

 引き金を引く動きは、自分でも驚くほどスムーズだった。
 峰津院大和の時とは違って、相手は戦う力も脅威性もないただの少女だというのに。

 しかしそれもその筈だ。
 怪異は、鬼は、逡巡なんてしない。
 今や怪異の爪牙と化したマカロフは、主命に従って凶弾を吐く。
 それは霧子の心臓へと何に遮られることもなく吸い込まれていき……

 触れるその直前で、割って入った少女に弾かれた。


「……しおちゃん……」
「今霧子さんに死なれたら、私も困るから」


 地獄への回数券だな、と空魚はすぐに理解する。
 服用者特有の紋様が、黒髪の少女の目元には見て取れた。
 こうなると面倒だが、それならそれでやりようはある。

「鬱陶しいな。そういう展開やめてよ、ジャンルが違うんだよね」

 〈目〉で、標的の三人全員を視界に収める。
 大和にさえ通じた、〈裏〉を見通す目の悪用法。
 魂を観測して震わす、十八番をやろうとしたところで。
 空魚は、霧子を庇って立った神戸しおの姿に眉根を寄せた。

 ……なんだあれ。

 より正確には、しおの纏っているボロ臭いジャケットの方だ。
 サイズの合わないそれが、空魚の目には龍に見えた。
 白い龍だ。白内障でも患っているように眼球は白濁し、そこには生気というものが一切窺えない。

「……死柄木の置き土産?」
「すごいね。お姉さん、わかるんだ」
「まあね。っていうかマジか、めんどいな……」

 空魚は仕事柄というべきか、育った畑柄というべきか知っている。
 ヤバいものには、見た目なんて関係ない。
 例えば、麦わら帽子に白いワンピースの、やたら背が高い女だったり。
 田んぼの真ん中でくねくね踊ってる白い物体だったり。
 人間(こちら)の認識だとか通説だとかそういうものに、あっち側の存在は合わせてくれない。
 あの龍もそういう存在だと、空魚は認識した。
 第一そうでなくたって、"あの"白い魔王の遺した置き土産なんてものが尋常な代物であるとは思えなかった。

 マカロフを向けたまま、数秒ほど無言で睨み合って。
 それから、ゆっくりと銃口を下ろしてため息をつく。
 せめて残りの器くらいは狩ってやろうと思って出てきたのはいいが、これではご破算だ。
 欲をかいた結果、アビゲイルと関係のない場所で返り討ちにされて死んだのでは鳥子にもアサシンにも笑われてしまう。

 それに。

「まあいいよ。どっちみち、遅かれ早かれあんたらは終わりだから」

 此処でどちらを選んだって、結局結末に大差はない。
 投げられたサイコロの出目が変わることは、ない。
 結末は決まっているのだ。

「ここで終わりにしよう。私とあんた達の、聖杯戦争を」

 だって、ほら。
 崩壊した都市の残骸の果てから、歩いてくる影がある。



「lu lu lu la lala la la lu lula la lu lu lulu――――……♪」



 うたが、きこえる。

 思わず耳を傾けてしまうくらい、美しく。
 思わず耳を塞ぎたくなるくらい、恐ろしい。
 そんなうたが、きこえてくる。



「la lulu lu la la la lala la lu lu lula la lulu lu lulu lu……――――♪」



 どしゃ、となにかが地面に落ちてきた。
 半面と半身が欠けて、四肢が既に"四"肢ではなくなっていた。
 はらわたをすべて体外にぶち撒けて、肋骨が皮膚を引き裂いて花のように咲いている。
 すべての目を潰されたそれがかつて黒死牟と呼ばれたサーヴァントであったことに、少女達は一瞬気付けなかった。

 少女は、誰かの手を握っていた。
 胸から下のない、異形の頭をした少年の手だ。
 ずるずると引きずられる彼はされるがまま、血の尾を引いて少女のお散歩に同伴させられている。
 エンジン音は聞こえない。魔王殺しを成し遂げた狩人が、獣害もかくやの死に様を晒していた。


「こんにちは、皆さん。気持ちのいいお昼ね」


 笑う少女は、すっと鍵を天へと翳す。
 そして、ドアでも開くようにそれを回した。
 それが合図。世界が再び、壊れるサイン。


「そしてさようなら。せめて最期は、幸せなほど安らかに」


 ――かつて都市だった白紙の地表が。
 ――触手の犇めく、異星の大地に塗り替わる。


「いあ、いあ…………今行くわ、マスター」


 星辰光という力のことを、七草にちかは知っていた。
 アシュレイ・ホライゾンが用いた力だ。
 説明は正直なところちんぷんかんぷんだったが、要するに地球上に別な星の環境を再現する力だったとにちかは理解している。
 だがこれは、そんな生易しいものではない。
 持ち込んでいるのではなく、書き換えているのだ。
 界聖杯内界および深層が、界聖杯という上位者によって造られた世界であるのをいいことに。
 神の如き権能を用いて、それを異星そのものにリライトしている――!

 ならばそんな世界に、人間の生存する余地があるわけがない。
 ここは、これは恐怖の大地だ。
 深淵から来る根源的恐怖が跋扈し、ひと呼吸で人を発狂させる宇宙的恐怖(コズミックホラー)の舞台だ。

 しおがたたらを踏んだ。
 にちかが嘔吐した。
 界聖杯内界で積み重ねた経験も成長も、異星にあっては意味を成さない。
 外なる神の膝下たるこの汚穢にして神聖なる星では、人の強さなど何の意味も持たない。

 すべてに、意味はなく。
 故に、すべてが此処で終わる。
 そう理解するしかない、終わりの景色のその中で。

「…………、アビーちゃん…………っ」


 ――――ただひとり。幽谷霧子だけが、少女を見つめて立っていた。

 太陽の光は、あらゆる怪異を照らして灼く。
 あるいは、抱擁して浄滅させる。
 それがこの世の理、聖杯戦争という百鬼夜行絵巻の末尾だ。
 だがこの星は今や太陽系の遥か彼方、領域外の宇宙に揺蕩う凶星。
 太陽の光など、お日さまの輝きなど、届くべくもない凶つの星だ。

 故に、少女の存在に意味はない。
 その光は、降臨者(フォーリナー)の少女を照らせない。

「霧子さん、もうすぐよ」

 アビゲイルは嬉しそうに笑っていた。
 それがあまりに爛漫とした顔だったから、霧子は唇を噛んでしまう。

「もうすぐ、またあの人に会える時がやってくるの」

 何のために立っているのだろう。
 霧子は、既に戦うということを理解している。
 それは彼女達がまだ方舟と呼ばれていた頃の話。
 無垢なアイドルだった彼女達は、当然として現実に直面した。

 大団円というエゴを押し通すことの意味。
 優しい結末という理想論に轢殺される、誰かの願い。
 言葉を交わしても、手を差し伸べても決して相容れない者の存在。
 尊い願いたちは、いつも分かり合えるとは限らない。
 人を殺して勝ち取らなければ救われない者達と、皆で幸せになりたい者達との間に妥協点は存在しない。

 例えば、神戸しおがまさにそうだった。
 彼女は、幽谷霧子が初めて明確に"戦う"ことを示した相手だ。
 しおは愛を抱えている。大きな、他人には計り知ることもできない愛を。
 だからこそ、その時が来たなら戦うしかないのだと理解した上でそれを言葉にした。
 そしてこのアビゲイルという少女も、ある意味ではしおと同じ。

「この私は所詮、時が来れば消え去るうたかたの夢でしかないけれど……
 それでも私、とっても幸せよ。鳥子さんが大好きな人と幸せに、この先の世界を生きていけるのなら――ええ。これ以上の喜びはありません」

 彼女の願いは、聖杯によってしか叶えられない。
 なくしたものは返らない、その理を唯一覆せるのが全能の願望器だから。

 霧子も、失う痛みは何度も経験してきた。
 誰も彼も、死んでいった。消えてしまった。
 彼の彼女の顔をもう一度見られるなら、どれほど幸せなことだろうと思うから。
 だから、アビゲイルの行く道を糾することなんてできる筈もない。

 では何故、自分はまだ立っているのだろう。
 その答えは、霧子自身にも分からないままだった。
 分からないままだった、けれど――

「アビーちゃんは……」

 口を開いて、言葉を紡いだ。
 へにゃりと力なく、それでも笑って。

「アビーちゃんは、頑張ったんだね……」
「――、――」

 そう、言った。
 アビゲイルが、驚いたような顔で少しだけ止まる。
 正直なところ何を言うべきなのかはとても迷った。
 ほとんど感覚的に絞り出した言葉だったと言ってもいい。
 でも、今彼女にかけるべき言葉があるとすれば、それはきっとこれだと思った。

「…………ええ。私ね、霧子さん。とても頑張ったの。すごく、すごく――」
「うん……。アビーちゃんは、すごい子だ……」

 変わってしまった姿かたちは、まさにその証なのだろう。
 自分自身を見る影がないほど変えてしまってでも、彼女は手を伸ばしてきた。
 失ってしまった大切なものを、もう一度掴み取るために戦ってきた。
 きっと自分なんかでは想像もできないくらい、大変な思いをしてきたんだろう。
 苦しんで、泣いて、泥と血にまみれて、それでも歩き続けてきたんだろう。

 ――そうして彼女は、仁科鳥子のサーヴァントだった少女は今自分達の前に立っている。

 彼女の目指す結末と、自分達の目指す結末は決して相容れない。
 だけどそれでも、その歩いてきた道と努力を否定するべきではないと思った。
 頑張ったねって声をかけて、労ってあげるのが"友達"としてするべきことだと信じた。

 その上で。

「でも、ね……わたし達にも、信じてきたものがあるんだ……」

 この想いだけは。
 連綿と繋いできたこの気持ちだけは――この方舟だけは、譲れないのだとそう示す。

 胸を抑える手がやけにあたたかいのは体温のせいだけではない。
 なくしてきたもの。一緒に生きてきたもの。待っていてくれるもの。
 そのすべてが、ちっぽけな少女に力をくれる。
 光の届かない、宇宙の果てであろうとも。
 それさえ、その熱さえあるのなら――

「だから…………受け止めて、背負っていくよ…………」

 お日さまは、〈夜の終わり〉は輝ける。
 輝いて、眩しくいられる。
 最後の最後の宣戦布告。
 それに、アビゲイルは短く言った。

「そう」

 分かっていたことだ。
 それなのにその声に少しの落胆が滲んでいたのは、心のどこかで彼女もまだ信じていたからなのか。

 わずかな時間とはいえ絆を紡いだ、優しい少女。
 彼女を踏み躙らずに、離してしまった手を掴めるなんて都合のいい可能性を。
 だがその未来は、至極当然の帰結として否定される。
 であれば、アビゲイル・ウィリアムズが選ぶ行動は決まっていた。
 鍵剣を静かに掲げる。
 無力な少女、かつて確かに友達だった少女に。
 その命を、今ここで断ち切ってしまうために。

「ありがとう、霧子さん。私、あなたのことは忘れないわ。
 あなたのことも、皆さんのことも。私も私で、全部背負っていくから」

 だから。
 もう、おやすみなさい。

 振り下ろされる鍵剣に、逆らう手段は存在しない。
 霧子のすべての抵抗は、確定された運命を覆せない。
 奇跡は起こらず、輝きはたやすく潰える。
 それでも、霧子は立っていた。
 立って、見据えて、信じていた。
 そう、彼女は奇跡など願っていない。
 霧子は信じているだけだ。
 だからこそ、閃く鍵が少女の肉を斬り裂かず阻まれたのは必然の運命だったと断言できよう。


「…………覚えて、いるな」
「はい…………覚えてます……!」
「ならば……良い…………」


 交わす言葉は、短く。
 されどそれだけで十二分。
 血まみれでぼろぼろの背中を見つめ、頷く霧子。
 その視線の先に立っているのは――ひとりの侍であり、一体の鬼だった。


 上弦の壱。
 継国の長男。
 焦熱地獄から零れた運命のしずく。
 焦瞼を超えて融陽に至った、月の剣士。



 ――黒死牟は、そこにいた。



◆◆



 太陽の光。
 それは、鬼の存在を赦さない天の意思。
 鬼となり、時を重ねるにつれて誰もがその記憶を忘れていく。

 けれど男は、覚えていた。
 この世の何よりも鮮烈な、その輝きを覚えている。

 それを見、それに灼かれる他人の気持ちなど微塵も理解せずに、勝手な顔で笑う男を。
 そういう家族(かたわれ)がいたことを、一度とて忘れたことはない。

 鬼畜に堕ち、永遠の闇夜を生きる中で。
 生きる標のように灯り続けた、唯一無二の太陽。
 赤月ではなく朝日に溶けたその影を、今も鮮明に覚えているから――


 だから。剣士は今、宇宙(ソラ)に挑むのだ。



◆◆




 月の呼吸・壱ノ型――闇月・宵の宮。
 それをもって血戦は再開された。

 神速の抜刀に複雑怪奇なる月輪の点滅が交ざる、当たり前に回避不能の一撃。
 小手調べと呼ぶにはあまりに無体な斬撃だが、敵は鬼さえ届かない宇宙から下りてきた色彩だ。
 鍵剣が太刀を阻み、泉のように沸き出した触手が月を咀嚼して噛み砕く。
 それでも足りぬと迫る触手に呑まれるのを是とするほど、黒死牟は抜かった剣士ではない。

 弐ノ型――珠華ノ弄月。
 三連の太刀で触手を蛸の刺身よろしく裁断しながら幼い身体を狙う。
 されどアビゲイルは技名の通り、弄月に笑う余裕を崩さない。
 魔力出力に物を言わせた突進で文字通り正面突破しながら、振るった鍵の鋒が脇腹を掠めた。

 それだけで傷口が爆ぜる。
 全身の細胞に粗塩がまとわり付いてくるような、放射線被曝にも似た激痛が黒死牟の意識を沸騰させた。
 現在、アビゲイル・ウィリアムズは彼方の邪神との同調が極端に高まっている状態だ。
 ともすれば霊基再臨の枠をさえ超えた災厄を引き起こしても不思議ではない、よって黒死牟達に猶予はほぼないと言ってよかった。

「優しいひとを傷つけるほど心の痛むことはないわ。けれど、そうね。私も背負って乗り越えないと」
「ほざくな……戯けが…………」

 手数では黒死牟に間違いなく劣っている筈なのに、アビゲイルの猛攻は彼にとって嵐のようにも感じられた。
 骨身を噛み砕く蝙蝠の群れに構っている暇はない。
 最低限の身体機能を維持することだけに意識を向け、負傷を無視して呼吸を重ねる。血鬼術を放つ。
 参ノ型。厭忌月・銷りが至近でアビゲイルを襲い、後退させつつその痩身を月で刻んだ。
 人事不省に陥っても不思議でない傷が入っている筈なのに、何故かその傷が次の瞬間には姿を消している。
 再生ではない。これは逆行だ。
 彼方の邪神、巫女が仕える全能なる外神は時間をも司る存在であるが故に。

「ああ、お父様――あたたかいわ。どうかアビーに微笑んで。私の、私達の、この"願い"を叶えるために……!」

 肆ノ型が魔力の放出だけで、真実の意味で粉砕される。
 この状況でなお不壊を貫いている閻魔は、やはり妖刀と呼ぶ他ないだろう。
 紡いだ絆、受け継がれたもの。
 皮肉にもかつて彼を彼らを終わらせた鬼狩りのように、今黒死牟はそれを糧とし鬼殺ならぬ神殺に挑んでいた。


『海を渡りゃ世界も広がる。空の雲を斬る剣士もいりゃ、視界の果ての山を切り飛ばしてのける野郎もいたな』


 奇しくもそれは、仁科鳥子の呪詛を経ってすぐのこと。
 煩わしくも絡み付いてきた風来坊、光月おでんは頼んでもいない漫遊話を始めてきた。
 何より腹立たしかったのは、その会話が結局自分にとって有意義なものになってしまった事実だ。
 侍としての剣だ何だと考えるのが馬鹿馬鹿しくなるような荒唐無稽が、彼の話では当たり前に歩き回っていたからだ。


『それでも一番凄かったのはやっぱりロジャー……海賊王になりやがったあのワガママ船長だ。
 今もあいつの剣はおれの瞼に焼き付いてる! いいか、よく見てろよ。こうやって構えて、こうだ! 一気呵成にズバっと切り込むんだよ!!
 んで技名はこうだ。これがまたイカしてんだ、男ならこれで心胆震えねェ奴はいねえ!』


 鬼の王と化した猗窩座との戦いは、彼との会話がなければ制せなかっただろう。
 そして今もまた、黒死牟はあの煩わしい時間のことを回想していた。
 頼んでもいないのに動作付きで教えてきた、彼の知る"最強の剣"。
 あの大雑把な男のことだ。細部の記憶まで正しいのかは定かでないし、彼流のアレンジが入っている可能性も大いにある。
 にも関わらず結局こうして記憶の片隅に留めてしまっていたのは、堕ちたとはいえ剣の道に生きた者として惹かれるものがあったからなのか。


『恥も外聞も気にするな! 大声で叫べ、いざや参らん――』


 閻魔を引き、構える。
 迫る触手を避けるのは、後に回す。
 すう、と呼吸ではなく純粋に息を吸い込んで。
 そして記憶の引き出しから暑苦しい顔共々飛び出してきたその名を、高らかに吼え上げる!



「――――――――神避(かむさり)…………!!」



 一閃。
 それを受けたアビゲイルの顔に、驚嘆が浮かんだ。

「か、っ……!」

 深い刀傷を刻まれ、小さな口から血を零すその姿は黒死牟へある確信を与える。

「やはり………すべて効かぬというわけでは、ないようだな…………」

 先ほど、紫閃雷獄・盈月を打ち込んだ時にも思ったことだ。
 このアビゲイルは無敵と見紛うような、規格外の性能を持ちそのままに振る舞っている。
 だが、すべての攻撃が効かないというわけではないらしい。
 恐らく重要なのは深度。小さな傷を重ねるのではなく、霊核深くまで届くより鋭い斬撃で攻め立てることこそが肝要。
 その理屈で言うならば、斬首などの即死に繋がらせることのできる攻撃もきっと有効だろう。

「種が割れれば……神殺しもまた、ただの鬼殺か…………」

 首だけに固執しなくていい分、殺し方の幅だけで言えば鬼を相手にするよりも広い。
 得た事実を反芻しながら、伍ノ型・月魄災渦で傷付いた巫女の身体を斬撃と力場の海に隠していく。

 海賊王の斬撃"神避"からの無動作斬撃という組み合わせは殺人的だが、しかし割れたアビゲイルの性質を思えば決め手にはなり得ない。
 そう判断した黒死牟は月魄災渦の斬撃を前座に据えつつ、本命の斬撃を重ねて振り下ろした。

 陸ノ型――常世孤月・無間。
 微塵に切り裂く心算で放ったそれには、アビゲイルを討てる可能性が十分にあった。
 技自体の凶悪さと、黒死牟の極まった太刀。そして光月おでんから受け継いだ妖刀。
 三位一体(トリニティ)を描く月剣は、如何に邪神の巫女と言えども微笑んではいられない脅威性を秘めていたが……


「ふふ」


 月の裏側から響く小さな笑い声が、すべての希望を霧散させる。
 斬撃を引き裂いて白い手が伸びた。
 切り落とさんと閻魔を振るう黒死牟が、しかし物理的にひしゃげて地面を転がる。
 理屈ではなく、結果だけが生まれる異常現象。
 まさしく狂気。世界そのものを狂おしく歪める、神の御業。

「痛いわ。ええとても……これが私への罰なのね、お父様。大事なものひとつ守れなかった愚かなアビーへの、罰」
「何を……寝惚けたことを、言っている……!」
「そうかもしれないわ。私、もうずっと夢見心地なの」

 漆ノ型――厄鏡・月映え。
 刀身の形態変化を経ずとも月の呼吸の威力を最大限引き出せる閻魔には感服ものだったが、しかしそうしている余裕はもちろんない。
 五つの斬撃と無数の三日月。
 返す刀の迎撃としては凶悪極まりないが、凶悪に応じるのもまた凶悪なれば。

「いあ・ええややはあふたぐん」
「ぐ、うッ――!?」

 月映えの斬撃そのものが、形を失ったように崩れて消えた。
 その残滓を苗床にして、爆発的に触手が増殖したのだ。

 鉄砲水同然に押し寄せたそれに打ち据えられた衝撃だけで、黒死牟の骨という骨が砕ける。
 更に触手どもは彼の手足に首筋に絡み付いて締め上げて、全身を原型を留めないまでに圧潰させんとしてくる。
 鬼は頑強な生き物だ。しかしそれも、このレベルの攻撃を前にしては意味をなさない。
 だからこそ速やかな脱出は急務であり、黒死牟はすぐさま奥の手のひとつに据えていた技を開帳するのを余儀なくされてしまった。

「舐め、るな…………!」

 月の呼吸・拾捌ノ型。
 月蝕・号哭鎧装。
 自滅へ向かう宝具を変質させて成立させた、骨の甲冑である。

 斬撃の自動展開機能を持つこの甲冑は、触手による圧殺に対して驚異的なほどに相性がよかった。
 一時は黒死牟の身体を八割方まで破壊した触手達が、次から次へと切り裂かれて散っていく。
 そうして死の海から這い上がった黒死牟は加速し、突貫する。
 進化の果てに辿り着いた猗窩座さえ圧倒した攻防一体の鎧だ。
 そんなものに肉薄されては、アビゲイルの身体ももちろんただでは済まない。

「あはは、あはははははは……!」

 毎秒ごとに斬り刻まれては逆行し、斬り刻まれては逆行しを繰り返す。
 スプラッターショーか地獄絵かと見紛う有様を晒しながら、それでも少女は夢見るように笑っていた。
 鍵剣と鎧がかち合っては火花を散らし、轟音を響かせる。
 アビゲイルの攻撃の威力は全弾において猗窩座を超え、カイドウの域にさえ迫っていたが、それでも号哭鎧装は役目を果たし続ける。

「すごいわ、流石お侍様。霧子さんが信じた運命はかくも鋭いのね……!」
「童(わらべ)が……ずいぶんと、酔狂な言葉を遣うものだ……」

 捌ノ型――月龍輪尾。
 薙ぎ払う広範囲殲滅斬撃。
 鍵剣で受け止められるが、それでもその威力は邪神の巫女へ後退を強いる。
 その隙を、黒死牟は背負い投げるような大振りで放つ次技で突いた。

「貴様にとっても……この剣は、運命となろう……。亡者の剣にて滅び……あの娘と同じ、黄泉比良坂へ逝くがいい……」

 月の呼吸・玖ノ型――降り月・連面。
 満ち欠ける月の風情を思わす大斬撃を前に、アビゲイルは今度は動かなかった。
 動かぬまま、額の鍵穴から白き光を迸らせる。
 斬波に大穴を穿ちながら、今度は黒死牟を後退させた。
 無論、防御よりも攻撃を優先した結果として彼女の身体は引き裂かれたが、今のアビゲイルの有様はかの煌翼(ヘリオス)にさえ類似する。

「違うわ。あの人は、そんなところにはいない」

 少なくとも、即死に達する傷でなければ彼女を殺傷することは不可能だ。
 カイドウを討つまでの彼女であれば、まだいくらか御し易い相手だったに違いない。
 しかし界聖杯の深層に落ち、邪神との同調を深めた今、アビゲイルはまさしく怪物。
 界聖杯をめぐる戦争に名乗りを上げてきた数々の強者達、その中でも頂点に君臨した規格外達と肩を並べている。

 鍵が、空を扉に見立ててこじ開ける。
 刹那、光が鎧ごと真下の黒死牟を貫通した。
 風穴を穿たれながら、しかし彼は冷静に今起こった事象を理解する。

(我が鎧装は、接触を介して斬撃を発生させる……故に攻防一体。
 であれば接触などせぬまま……空間そのものを穿てばよいと、そう考えたか……)

 線ではなく点。
 世界そのものに撃ち込む光。
 空間を超越する邪神の権能であれば、そんな芸当も当然可能となる。
 身に余る力を得て絶頂の高みにあった法師を騙し、天逆鉾を掠め取って忍ばせたあの時のとやっていること自体は同じだ。

「触れられないのなら。蝶の羽をむしるみたいに、丁寧に嬲ってみようかしら」
「ッ……!」

 無数の穴が、禍々しくもどこか荘厳だった黒死牟の甲冑を次々穿っていく。
 ネズミの食ったチーズのように穴だらけになっていく中、黒死牟は怯まず前に進んだ。
 この戦いで何をおいてもしてはならないことがひとつある。
 それは、足を止めること。そして剣を止めること。
 刹那でも戦うことを止めてしまえば、たちまち食い尽くされるだけ。
 思い出せ、鬼狩りに明け暮れた日々を――生物として圧倒的に弱かった頃の己を。

 ――真昼の月となれ、巌勝。

「あら。お転婆ね」

 黒死牟が、あらゆる負傷を無視して駆ける。
 崩壊寸前の鎧装は、この段階に入っても健気に主を害する触手や異界生物を斬殺し続けていた。
 この技/血鬼術を開眼させていなかったなら、ここに至るまでの段階で黒死牟は確実に死んでいただろう。
 巡り巡る縁の流転が、太陽を認めた月の輝きを支えている。

 拾ノ型――穿面斬・蘿月。
 斬殺を通り越して圧殺にも届くような巨大な太刀筋が、アビゲイルを挟むようにして放たれる。
 見た目は派手だしそれに違わぬ威力も秘めているが、主目的はまさに逃げ場を塞ぐことだ。
 迎え撃つか後ろに下がるか、それ以外の選択肢を奪う。
 アビゲイルは前者を選んで鍵剣を構えたが、彼女がどちらを選ぼうと大差はない。

「散れ…………凶つ神の巫女よ…………」
「あは――!」

 月の呼吸・拾肆ノ型。
 兇変・天満繊月。

 逃げ場のないアビゲイルに辛うじて許された生存可能な領域を、すべて奪い去る範囲斬撃を放つ。
 これに比べれば月龍輪尾など、無体の内にも入らない。
 人の身では放つことの叶わない、鬼となって初めて扱いこなせる絶技の剣。
 今の彼はこれを一切の逃げも瞑目もなく、心のままに放つことができる。

「――――――――!」

 埋め尽くす。
 剣で、すべてを塗り潰す。
 逃れようともがくアビゲイルの手足はすぐさま月輪達に斬り刻まれて形を失う。
 得意の逆行ですら事態の解決に繋がらない。
 兇変・天満繊月だけでも手に余る手数だというのに、黒死牟の纏う鎧装が絶え間なく追加の斬撃を叩き込んでくるのだ。

 何を口にしようがかき消され。
 何を目論もうが、行動の前に刻まれる。
 そんなアビゲイルの姿を前に、黒死牟は畳みかける。

 生み出されるは、地さえ貫く月の虹だった。
 それが、目下まさに斬り刻まれ続けているアビゲイルへ殺到していく。

 月の呼吸・拾陸ノ型――月虹・片割れ月。
 身動きの取れない巫女に致命を与えるための、黒死牟が放つ決め手の一撃だ。
 触手の波さえ形成するなり微塵切りにされる刀剣の地獄の中で、彼女にこれを凌ぐ手立ては存在せず。
 遥か外宇宙の神に見初められし銀鍵の巫女は、剣の鬼の手にかかって命を散らす。


 ……その間際、黒死牟の耳が。
 轟音にかき消され聞こえない筈の、少女の声を、聞いた。



            「災厄なる魔の都」


                         「隠されし厳寒の荒野」


        「蕃神の孤峰」                                


                               「未知なる絶巓」



 戦慄。
 骨の髄まで凍り付く感覚が、再び黒死牟を貫く。
 斬撃の隙間、鮮血の中で煌めく少女の歯が見えた。
 笑っているのだ。やはり、この童は、巫女は、笑っている。
 何故笑う。そんなことは決まっている。
 神殺しなど、未だ幻夢の彼方。
 だというのにまるで手が届いたみたいな顔をして、決着を確信している剣士の姿があまりに可愛らしかったからだ。


「深き眠りの門の彼方、降りて到るは幻夢郷。訪れど、去ることは叶わじ」


 門が、開き。
 光を、見た。

 幻覚か現実かを判別する暇さえ、与えられはしない。
 少女の鍵穴に灯る、これまでとは違った色の光。
 それを目視した瞬間、黒死牟の意識は夢見の中へと連れ去られた。



「『遥遠なりし幻夢郷(ドリームランズ)』。さあ、夢見なさい――きっとこの世が滅ぶまで」



◆◆



 『遥遠なりし幻夢郷(ドリームランズ)』。
 対人宝具。他者を夢の世界へ落とす。

 それは、"この"アビゲイル・ウィリアムズが持つ宝具ではない。
 異なる時空、異なる事象にて、とある若人に召喚されたアビゲイルが紆余曲折あって霊基を変質させ、所持に至った宝具。
 とはいえ繋がっている邪神は同じ。
 時空と空間を超越し、あらゆる不可能を可能とする窮極の力があれば――ましてやそれがサーヴァントの域を超えるほど強まっているならば。
 欲するに至るまでの発想こそ違えど、彼女がこの宝具を振るう可能性は十分に存在した。

 本来、世界の変容/移行はなめらかに進行する。
 だが今、"この"アビゲイルはかつてなく攻撃性に傾いている。
 器たる少女達を含めた全員を巻き込んで夢に落とし、精神発狂に至らせるまでは不可能。
 けれど討つべき一人。目の前で跳ね回っては剣を振るってくる一人の男を落とすだけならば、それはあまりに容易いことだった。


 幻夢郷へ落ちた者は、そこで己が世界の真体を見る。
 その解像度と質量は人の精神を壊し、自我を失わせる。

 薔薇の眠りへと続く門の果てに、月の剣士が見るものは――



◆◆



 赤い月が、空高く輝いていた。
 くらり、と鬼になってから一度も覚えたことのない目眩に微かたたらを踏む。

 なにか。
 なにか――長い、夢を見ていたような気がする。
 ひどく忌まわしい気分になっているというのに、夢の内容は片鱗たりとも思い出せない。

 下らぬことだ、と切って捨てる。
 鬼が夢など見る筈がない。
 であればこれは、単なる耄碌なのであろう。
 老いることを忘れ、死することを忘れた生き物にもそれは付き纏うものらしい。

 歩く。
 剣を振るい、鬼狩りを屠るためか。
 人を見つけ、血肉を喰らうためか。
 当初の本懐さえ判然としない起床直後の惚けを抱えながら、黒死牟は進んでゆく。
 その先に、ひとりの男が立っていた。
 足を止める。目を疑い、そして見開いた。

 ――信じられぬものを見た。

 痣者でありながら、年月の縛りを無視している。
 二十五の夜に死ぬ筈の男が、黒死牟の行く先に佇んでいた。
 これは何だ。幻か。まだ、自分は夢を見ているのか。
 そんな甘えを切り裂くように、闇夜に声が響き渡る。


「お労しや――――兄上」


 あり得ない。
 あり得ぬ。
 あり得てはならぬ、こんなものは。

 その男は、見る影もなく老い果てていた。
 肌は皺に覆われ、頭髪は余さず白く染まっている。
 肉体は既に、命の息吹を失おうとしている。
 誰がどう見ても、ただの老人だ。
 にも関わらず、六つに増やした眼は信じられない事実を告げていた。
 今自分の前に立っているその弟は、兄の記憶している最後の姿から微塵たりとも衰えていなかったのだ。


 殺さねば。
 殺さねば、ならぬ。


 思うと同時に、剣を抜いていた。
 心は、本能は逃げろと喚いている。
 だがここで逃げれば、己のすべてが無駄になる。
 そも、今こうして生きている意味がない。

 大恩ある産屋敷の当主を殺し。
 共に駆けたすべての同胞を裏切り。
 殺すべき鬼の首魁に傅いて血を授かり。
 ヒトの時間を超えてまで技を極め、剣を磨いだ年月がすべて無為になる。


 走り出すと同時に、剣を振るった。
 月の呼吸――日に並ぶ名を持つ、己独自の技。
 天満の繊月を騙る剣で、乗り越えると掲げた男を切り裂かんとする。
 だが。誰よりも黒死牟自身が、この一合の結末を悟っていた。

 自分が渾身の殺意を込めて放った剣は、血鬼術の無体を取り込んだ魔の斬撃は小細工含めてすべて空を切り。
 刹那の後に、断つと決めた片割れのではなく自分の血が飛び散る。
 斬られたと判断した直後に飛び退いた。
 そうしなければ、次の瞬間には頸を断たれて殺されると理解したからだ。
 この化物の剣を頸を"掠める"程度で凌げた事実に一抹の違和感を覚えつつも、黒死牟は下がる。
 そして改めて見据える――自分が真に斬るべき、そう思いながらどこかで二度と会うことはない筈だと信じていた男の姿を。


「縁壱……………………」


 継国縁壱
 始まりの呼吸の剣士。
 自分――、継国巌勝の弟たる化物。

 縁壱は、言葉を紡がなかった。
 そのまま陽炎のように揺らめき、剣を振るった。
 反応できたのは奇跡だ。
 それでも受け止めた腕が破砕して、血飛沫をあげる。

「縁壱…………!」

 憎悪のままに牙を剥き出し、応戦する。
 鬼の肉体に、多少の傷など無意味だ。
 であれば今すべきは、極めた技が届かなかった事実ではなく本懐を遂げるべく剣を振るい続けること。
 自分の存在を誇示するように月を侍らせながら轟く、数多の斬撃。
 そのすべてを切り払いながら迫ってくる神速は、もう悪い冗談の類にしか思えない。

 一瞬の内に、両手の指の数を十倍しても足りない剣戟が振るわれる。
 ただでさえ膨大な数だというのに、そのすべてが一つたりとも抜かりなく最速で迫ってくるから天を仰ぎたい気分になった。
 がむしゃらに迎え撃っている間に右腕が落ちた。
 左足が飛んだ。目が半分潰れて、内臓が半分は消し飛んだ。
 怨敵――縁壱には、未だ傷ひとつついていない。


 足元に広がる、鬼の血で作られた血溜まりに。
 斬り刻まれ、一瞬の内に何百という敗北を喫した自分の姿が映っていた。
 人間の形など、もはやしていない。
 足りなくなった部分を補うために、人間には存在しない部位が生えている。
 蜘蛛の怪物。伝承に語られる牛鬼や土蜘蛛に似ていると、そう感じた。


 侍の姿か?
 これが?


 鬼になって老いを捨て、痣者の寿命を克服して数十年。
 一度たりとも顧みることのなかった自分の姿が、水面という名の鏡には克明に映し出されている。
 肩やら腹やらから剣が生え手足が生え。
 失った臓物を補うように、蛆みたいに蠢いて肉がわなないている。
 目の数は一対ではなく、三対あり。
 残っている方の手も指がなくて剣を握れないから、その代わりを身体中から生やした剣で替えようとしている。

 武家に生まれ、物心ついた頃から剣を握り、侍の何たるかを教え込まれてきた。
 戦に出向いて敵を斬り、敵味方を問わず数多の猛者を目の当たりにしてきた。
 その中に、ただのひとりとしてこんな輩はいなかったと断言できる。

 これは、侍ではないだろう。
 これを例えるなら、そうまさに――


(なんだ…………この、化物は…………?)


 化物と。
 魑魅魍魎、その一席を任された醜悪な怪物と。
 そう形容する以外に、彼は言葉を知らなかった。

(私は……こんなものになるために……)

 二十五の夜に死ぬことが、許せなかった。
 心血を注いで極めてきた技が、理不尽な運命によって遺失することが認められなかった。
 生涯ただの一度として目の前の弟を超えられずに終わる事実から、目を背けたかった。
 だから跪いたのだ。だから、鬼になったのだ。
 だから人を捨てたのだ。だから、黒死牟(わたし)になったのだ。

 その結果が。
 これか。

(こんなものになるために……老いもせず、死にもせず……永らえて、きたのか……?)

 自分の中にあれほど激しく燃え盛っていた戦意の炎が、急速に萎んでいくのを感じる。
 人としては越えられないと悟った。だから絶望した。だがその先にさえ、待ち望む超越はどこにもなかった。
 挙句の果て、そうまでして極めた技も一発たりとて目標を掠められない。
 今になってようやく自覚した無様が、黒死牟に剣を下ろさせた。

 縁壱は、無言のまま剣を翳す。
 目を六つに増やしても見切れないが、即死と分かる剣が自分へ向かってくるのが分かる。
 魔剣などではない。
 あくまでもこれは、人の身体で放つ技だ。
 だからこそ恐ろしい。
 この世の何より、心胆を寒からしめる。

(何故、今に至るまで気付かなかった)

 青空に煌めく太陽に手を伸ばし、届かないことを理解する。
 誰もが子供時分に通り過ぎる道だ。
 それを、何故自分はこうまで堕ちるまで気付けなかったのか。
 少し考えてみれば、分かることだったのではないのか。
 どれだけ手を伸ばして焦がれても、人は太陽には触れられない。
 伸ばしたその手は、空の太陽を掠めることさえありはしない。

 勝てる筈など、超えられる筈などないのだ。
 自分は、何をどうしても単なる人間でしかなかったのだから。
 早々に諦め、身の程を弁え、等身大の幸福を求めることに時間を遣うべきだったのだ。

(こいつは、化物だ)

 宇宙の果て、そこで佇む巫女が示した扉。
 その向こうで、黒死牟が、継国巌勝が見た"世界の真実"。
 それは、ごくごく単純。
 何の奇も衒わず、露悪にも走ることのない、ただ当たり前なだけの現実だった。

(私は…………どれだけの時があろうと、どれほどこの剣を極めようと…………)




 ――継国巌勝は継国縁壱を超えられない。
   人は、化物にはなれない。
   伸ばした手は、太陽には届かない。
   ただそれだけのことが、彼の見る幻夢郷。
   この弥終にて待ち受ける、つまらない絶望のかたちなのだった。













「――けるな」

 ギリッ。
 音が響く。
 いつしか異形ではなくなっていた、一振りの刀の柄を握り締める音だ。

「ふざけるな」

 噛み締めた歯が、砕け散る。
 真実を見据えた視界が、血で赤く染まる。
 自壊した脳が、どろどろに溶けて混ざっていく。


「――――――――――――ふざ、けるな………………………………!!」


 死を告げる、化物の剣を凌いだ。
 地獄の王でさえ、一合で軋む規格外の剣。
 混沌、皇帝、巫女……あらゆる脅威よりもこのちっぽけな老人こそが自分には恐ろしく見える。
 あな恐ろしや。こんな生き物が、人の皮を被って地上を歩いている事実に怖気が走る。
 ああ、これは化物だ。これに人が敵う道理などない。



『――――はい。わたしは、見ています。
 最後におやすみするまで一緒に……セイバーさんのこと……これからも見ています……!』



 だが。それでも。
 だとしても…………!


「私は…………俺は、ァ…………!」


 手も伸ばさずに。
 剣も、振るわずに。



「諦めてなど…………堪るか……………………!!」



 ――届かぬから、仕方ないなどと。
 ――諦めて膝を屈せる道理は、もっとないのだ……!



「神避……………………!」



 月の呼吸などではない。
 どこで学んだのかも分からぬ剣が、散る筈だった命を救う。
 脳裏によぎって消えていく、奇妙な頭の武士は果たしていつの戦で見たものだったか。
 分からない、だが分からぬとも構わぬ考えている時間さえ今は惜しい。

 致命の剣を、神さえ避けると謳う斬撃にて凌ぐ。
 そして踏み込み放つのは、鬼でなければ放てぬ片割れ月だ。
 そう、この身はもはや人に非ず。侍にも非ず。

 だが。
 ならば。

 ならば、何だという…………!



「――縁壱ッ!」



 微かな驚きに眉を揺らした、赤月の下の老人。
 それに剣先を向けて、黒死牟は常の口調も忘れて吠えていた。

「俺は、お前が嫌いだ……! お前は人の心が分からぬ化物だ。そんなお前を、俺はこの世の何より厭悪している……!!」

 敵わぬから、何だという。
 届かぬから、何だという。
 それが、剣を振るわぬ理由になるのか。
 侍らしくないから、歩みを止める理由になるのか。

「だからこそ――!」

 黒死牟の身体を、骨の甲冑が覆っていく。
 知らぬ技だ。だが構わない。
 ますます人を離れた姿になりながら、猛進する姿はまさに怪物そのもの。
 だとしても構わぬと、黒死牟は叫んでいた。
 肉体で。魂で。その存在の全霊で――吠えていた。

「だからこそ、お前を超えたいのだ……! 超えねばならぬのだ、縁壱――!!」

 号哭の鎧装が、一歩走るごとに剥げ落ちていく。
 縁壱の剣が、斬撃の自動防御さえ物ともせずに黒死牟の御技を破っていく。
 相変わらずその老体には傷ひとつ、埃ひとつついていない。

 黒き斬撃を放った。
 紫閃雷獄、鬼の王にさえ膝を突かせた一撃だ。
 それが、どういう道理か刀の一振りで破られる。
 理屈などない。原理すらあるか疑わしい。
 笑えるほどの格の差は、どちらが鬼なのだと問い質したくなるほどだったが。
 それでも黒死牟は、駆け続けた。
 剣を振るい、血と泥にまみれながら、走り続けた。

 狂っている。
 彼岸も、此岸も。

 瞬く月は、狂おしく焦がれる生の象徴。
 迎える日は、決して触れ得ぬ死の象徴。
 遠巻きに眺めるだけならば、眩しさに顔を顰めるだけで済む。
 しかしもし近付こうと願えば、熱光に灼かれて誰も彼も落ちていくしかない。

 幼心に空へ掲げた手は、ついぞ一度も届かなかった。
 鬼の身体という蝋の翼は、とうの昔に溶け落ちた。
 世界の真実は、示された。
 この世のすべてが不可能と断じた絶望は、今も変わらず欠片も揺らがずそこにある。
 それでも。

 ――それでも、脈打つことさえ忘れた心臓が、燃えているのだ。
 ――地獄に落ちても一度として冷めることを知らなかったその熱が、自分を果てなく突き動かして止まないのだ。



 『心が……どこにもいけないままだと…………命も……どこにもいけないから……』

 『どんなに痛くて……ここにいることが苦しくても……わたしは見てるから……。
  あなたのための歌を……こうやって……届けられたらって……今のわたしは……すっごくそう……願うんです……』



 剣魔に堕ち、羅刹と化すほどの狂おしい熱が。
 少女の抱擁を受けて、身を焦がすだけの熱に収まる。
 何を切り捨てるでもなく、されど箍は外れたまま。
 ただ目の前の宿敵/憧憬を超えるためだけに最適化された狂熱が、過去最高の剣才を発揮しながら凶月の夜に咲く。

 太陽の御子と打ち合うことが成立している事実、その驚異を自覚することもなく黒死牟は狂い哭いていた。
 何故超えられない。これでも届かないのか。
 私は、私は――こうまでしても勝てぬのか。

 すべて費やして放つ剣に専心する一方で、黒死牟は既に気付き始めていた。
 違う。夢を見ていたのではなく、こちらこそが夢なのだ。
 異界の大戦。その最後に果たし合うと交わした誓いは、履行されることなく役目を終えてしまったから。
 きっとこれは、置き去りにされた者が空を見上げて見る夢なのだと知る。

(構うものか)

 しかし、関係はない。
 そんなこと、この剣を止める理由にはなりなどしない。

(私は、私は……!)

 たとえ、日と月が交ざったとしても。
 憎しみともすれ違いとも無縁の、らしくもない終わりへ辿り着いたとしても。
 この身この剣は、ただ目の前のこれを超えるためだけに。

『兄上。なぜ、鬼になったのですか』

 問うか。
 問うたな、それを。

 愚問だ。
 いちいち問うな、そんなこと。
 そういう台詞が素面で出てくるところが、忌まわしいと言ったのだ。
 人では届かないから、鬼になった。
 私は、最初から最後、そして今に至るまでずっと――

 ただ、お前だけを見ている。
 それが私の世界の真実。
 この呪われた数百年の、たったひとつの真実なれば。


「――――――、」


 視界が、ぐるりと回った。
 頸を落とされたのだと、追って理解する。
 生首となり地面に落ち、そこでまた届かなかったことを知る。
 つくづく、遠い。こうまでしてもまだ不足なのか。
 剣を変え、技を増やし、虫唾の走るような日だまりに身を窶しても足りないのか。
 失意の中で見上げる弟は、今もってふらつきもせず直立したまま黒死牟を見下ろしている。


 ――その頬に、赤い線が走っていた。


 それはおよそこの男には似合わない、小さな小さな傷。
 常に完璧であり続け、存在するだけでこの世のすべてを圧する男が、不覚を取ったことの証。
 刻まれた線から滴った赤い液体が、顎へ伝って雫に変わって落ちた。
 涙のようだと、黒死牟は場違いにもそう思った。

「兄上」

 継国巌勝は継国縁壱を超えられない。
 人は、化物にはなれない。
 それは今も変わらず不変の真実。
 だが。

「いっそうお強く、なられましたね」

 伸ばした手のその先が、ほんのわずかに太陽を掠めた。

 幻夢郷が、破綻する。
 黒死牟を崩壊させるための真実が、ロジックエラーを引き起こした。
 赤い月が、眩い太陽に変わっていく。
 空は、闇夜から晴れやかないつかの日に。
 老いた弟は、人だった最後の日に見た若く壮健なる姿に。
 暑苦しいほどの熱を感じているのに、しかし身体の崩壊は始まっていない。
 いつしか落ちた筈の頸は、胴体に再び繋がっていた。

「さあ。お戻りください、どうか振り返ることなく」

 待て、と言おうとした。
 だが、言葉が出なかった。
 まるで、今そうしてはならないと。
 振り向いてはならぬと、そう分かっているみたいだった。

「あなたの運命が、あなたを待っている。他の誰でもない、兄上。あなたの助けを」

 すべてを思い出す。
 行かなければならぬ場所、戻らねばならない場所。
 待っている"誰か"の顔が、脳裏にはっきりと蘇ってくる。

 黒死牟は、歩き出していた。
 現実(そこ)へと向かうため、帰るため。
 扉は、当たり前のような顔をしてそこにあった。
 それをくぐって現実に帰還する最後の一瞬。


 ――ぴう、と。そんな、笛の音が聞こえた気がした。



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年03月24日 16:01