書斎に窓は必要か。
否、百害あって一利なし。お椀に穴が開いてはいけないように、書斎にも窓は不必要である。本当ならば窓からのぞく空や雲や太陽にもいなくなってほしいし、窓から飛び込んでくる市街の喧騒や遠い音楽や煮炊きの香りだってどこかへ行ってほしいのだけれども、それはあんまりなので許すことにする。とにかく、書斎に窓なんかあってはいけないのである。
机の前に腰掛け、ゆっくりと筆を動かしながら、セイランは五度目の結論を出した。先の四度と内容は同じである。
恨めしげに窓を見やろうとして、あわてて視線を正面に戻す。窓をどれだけにらみつけても、窓が消え去ったりなどしないことは既にいやと言うほど理解している。加えて、窓がなければ書き物だってできっこないこともセイランはしっかりと理解している。夜になれば、部屋の中に飛び込んでくる光精を捕らえて灯りとすることも出来るのだが、何しろ今は昼間である。太陽に頼るよりほかはない。結局、書斎には明り取りとしての窓がどうしても必要なのである。だから、恨んだり疎んじたりしてもそれは無駄なことであって、気にすればするだけ損なのである。
――分かってますよ、そんなこと。
努めて平静を保ち、筆先に含んだ墨を時間を掛けてじっくりと検分しながら、セイランはそう考える。大延国における界門通関司の長にして、皇帝の第三十七子である吉風公主セイランはその身分や出自に十分見合うだけのお利口さんであり、道理が通れば納得できる理性の持ち主なのである。決して感情や欲求を優先したりしないし、義務や責任だってしっかり果たす。開いた窓から覗く外がどれほど魅力的に見えようと逃げ出すことはないし、引き受けた仕事はどんなに困難だろうときっちりやってのける。それがたとえ、セイランの大嫌いな躍字の書き取りであろうとも、である。
――分かってます。
セイランは顔を上げて、部屋の中心に浮遊する躍字を正面から見据えた。
その躍字の意味するところは、《簿》である。
全体がセイランの体ほどもある大きな文字は、無数の小さな部品が組み合わさることによって出来ている。絡まりあった一つ一つの部品に目を向けると、そこに見出せるのは更に小さな部品だ。目を凝らせば、それらは物の名前と日付を表していることが分かる。セイランが固唾を呑んで手を伸ばすと、砂で出来た雲のようにざわめく躍字から、小さな部品が飛び出してきてセイランの指に絡みつく。蛇のように細くうごめく躍字がセイランの指輪を探り当て、そこに刻み込まれた印章と自らとを重ね合わせる。金線を擦るような音とともに細い躍字はほどけ、自らの中に折りたたまれていた情報を明らかにした。
――『耀白二十一年 石月十日 物品:食糧品、磁器、木製工芸品 許可』
躍字が蓄えているのは、異世界に通じる門を通過した物品とその日付である。
読み取った情報を、セイランは手元の紙に書き記していく。一つの行の頭に一つの躍字を描き、その下に簡体字による書き下しも載せる。片方だけではなく、必ず両方を載せなくてはならないのである。
『一応、閲覧には許可が必要な公文書の写しという扱いですので』
通関司においてはセイランの補佐をつかさどり、実質的には操縦しているといっても過言ではない十面大師がそう言えば、セイランはおとなしく従うしかない。『以前申しました通り、私は躍字が不得意でございます。ですから、公主に手助け願えればとても助かるのでございます』なんて何食わぬ顔で付け加えられればなおさらである。帝国一頭がいい癖にとか、セイランみたいに勉強嫌いの子供より下手糞なわけがないのにとか、そういった抗弁が無駄なことはセイランも百も承知していて、だからセイランはこうして書斎にこもり、異世界への門をお皿が通ったとか木のおもちゃが通ったとか、そういうことを写し取らされている。否、写し取っているのである。なぜならば、これこそが異世界と大延国との間を取り持つ界門通関司の長セイランに出来る、今のところ最も重要かつ唯一の仕事だからなのである。
――だから、別に文句は言わないです。
よどみきった瞳で躍字を読み取り、生気の抜けきった文字をずるずると書き連ねる。ため息をつこうとして、セイランは寸前でそれを飲み込んだ。ため息もまた、つくだけ無駄な類のものごとである。
セイランたちが異人の失踪と妖書にかかわる事件を解決してから、およそひと月になる。
行方不明になっていたワン氏は延国めぐりの旅に出発した。時折寄越す手紙によれば、ワン氏はある塩客と意気投合し、愉快な道中を過ごしているものらしい。恐れていた叔母の追及もなく、ワン氏曰く「ようやく自分の人生を生きられた気がする」だそうである。
一方でワン氏を捕らえていた妖書は大師がどこかにしまいこんでしまった。『英姫庭遊』という名の妖書はいわゆる色本の類であって、セイランが見るにはふさわしくない代物だからという理由である。書の中に住んでいる――あるいは書そのものの化身であるところの――エリスと言う女性はセイランと意気を通じており、これ以上悪事を働かぬよう確約させてもいるのだが、そのことを伝えても大師は渋い顔をするのである。
「だって、手がかりを探さないといけないんじゃないんですか」
「それはそうなのですが」
手がかりと言うのは、妖書がどこから来たのかという問題の手がかりである。
このところ、市城において地球人を狙い、潜書を行わせて法外な金を取る商売が横行している。『英姫亭遊』はそうした商売に用いられていた道具である。こうした書物は本来ならば珍しい物品であるが、それがこの街には何冊も出回っているものらしい。そうした道具を用い、あぶくのように浮かんでは消える潜書屋が多くの地球人を毒牙にかけている一方で、対策のほうは上手く行っていないという現実がある。衛視がどれほど念を入れて摘発しても、潜書屋はするりと逃げ出し、また別の場所で営業を始めてしまう。書の一冊もあれば商売を始められるというこの手軽さが、悪人たちを利しているのである。
そこで、書の入手経路を調べようというのが、大師が衛視に提案した方策だった。
躍書はどこからともなく生じるわけではない。誰かが大金と時間とをかけて作り出すものである。躍書を作ることの出来る人間も、手に入れることの出来る人間も限られており、動かせばそれだけ目立つ。表に出ない裏社会の手段を使ったところで目立つことは同じであり、目立てば必ず手がかりが残る。そうした手がかりは巧妙に隠蔽されている可能性もあるが、少なくとも羽虫のように飛び回って尻尾をつかませない潜書屋を追いかけるよりは、遥かに確実な手がかりを与えてくれるはずである。
衛視隊長の”金黙星”ことヒョウセイに対して大師が行った以上のような説明は、セイランも横で聞いていた。異人を狙った悪事であるから、ことは衛視と通関司が共同で当たるのが至当である。つまりはセイランの出番もあると言うわけで、セイランは大いに鼻息を荒くしていた。さっそくヤミ潜書屋への潜入捜査を買って出ようとして制止され、ならば書の化身であるところのエリスに手がかりを求めようとしたところで、大した手がかりは得られますまいと釘を刺される。
じりじりとしたままひと月ほども待たされ、このところのセイランの不満は頂点に達していた。なにやら手紙を書いている大師の元を襲撃し、セイランは声を張り上げたのである。
「私は何をしたらいいんですか! そろそろ何かした方がいいと思うんですが!」
「本業をおろそかにしてはなりません。異人たちのなかで困っている人を探し、彼らを助けてあげるのがよろしいでしょう」
「それだけでいいんですか。せっかく何かすごいことが起きてるのに、何にもしなくていいんですか!」
「妖書の流通経路に関しては、私とヒョウセイ殿が協力して捜査に当たります」
「私はのけ者ですか」
「そのようなことは」
「――いいんです」
「公主さま……」
「私が危ないことしたら大師の責任ですもんね。そんなことはさせられないです。おとなしくお留守番してます。ぐすっ」
無論、嘘泣きである。あまりにもクサすぎるかとセイラン自身も危ぶんだが、果たして効果は絶大であった。大いに困り果てた様子の大師は長いほうの眉毛を下げると、何事かつぶやいてセイランに向き直った。
「公主さま」
「はい」
「実は、かねてから確認しておきたかった事柄があるのです。今回の妖書の件を解決するに当たり、非常に重要な手がかりとなるであろう事柄なのですが」
「……大事なことなんですか」
「非常に。結果如何では、捜査方針が根本から変わってまいります」
「根本からですか!」
「はい。とは言え非常に難しい作業ですので、公主さまにお任せするのは不適当であると考えておりましたが」
「大師、私を信じてください。こう見えても、色々できることあるんですから」
セイランはまじめ腐って胸を張り、大師もまたうなずいた。
「ご立派です。では早速取り掛かっていただきましょう。私が用意を致しますので、公主は筆をご用意ください」
後から苦々しく思い返したところでは、セイランはここでもう少しひるんでおくべきだったのである。
「え。何か書き取るんですか」
「もちろんです。調査の終わった暁には、報告書を書いていただかねばなりません。それがきちんとした調査と言うものでございますので」
「な、なるほど! 分かりました。じゃあ、やります! しっかりやります」
「よろしくお願いしますね」
そう言って大師は出て行くと、しばらくして一文字の躍字を伴って戻ってきた。セイランが騙されたことに気がついたのは、大師がセイランに向かって躍字を押し出し、その意味するところが頭に飛び込んできた直後のことである。
――『耀白二十一年 獣月十日 物品:織物、被服等四十五点 許可』
――『耀白二十二年 星月三日 物品:絵画、版画 許可』
――『耀白二十二年 星月二十六日 物品:彫像、香炉、軸受け 銀器のみ不許可』
「助けてください……」
誰に言うでもなくつぶやくと、セイランは机に突っ伏した。己を騙すのも、もはや限界であった。
どれほど書いたかを数えることはとうに止めていた。何も書かれていない巻物の数を数えることはそれより前に止めていた。セイランが用意した紙を一瞥するや大師はすぐさま十倍もの量を運んで寄越し、おかげでセイランは紙を補充しに外に出る道まで封じられていた。今も部屋の隅に積み重なっている山は、一向に小さくなろうとしない。セイランが書いて積み上げているほうの山もまた、一向に大きさを増そうとはしない。
「助けて……」
すっかり憔悴したセイランの視線はうろうろと彷徨い、先ほどまでは努めて見ないようにしていた窓を捉えた。
「むひゃー」
窓の外でぴょんぴょんと飛び跳ねている白い犬の無邪気な笑顔が、セイランの体から力を抜き取った。
「にゃあああ」
猫のような鳴き声とともに、白い犬が屋内に滑り込んできた。雲のような体は見た目にたがわぬ軽さで床に降り立ち、小さな目や突き出された舌はセイランとは対照的に幸せそのものといわんばかりである。顔を背けるセイランに犬――テンコウはやさしく体当たりしてのしかかった。ふわふわした毛皮を顔に擦り付けられながら、セイランはうめき声をもらした。
「テンコウ、止めてください。邪魔しないでください」
へぇ? とテンコウが首をかしげ、窓とセイランとを見やってまた首をかしげた。
「ダメですってば。私はここでお仕事してるんです。だからお散歩はなしですよ」
「ぽひゃー」
テンコウが悲しげに一声鳴いた。
「あのね、私だってお外出たいのは山々なんですよ。でもダメなんです。ちゃんとやることやってからでないといけないんです」
テンコウはうなだれた。と、その顔が急に輝いた。前足を伸ばし、セイランが書き溜めた巻物の山を崩す。泡を食って拾い上げるセイランを他所に、テンコウはその一つを咥え上げると床に落とし、前足で擦り始めた。
「ちょっと何してるんですか、もう、止めなさいってば」
「ふにゃにゃ」
テンコウはしゃにむに紙を擦る。柔らかな前足で擦られても文字は剥がれ落ちることはなく、それを知ってセイランは胸をなでおろした。だが、テンコウの前足が行頭の部分を擦り始めると、書かれていた躍字の部分がぷるぷると震え始めた。程なくテンコウの前足から逃れるように躍字は巻物からはがれて宙に浮かぶと、フラフラと部屋の中を彷徨った。満足げなテンコウを押しやると、セイランは肩を落とした。
「ああもう、何するんですか。字なんかはがして」
テンコウは答えず、宙を漂う文字を血走った目で見つめている。あっちへ行けば鼻息を荒げ、こっちへ行けば舌を突き出して大喜びである。やがて躍字が窓のほうへと流れていくと、テンコウは喜色満面になってセイランに振り返った。事ここにいたり、テンコウの意図を理解したセイランは大げさにため息をついて見せた。
「なんですか。書き取りの最中に文字が外に逃げたら、追いかけないといけないですよねって、そういいたいんですか」
「わひゅえ!」
「……だめですよ。前みたいには行きませんからね」
セイランはかつて、逃げた躍字を追いかけて宮殿中を飛び回ったことがあった。その結果としてセイランは今この地に通関司の長官として赴任することになり、そのこと自体に不満はないのだが、字を追いかけて瓦の上を走り回るのは御免であると考えている。あのときの愚かで後先考えないセイランはもはや過去のものであって、今のセイランは大人のセイランなのである。
セイランの答えにテンコウはしょげ返り、窓枠のそばに倒れ臥すと、大げさな空いびきを立て始めた。セイランは鼻を鳴らすと、宙を漂う躍字をやすやすと捕まえて元あった場所に戻した。躍字はいともあっさりと元の位置に収まり、セイランは満足した。もはや慣れたものである。
テンコウはいまや不貞寝が不貞寝であったことを忘れたのか、その寝息はまるで笛の音のように甲高く響いている。セイランは苦笑いすると、改めて机に向き直った。墨を磨り、筆を取り上げ、改めて躍字に手を伸ばそうとしたそのときである。
テンコウがばっと身を起こした。
「どうかしましたか、テンコウ?」
テンコウは答えず、ただじっと耳を澄ましている。その目はいつにない険しさを秘めて窓の外をにらんでいる。セイランも思わず釣られて、窓のそばに寄ると空を見上げた。
途端に室内で爆発した空気が、セイランの背を強く押した。
「わ、わわわ」
窓枠をしっかり掴み、泳いだ上半身をどうにか立て直そうとして失敗する。一回転して窓から飛び出したセイランはそのまま宙に泳ぎ、二階の高さから地面を見つめている自分を発見する。セイランは高いところに親しんでいるが、落下となれば別である。悲鳴を上げて体を丸め、受身を取ろうとしたところで、追いすがるように飛来したテンコウがセイランの尻尾を掴むと振り回し、セイランを部屋の中に投げこんだ。
そうしてセイランがようやく体を起こしたときには、テンコウの姿は消えうせていた。目を擦ろうとしてこぶしについた墨に気付き、袖でそれをぬぐいながら部屋の中を検分する。テンコウが爆発的に飛び出したと見えて、部屋の中はひどい有様になっていた。巻物の山は崩れ、机はひっくり返り、墨はあたり一面に飛び散っている。げんなりしたセイランはゆっくりと腰を上げようとして、自分が尻の下に敷いている物の存在に気がついた。
セイランが一生懸命書き取った物品簿は、いずれもセイランの尻の下で破れていた。あわてて継ぎ合わせようとしてみるが無駄である。半狂乱になって破片を掻き分けたセイランは一枚の無事な紙を拾い上げて顔を輝かせたが、すぐさまそれは絶望に取って代わった。部屋中に飛び散った墨が、べったりとついていたためである。
もはやセイランには声を上げる気力さえ失われていた。ばったりと倒れ臥すと、セイランは体を丸めて頭を抱えた。
「それで逃げてきたってわけかあ」
「そんな言い方ないでしょう! 逃げてきたんじゃないです! ちょっと休憩したくなっただけです!」
「そうだよね、休憩って大事だよね。人間さ、困難に正面から向き合うんじゃダメだよ。たまには心も洗濯が必要なんだ。セイランちゃんの言うとおりだよ」
「そうです。ちょっと休んだら、すぐにまた取り掛かるんです」
「偉いなあ。セイランちゃんはちゃんと最後までやるんだね。尊敬しちゃうよ」
「……それほどでもないです」
「いやいや、偉いよやっぱり。そんな偉いセイランちゃんをねぎらってあげるとしようかな。親父さん、お茶ください。それと何か食べ物も。セイランちゃんは何がいい?」
「あ、私平揚麺食べたいです」
「よし、じゃあ俺もそれにしようかな。おいしいよね、揚げ麺」
シュウはそういうと満面の笑みになった。思わずつられそうになる笑顔を眺めているうちに、セイランの心もだんだんと晴れてきた。
――ここに来て正解でした。
通りに置かれた席に座ると、セイランは体を伸ばした。
金栄館は、街の東中ほどに位置する宿屋兼食事処である。金というには少々ぼろっちい――などとセイランは考えはしても決して口に出したりはしない。はがれた壁の漆喰やがたつく卓、縁の欠けた茶碗を必要以上に気にすることもない。セイランは大人なのである。
一方で人の出入りはといえば、これが中々繁盛している。主な客は異世界人である。団体で訪れる観光客を受け入れるような余裕こそないが、一人で旅する気楽な旅人は激安の宿賃を好んで長く逗留するし、大延国を横断しようとする旅人はここにくれば、店主の伝でいい塩客を紹介してもらうこともできる。人が集まることで情報も集まり、料理の質も値段のわりにはまあまあとあって、地球のほうではちょっとした隠れ名店扱いされているとかいないとかだそうである。
名店であることにはセイランも否やはない。こうした溜まり場に顔を出せば、異世界人が困っていることを聞きつけることも簡単になるし、情報収集のついでにちょっと腹ごしらえも出来るとあればそれに越したことはない。
店主の猿人イメイがお盆を運んできた。茶碗は二つ、皿は一つ、乗っている平揚麺は一人前である。目をぱちくりさせたシュウが、何食わぬ顔で茶を注ぐイメイに食って掛かった。
「親父さん、なにか手違いが起きてる気がするんだけど」
「お前のぶんは無しだ」
「ひどくないかなあ、そんなの。俺が何したっていうのさ」
「先週と先々週の分の宿賃払ったら食わせてやる」
「そんな難しいこと言われてもなあ」
イメイは肩をすくめて立ち去った。セイランは手を伸ばして麺を半分に割るとシュウに差し出した。
「やあ、悪いねセイランちゃん」
「いいです。奢ったげます」
「どうもどうも」
セイランをこの店に導いたのは、苦笑しているこの明利秋という地球人、通称シュウである。
ふとしたことから付き合いが出来てひと月ほどになるが、意外に謎の多い人物である。セイランはシュウが日ごろどうやって生計を立てているのかも、何を目的として大延国にやってきたのかもいまだ知らない。市城の中をあっちへいったりこっちへ行ったりしてはあらゆる人に話しかけ、追い払われてまた別のところへ行く。金栄館に逗留しながら異人同士で交流を深め、ちょっとした有名人であるらしい。いつでも金に困っている割には大して困ったとする様子も見せず、しかもそれで何とかやっていけているようである。
この変わり者の地球人を、セイランは好いていた。悩みや不安からは程遠い人柄に触れたくもあり、無節操に広がっている友達の輪もまた役に立っている。シュウはセイランたちの職務についても知っており、よく問題を抱えた異人のことを知らせてくれるのである。
セイランは平揚麺に塩を振り掛けると小さく割りとって一口かじり、茶をすすった。細い麺を円形に伸ばして揚げ焼きしたこの菓子はセイランのお気に入りである。ぱりぱりとした食感を楽しみ、塩と油の組み合わせに舌鼓を打ち、おいしいお茶で体を温めるうちに、セイランの砕けきった意気はゆっくりと立ち直り始めていた。
「にしてもさ、テンコウはどうしてそんなにあわてて出て行ったのかな」
「さあ? きっと何か気まぐれだと思いますけど」
「そんないい加減なことなのかなあ?」
「いい加減です」
「ああ、セイランちゃん、実はまだ怒ってるでしょ」
「そりゃ怒ってますよ。どれだけ作業が無駄になったと思ってるんですか。どうせ晩御飯になったら戻ってきますから、その時文句言います」
セイランは澄ました顔で茶をすすった。
怒りもさることながら、気にならないわけではない。テンコウは気ままそのものの犬として生きているが、その実体は風精である。理知的な振る舞いを見せたことはセイランの知る限り片手に余るほどだが、それにしても険しい目つきをしていたのは珍しい。
珍しいが、気にするほどのこともない。セイランはそう結論付けた。ふわふわしたテンコウ相手に腹を立てても空しいばかりである。セイランは残った平揚麺を眺めて思わずにんまりした。再びこの菓子を味わうべく、セイランが更に手を伸ばしたそのときである。
横合いから伸びてきた手が、セイランの平揚麺をすくい取った。
「あ!」
「これはこれは、小生のためにとって置いてくださったのですか。ご馳走様ですな」
セイランが目をむいて手の主を見やれば、指の油を舐め取っているをしているのはでっぷりと太った体を華美な衣で包んだ豚人である。ふてぶてしい笑みを浮かべた豚人は鼻を鳴らすと、見た目からは想像もつかないほど優美に一礼して見せた。
「ごきげんよう、公主。大層おいしゅうございました。ただ欲を言えば、少々量が少ないのではありませんかな。もてなしをケチるのはあまり外聞がよいとはいえませんなあ。自分は泥をすすってでも客人にはご馳走を出す。これこそが貴人のもてなしというものではありませんか」
「な、な、何勝手に食ってくれちゃってるんですか!」
「そんな口の利き方はお止しなさい、みっともない。たかが平揚麺の一枚や二枚でそんなに取り乱すこともないでしょうが」
「やあ、カンペイさんおはよう」
「ごきげんよう、シュウ殿。子守ご苦労さまですな。どれ、座ってもよろしいですかな」
着飾った豚人――カンペイはセイランの返事も待たずに椅子を引きずってくると、どっかと座り込んだ。籐で編まれた椅子が、カンペイの巨体に耐えかねてぎしぎしときしんだ。言葉をなくしているセイランを胡乱げな目で見やると、カンペイは大事な事に今しがた気がついたといわんばかりに目を見開いた。
「公主」
「な、なんですか」
「そのお茶貰ってもよろしいですかな? どうも喉が渇いてしまって。本来ならそのまま戴くところですが、この卓で飲み食いするにはいちいち貴方の許可を取らねばならんようですからなあ」
セイランは手元の茶碗を見下ろした。深呼吸一つ、セイランはカンペイをにらみつけると、一息にお茶を飲み干した。
上手く行かず、むせた。カンペイが呆れたように肩をすくめた。
「急いてはことを仕損じる。いやはや、いい教訓になりましたな、公主」
セイランは聞いてはいなかった。聞くことを放棄していた。あっというまに遠くに流れていってしまった安息を見送りながら、セイランはため息をつくまいと懸命な努力を繰り広げていた。空の茶碗がいかにも寂しげなものに見えて、セイランはそっと宅の端に茶碗を押しやった。
カンペイは地元の貴族の三男坊である。四男坊であったかもしれないし次男坊であったかもしれないが、セイランにはどうでもいいことである。一つ大事なことは、およそ世の中に生きる人の中で不倶戴天の敵を選べといわれたら、セイランは迷うことなくカンペイの名を挙げるということである。
とかく人に迷惑をかけるために存在しているとしか思えない人間である。セイランはそう確信している。
毎日のように通関司を訪れては与太と不満を垂れ流し、セイランが聞き流せば痛烈な嫌味を言う。つばきを撒き散らしながらセイランたちの食卓を荒らしまわり、セイランが本気で腹を立てようものなら何が悪いのかわからないという顔をする。仙人など怖くもなんともないと豪語するくせに、大師がいる時には決してやってこない。才能あふれる天才だと自称しながらも、役に立つことは何一つしない。世間の無理解がつらくて胃の調子が悪いなどとのたまいながら、食べる量はいつだって常人の三倍である。今後はこれ以上鬱陶しい人間に会わずに済むようにするということが、セイランの人生設計における一つの願いである。
こんなカンペイではあるが、シュウとは意気投合しているらしくしょっちゅう一緒に居る。傍若無人そのもののカンペイとシュウの間にいかなる友情が結ばれているものかは、セイランには全く理解の及ばぬことがらである。
傷心のセイランとは対照的に、カンペイは今日もまた能天気極まりない様子である。だらしなく緩みきったカンペイの顔に視線で穴をあけられないかセイランが試していると、ふとカンペイが思い出したようにシュウに向き直った
「さて、シュウ殿、例の件はどうですかな」
「うん、こっちから連絡しようと思ってたんだよ」
「何の話ですか」
カンペイは眉をひそめてセイランを見た。
「公主」
「なんですか」
「単刀直入に申しますが、邪魔なので向こうに行っていただけますか?」
「絶、対、に、いやです!」
「失礼、『そろそろお昼寝しながらよだれをたらす作業に戻られては』と申し上げるべきでしたかな。いかがですか、怠惰で無益なお昼寝などは」
「ぶん殴りますよ」
「あるいは、『小娘の分際で紳士同士の高尚な話に首を突っ込みたがるのはお止しなさい』の方がよかったですかな」
「何が高尚な話ですか。どうせくだらない話なんでしょ」
「言うねえ、セイランちゃん。まあでもね、そんなにくだらない話じゃないんだよ。お金儲けの話なんだ」
「左様。そういうわけなので、公主はその辺の道端で落書きでもしておいてくださると助かりますな」
セイランはカンペイを睨み付けると、手を挙げて茶を注文した。やってきたイメイに「三人ぶんです」と念を押す。心得た様子のイメイは自らも注文しようとわめくカンペイを無視して茶だけを運んできた。自分の分の茶碗を防御しながら、セイランはカンペイに向かって顎をしゃくった。
「私はここでお茶飲んでます。どうかお二人は勝手にお話しててください。そのお茶はおごったげます」
「悪いねぇ、セイランちゃん」
「ふん、まあいいでしょう」
早くも茶碗を空にしたカンペイが鼻を鳴らした。
「それで、シュウ殿。例のものはどうなったのです? 値がついたのでしょうね?」
「うん。全部売れたよ。こっちのお金に直すと、しめて三千五百糧ぐらいになったと思うよ」
「予想よりはちょっと少ないですが、まあまあですな。取り分は事前の相談どおりそちらが一でこちらが九でよろしいですな」
「いいよー」
通りを転がっていく埃を眺めて興味のない風を装いながら、セイランはカンペイの話を聞くでもなく聞いていた。何の話かはわからねど、どうせくだらない話に違いない、嫌味の一つも言ってやろうともくろんでのことである。
――ふん、なにが高尚な話ですか。偉そうなことばっかり言って。たかが三千五百糧ぐらいで気取るにも程が……
「さ、さんぜんごひゃくりょう!?」
セイランは素っ頓狂な声を上げた。シュウはちらりと辺りに目をやると、ことさらに無害そうな笑顔を作った。
「セイランちゃん、声が大きいよ」
「あ、すみません……え、でも三千五百糧って」
「子供はこれだから困りますなあ。仮にも皇族なのですから、そんな金額はした金でしょうが」
「全然はした金じゃないです。なんですか、シュウさんお金持ちじゃないですか」
「勘違いしないで戴きたいのですが、小生の金ですぞ」
「どこからそんなお金出してきたんですか……」
シュウが意味ありげにカンペイを見やった。
「言ってもいいかな?」
「いかがなものでしょうな。聞かせてやったところでこんな小娘にありがたみが理解できる話でもないと思いますがなあ」
セイランは鼻白んだ。
「どうせ変なことしたんでしょう」
「多少変なことをしたところで、その辺から金が沸いてきたりはしないのですぞ。公主さまはご存じないようですが」
「だって、どうせカンペイさんのことだから」
「およそ金銭とは禽獣のようなものでしてな、才覚と言う水の湧き出す泉の元には自然と集まってくるものなのです。公主には縁遠いお話でしょうから理解できないのも致し方ありません。せいぜい気の晴れるまで負け惜しみでもおっしゃればよろしい」
「もう、いちいち腹の立つ言い方ばっかりして」
「変な事じゃないと思うよ。むしろいい商売だと思う」
シュウがセイランを見据えて顔を突き出した。辺りをはばかるように潜められた声音に、セイランは思わず身を乗り出した。
「僕たちはね、美術品を地球に輸出してるんだ」
カンペイの家は貴族である。貴族であるから家には蔵がある。蔵の中には、いろんなものが収まっている。高価なものもあれば大事なものもあり、かと思えば何故取ってあるのかも忘れ去られ、使い道も分からない代物が埃を被っていたりもする。
「そうしたよくわからん代物はせいぜい二束三文でしか売れません。売れれば、の話ですがな。正直言えば、誰一人買いやせんのです。なので、埃を被ったままというわけです。付いてきてますかな?」
セイランはこくこくとうなずいた。
「でも、そういうよく分からないものでも、地球に持ち込めば値が付くんだよ」
シュウが卓の上に写真を広げた。埃に塗れた青銅の文鎮や壷、色あせて柄が分からなくなっている衣や、ぼろぼろになった書物の類が写っている。セイランは写真の一枚を取り上げると眉をしかめた。
「ゴミにしか見えませんけど」
「それはそうだねぇ。でも、これに逸話が付いてたらどうかな?」
「いつわ?」
「貴族が庫にわざわざ蓄えていたからには、こういう骨董品にもそれなりの物語がくっついてるということさ。もともと地球じゃ異世界の物品なら何でも買うってマニアがいてね、異世界の雰囲気を感じたいから何でも買っちゃう。特に珍しい物だって話が付いてれば高値が付くこともあるんだよ」
「そうなんですか……でも、そういうお話ってどうやって調べるんですか」
「小生がでっち上げておるのです」
「でっちあげってなんですか、それ。いい加減じゃないですか」
「案外それで通用するもんなんだよ。それに、カンペイさんところに何年も前から受け継がれてきた物なのは間違いないし」
「その受け継いできた家のものが言うのですからこれほど確かな事はないということですな。まあ多少の脚色は客のほうも望むところでしょうし」
「脚色じゃなくてでっち上げでしょ? 詐欺じゃないですか」
「別に誰も騙されてないからねえ」
「捨て置かれているゴミを金に代えているのに詐欺とはいちゃもんにも程がある。ぜひとも撤回していただきたい」
「ゴミを売ってるって自分で言ってるじゃないですか! そんなの詐欺ですよ、詐欺」
「だからこっちではゴミだけど、向こうじゃ美術品や工芸品扱いなんだよ」
「ところ変われば価値も変わる。これは当たり前のことですぞ。仮にもまともな教育を受けているはずの公主が、『紅鱗魚』の故事を知らんということはないでしょうな?」
セイランは黙り込んだ。あるド田舎で赤い鱗の魚が取れた。とても珍しかったので金羅様に献上しようと大都へ運んだところ、彼の地では魚の鱗は紅色なのが当たり前だったという故事である。
「知っていますよ、それぐらい。あれとは逆じゃないですか」
「おーおー、ご立派ですなあ。言葉を知っているだけでは何の役にも立たないということはご存じなかったようですが、そこはまあ公主には難しすぎましたかな」
「うぐぐぐ」
「まあとにかく、そういう感じで僕らは商売してるんだよ。思ったより儲けも出てるし、中々いい滑り出しだよね」
「この調子で庫の中身を全部売り飛ばせば、多少は使いでのあるたくわえが出来ようというものです。グフフ、我ながら己の才能が恐ろしくなりますなあ」
納得いかぬまま、セイランは茶をすすった。茶碗の欠けた縁を眺めながら、これでも地球に持っていけば売れるのかなどと考える。もしこちらのものであるというだけで多少ぼろでも売れるのなら、金栄館など丸ごと売れてしまうかもしれない。ましてやセイランたちが暮らしている家などどんな高値が付くか分からない。家まで売るのは極端としても、多少何かを売り飛ばしてお金になるのならそれはとてもよいことだとセイランは考える。通関司がこれからどういう役所になるにせよ、今はまだ木っ端のようなものでしかなく、お金もそんなにありはしないのだ。
――もし通関司ゆかりの品という触れ込みだったら、どれぐらいの値段が付くものなんでしょう。
戯れにそんなことを考えて、セイランは小さく笑った。
「それでシュウ殿、金はいつこちらに?」
「ほほう、うん、そのことなんだけど、俺の預かりにしとくのはどうかなあと思ってさ」
「それはまた、なぜ」
「カンペイさんが急に大金掴むと怪しまれるんじゃないのかと思ってさ。変に目立っちゃって金の出所を探られるのはいやでしょ?」
「確かに」
「だから、カンペイさんの分は預かっておくだけ、必要があればこっちが代わりに払うという取り決めで行こうと思うんだよ」
「なるほど、確かにそれはありがたい。父や兄にこの事業をかぎつけられでもしたら大変ですからな」
「でしょう? だからと言うわけじゃないんだけど、カンペイさんが遊びに行くときはぜひとも俺にお供させてほしいんだよ。カンペイさんの支払いもこれからは俺にツケといてもらうってわけ。お父上に遊びすぎをとがめられても、異人にもてなし受けてるだけだと抗弁すればいいと、まあこういうわけだよ」
「なるほど、そうとなればそうせぬわけには行きますまい。お上手ですなあ」
「いやいや、カンペイさんほどでは」
「わはは」
「はっはっはっは」
あきれ果てるセイランを他所に、二人は高笑いである。
「まあ預かるのはいいとして、お金自体は今日当たりこっちに来る予定だよ」
「おや、シュウ殿が持っておられるわけじゃないんですな」
「地球側の入金が遅れててね。友達に持ってきてもらうように頼んでたんだ。セイランちゃんも知ってる人だよ」
「へ? そうなんですか?」
「そうそう、ほら、前にTシャツの件を頼んだ――やあ、彼だよほら、見覚えあるでしょ」
シュウはやおら立ち上がると手をふり、道の向こうから歩いてくる人影を呼んだ。呼ばれた異人はフラフラとセイランたちのもとまでやってくると、座るでもなく卓に手を付いて体を支えた。メガネをかけた異人の顔色は蒼白であった。
「やあマオさん、どうしたの、そんな顔して」
マオと呼ばれた異人はぎくしゃくとシュウに向いた。
「マオさん?」
セイランはマオの顔を見た。四角いメガネにどことなく見覚えがあった。記憶を探り、セイランは一つの情景を探り当てた。Tシャツという名の、衫に似た異国の着物をかざし、満面の笑みを浮かべる異人。
「あ、あのときの」
「――朋友よ」
マオはセイランには答えず、シュウの方をがっきと掴んだ。後ずさるシュウをしっかりと捕まえたまま、マオは言葉を搾り出した。
「許してくれ、金は必ず返す。必ず返すから」
マオはそのまま崩れ落ちると、さめざめと泣き始めた。
あっけに取られた一同は誰からともなく茶碗に手を伸ばすと、それぞれのお茶を同時にすすった。
続く
但し書き
文中における誤り等は全て筆者に責任があります。
- 何がどうなったかが丁寧とは違う位置の一つ先で表現されていると感じた。異世界の大延国という中での雰囲気つくりは毎度秀逸。セイランも御転婆と思われがちだけど家や役だと律とした言葉遣いとかが宮廷ドラマを彷彿させる -- (としあき) 2013-02-04 22:10:25
- 読んで行くと登場人物それぞれを知るところからまた読んでみたくなる。 シリーズで確立している大延の枠の中に外から、地球からの色が入ってくるとまた違った空気が出ていると思った。 読んだ後に“セイランが成長したらどんな日常を送っているのだろうか?”と頭の中を過ぎった -- (名無しさん) 2013-02-06 05:42:00
- この人は大延国の中だけで完結していると思ってたので外からの人が出てくるのは意外だったが面白い -- (名無しさん) 2013-02-08 00:27:07
- 冒頭の躍字問答の様な風景は大延国ならではの面白さかなと。一転して後半の怒涛の会話劇の変わりようは爽快 -- (名無しさん) 2013-11-27 17:58:08
- セイランの人となりがあふれ出る序盤に頬がゆるみます。今のセイランの状況が未来で役目に励む姿を思い浮かべさせますね。今まで登場したキャラをじっくり丁寧に活かす構成は読んでいて楽しさが増します。思ったよりも地球と関係することが多くなってきたのが少し意外な展開でした -- (名無しさん) 2016-01-17 18:49:24
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最終更新:2013年01月23日 01:54