そうしてマオはTシャツを置いて帰り、セイランはといえば、テンコウとともにTシャツを検分しながら首を捻っていた。
市中に代書屋は何軒かある。たとえば虎人のカイ爺が営む代書屋はカイ爺が自分で写した簡字書を貸し出す貸し本屋も兼ねていて、セイランはよく利用している。他にも何軒か店があり、大事な書類を書かねばならない人たちがよく利用しているものであるらしい。
しかし、通関司ではもっぱら書を書いているのは大師の役目である。書は不得意であると自称しながら、セイランの見る限り大師はかなりの筆まめである。特に妖書の一件が起きてからというもの、大師は来る日も来る日も手紙を書き、各所に旅立っていく商人や塩客に託している。手紙を持たされてお使いをするのはいまやセイランの日課となっているほどである。
そんな大師が、異人のために代書屋を探すという。それも、わざわざ躍字を服の飾りに使うために、である。
――なんでわざわざ助けてあげるんでしょう。
セイランの理解する限り、現在の通関司とは異人とこちらの人間との間に立って、問題が起きればそれを解決するのが仕事である。しかし、売れそうもない商品を持ってきて勝手に商売を失敗している地球人の面倒をみることまでそこに含まれているのかといえば、セイランには大いに疑問である。もしセイランが同じことをして大師に泣きついたなら、厳しいお説教どころではすまないことは容易に想像がつく。
――ぜったい何かあります。
だが、具体的な理由のほうは全く見当も付かない。仕方なくセイランはマオが置いていったTシャツを広げて眺めながら、どんな字を載せたら見栄えがするかを考えていた。普段こそ長衫に足元を縛った袴と、一見では男子と間違われかねないような格好に親しんでいるセイランだが、おしゃれに関心がないわけではない。もたれかかってくるテンコウをああでもないこうでもないと生地の上に指を滑らせていると、大師が部屋に入ってきた。
「おや、公主」
大師はセイランの隣に腰を下ろすと、提げていた筆箱を開いて中身を取り出しはじめた。思わずセイランは首をかしげた。
「あれ、代書屋さんにやってもらうんじゃ」
「いえ、私がやります。ちょっとした実験をしたかったものですから」
「実験? なんの実験ですか?」
「上手くいったらお教えします。それより、ちょっとしたお手伝いをお願いしたいのですが、よろしいですか」
「えー」
セイランは眉をしかめた。
「ひょっとして私が書くんですか。それはまずいんじゃないですか。私の字じゃ売り物にならなくなっちゃいます」
「私が書いてもそれは同じことでしょうね」
「そんなことないと思いますけど」
「いずれにせよ、書くのは私たちではありません。これを使います」
大師は筆箱の底から何かを取り出してごとりと机の上に置いた。足のついた薄く平たい卓の形をしている金属板の表面には無数の細い溝が縦横に走り、ところどころに筋を横切るかたちで太い溝が打ち込まれている。板の四隅には筋につながったくぼみがあり、わずかに墨がこびりついていた。大師が続いて取り出したのはいくつもの小さな金属板である。指ほどの幅しかない板を取り上げると、大師はそれを溝に差し込んでいく。筋の道が板でさえぎられ、まるで迷路のようだとセイランは思った。
セイランは大師を見上げた。
「大師、なんですかこれ」
「流版といって、印刷に使う道具です。私が昔使っていたものです。公主、お手数ですが、墨をすっていただけますか。それと、捨ててもよい箸を二つほど使いたいのですが」
「はい」
セイランは立ち上がり、厨房で箸と水とをとって戻ってきた。戻ってくると大師は机の足に折りたたんだ紙を挟み込んではひきぬき、机の上に置かれた板の様子を確かめている。不思議な光景に、セイランは目を丸くした。
「あの、大師、なにしてるんですか」
「はい? ああ、これですか。調整です」
「机の面が水平にならないといけないのですが、どうもこの机がガタつくものですから。見苦しいところをみせてしまいました」
苦笑しながらも、大師は机と格闘している。思わずセイランは笑った。
「ちょっとびっくりしました。あのね、大師、テンコウの毛でもはさんどいたらいいと思いますよ」
セイランは水入れを置くと、テンコウの体からもこもこした毛をむしりとって机の足に挟んだ。机の様子を確かめた大師は満足げに微笑んだが、すぐに口元を引き締めた。
「ありがとうございます。しかし、公主様、あまりテンコウ殿をぞんざいに扱うのはおやめください」
「ぞんざいじゃないですよ。いつも自分でむしってますよ。ねえ、テンコウ」
テンコウは首をひねり、その捻った首が一回転した。大師が苦笑した。
「しかし、いつもいつもテンコウ殿の毛をむしるわけにも参りませんから、机の事はいずれ何とかしましょう。さて、では始めましょうか。墨をこちらに」
セイランがすずりを渡すと、大師は墨を流版のくぼみにあけた。
くぼみにたまった墨は流版に刻まれた筋の上を流れ、あるいは溝に差し込まれた板にせき止められて流れる向きを変えていく。不思議と墨があふれる事はない。と、不意に流版が小さく震えた。次に起こった出来事にセイランは目を瞠った。
流版から、墨がはがれた。
始めは恐る恐ると言った様子で行きつ戻りつしていた墨は、やがて意を決したように全体を流版からもぎはなし、ゆらゆらと中空に浮かび上がった。震える墨は呆然と見つめるセイランの視線を捕らえ、自らの内包する意味を流し込んだ。
『こにごんどすろむ!=はろい』
「――はい?」
大師が箸を伸ばし、中空の躍字をつまみ取った。反対の手でTシャツを取り上げると、大師はセイランにうなずきかけた。
「公主、広げていただけますか」
「え? あ、はい」
そうしてセイランがTシャツを床に広げると、大師はその上につまんだ躍字を無造作に置いた。はじめこそ不満げにうごめいていた躍字も、やがて落ち着いたのかその動きを止めた。大師がシャツを取り上げてセイランに示す。放射している意味は相変わらず理解不能なものである。そろってぽかんと口を空けたセイランとテンコウとは裏腹に、大師はいたって満足げである。
「中々よさそうですね。ではこの調子で行きましょう」
言うが早いか、墨を流版のくぼみに流し込み、浮かんだ文字を箸でつまみあげていく。セイランが並べるTシャツに貼り付けられていく文字はいずれも同じ、セイランには無意味としか思われない代物である。しかも不思議な事に、墨でできているはずの躍字は生地にしみこむでもなく、ただ貼り付いているだけのようである。乾かそうとしてテンコウに出来上がりをかぶせていたセイランは、そのことを大師に問いかけた。
「書いているわけではありません。いうなれば、宿しているのです。これが流版のよいところなのですよ」
そう言って大師はセイランに箸を渡し、字をつまみあげてみるように促した。おっかなびっくり伸ばしたセイランの箸に、躍字はいともあっさりと捕まえられておとなしくなった。テンコウが押さえているTシャツに貼り付け終わると、セイランは大師に振り返った。
「それってどういう事ですか? なんか変な字なのも関係あるんですか?」
「本来はきちんとした字を書くことも出来るのですよ。ほら、墨が流れる溝に板が差し込めるようになっているでしょう。こうして墨の流れる道筋を調節する事によって、さまざまな字を作ることができるのです。おかしな意味になっているのは、単にいい加減に作ったからというだけのことです。躍字はこの世のいかなる物事にも対応していますが、上古のうちに理解できる者の失われた概念などにも対応する字があるのです。これもまた、そうした文字の一つなのかもしれませんね」
「じゃあなんではがれるんですか?」
「後から流れてくる墨に押されるからです。公主様は涼粉はお好きですか?」
でんぷん質を固め、蜜をかけて食べる冷菓のことである。セイランはうなずいた。
「では涼粉を入れ物に入れて押せば、開いた口からはみ出してくるのはご存知でしょう。それと同じ事です。躍字は基本的に、自らの形を保とうとします。溝に導かれた墨によって書かれた躍字はその場に留まろうとしますが、後続の墨が流れ込んでくるのでいつまでもその場に留まってはいられません。そこで押し出されてくるというわけです。いったんはがれた後も、文字は自分を形作る墨を手放そうとはしなくなります。故に、裏にしみこんだりもしないのです。まあ、当分の間は、ですが」
「へえ。面白いですね」
「この仕組みは大延国三筆の一人とされるコウフが作り出したものです。文字の神
ルガナンの祭祀をつかさどる一族の血を引いていたとされるコウフは躍字にまつわるさまざまな工夫を作り出しましたが、流版はその中でも最も優れたものだといえるでしょう。糧札の印刷などにも、これと似た技法が用いられているのですよ」
「手書きだと思ってました」
「元の文字を流版で作りさえすれば、あとは単純な手作業で移すだけですからね。手書きよりも簡単にたくさん作れるのです」
「なるほど。あ、でも、せっかくくっつけたのに、またはがれたらどうするんですか」
「しばらく置いておけば、そのうちそこに定着してくれますよ。手荒な扱いをすれば別ですが」
「じゃあ、居つくまでどこかに置いておいた方がいいんですか?」
「そうですね。ああ、そういえばそのことは考えていませんでしたね。紐か何かを渡しましょうか」
今気がついたと言わんばかりに大師は思案顔である。と、テンコウが一声鳴いた。セイランと大師の目の前でテンコウは足をぴんと張って立ち上がると、その身をぐんぐんと伸ばし始めた。雲のような体はどこまでも細く伸び、部屋中をテンコウの体が横切るような形となった。驚いている大師をよそに、セイランはいち早くテンコウの意図を理解した。
「テンコウ、物干しになってくれるんですか?」
「こしゃん!」
天井付近でフラフラしているテンコウの顔がうれしげにうなずく。セイランは立ち上がってTシャツを一枚取り上げると、手近なテンコウの体にそっと埋め込んだ。途端にテンコウが口を尖らせて息を吸い込むと、テンコウの体の表面が空気を吸い込んでTシャツを貼り付けた。次々にTシャツを貼り付けていくと、テンコウが嬉しそうに体をくねらせた。
「良かったですね、大師。テンコウもたまには役に立ちます」
複雑そうにテンコウを眺めていた大師も、セイランの言葉に笑みを返した。
「問題はないようですね。では公主、残りもやってしまいましょう」
「はい」
そうしてセイランと大師は墨をすり、躍字を流版から摘み上げてはTシャツに貼り付け、テンコウの体に埋め込んでいった。最後の一枚の分となる墨をすりながら、ふとセイランは大師に気になっていたことを問いかけた。
「大師、あの、質問いいですか」
大師が長いほうの眉を小さく動かし、無言で先を促す。セイランは続けた。
「あの、なんで異人さんのために、わざわざこういう事をしてあげるんですか?」
「それが我々の仕事だからです」
「でも、こういうのは含まれるんですか? だって言っちゃ悪いけど、あの人じゃ商売しくじるのも無理ないって感じがします」
大師が苦笑したが、セイランは勢い込んで続けた。
「大体躍字って、飾りに使うものじゃないじゃないですか。それをわざわざ作ってあげるってどうしてですか」
「――公主さまのおっしゃるとおりです。彼には商売は向いていないでしょうし、そんな彼を助ける必要も別にありません。ただ、今回の件に関してはちょっとした理由があるのです」
「どういう事ですか」
「ちょっとした実験です」
「なんなんですか、それは」
「躍字が異世界でもうまく存在できるかという実験なのです」
「え? できないんですか? だって異世界でも躍字があるっていってましたよ」
「あくまで、ちょっとした確認です」
セイランにしてみれば、躍字がないという状況はにわかには想像しがたいものである。大延国の民のご他聞に漏れず、セイランもまた生きた文字という概念には大いに親しんでいる。
答えはすんだといわんばかりに大師は流版を脇に除けると、今度は筆を取り出して墨を含ませ始めた。机の上を片付けて紙を広げ、さっさっと文字をつづり始める。セイランは大師の手元を覗き込んだ。なにやら手紙のようである。
「あの、そういう実験をすることが、どうしてうちの仕事になるんですか」
「厳密に言えば、これは我々の仕事ではないのかもしれません。ただ、どうしても確かめておきたかったのです」
「どうしてですか?」
大師は答えず、流れるような手つきで筆を滑らせていく。セイランは手紙の内容から礼儀正しく意識をそらし、代わりに大師の横顔を眺めることにした。大きく裂けた口から蛇のような舌が時折覗く。真剣そのものである。やがて手紙を書き終えた大師は一通り内容を検分すると、手から金炎を生じさせて墨を乾かした。折りたたんで封蝋で留め、指の先で押さえて印を押す。大師の印は自ら変形させた指紋である。
「公主さま」
「はい」
「ここの片づけをお願いできますか。私は鋼鵜亭に行ってまいりますので」
セイランはうなずいた。鋼鵜亭とはこの地の塩客たちがたまり場にしている酒家の一つである。主に大都方面に向かう旅客を相手にするものたちが多く、その中の一人であるエンリョウという男には、大師がしょっちゅう手紙を頼んでいる。無骨な男たちの多い塩客たちだが、使いで訪れるセイランには皆優しい。
「分かりました。やっときます」
「よろしくお願いします」
大師は小さく頭を下げる。そのまま部屋を出て行こうとした大師が、ふと思い出したようにセイランに向き直った。
「公主様、流版の片付けは結構です。あとで自分で手入れしますので」
「――あ、はい。そうですか」
セイランは取り上げていた流版を机の上に戻した。なおも未練がましくちらちらと視線を送るセイランに、大師が苦笑した。
「できればご自由に使っていただきたいのですが、なにぶん借り物なのです。公主様を信じないわけではありませんが、できれば自分で管理しておきたいのです。よろしいでしょうか」
「借り物ですか。お友達の仙人様から借りたんですか」
「いいえ、仙人は仙人ですが、別にただの知り合いですよ。断じて友達などでは」
そう答える大師の口元はわずかに歪んでいる。珍しいとセイランは思った。そもそも、セイランは大師の交友関係をあまり知らない。セイランの兄ハンリョウやそのほかの高級官僚と詩文をやり取りしていることは知っているし、当代の白王とも親しくしていることも知っている。しかし、他の仙人と一緒に居るところはセイランはみた事がない。仙人であるからには師父や兄弟弟子がいるはずなのに、正月やそのほかの行事に出かけていくこともない。それがどれほど珍しいことなのかはわからねど、大師が誰かを厭う様子を見せるのは間違いなく珍しいことである。セイランは大いに興味を引かれた。
「あの、その人ってどういう方なんですか?」
「――私の字の先生です。あれを先生と呼ばねばならないというのは業腹なのですが」
そう答える大師の顔は本当に苦々しげである。セイランは思わず笑ってしまった。
「大師がそこまで言うなんて、ものすごくいやな人なんですね」
「皮肉とあてこすりの達人でしてね。それにことさら無邪気なふりをしながら悪知恵ばかり働く。気苦労の耐えない相手でした」
セイランは先生に怒られている大師を想像しようとして失敗した。セイランにとっては、大師は権威と知性の象徴である。
「そんな人が先生って大変ですね」
「文字を操る腕前もまた一流でした。教えるほうはそうでもありませんでしたが。難しい字を次々に描き出しながら『ほれ、やってみい』と言うだけでね。できないと心底不思議そうな顔をするのです。『冗談はその顔だけで十分じゃよ?』なんていいながらね」
「……大変ですね」
「ですから、躍字に接するときには、今でもあの日々を思い出すのですよ」
大師は大げさにため息をついてみせ、セイランもまた和してうなずいた。そうして大師は出て行き、セイランは部屋中に広がったテンコウの体を掻いてやりながら、机の上に安置された流版を打ち眺めた。大師が持ち主のことを話していたときの表情を思い出して微笑んだ。
――大師にも苦手な人っているんですね。
一体どんな人だろう。取りとめもない想像をめぐらしながら、セイランは立ち上がった。テンコウの体に埋め込まれたTシャツの具合を確かめ、一枚をはがして恐る恐る畳んではまた開く。躍字は逃げ出すでもなくそこにある。
だが他のTシャツをはがしていくうちに、セイランは異変に気が付いた。一枚足りない。天井付近にあるテンコウの頭を見てみれば、なにやらもぐもぐと食んでいる。セイランはあわてて飛び跳ねた。
「ちょ、ちょっとテンコウ! 何してるんですか!」
「にゃひう!」
どうやら体の表面から吸い込んだシャツを、体の中を通して口元まで運んだものらしかった。テンコウは心のそこから幸せそうにシャツをもぐもぐやりながら、顔をセイランのところまで下ろしてきた。丸い顔に満ちているのはまじりっけなしの平安である。
「ダメでしょテンコウ、返しなさい」
「もろう?」
セイランの抗議もどこ吹く風、テンコウは口を動かしながら首をかしげるばかりである。仕方なくセイランはテンコウの顎に手をかけると押し開き、手を突っ込んでTシャツを取り出す作戦に出た。くすぐったげに身をよじるテンコウとしばし格闘した末、セイランはTシャツをどうにか取り戻した。くしゃくしゃになったTシャツからはよだれが垂れ、定着させた躍字が耐えかねたように宙に逃げ出した。ふらふらと追いかけるテンコウと逃げ回る躍字を横目に見ながら、Tシャツを広げてセイランは深いため息をついた。
Tシャツの値は、十糧である。
――やっぱり高いです。
セイランは苦笑いすると、浮遊する字を捕まえて文鎮で押さえると、そのまま洗濯に行った。ここではちょっとした洗濯もまた、セイランの仕事の一つである。
翌日、セイランたちはマオに出来上がったTシャツを渡した。幸いテンコウのよだれはすぐに洗い落とすことができ、マオは気付いた様子もなく礼を言って受け取った。
これが、二週間前の出来事である。