日本海運社

日本海運社(にほんかいうんしゃ)は、日本の海運会社生田海運帝国商船と並んで、日本の3大海運会社を形成する。

来歴

起源

日本海運社の起源は、1600年代にまでさかのぼる。薩摩藩は、朝廷からの特別の庇護を受けて、琉球王国との貿易特権を有していた。しかしながら、貿易特権の代償として、5倍の課税金が重くのしかかり、藩の有益は上振れないのが現状であった。この最中、静原善十朗(従六位下薩摩国代官・薩摩藩知覧城城代家老)の発案で、藩と市中の商工業者が共同運営する半官半民方式の「薩摩商会」が発足。この商会が起源となり、以降海運業を中心に勢力を伸ばしていくことになる。善十朗は、同商会参与を兼ねて赤字の削減に成功。市中への貿易品流通などにも成功して、薩摩経済と呼ばれるものの基礎を築き上げた。

延岡支店の設立と規模拡大

薩摩藩主の島津家は、縁戚関係にある延岡島津家の縁で1671年に延岡支店を開業。同支店の総取締(支店長級)として、薩摩藩母子惨殺事件の責任を取り失脚していた善十朗が延岡藩に移る。善十朗は、大阪の商人町たる堺に藩命で留学していた子息2名を延岡藩に呼びつけ、それぞれに事業を任せ手伝わせることとした。兄の静原豊三郎には海運、弟の静原湯之助には造築をそれぞれ担わせた。しかし、延岡支店は、閑古鳥の鳴く事業所で、1732年に豊三郎が父の死没に伴って事業を継承して以降、延岡藩主の島津信忠公と碁に興じる日々であった。このころ、本国薩摩は、琉球貿易の最盛期で、本国の余剰資金で延岡藩の海運事業を支えているというのが実情となっていた。1750年代、突如として調停は全国の外様藩に徴税拡大を命令。これに呼応する形で、延岡支店は延岡藩の交易交渉を一手に担う。佐伯藩臼杵藩豊後森藩豊後府内藩中津藩宇和島藩への航路を広げ、商圏を拡大。同時期には、造築に力を入れ、豊後国日向国を中心に沿岸部の港湾建設を担う。1760年に、本国薩摩の許しを得て、延岡支店内部に海運部と造築部を設置。1780年代になると、本格的に瀬戸内海航路へ進出して瀬戸内交易の中心的存在になる。特に本州と九州を結ぶ大動脈をほぼ独占に近い形で手に入れることになった。急速に規模を拡大し始めた1780年代に、支店ナンバー2の延岡支店取締役として岡部小次郎延岡藩から招聘。小次郎は、従七位下日向国代官・延岡藩家老・勘定方首座の岡部新左エ門を父に持つ藩の重鎮であった。小次郎は、造築部の運営に重点を置き、藩の港湾整備への投資を増やすなど精力的に活動。
最終更新:2025年08月21日 22:18