読むことの効用

 「本など読んで何になるのか、いわんや論文なんて!」「英語でなんか読んでも、催眠かけるのは日本人だし、使えないじゃないか!」といったよくある反応にはいくつか答えようがありますが、実のところあまり行われていません。多くの場合、「本読み族」と「本読まず族」の部族間抗争のようになってしまって、相手に対する無理解がますます露見するだけ、お決まりの感情的なやり取りの後に残るのは、砂をかんだような思いと徒労感です。「もう二度と、人に本を薦めるなんてするもんか。そうとも。大きなお世話だよ。あいつらは永遠に本など読まずに死んでいけばいいさ」という気持ちになるのかもしれません。あるいは「本、本、本、本! ご大層に、本がどれほどのものだって言うんだ?本に書いてあることなんか、つまらない誰もが知っていることか、それでもページが足りないなら、本人の自慢話や確認も取れてない憶測で膨らませているだけさ。本に、本当に価値があることなど書いてあるはずがあるもんか。おれはセミナーに何十万もの金を払ってるんだ。数千円の本に書いてあることなんて、くだらないことに決まってる」。

 もちろん「本にはすべてが書いてある」というのは、「本には何も書いてない」というのと同様に言いすぎです。

 本を読むことの効用のひとつは、時間の節約です。長い時間をかけていろんな人たちが発見してきたものを、手っ取り早く知ることができます。すべてを自分で一から発見していたら、軽く人生が何百個も必要になるような数の「発見」を、すでに自分よりすぐれた、たくさんの人たちが発見しているかどうか、そして発見しているならその内容までも、一気に知ることができます。それらを踏まえて、自分はまだ誰もやってないこと、誰もちゃんと知らないことに、集中することもできるわけです。

さらに、まっとうな本ならば、より詳しい情報はどこにあるか、についても明記しています。一冊の本は、それ自体で成立している訳ではなく、いわば本のネットワークに属しています。既存の本を参考にしたり、部分的に引用したり、あるいは暗黙のうちに影響を受けていたり、また逆に、これから生まれてくる本に参考にされたり引用されたり影響を与えたりするかもしれません。一冊の本は、そうした本のネットワークのアクセス・ポイントのひとつです。一冊の本を通して、古代から蓄積してきた膨大な書物のネットワークにアクセスできるわけです。

 本を読まないことの弱みは、上記のことの裏返しです。本を読まない人は、その人ひとりの試行錯誤を含む経験に頼るほかありません。もちろん他の人からフェイス・トゥ・フェイスで直に教えを受けたりすることもできるかもしれません。確かに百数十年前には、あるいは地域や分野によっては今でも、それだけが知識と経験の伝達方法でした。身体性の強い分野、たとえば武術や臨床の世界では、今も欠くべからぬ方法です。しかし、医術(医学)を考えればわかるように、今日では臨床の分野でも、何も読まずに、いやかなり多くの文献を読むことなしには、臨床家になることは不可能です(臨床家であり続けるためにも、読み続けなければなりません)。読むだけでは臨床家になれないのも事実ですが、読むこと抜きではなれないのも事実です。それは現在の臨床家の術が、多くの先人・同世代人によって見出され培われた知見の上に成り立っているということです。

 もっと具体的な話をすると、催眠家たちがあれこれ自説を述べたり議論したりして決着がつかない多くのことが、たとえばそれまでの主だった催眠研究をまとめたヒルガードの『催眠感受性』や、もっと新しいワイツェンホファーの“The Practice of Hypnotism”などにすでに(とっくの昔に)書かれています。先人の知見を度外視すれば、先人がはるか昔に通り過ぎた地点を、雪山に遭難する人々のように、いつまでもぐるぐると同じところを回るはめに陥るかもしれません。


最終更新:2009年07月14日 21:00