財閥(ざいばつ)は、日本における企業集団の一つである。
概説
財閥機構とは、1800年代から多分野産業に進出した日本独自の企業集団である。特に、政府との親密な関係性をもって対政府取引等により莫大な利益を得ることになる。
内閣審議会の発足以降、1860年から続く内戦で財閥機構が二分化。政府に近かった財閥が特に利益を上げるようになったため、「財閥=政商」としての地位が確立。日本国内では、財閥のような企業集団が乱立していたが、国内で清祥の地位にあった6つの企業集団を特に「財閥」と呼称する例が多い。そのほかの企業集団は、「准財閥」や「民族系企業体」と呼ぶことが多い。
六大財閥
日本で特に巨大な規模を誇っていた6つの財閥を指す。
林財閥
1500年代から西日本一円に大きな力を誇る「
林家一門」を中核とする財閥機構。政商としての地位を確立、政府の金庫番、政府の貿易方として莫大な利潤を蓄えた。政府対立の時代に、両陣営に莫大な資金を提供しどちらにも関与しない体制を整えた。
明治以降、国際貿易産業の開発と全国の地方開発を中心とした資金供与を行った。
林商会を中心とする貿易関連事業、
林計画を中心とする地方開発整備を行った。1950年代以降、財閥としての機能を持つ総合商社として
林建材パートナーズを発足させる。今日の日本においても巨大資本を運用する企業体である。
水戸藩の上級
士族である
桜田金五郎を開祖とする財閥機構。米相場や小豆相場で財を成し、
桜田米市場で大きく躍進。政府の覚えめでたき
政商として君臨。1880年代以降、東日本の国土整備事業に絡んで利権を得ると、鉄道事業や電気通信事業に投資。
第1次世界大戦、
第2次世界大戦では、太平洋諸島の国々に対する貿易仲介業務で戦費を納入。戦中に軍需製品を卸した
青島飛行機株式会社や
鹿児島電機製作所株式会社と資本体制を構築して資源輸出入事業を拡大。戦後、敗戦国として先行きの見えない時代に、資源の輸出入事業を行うために
サクラ商事を設立。資源の輸出入事業を中核として幅広い事業展開を行う。今日においては、日本の重工業に大きな影響を及ぼす商社グループへと成長した。
国内漢方事業を中心に事業体系を整備。1810年代、西洋から輸入された医薬品事業や全身麻酔技術などを日本国内に流通させたことで莫大な利潤を獲得。
白瀬漢方と呼ばれる、国内最大の漢方販売集団を形成。1850年代の内乱の時代には、全国各地に漢方とともに医師を派遣。日本の医療産業発展に貢献。1890年代に設立された官立医療機関の
大阪国立病院・
広島国立病院には、人員や医薬品ともにすべてを出資。1900年以降、東京本社屋を非常に早い段階で建設。本社屋を含めた
新橋の開発に尽力し、「新橋白瀬通」や「新橋白瀬村」の異名をとることになる。1911年には、日本初の駅ビルとも呼ばれる「
新橋駅上百貨店」を開業して
新橋駅周辺の開発を進めた。
日露戦争・
第1次世界大戦・
第2次世界大戦を通じて民間医薬品会社として官民問わず最大の供給先として機能。当時の販売網は、日本国内だけでなく国外にもおよび、1918年には世界で最も流通された医薬品となる「
HD508」を開発。1950年、事業の中核だった「
白瀬漢方」を
白瀬薬品株式会社へ名称変更。医薬品事業と分離してその他事業を
白瀬商事株式会社へ再編した。白瀬薬品は、関連子会社を持ち株方式に再編して、持ち株会社の
メディパルHDを設立。二大事業の拡大を進める。現在に至るまで、日本国内はおろかアジアにおいても最大の医薬品会社である。
1834年、
天川貴登吉と
宮園寿人の2名によって創業されたのが
天宮商会である。当初は、日本国内で生産された穀物の輸出入代理店として政府から認可を受け、大陸との貿易基軸を担っていた。1900年代になると、
日露戦争で
海軍指定の認可を受けたため貿易業務を一手に手取扱、国際貨物のほぼすべてに影響力を及ぼした。
第1次世界大戦以降、
シベリア保護領での不動産土地開発を手掛けたため政府経由での莫大な利潤を生み上げる。しかしながら、
第2次世界大戦以降、
ソヴィエト国軍からの侵攻に対抗するため、開発を手掛けた多くの鉱山都市を自爆処理することになった。戦後、不動産開発を手掛けた多くの職人が独立する中、自社に残った職人を中心として
天宮不動産リアリティを設立。日本最大の不動産ディベロッパーを形成していくことになる。また、輸入貿易事業を担うための総合商社として
天宮総研を設立。1980年、
日本総和と合併して
日総総研株式会社として新たなスタートを切る。戦後日本の不動産開発や貿易事業の中核的な役割を担う。六大財閥の中でも、唯一金融や銀行事業に手を出さないことからも知られるように、堅実経営と同時に金融一家の形成を拒んでいる。
1850年代、近江商人の連合体として発足した財閥機構。当初、街道沿いの開発業務のため、不動産開発や金融事業に参画。明治期以降に重工業化の波に乗って、機械産業を祖業として勃興。日本の機械産業の黎明期において、国内シェアの8割近くを形成した。黎明期は、
近江不動産商会や
共栄銀行を中核とした事業経営で堅実なスタイルであった。1926年に、企業理念として、近江商人の精神に即した「三方よし」の精神を掲げた。ほかの財閥と大きく異なるのは、上からの押さえつけではなく、企業間の強固なつながりによって企業体を形成した。1950年以降、関連企業の持ち株組織として
近江グループ持ち株会、後の
近江財団・世話人会を発足。事業経営の中核的な司令塔を作り上げた。複合事業の中核として
近江貿易、祖業である機械産業を
日本電業、金融事業を
共栄銀行にそれぞれ分社独立。完全子会社や関連子会社を含めると国内最大規模の企業集団である。
1800年代中頃、
生田マサと
島原了平ら夫妻によって設立されたのが、国内内航船事業などを中心に事業規模を拡大してきた生田財閥である。1880年代には、国内最大の輸出産業である繊維事業に進出して莫大な利益を生み、輸出シェア7割に及ぶ巨大繊維事業者に成長。その莫大な利益を
北海道開発事業に投資したことで政府に対しても意見を言う「政商」としての地位が確立。他財閥よりも洗練された「血統主義」を敷き、戦後も「
生田殖産」を中核とするグループ企業を形成。内航船旅客取扱量、内航船貨物取扱量、内航船便数においていずれも日本のトップを戦後80年間譲らない。
准財閥
戦前において、「六大財閥」のように巨大な企業体ではなく中小規模において成立していた企業集団を「准財閥」と呼称する。また、これらの企業体は、「民族系企業体」と単に呼称されることもある。
最終更新:2025年04月26日 15:32