皇籍令(こうせきれい)は、1770年に公布された
勅令。
概要
皇籍令は、国内経済の低迷に対して、莫大な出費と考えていた
宮家への出費を大きく削減するため、発令された
勅令である。1770年に公布され、1780年までに整理がなされた。
勅令の背景
1750年代から継続して続いていた凶作や自然災害、大火などの影響で国内経済が低迷。諸藩からの徴税が滞りを見せ、
朝廷の資金事情も切迫の色を見せていた。そのような中で、
判技介(大蔵
少輔)は、宮家の維持運営に係る経費削減を主張。当時、国内には126の
宮家が存在し、そのほとんどの宮家には
徴税特権が与えられていた。宮家にかかる特例の廃止によって、国内経済の復調を考えた
大蔵寮であったが、当然宮家出身の官僚らから大きな反発を受けて頓挫。見せしめのような形で、
判家は、所領の
近江長浜藩4万石から
土佐安芸藩4万石へ鞍替え。
判技介も「大蔵
大丞」に降格する。この一件から、皇籍問題は大きなタブーとして触れてはならないものとなっていた。
契機
1765年、54万石の
熊本藩藩主・
肥後国国主の
長谷場頼敏が歴史上初めて、宮家出身以外の
大蔵卿として上京。長谷場は、京都洛外にあった熊本藩上屋敷を洛中に移すため、宮家である
大島宮家、
鷹塚宮家の上屋敷を買い上げた。強引な手法であったが、長谷場は、「
大蔵改革」を訴えて、各藩独自の通貨体系を全国画一に統一して両替可能とするなど積極的な財政構造の転換を図った。
実施
長谷場頼敏は、旧来から宮家嫌いとされていた性格もあり、
宮家の存廃問題を積極的に発言。3宮家の筆頭である
藤井寺宮信人(
内大臣)に力を借り、
近衛府として自主財政を確保できる宮家で、男系の宮家のみを存続させる
宣下を発布。最終的に皇統に連なる「八宮家」が存続を許された。
宮家存続の条件
皇統嫡出条項 |
天皇の嫡出男子であり、その系統が明確なこと |
祭祀継承の保持 |
歴代宮家の廟を祀る能力を持つこと |
一定の所領及び収入 |
所領1万石を持つこと、年額1500両以上の家産収入を持つこと |
位階の制限 |
宮家存続に相応の正二位以上の位階を持つこと |
朝廷への実績 |
朝廷に対して、官職をもって奉仕した記録を持つこと |
諸藩の友好関係 |
藩同士の婚姻関係、支援関係があること |
不名誉の不在 |
歴代に不名誉記録(不祥事・弾劾・配流)の記録がないこと |
男系継承者の存在 |
男系の継承可能な親王・王あ存在すること |
神官・学官へ従事 |
神祇寮もしくは大学寮への出仕が1人以上いること |
最終更新:2025年09月02日 22:55