第16話「闇へと踏み出す一歩《ダークサイドビギニング》」
11月3日 午前8時ごろ
学園都市の第八学区。多くの教職員が住居を構える区域。古い街並みと新しいビルが混在し、今まさに街の区画整理の真っ最中といった感じだ。
古い街並みの中にある欧風の2階建ての住居。2階建てのアパートぐらいの大きさを誇るこの屋敷は
組濱衿栖の住居であり、彼女と彼女のお気に入りの美少年・美少女たち召使いが生活している。
そこの広間で衿栖と昨晩彼女によって仮釈放された
桐野律子が向かい合って座る。2人は朝食を摂っており、洋風な建築に相応しいパンをメインとした朝食(ブレックファースト)だ。2人の背後には美形の召使いが静かに朝食を終えるのを待っていた。
「りっちゃん。寝心地はどうだった?」
ニコニコしながら衿栖は律子に尋ねる。この屋敷に相応しい自慢の高級ベッドだ。良い感想が来るのを期待していたが―――――
「まぁまぁ良かったわ」
彼女の返答は素っ気ないものだった。
「うわっ!ひっどーい!あれかなり高かったんだからね!」
「ああいう高価なものは私の肌に合わないのよ。変に傷を付けて、あなたに賠償請求されないかヒヤヒヤしてたんだから」
「まっさか~。そんなこと…ああ、私ならやるな」
組濱衿栖は器が小さく、守銭奴で有名だ。彼女は裏社会のあらゆる研究に参加したが、研究そのものより研究による産物で金儲けすることだけを考えていた。失敗作を引き取って、
テキストに死人部隊として売却していたのも金儲けの一環だ。
「私の研究に協力するのも金儲けの一環かしら?」
「まぁ、そうだけど、私も研究者の端くれ。絶対能力者《レベル6》には興味があるんだよね。りっちゃんの論文は読ませて貰ったよ!『極限状態における一時的な能力レベルの上昇』だっけ?」
「そうよ。ところで、準備の方は万端なのかしら?」
律子の問い掛けに衿栖はニッコリと笑って親指を立てる。
「準備万端!
――――――――――――って言いたいんだけどね」
表情が残念そうなものに一変し、親指を立てていた手を降ろす。
「薬と研究施設は準備万端なんだけどね。肝心の被験体が…」
「レベル6候補のことならまだ用意しなくても…」
「いや、そっちじゃなくて“踏み台”の方」
「そんなのそこらの置き去り《チャイルドエラー》を騙し取れば良いじゃない」
気楽そうに紅茶を飲みながら淡々と述べる律子に対して衿栖は深くため息をつく。
「ハァ…これだから世間知らずは…」
「刑務所で得られる情報は限られているのよ。仕方ないじゃない」
「まぁ、それもそうか」
衿栖は飲みかけの紅茶を一気に飲み干した。
木原の姓を聞いた途端、律子はこれ以上に無いくらいに不快な感情を面に出した。
木原故頼(53)
物理学、とりわけ放射線学の分野において優れた研究者であり、彼の代表論文である「放射能による脳・能力開発への影響とその予測」は注目を集めたが、実証するには非常に危険な手段を要したため、机上の空論となった。
6年前まで第十学区の八葉原子力・放射線研究所に所属していた。その後、第二三学区の国際特殊環境研究所に研究室を構えたが、今年の6月頃に何者かによって殺害される。その後の捜査で非人道的な大規模実験の計画、置き去りの大量誘拐などの証拠が次々と出現したのだ。実際のところ、死人に口無しと言わんばかりに学園都市の汚点を全て木原故頼に抱えさせたのだ。
この事件の真相がどうあれ、影響で施設から研究所への置き去りの譲渡が厳しくなり、置き去りの引き渡しのための審査も設けられた。その上、統括理事会からの許可証が発行された研究所でなければ交渉の余地すらない。無論、衿栖と律子だけの研究所に許可証が発行されるわけなかった。
「また木原か…。どいつもこいつも私の邪魔ばかり…」
学園都市において、木原という姓は特別な意味を持つ。研究者、尚且つ裏で行われている非人道的な実験も知っている者ならその“特別”を理解し、木原を忌避するか、似たような存在として木原に近づこうとする。
木原一族とは「実験に際し一切のブレーキを掛けず、実験体の限界を無視して壊す」ことを信条とするマッドサイエンティストを絵に描いた様な集団だ。その本質は「科学の悪用」という概念が具現化したような存在。「目的のためならば手段を選ばない傾向」にあり、研究・実験のためなら他人はおろか、血族であるはずの他の木原や、自分自身さえも犠牲にすることを厭わない。
彼女、桐野律子と木原一族の因縁…いや、対立は彼女と衿栖が大学の研究室に居た頃から始まっていた。当時、律子と衿栖は大学の研究室でとある研究を行っていた。それはいかにも木原が関わっている「非人道的な実験」であり、木原一族の者とその当時から研究者としての倫理が破綻していた学生たちによって行われていた。
しかし、実験の終了間近になって木原一族の者が研究室から学生たちを追い出し、あろうことか研究結果を独占したのだ。その上、木原一族の暴挙に反発した学生たちを次々と暗殺した。最終的に生き残ったのは桐野律子と組濱衿栖だった。2人は木原一族がどれほどヤバい存在か理解していため、その理不尽な対応を頭の中では悔しがりながらも素直に呑み込んだため、殺されずに済んだ。暗殺も見せしめのつもりだったのだろう。見せしめの効果が表れる頃にはほとんど死んでしまったわけだが…。
「もう木原木原って…りっちゃんの人生で木原一族は鬼門だよね。まぁ、ぶっちゃけ今回の件は完全にりっちゃんの自業自得だけどね。テレスティーナからキャパシティダウンのデータを盗み損ねてバレちゃうなんて…」
「私としても馬鹿なことをしたわ」
「そうだね」
「もっと慎重に盗むべきだった」
「そっちの方!?」
知的でクールな律子からかまされるボケに衿栖はすかさずツッコミを入れる。律子の方は何が「そっちの方」なのか分かっておらず、「何言ってるのかしら?理解できないわ」と言いたそうな顔で衿栖を見つめていた。
(あれ?りっちゃんってもしかして悪い意味で天然さん?)
「と、とりあえず、研究所と薬の方は用意した!」
「そう…あとは被験体の方ね。“踏み台”の方は最悪誘拐でも良いけど、レベル6候補の選定を急いだ方が良いわね。私が釈放されたことを木原一族に知られたら何をされるか分からないわ」
「それもそうだね。善は急げ。時は金なり」
「とりあえず、今後は私が“踏み台”の調達。貴方がレベル6候補の選定ってことで良いかしら?」
律子の提案に衿栖は「え?」と言葉と疑問を口から零し、ティーカップをテーブルに置く。
「私が選んでいいの?」
「あなたじゃ踏み台の調達は出来ないんでしょ?だったら、私がやるわ。その代わりにレベル6候補の選定をして欲しいの。私の論文を読んでいるんだから、レベル6候補の条件ぐらい分かるでしょ?」
「それは流石に分かるよ。馬鹿にしてるの?」
「ごめんなさいね。ちょっと確認しただけよ」
衿栖と律子は朝食を終え、背後で待っていた召使いたちが静かに食器を片づける。どちらも美形でただ黙々と片付けているだけなのに絵になる光景だ。
「じゃあ、さっそく準備にとりかかろうか」
「そうね。木原に気付かれたら何されるか分からないわ」
2人は立ち上がり、各々の部屋に向かって準備を始める。
ふと律子が衿栖の方に振り向いた。
「忘れないでね。レベル6候補の条件は――――――
“高レベルの念話《テレパス》系能力者”よ」
* * *
第7学区 とある病院 12時ごろ
1階ロビーでは診察待ちの学生が数人鎮座し、自販機の前では入院患者が見舞客と談笑する。その中で樫閑はテレビのニュースを眺めていた。昨日のオービタルホールの騒動のニュースは軽く取り上げられただけであり、今は他愛の無い芸能ニュースだ。こっちの方に比重が置かれており、あからさまにホールでの事件を目立たないようにしている。
(随分とあからさまな隠蔽工作ね。逆にバレバレよ。それともホールでの一件自体がスケープゴートなのかしら…)
あれこれ考察を巡らせるが、あまりにも情報が少な過ぎて考察のしようが無い。オービタルホールでの事件に関して軍隊蟻の情報網を総動員したのにもかかわらず弐条が手に入れた監視映像を除いてテレビで報道されていること以上の情報は得られなかった。その監視映像も姫野のコンサートで観客の避難が終わった途端にカメラが壊されて映像はそこで途切れてしまったため、歌の魔術の存在ぐらいしか知ることが出来なかった。
異様なまでの情報封鎖には軍隊蟻の諜報班を始め、樫閑も驚いた。ここまで厳重な情報封鎖は学園都市の書庫《バンク》か統括理事会、窓のないビルぐらいしかないからだ。
(あそこまで厳重な情報封鎖…どうやら学園都市にとって魔術の存在は本当に眉唾のようね)
それもそうだ。超能力という学園都市のアイデンティティーを奪いかねない存在など、学園都市にとっては消し去りたい存在だ。そこまで躍起になるのだから、魔術の秘匿の過程で学生が何人死のうがお構いなしだろう。何かしら理由を付けて、拘留が延長されている寅栄たちのように自分たちも何かしらの理由で警備員や学園都市直属の特殊部隊に駆逐されるかもしれない。今日、その駆逐が行われてもおかしくないのだ。それほど危険な爆弾を自分たちは抱えている。だが、同時に自分たちはその爆弾を手放すことが出来ない。核兵器による抑止論に近い。
(ユマさんから魔術に関する決定的な情報は得られなかった…いや、魔術の知識が私たちの理解からあまりにも遠すぎた。理解出来ないんじゃ情報の価値も分からない。)
そこで樫閑はあることを考える。自分達が理解できないのなら、既に理解できている人間を軍隊蟻に引き入れば良い。
尼乃昂焚捜索をわざと長期化させ、ユマを軍隊蟻のメンバー化させ、彼女を所有することで学園都市に対する交渉カードを得る。
寅栄と仰羽、拘留中のその他メンバーの釈放が樫閑にとっての当面の目標だ。
ブラックウィザード壊滅後も軍隊蟻が武装解除せずに力を持ち続け、更に増強し続けるのもメンバー釈放の交渉を有利に進めるためのものだ。
(魔術の情報…ユマさんをどう扱うか。その采配をじっくり考えないと…)
樫閑は口元に手を当てて考え始めるが、すぐに止めた。思いついたわけでもその逆でも無い。ここでそれを考えることは今自分がこの病院に来た理由を奪うからだ。
「もしかして樫閑か?」
樫閑の傍に一人の少年が姿を現した。
真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪、男か女か分からないモデル系の中性的な顔立ちをしており、声で少年であることは容易に判断できる。
ジーンズに黒に近い紫色のダウンジャケットを着ている。首元にはマフラー代わりなのか黒いバンダナが巻かれている。
毒島拳《ブスジマ ケン》
スキルアウト討伐を専門とした無能力者狩り集団 “霧の盗賊《フォグシーフ》”の立ち上げ人である。スキルアウトリーダー代理と無能力者狩り集団のリーダー。立場としては互いに天敵なのだが、毒島拳個人と軍隊蟻には良好な関係が築かれている。
昨年の6月、毒島拳の姉である
毒島帆露《ブスジマ ホロ》はスキルアウトに集団リンチされて重傷を負い、強姦される寸前のところを偶然通りかかった緑川によって救出された。しかし、その事件で帆露の心は怒りと恐怖に支配され、拳はその復讐のために“霧の盗賊”を立ち上げた。同時に事件の場所が軍隊蟻の縄張りであったため、犯人として軍隊蟻に白羽の矢が立てられたのだ。
同じ目的を持つ毒島と軍隊蟻は共同戦線を張り、事件の解決に当たった。その過程で浮き彫りになった学園都市の闇、木原故頼の野望、更なる犠牲を出す壮大な実験、帆露が襲われた理由、次々と事実が発覚し翻弄された。
結果として、拳と軍隊蟻は目的を果たした。黒幕の木原故頼は何者かによって殺害され、新たな実験は阻止された。自分でその怒りをぶつけることは出来なかったのが腑に落ちないが、拳にとってはこれ以上望まなかった。
軍隊蟻は真実を暴いたことで自らの潔白を証明した。しかし、その過程でリーダーの
寅栄瀧麻とナンバー2の
仰羽啓靖、他数名のメンバーが警備員によって拘束され拘留された。表向きは器物損壊だったので3ヶ月かそこらで釈放されるはずだったが、学園都市側は何かしら理由をつけてはメンバー達の拘留を延長していた。おそらく、拘留されたメンバー達を人質にして軍隊蟻の動きを抑制するつもりなのだろう。
樫閑はこんな面倒な案件を持ち込んだ毒島に恨み言の一つや二つ吐きたいのが本音だ。
「あの事件以来だな。誰かのお見舞いか?」
「まぁ…そんなところかしらね。茜ちゃんの様子を見ておきたかったのよ。気分転換も兼ねてね」
(気分転換…か…)
毒島は5ヶ月振りに樫閑に会うが、あの時よりも大人びた印象を持つ。しかし、それは成長というよりも疲労という点でだ。トップ2人を一気に失い、軍隊蟻のリーダーとなってしまった彼女にとってこの数ヶ月は多忙で、
樫閑恋嬢という女子高生を変えるには充分だった。その変化が毒島の目には顕著に写っていた。
「随分と変わったな。なんと言うか…リーダーらしくなった」
毒島はそんなこと思っていない。これはただの気休めだ。
「貴方もね。随分と丸くなったんじゃないかしら?」
樫閑の言葉は本心だ。彼にはもう戦う理由はない。帆露の治療・カウンセリングは順調で彼女を傷つける存在はもういない。木原故頼は死に、彼のお抱えの傭兵も警備員に捕まった。
「まぁな。尖っている理由がなくなった」
「それもそうね」
「あんた達には感謝してるよ。軍隊蟻がいなかったら姉さんは今でも闇の中だった」
「感謝なんていらないわよ。私たちも私たちの利益のために戦ったんだから」
(正直なところ、トップ2人が捕まったことに関しては恨みごとの一つや二つ吐きたいんだけどね…)
樫閑はそれを吐くつもりはない。毒島がその辺りのことを気に病んでいるのは知っているし、捕まったメンバー達もおそらく彼を恨んではいないだろう。「筋を通した結果がこれなら文句は無ぇ!」みたいなことを言うに決まっている。特に寅栄と仰羽はそうだ。
「そういえば、あの事件から姉さんには会ってないよな。会いに行くか?」
「会って良いのかしら?」
「別に悪くは無ぇよ。姉さんにとっちゃあんたは恩人なんだ。それに茜の奴だって姉さんにベッタリだしな。別に拒む理由なんて無いだろ?」
毒島は気軽にそう語りかけるが、樫閑は今まで以上に深刻な面持ちで自分の肩を抱いて身を縮める。ロビーには暖房が効いているにもかかわらず凍えるように身体は小刻みに震え、顔も真っ青になっていた。かの怒れる女王蟻が恐怖に震える光景に毒島はどう反応すべきか分からなかった。
「…もしかして、姉さんのこと苦手?」
「……うん」
樫閑は小さく頷いた。
「ほら…お姉さんが第五学区の病院に居た頃に私たち病室に行ったじゃん?」
「ああ。キレられて花瓶とか色々投げつけられていたな」
「罵声を浴びせ掛けられて、いきなり色んな物を投げつけられて、あと…もの凄く顔が恐かった。あれから何度か夢に出てきたもん。人間って、あんな顔出来るんだなって…」
「………」
「正直に言うと花瓶を投げつけられた時ちょっと漏らしそうだった」
「そこまでカミングアウトすんな。そんな裏事情聞きたくねえよ」
(ってか、そんなことカミングアウトするから霧の盗賊の参加者達に「今の軍隊蟻のリーダーって絶対に女捨ててるよな(笑)」なんてネタにされるんだ)
同じく霧の盗賊の創設者であり、女の子大好きで現在彼女絶賛募集中のアンデッドホッケーマスクこと家政夫《ヘルプマン》にすら「怒れる女王蟻?手作りのラブラブハートなバレンタインチョコ貰ってもお断りやわ」と酷評されている。
「今、もの凄くムカつくことを言われた様な気がする」
「気のせいだ。そんでどうするんだ?行くのか?行かないのか?」
「茜ちゃんにだけ会いに行くわ。将来の妹候補よ」
「昔、ホテルで『妹にしたいくらい可愛い』って言ってたのはガチだったのかよ。ってか、本気で姉さんには会わないんだな」
「だって、お姉さんの部屋に行くまでにはレベルも装備も足りなさすぎる」
「あんたは俺の姉を魔王か何かだと思ってんのか?」
「核弾頭何発ぐらいで殺せる?」
「マジでやめろ。あんたならマジで核弾頭用意して来そうだから」
「戦術レベルの核なら第十学区の研究所から劣化ウランを…」
「だからマジでやめろって!!」
あまりにも畳みかけられる樫閑のボケに耐えきれず、毒島はついに大声でツッコミを入れてしまった。「病院ではお静かに」が基本であり、ロビーで大声を出してしまった毒島とすぐそばで座っていた樫閑に周囲の視線が注がれる。
「冗談よ。毒性の重金属と放射性物質の塊を扱える様な施設は持ってないわ」
「アンタが言うと冗談じゃ済まないんだよ」
とりあえず注がれる視線から逃れるために2人はエレベーターに乗り、3階へと向かった。やはり衆目に晒されたのは恥ずかしかったのか、2人ともエレベーターの中では終始無言だった。
「茜だけ呼んで来てやるよ。3階の
談話室で待っててくれ」
「分かったわ」
毒島は姉のいる病室へと向かい、樫閑はその反対側にある談話室へと向かった。
帆露の病室と談話室は病院の対極に位置している。
毒島は病室へと歩いていた。他の病室に目もくれず、真っ直ぐと病室に向かっていた。
帆露の病室に近付いていくほど廊下から人の姿が消えていき、病室まであと5mの地点になると毒島を除いて人の姿は完全に無かった。この状況は第五学区の病院に居た頃と変わらない。“隔離病室”だ。
だが、今は違う。彼女は一人ではない。
帆露の病室の前で一人の少女が仁王立ちしていた。
小学校高学年ぐらいの少女だ。新品の白と黒のウィンドブレーカーを羽織り、長い黒髪をツインテールにしている。ツリ目ではあるが、目鼻立ちは整っており、美少女と呼ばれる部類に入るだろう。
彼女の名は
四方神茜《シホウジン アカネ》
彼女は宇宙頭脳《スペースブレーン》と呼ばれる実験の被験体であり、現在は一人の少女として毒島帆露と共に生活している。
木原故頼が発案し実行した宇宙頭脳計画によって彼女は大能力者(レベル4)、もしくは超能力者(レベル5)に近い、ありとあらゆる振動を司る能力“振動支配《ウェーブポイント》”を手に入れた。しかし、彼女はその代償として脳を損傷し、言語を言語として認識できなくなってしまった。そんな彼女とのコミュニケーションのために帆露は故頼の研究室に呼ばれ、真相を知ってしまったことで消されそうになったのだ。
茜は帆露、そして彼女に似ている拳に対して異様なまでに懐いており、本物の姉妹・兄妹のように接する。
「よう。茜」
毒島が語りかけると茜は大きめのタブレットを出して素早い指捌きでタッチパネルに指を打ち込む。
このタブレットは茜のコミュニケーションツールとして開発されたものである。前述の通り、茜は言語を言語として理解できず、ジェスチャーや絵のような概念的なものしか理解できなかった。
あの事件以降、樫閑とコネのある言語学者による案によって彼女の為の言語習得法が開発された。それは“ヒエログリフ方式”と呼ばれている。ヒエログリフは象形文字であり、ものの形をかたどって描かれた文字からなる文字体系で、絵文字からの発展によって生まれたと考えられている。これを利用することで文字を絵として認識させることで口語(言語)を介さずに文字を理解させることが出来る。
ヒエログリフ以外にも漢字やインダス文字も象形文字として挙げられる。
茜が持っているタブレットはそのためのツールである。茜の頭の中では中国語のような漢字の羅列なのだが、それを他者に理解させるためにタブレットに搭載された超小型AIがひらがなを補足して分かり易くしている。普通の人間が間違いを訂正してあげれば、AIはそれを学習してより違和感のない言語の構築に反映させる。まだAIの学習が足りないのか、アホな中学生が英語を和約した様な文章になっている。
そして、同時に相手が喋ったことを茜に分かり易いように漢字だらけの文章にする機能も備わっている。
かなり高性能なツールであり、これだけで数百万円はするらしい。
『こんにちは。今日は彼女を連れていますか?』
茜は照れ隠しなのか、真っ赤になった顔を隠すようにタブレットを持つ。久しぶりに彼に会えたことが嬉しい様で、もし尻尾でも付いていたら犬のようにブンブン振り回しているだろう。
「いや、彼女じゃないんだが…どうして俺が女連れだって分かったんだ?」
『私は最強の振動使い“振動支配”です。この病院に在るありとあらゆる振動を把握・解析しています。貴方の隣にも女性の歩調の振動があったのを確認しました』
「凄いな…。確かに女性と一緒に来たよ。軍隊蟻の樫閑だ。お前も覚えているだろ?」
『覚えています』
「あの人がお前に会いたいんだそうだ」
『厄介事ですか?』
「いや。お前がどれくらい話せるようになったか様子が見たいそうだ。タブレットの金も出してもらってるしな」
『はい。行きます。あの人にはお礼を言いたいです』
「そうか。じゃあ…」
『ちょっと待っててください』
そう言うと茜は病室の扉を開けて一旦中に入る。
病室の中から「どうしたの?」と穏やかの女性の声が聞こえる。
毒島拳の姉、毒島帆露だ。昨年の事件の影響で極度の人間不信、男性恐怖症となっていたが、今ではだいぶ回復している。男性恐怖症はまだ克服できていないものの、冥土返しや他の男性医師とはある程度だが会話が出来るようになって来た。
彼女の能力は“大衆念話《マセズトーカー》”の強能力者《レベル3》である。
自分の周りにいる特定の複数人と念話ができる能力である。かつては大能力者《レベル4》であったが、第五学区の病院に居た頃に投与されたキャパジエリンによって能力の制御が曖昧であり、突発的に能力が暴走することがある。暴走する際は能力による防御手段である「人間にとって不快な音を脳に直接たたき込む」といったことを本人の意思に関わらず展開させてしまうため、専用の対能力隔離病室に入れる必要が合った。
病室の壁越しに聞こえる姉の声だけでもかなり回復したことが窺える。
「ちょっと出かけて来るの?良いわよ。暗くならない内に帰って来てね」
茜はタブレットで外出する旨を伝え、帆露はそれを快く了承する。
1分も経たないうちに茜は病室から出てきた。
『帆露には会わないのですか?』
「ああ。姉さんが完全に治るまで互いに会わないって決めているんだ」
『面倒な姉弟ですね』
「それで良いんだ。じゃあ、行こうか。談話室で樫閑が待ってる」
そう言って毒島は茜の手を掴んだ。談話室に引っ張っていくだけで他意はないのだが、茜は顔を真っ赤にして俯いていた。
「どうした?風邪でもひいてるのか?」
茜は拳の手を振り払い、タブレットに文字を打ち込んだ。しかし、画面を内側にしてすぐに自分のところに抱き込み、画面を見せまいと談話室の方向に走り去っていった。
拳は茜の挙動に疑問を抱きながらも
「コミュニケーションツールが故障したのか?」
――― と自分の中で勝手に解決させた。
一方、樫閑は談話室にあったコーヒーメーカーでコップにコーヒーを注ぎ、テーブル席にでも座って毒島たちが来るのを待つ…つもりだった。
目の前に車椅子姿の
界刺得世がいた。
「んふっ。また会ったね」
※樫閑による今世紀最大の嫌悪感を表す顔をお楽しみください。
「そこまで嫌な顔しなくていいじゃないか」
(忘れてた…この病院にはこいつが入院してたんだ…。あー殺したい)
「で、何の用かしら?私は人と待ち合わせしているから、手短にお願いね」
樫閑は椅子に座って紙コップにミルクとシロップを入れてマドラーでかき混ぜる。シロップの小さな容器2つ分入れるのが拘りらしい。
「相変わらず手厳しいね。俺、君に恨まれるようなことをしたかい?」
「した」
脊髄反射の即答だ。界刺は何のことか分からず、きょとんとした顔をする。
「あのシャツの恨みは忘れない…この女装野郎」
「ああ。あのことか。あれは俺の正当な勝利だと思うけどな。あと人の黒歴史を掘り起こさないでくれないかな。この男装…これ悪口にならないか」
樫閑は軽くため息を吐く。一昨日の夜の全身複雑骨折の患者が現在では車椅子でありながらも自由に病院内をうろつけるようになった。いくら学園都市でもここの医療技術だけは頭一つか二つは飛びぬけている。
「で、こんな与太話をするためだけに私に話しかけたのかしら?」
「いや、違うね。君には中々会えないからさ。色々と聞きたいことや話したいことがあったんだ」
「何かしら?」
そこで一呼吸置く。その数秒で2人の間の空気は一気に張り詰めたものとなり、ただの男子高校生と女子高生のちょっとした口喧嘩の場は“詐欺師”と“軍師”の交渉の場へと変わる。
「
シンボルと軍隊蟻の関係…この2つの組織の間で交わされた条約についてだ」
「ああ。その話ね」
「あれは軍隊蟻のリーダーが寅栄瀧麻だった時代に締結されたものだからね。リーダーが交代した今でも条約に効果があるのか確認したかったのさ」
「問題無いわ。私はあくまで代理よ。真のリーダーが不在の時に条約を変える様なことはしないわ」
「んふっ。それは助かったね。リーダー交代を理由に条約を反故にされてシンボル潰しなんてされたらこっちは一溜りも無いからね」
「無論、私が正式なリーダーになったところでシンボルを潰す様なことはしないわ。シンボルが私たちの利益を侵さない限りは…ね」
界刺は全てを見透かしたような態度だった。ここまでの会話は全て想定通りであり、本題に入る前の前置きに過ぎない。
「リーダー代理ね…。いっそのこと君がリーダーになったらどうだい?」
界刺が本当の本題に入る。それが樫閑の心の琴線に触れたのか、指でマドラーを折るというリアクションが返ってきた。
「無理よ。私は参謀ぐらいが丁度いい」
樫閑は隠そうとしていたが、隠しきれなかった怒りの目で界刺を見つめる。怒れる女王蟻の名に恥じない目だ。しかし、彼女は界刺の言った事を否定も反論もしなかった。自分がリーダーに似合っていないのは分かり切っているのだ。
「そろそろ時間ね」
樫閑は時計を見て席を立ち、談話室から出て行った。
談話室から出て、帆露の病室に向かうところで茜と鉢合わせになった。
「久しぶりね。茜ちゃん。タブレットの使い心地は良いかしら?」
『良好です』
「そうそれは良かったわ。でもまだAIの学習が足りない様ね。喋り方が硬いわ」
界刺と話す時とはうってかわって、樫閑は女性らしい柔らかい表情で語りかける。声や口調もそれに沿っている。
「ったく…いきなり走りだすなよ」
少し遅れて拳がノコノコと歩いて2人の元にやってきた。
「どうしたのかしら?」
「最近、茜の様子がおかしいんだよ。元気が無いから風邪をひいたかと思ったら今度は元気に走りだしたり、なんか余所余所しかったりするんだ」
「ふ~ん」
―――と相づちを打ちながら樫閑は流し目で茜のタブレットに視線を向ける。
「取った!」
隙を見て、樫閑は突然茜からタブレットを奪った。
「あー!やー!」
言語を言語として理解できない彼女はこういった言葉しか発することが出来ず、まるで幼い少女(今でも幼いが…)のように飛び跳ねてタブレットを取り返そうとする。そして、身長差を利用して樫閑は悠々とタブレットを操作していた。
「知ってた?茜ちゃん。このタブレットは会話履歴を閲覧できるのよ」
「やー!」
能力を使わずに必死に取り返そうとする茜の姿は微笑ましく、同時に樫閑が非常に意地悪な人間に見えて来る。まぁ、実際にそうなのだが。
タブレットを操作して樫閑は会話履歴に目を通した。一番最後にタブレットに打ち込まれた文字を見て言葉を失った。そして、ニヤニヤとし始める。
「おい。何て書いてあるんだ?」
毒島がタブレットの画面を覗こうとした途端だった。
「履歴消去」
「ええ!」
素早く樫閑はタブレットの会話履歴を消去し、毒島には見せんとした。
「おい。俺はまだ見てないぞ」
「毒島くん…。女の子には秘密の一つや二つ、あって当然なのよ?」
「まぁ…“茜は”そうだろうな」
「何で私は除外されるの?」
樫閑は自分が女の子の定義から外されたことが腑に落ちなかった。
飛び上がってタブレットを取り返そうとする茜に樫閑はタブレットを返した。
「頑張ってね。応援してるわ」
タブレットを大事そうに抱える茜の頭を優しく撫でた。その手つきは慣れておらず、不器用な撫で方だった。
(ちょっとらしくないことをしたわね…)
自分でも何故こんな慣れないことをするのか分からなかったが、別に悪い気はなかった。
「ちょっとお腹が空いたわ。どこかで昼食でもどうかしら?」
「それもそうだな。俺も腹が減った」
『私も行きます。ハンバーグが食べたいです』
「そう。じゃあ、Joseph’sにでも行きましょうか。茜ちゃんの分は私が奢るわ」
『ありがとうございます』
和気あいあいと3人でエレベーターの方に向かおうとしたところだった。
「その食事、俺も同席させてもらおうかな」
背後から一人の男の声が聞こえる。非常に魅力的でいわゆるイケメンボイスである。明らかに自分達に語りかけていた。毒島と茜にはその声に聞き覚えが合った。
そして、自分達の推測が正解であることを確認する為に振り向く。
最終更新:2013年03月01日 20:09