「…………は、ぁ…………ッ、ぐ………………!」
腹を捌き、自らの手で臓物をぶち撒けた。
侍がする切腹のような自殺的自傷行為が、
黒死牟を現実へと帰還させる。
「――――うそ。帰ってくるなんて」
邪神の権能を最大限に引き出して見せた、悪夢。
本来のかたちより数段は攻撃的、かつ破滅的な幻夢郷。
英霊であろうと精神死に至り、自己崩壊を引き起こさせる悪夢の檻から、しかしこの鬼は帰還した。
それが信じられなくて、思わず絶句してしまった巫女は代償を支払うことになる。
「が、うっ……!」
起きがけ一発に放った黒死牟の剣が、彼女の首筋を捉えたのだ。
斬首にこそ至らねど、その剣はこれまで放ってきたのと比べて格段に深く、何より鋭い一閃だった。
「は……っ、痛い、痛いわ……。どうして、今になってこんな――」
「貴様が……余計なものを、見せるからだ……」
黒死牟の剣速が、段を飛ばして向上している。
放たれた月の呼吸の奥義に対し、アビゲイルが明らかな焦りを浮かべて反応したのがその証拠だ。
彼女は鍵剣のひと薙ぎで三日月の刃をことごとく打ち砕くが、しかし本筋の斬撃が身体を掠めた瞬間これまでにはなかった苦悶を浮かべる。
「っう……!」
――違う。
今ここにいる彼は、さっきまでの彼じゃない。
赤い月の夜の下、世界の真実たる絶望と果たし合った経験。
果たされずに終わった筈の誓いが、擬似とはいえ果たされた事実。
それはこの界聖杯で彼が培ってきたすべての経験を凌駕する、圧倒的な経験値を黒死牟にもたらしていたのだ。
「図に、乗らないで……!」
苛立ちを滲ませたアビゲイルの声が響く。
それは、ここまで静謐とした神秘性を纏っていた、水銀の空の主とは思えない反応だった。
鍵先で描く印。五芒星が虚空に生まれ、吐き出されるのは異界のモノ達の触手の洪水だ。
「ザイウェソ、うぇかと・けおそ、クスネウェ=ルロム・クセウェラトル……!!」
明確な殺意を込めて放つ、一切の手抜かりを排除した一撃。
その冒涜的な猛威を前にしても、黒死牟は平常心を保っていた。
閻魔を握って構えを取り、呼吸をする。
独特の呼吸音を響かせた後に放つのは、既にここまでで一度見せた技。
「月の呼吸・拾肆ノ型――兇変・天満繊月」
展開される、斬波の波浪。
それが、瞬く間に召喚された触手の軍勢を消し去った。
否、それだけではない。
触手の向こう側で結末を見守っていたアビゲイルの身体に、先ほど当てたのと同じかそれ以上に深い斬痕を無数に刻み込んだ。
「が……! は、ぁっ……!?」
巫女が、膝を折る。
彼女の力であれば、即死以外の傷は傷にもならない。
だというのに、何故こんなにも痛いのか。
命が命としてあることを否定されるような、そんな痛みがアビゲイルの思考をかき乱す。
同時に覚えたのは、かつてない恐怖だった。
鬼の強さに怯えているのではない。
成し遂げなければならない未来、ずっと見えていた筈のそのビジョンに薄雲が立ち込め始めたことを恐れたのだ。
「私、間違ってたわ……」
夢の世界に落として精神死させる。
そんな生ぬるい手段に訴えるべきでは、そもそもなかった。
愛するマスターに食い込んだ呪詛を断ってのけた、鬼の侍。
その存在を、強さを、もっとずっと重く捉えておくべきだった!
この人は、この男は……この鬼は、その剣は。
「最初から、こうしておくべきだった……!」
最初から、自分にできる最大の力で砕いておくべきだったのだ……!
「――アビー!」
声をあげたのは、
紙越空魚だった。
焦燥を覚えていたのは、何もアビゲイルだけではない。
彼女の現マスターであり、同じ未来を共有する空魚も同じだ。
何か、とてつもなくまずい風が吹き始めている。
彼我の消耗を比べれば、有利なのがこちらであるのは明白。
ほぼ不死身に近いアビゲイルと、所詮は現世利益の不死の延長線でしかない黒死牟との間には未だ埋められない差がある。
だからこそ、そんな事実を込みにしてもこんなに嫌な予感がすることそのものが恐ろしいのだ。
恐らく、これ以上長引かせてはならない。
空魚とアビゲイルの思いは同じだった。
「最後の令呪だ! 終わらせろ!!」
「ええ――幕を引くわ、我は禁断の秘鑰、導くものなれば……!」
ラスト一画の令呪が注がれ、アビゲイルが両手を開く。
「イグナ・イグナ・トゥルトゥウクンガ――」
門が、開く。
幻夢郷なんて易しいものでは断じてない。
これは人類とは絶対に相容れない、異質異常な異界へ繋がる門だ。
邪悪の樹(クリフォト)より現世に寄り添う地下茎、巫女が描きあげる最大の災厄。
「我が手に白銀の鍵あり。虚無より顕れ、その指先で触れたもう……!」
黒死牟は、いや、彼以外の全員も同時に確信した。
もしもこれが放たれれば、その瞬間すべてが終わる。
聖杯戦争を終わらせ、地平線の彼方を現出させる力がこの輝きにはある。
理解したからこそ。だからこそ――黒死牟の選択は決まっていた。
「…………幽谷…………」
下がるのではなく、前へ出る。
そうでなければ超えられないと、分かっているからだ。
逃げたところで、もはやこれはどうにもならない。
あの混沌・
ベルゼバブと同じだ。
たとえ東京の端まで逃げたとしても、同じ世界に存在してしまっているという時点で遅かれ早かれ破滅が確約されてしまう。
この手の怪物達は、要するにそういう存在であるのだから。
では。ならば。
その厄災を前に、力なき者はどうすればいい?
その答えを、黒死牟は知っている。
既に――見ている。
「今から私がすることを…………見ていろ…………」
「………………! はい、セイバーさん………………!」
霧子は、考えるでもなく頷いた。
頭を回す必要はなかった。信じているからだ。
そして、約束したからだ。
「見ています……! 私も、みんなも……! だから、だから…………!!」
だから――、
「がんばれ…………! セイバーさん…………!!」
霧子は、そう叫んだ。
それと同時に、残るふたつの令呪を使って"お願い"する。
今、霧子にできるすべて。黒死牟の背中を押せるすべてを使って。
その時は、訪れた。
上弦の壱、剣の鬼黒死牟。
あるいは――継国巌勝。
月の呼吸の剣士は今、修羅場に入る。
◆◆
呼吸を、深くする。
肺の奥から全身の隅まで、細胞のひとつひとつにまで酸素を行き渡らせる。
鬼になっても囚われ続けた"呼吸法"という人間時代の未練を、あえてここで肯定する。
鬼ではなく、神を殺すために。
人ではなく、運命を喰らうために。
剣を構えた――為すべきことは、既にこの頭の中にある。
だが上弦最強の鬼/己を超えた剣士である彼をしても、これから試みるのはあまりに分の悪い賭けと言わざるを得なかった。
「我が父なる神よ……! 我、その真髄を宿す写し身とならん……!!」
少女の額から溢れ出す光が、ただでさえ異界化している界聖杯深層を更なる深淵へと堕させる。
とある男の空想から偶然この世界と繋がってしまった"その領域"には、果てというものが存在しない。
際限のない力の渦動。宇宙の外側という最大の未知に通ずる、虚無の領域。
彼女とは、アビゲイル・ウィリアムズとは――世界を彼岸(そこ)へ繋ぐ、禁断の秘鑰。導き手なのだ。
故に、揺るがない現実として断言する。
この宝具が解放され、黒死牟が溢れ出す"それ"を完全な破壊と化す前に斬れなかったなら、その瞬間に聖杯戦争の勝者が確定する。
生きとし生けるものすべてが、薔薇の眠りを超えた窮極の彼方に放逐され。
邪神の巫女と、片割れを失ったなり損ないの鵺が、願いを叶える。
方舟の夢は終わり、繋いできたすべてが烏有に帰す。
にも関わらず、黒死牟はやはり平静だった。
猗窩座と雌雄を決した時のような高揚は、ない。
弟と共にベルゼバブを屠った時のように、失意を抱いてもいない。
神域の中にあるような静謐を飼い慣らし、彼は目の前で展開される冒涜の神秘を見るのも忘れて脳内に焼き付いた"それ"の回想に専心していた。
夢の中とはいえ、悠久の時を超えて弟と果たし合って再実感したことがある。
継国縁壱は、間違いなく怪物である。
この界聖杯には、ともすれば彼を上回るような存在もわずかながらいた。
ベルゼバブ。
カイドウ。奴らと剣を交わし、打ちのめされてきた黒死牟だが、しかしそれでも断言できることがひとつ。
肉体の強さや根本的な種の違いに依らないのなら、やはり最強の生物は縁壱だ。
そしてそんな彼が振るう剣は、どれひとつ取っても他人に真似できるものではない。
ましてやそれが――彼をして秘奥義と認識する鬼札であるのなら、なおさらのことだ。
(やれるか?)
問いかける――他の誰でもない、自分自身に。
(斬れるか?)
魂の奥に痘痕のようにこびり付いた、その光景。
あらゆる剣士の心を砕くだろう、その奥義。
(勝てるか?)
六つの目で見てなお、完全に理解できたとはとても言えないまさに"究極"。
黒死牟が今、挑もうとしているのはひとえにそれだった。
門外漢。畑違い。百も承知だ、しかし彼に描ける勝利のビジョンはそれを除いて他にはなかった。
(愚問――)
やれなければ、死ぬ。
斬れなければ、死ぬ。
――勝てなければ、死ぬ。それだけだ。だからやるしかない。その無体な状況が、黒死牟の身体を軽くする。
「薔薇の眠りを越え、いざ窮極の門へと至らん…………!!」
残されている猶予は、あとワンフレーズ。
運命の時を前にして、遂に黒死牟が追憶を断ち切る。
令呪二画のサポートを受けたその身体は、これ以上ない最高の状態。
これでできなければ、所詮自分はその程度の剣士だったのだと諦めもつこう。
故に無様は晒さぬと決めた。
腐っても武家に生まれ、剣を志した者。
恥知らずにも侍を標榜し続け、屍山血河を築いてきた者。
神ごとき斬れずして、どうしてこの剣があの日に届くという……!
訪れんとする、運命の時。
アビゲイルの口が、動かんとした。
真名解放。邪神の巫女、その全霊が解放される前の最後の一瞬。
そこで――
「シャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
すべての静謐を断ち切って台無しにする、無粋そのものの声が響いた。
ついでに、おなじみのあの音も。
下品で粗暴でむちゃくちゃな、この"ヒーロー"がやってくる合図も。
ぶうん、と。高らかに、鳴り響いていたのだった。
◆◆
「あの娘は、私が斬る」
「故にお前は、適度なところで死んでおけ」
「頃合いは任せる。無粋とは、もはや言わぬ」
◆◆
デンジの、二代目チェンソーマンの十八番。
その不死性を活かした、しぶとさに物を言わせた奇襲攻撃。
特にこの聖杯戦争では幾度となく、それで敵の鼻を明かしてきた彼。
それがここでも出た。彼はアビゲイルに殺されたも同然だったが、それも黒死牟との打ち合わせ通りの展開だった。
斬撃で巫女の血を飛沫させ、倒れたデンジに届かせる。
スターターロープを引く役目は、血鬼術の副産物でばら撒かれる三日月に任せる。
結果、彼は月の呼吸が巻き起こす斬撃の轟音に紛れてひそかに蘇生。
その上で、機を伺っていた。
アビゲイルが最も突かれたくない一瞬、それを突くために潜伏していたのだ。
「人の身体練り消しみてえにブチブチちぎってくれやがってよぉ! 死ねやア糞ガキィ~~~~!!」
小物そのものの罵詈雑言を吐きながら、背後から襲いかかったデンジ。
上手く行けば黒死牟の"賭け"の成否に関わらず、戦いを決める要因にもなるだろう。
そう思われた。だが、アビゲイルはデンジの咆哮を聞いても驚くどころか振り向きすらしない。
「お芝居が下手ね。おままごとをしてくれるお友達はいなかったのかしら」
「ッガ……!?」
振り向きもせずに、空中から出現させた数多の光で彼を槍衾に変えた。
攻撃を当てることも敵わず、べちゃりと地面に落ちるデンジ。
……アビゲイルは、彼が不死身の悪魔憑きであることを知っていた。
要するに、最初から彼女は油断などしていなかったのだ。
デンジの存在を、意識から一瞬だって外していなかった。
いつ復活してきても対応できるように、その存在を考慮に入れて戦っていたのである。
「私、今とても忙しいの。後で遊んであげるから、そこでしばらくお昼寝していなさい」
宝具の解放は、止められなかった。
奇襲は失敗に終わり、アビゲイルに傷のひとつも与えられずじまい。
少年の渾身は実を結ばず、結果、稼げた時間はものの一秒半といったところ。
――アビゲイルの額が、輝きを増して。
――そして今こそ遂に、彼方へ通じる"門"が開いた。
「光殻湛えし(クリフォー)――――――――虚樹(ライゾォム)……………………!!!!」
よって終わりは、来る。
門の向こうから現れた、これまでのとは比にならない量と質と密度の異界概念。
それが黒死牟、ひいてはその背後で守られている少女達まですべてを呑み込まんと溢れ出した。
吉良吉影を裁き、
蘆屋道満を打ちのめした時の威力とは、もはや比べるべくもない最大火力。
もはやそれは、主神級神霊の真体(アリスィア)が放つ宝具攻撃にも匹敵している。
それに対して、ひとり立つのは黒死牟。
許される行動(アクション)は、一度きり。
されど放たねばならぬ斬撃の数は、無駄に長生きをした脳でも演算しきれない量。
「さあ、さあ……! 私達の"願い"の供物と消えなさい、あまねくすべての器達――!!」
いや。
その前に、仮に"できた"としてこれを斬り切れるのか。
そんな現実的問題さえ、ここに来て追加で影を落とし始める。
あまりに巨大な絶望が、深淵から来る大洪水となって立ちはだかる。
一面の黒。一面の闇。宇宙の、漆黒。
地上を塗り潰さんと迸る、その"破壊"に――
「…………!?」
――否を唱えるように。
白く、白い、世界を染め上げるように白い。
"崩壊"の龍が、地鳴りのような轟音を響かせながら喰らいついた。
◆◆
「そうだよね」
「あんなことされたらさ、むかついちゃうよね」
「だってそれは、あなたのものじゃない」
「世界をこわす夢を最初に見たのは、あなたじゃないよ。アビーちゃん」
「――ねえ」
「やっつけちゃおっか――――――――とむらくん」
◆◆
今やもうこの地平線上のどこにも存在しない、ソルソルの実の能力。
魂を操り、従わせる、支配者の力。
末代である
死柄木弔が最後に造った、
神戸しおへの置き土産。
それは、ビッグ・マムのゼウスやプロメテウスのようにしゃべりはしない。
敵連合の偶像(アイドル)や現人神(ゾクガミ)のように暴れ散らかさない。
ただ、そこには"力"が込められていた。
死にゆく死柄木の身体に残っていた、龍脈の力。
こぼれゆくそれを拾い上げて編み上げた、魔王の衣。
その使い方を教わっていたわけではない。
しおがしたのは、ただ語りかけただけだ。
そしてその声に、魂とすら呼べない、単なる力の塊が応えた。
紙越空魚がその目で垣間見た、白き龍。
かつて龍脈の龍と呼ばれたそれが、漂白でもされたように白く染まった未知の個体。
大仰な魔術や加護ではなく、ただすべてを滅ぼし壊すことにだけ特化した白龍が。
学友の声に応えて姿を現し、今まさにお株を奪おうとしていた邪神の力に喰らいついたのだ。
「くそ……!」
痛恨を悟った空魚が、マカロフをしおへと向ける。
これ以上の横槍は許さない。
大局に影響が出る前に、持ち主を殺してしまわなければ。
そう思って引き金に指をかけた空魚の身体に、真横から猪口才な質量が衝突した。
「させるか、ってんですよ……!」
「っ――!? お前っ……邪魔すんな、このクソガキ!!」
七草にちかだ。
戦いに関与する力も手段も持たない彼女が、凶弾を放とうとした空魚に不意打ちを決めた。
空魚は既に、地獄への回数券を服用している。
超人と化した空魚は、不意打ちだったとはいえ少女の体当たり程度で押し倒されたりはしない。
だがその手から、マカロフをこぼれ落ちさせることには成功した。
地面を転がって遠のく銃。まとわり付いてくるにちかを突き飛ばせば彼女の身体は軽々と吹き飛び、木の枝を踏み砕くような嫌な音が鳴った。
「いっっっ……たぁ……。でも……」
どうやら右腕が、完全にいかれてしまったらしい。
地獄みたいな激痛に涙を浮かべるにちかだが、その顔はしかし笑っていた。
「方舟(アイドル)舐めんなっての……っ。私だって、私達だって……この、クソみたいな世界で生き抜いてきたんですよ……!!」
今すぐにでも蹴り殺してやりたい衝動に駆られる。
しかし、こんな端役にかかずらっている暇などない。
マカロフを拾うか。いや、間に合わない。
となれば――もう、できることは。
「…………、アビー!!」
声をあげることくらい、だった。
信じてきたもの、共有したもの、そして取り戻したいもの――
同じ志を持っているからこそ、同じ"大切"を知っているからこそその叫びは単なる応援以上の意味を持つ。
「――終わらせろ!!! 鳥子に会うぞ、アビー!!!!」
響く声は、確かに巫女のもとへと届き――
「ええ、ええ……! そうよ、私達は願いを叶える……!!」
邪神の力が、少しずつ崩壊の残響を砕いていく。
死柄木弔の"個性"に龍脈の力を重ね合わせたそれは、確かに宝具にも匹敵する威力を秘めた脅威だったが、しかし所詮は残滓でしかない。
打ち破るのはおろか、拮抗することすら叶いはしない。
総体を崩すにはてんで及ばず、せいぜいが一割二割の威力減衰を可能にしたくらいのこと。
大局に影響はない。神の力は、無限に通ずる地下茎の氾濫は止まらないし止めさせない。
やがて崩壊の龍が、完全にその形を失って霧散した。
デンジの奇襲が一秒半の時間を稼いだ。
死柄木の残滓が、二割弱の威力を削いだ。
されど結局のところ、この戦いの本質は何も変わっていない。
「………………、………………」
黒死牟が勝たなければ、意味はないのだ。
彼が敗北すれば、それですべてが終わる。
それを誰より強く理解しているのは、他の誰でもない彼自身。
足を、一歩前へと踏み出す。
初めて、構え以上の動作を起こした。
追憶は済んだ。反芻も完了した。
今もって、とてもではないができるとは思えない。
しかしそれでも、彼は挑む。
彼は、向かう。
鬼殺ならぬ神殺を、成し遂げるために。
足を前へと踏み出し、構えた刀を虚空へ滑らせた。
(縁壱。私は)
恐ろしげな概念など、彼には何ひとつ味方していない。
道理をねじ曲げる超常現象など、英霊としての力を除けば一切彼に微笑まない。
彼は、凡人だからだ。
かの神才と比べるべくもない、たかだか無双程度の剣士でしかないからだ。
似ているのは状況だけで、後は何もかもが違う。
届くはずがないと、理性はそう言っている。
けれど。それでも。
時にこの世には届かぬと分かっていても手を伸ばさずにいられないものがあることを、彼はよく知っていた。
(まだ、お前に追い付けるだろうか)
日と月が、真の意味で並び立つ時は来るのだろうか。
生涯を終え、地獄に落ち、今や影法師としての役目しか持たないこの魂でも。
今から、その未来を見ることは可能なのだろうか。
答えはない。
あるはずも、ない。
縁壱は死んだ。
だが――
(教えてくれ。…………いや、教えずともよい)
答えなど、もはや要らない。
分かったところで、どうせ挑まずにはいられないのだ。
無理なものは無理なのだと諦めればよかったことを、折り合いも付けられずに延々続けて地獄に落ちた半端者。
半端も半端で、穿けば何かには到れるかもしれない。
だから、答えは不要だった。
黒死牟には、もう、何もいらない。
(お前"も"――――そこで、私を見ていろ)
必要なものは、すべてこの手に揃っている。
鬼が駆ける。
剣士が駆ける。
侍が、駆ける。
勝てぬと分かってひた走る。
届かぬと分かってひた走る。
勝つのだと、届かすのだと無茶を言う。
受け継いだ刃が、閃いた。
最初の閃きは、静かに。
号砲。自分を叱咤するように、響かせて。
そして――
日の呼吸、拾参ノ型――――――――――――――――、あるいは。
「――――――――――――――――月の呼吸、終ノ型」
祝詞はない。
次元は屈折せぬ/刀は増えぬ。
事象は飽和せぬ/太刀筋は重ならぬ。
直死は発現せぬ/死は起きぬ。
だが。
それでも。
どれほど、不格好でもその剣は確かに――――満月という、円環を成していた。
◆◆
――信じられないものを、見た。
開かれた門から溢れ出した"無限"が、現出していた分すべて斬殺されて消滅した。
さりとて、無限とは尽きぬからこそ無限なのだ。
斬られた分はまた取り出せばいい。
しかし、無限が這い寄るための窓が、門が壊れてしまえばその氾濫も打ち止めを迎える。
黒死牟の剣は、地上に瞬いた満月は。
無限の魔を供給する、窮極の門そのものを断っていた。
宝具解放の強制中断。
力のすべてを斬り伏せられたアビゲイルは、もはや丸裸も同然だった。
鍵剣を伸ばす暇さえ、神との繋がりを断たれた彼女には与えられない。
無限の片鱗を相手に一切鏖殺を達成した英霊剣豪の終ノ剣、その閃きを見つめることしかできない。
「マスター……」
彼女にとっての、ふたりのマスター。
付き合った時間は違えど、どちらも大切な人。
聖杯で報いたいと、罪を禊ぎたいと思って戦ってきた。
恐れていた神の力に身を浸し、変わり果ててまでここまできた。
それでも。
今、"死"はアビゲイルの眼前でその口を開けていて。
「ごめんなさい……」
少女は刹那の後に、百つに引き裂かれた。
斬り裂かれた肉片は、黄金の粒子に変わって空へ還っていく。
鳥が舞い、魚を見下ろすあの空に。
溶けるように、消えて――
流転が止まり、月が消えた時。
そこにはもう、何もいなかった。
【フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order 消滅】
◆◆
すべてが終わった時、立っているのは黒死牟だけだった。
にちかは身を丸めるようにして、気絶している。
しおも同じようなものだ。失神している。
アビゲイルは消えた。そのマスターも、気付けば姿がない。剣戟に巻き込めた筈はないが、一足先に離脱に成功したか。
デンジはと言えばこちらもまだ復活しておらず、今ならば容易く首を取れるだろう。
だが、首を取ろうにも剣を振るう腕がない。
黒死牟の両腕は、肘の付近から消し飛んでいた。
取り柄の再生も、とうに働いてなどいない。
腕だけでなく全身の端から端まで亀裂のように霊基ごと壊れていて、気を抜けば斃れてしまいそうだ。
「やはり……お前は、化物だ……縁壱……」
呟いた声は、謗るような文字面とは裏腹にどこか清々しいものをさえ含んでいた。
呆れたように、六つの目で消し飛んだ両腕の断面を見つめる。
傷口から突き出た骨の表面が、黒く焦げている。
一体どれほどの速度で腕を動かせば、たかだか剣を振るっただけでこうなるというのか。
「こんなもの……常世の誰が、その身ひとつで放てるという…………」
――黒死牟が放ち、アビゲイルをその宝具もろともに消し去った剣。
それは言わずもがな、継国縁壱の秘奥・日の呼吸拾参ノ型の劣化模倣品であった。
ベルゼバブの命運を事実上断ち切った一瞬。
無駄に増やした目が、こと奴に対しては初めて用を為したと言っていい。
極限まで鍛え抜き研ぎ澄ました視力が三対あって、それで初めて形だけでも真似られた。
その上で霧子の令呪による肉体強化を重ねがけし、足りない力を補強した。
見取れなかった部分は自分の"月の呼吸"の奥義を織り交ぜ、かさ増しをした。
それでも、まだ足りなかった。
神戸しおのライダーが時間を稼ぎ。
崩壊の魔王の残滓で、威力を最大限削り落とし。
そうまでしてようやく放てた、つぎはぎの円環。
月の呼吸――その終(つい)なる、日輪に並ぶための斬撃。
神殺こそ成し遂げたが、代償はこの有様だ。
地に突き立った閻魔を引き抜くこともできず、霊核もほぼほぼ崩壊している。
戦うどころか、一歩歩いただけでも黒死牟の身体は塵になって崩れ去るだろう。
それに現時点でも既に、肉体の末端部からは黄金の粒子が立ち昇り始めていた。
「つくづく………半端なことだ、何たる無様よ…………」
果し合いは夢の中でしか、叶えられず。
弟を超すことも、能わず。
神殺為せど、秘剣と呼ぶにはあまりに不格好。
挙句の果てには、己で口にした誓いさえ全うできない始末。
失笑が口をついて出た。
けれど、その時。
黒死牟は――、――それを見た。
「…………そんなこと、ないよ…………」
立っている人間がひとり、いた。
よろよろと、自分とは別な意味で今にも崩れそうな足取りで。
今際の鬼に、寄ってくる、娘がいたのだ。
「わたしは、見てたから…………」
「お前、は――」
「…………セイバーさんのこと、ちゃんと……」
少女は、へにゃりと笑った。
「ちゃんと………約束通り、見てましたから…………」
……空は、いつしか元の青を取り戻していた。
水銀の雲は晴れ、青空からは陽光が差す。
鬼の生きられぬ筈の世界で、鬼は、太陽と相対していた。
◆◆
フォーリナー、アビゲイル・ウィリアムズの脱落。
そしてセイバー、黒死牟はもはや数分と保たずこの世界を退去する。
この瞬間をもって、界聖杯をめぐる戦争の勝者は事実上、決定された。
「はー、ここまで長かったですね」
「紆余曲折、前途多難。一時はどうなることかと思いましたけど」
「まあ、皆さんの頑張りのおかげだったってことで」
「それじゃ、最後の仕事をしましょうか」
結末は決まった。
最後に残る願いも、決まった。
地上はじきに、洪水によって洗い流され役目を終えるだろう。
それがこの物語の行く末で、エンドロールだ。
そういう風に決まっているから、そういう風になるのだ。
だが。
「――なんて。いくら似姿でも、私(にちか)に無視されたら傷付いちゃいます?」
「ねえ、不穏分子さん。それとも、こう呼んだほうがいいですか?」
「ライダー。星辰界奏者(スフィアブリンガー)、さん?」
――反論は、させてもらう。
最終更新:2024年03月24日 16:00