ここに来る途中で喧嘩しているのを聞きつけて――と、白王はいう。
「ここから南東に行ったあたりの石切り場に続く道です。そこで、何か押し問答してたみたいなんです。で、カンペイさんが急に怒り出して。それで、見逃すのもどうかと思って仲裁に入ったんです。そうしたら」
「借金のかたに売り飛ばしてやるって話をしてたんですか」
「いいえ」
白王は首を振る。
「今日のお昼は肉にするか点心で済ませるかで喧嘩してたんです。お昼からたらふく食べたいというカンペイさんと、そんなお金があるなら娼館に行くと言って聞かない異人さんという構図でした」
セイランは目をむいて白王を見返した。白王はあくまで真顔である。
「そ、それで」
「食事が先だとカンペイさんがどうしても譲らないんですけども、異人さんも中々強情なようでした。取っ組み合いになりそうでしたので失礼して割り込みましたら、お二人とも腰を抜かしてしまわれて。しょうがないのでこちらまでお連れしようとしたら、異人さんが突然助けを求めてきたんです。石切り場に売り飛ばされそうになっていらっしゃるそうでした。マオさんとおっしゃるそうですね」
「それで、カンペイさんを逮捕したんですか」
「始めは否定されてたんですけど、こちらへお連れする途中にきちんとお話を伺ってみたら、ちゃんと認めてくださいました。なので、大師に引き渡したんです」
あのカンペイが多少抵抗したにせよ自らの罪を認めるところなど、セイランには到底想像不能である。その事を伝えると、白王は無邪気に微笑んだ。
「地に足がついていない時に、自分を偽れる人間なんてほとんどいませんから」
その手があったかとセイランは内心喝采したが、表には出さなかった。
「白王様が二人を引っさげて着地されたときは何事かと思いましたが、事情が事情ですので、うちで引き受ける事にした次第です」
セイランと白王の先に立って通関司の階段を上りながら、大師はつと足を止めて振り返った。カンペイを空まで引きずり上げて説教する光景を想像していたセイランは、ふと現実に引き降ろされた。
「そういえば公主様、例のカンペイ殿がいろいろと申しておりました。なんでも公主様が異人の人身売買をお認めになったとか何とか」
『カンペイさん、見逃しの件ですけど、私、何かできることあるんじゃないかって気がしてきました』
セイランは動揺をおくびにも出さなかった。眉一つ動かさずに「ふーん、そうですか」と言ってのけ、大師の虎眼を正面から見つめ返した。瞬きふたつほども持たなかった。思わず眼をそらしたセイランを見下ろして、大師はこれ見よがしにため息をついた。
「冗談でも、ものによっては心無い人に言葉尻をつかまれて引き倒されることになりかねません。お気をつけください」
「……ごめんなさい」
「大変結構です。特に、あのカンペイ殿を相手にするときには、あまり気を抜いてはいけませんよ。見た目に騙されませぬよう」
「あいつがこずるいのは見た目そのままだと思いますけど」
「見た目はそれほど当てにならぬものだと申し上げたいのですよ。何しろ、見た目はいくらでも装う事が出来ますのでね。公主様におかれましては、中身を見通す眼を養っていただきたいものです」
――あいつの中身なんて、そんなの誰にだって分かります。ただの面倒くさがりのアホです。
言い返しかけたセイランだったが、大師たちは既に足を止めていた。そう広くもない通関司の二階の廊下で、先導していたレイレイが大師たちに道を譲って頭を下げた。レイレイが、何かに驚いたように眼を瞠っているのを、セイランは視界の隅で捉えていた。
書斎の扉は閉ざされ、奇妙に静かである。この中にあのカンペイが押し込められ、しかも掃除をさせられているらしい。にもかかわらず、あたりはまるで八耀殿の困阿堂のように静まり返っている。セイランのわがまま勝手をいともたやすく押さえ込んで来たレイレイをして、これ以上押さえ切れないと言わしめる騒ぎの有様はどこにも見えない。
ふと、白檀の香がセイランの鼻をなでた。微笑みかけた白王が、いたずらっぽく口の前に指を立て、大師に向けて何事かうなずきかけた。。応じてうなずいた大師が、ゆっくりと扉を押し開いた
言葉が、開いた扉の隙間から奔流のように流れ出してきた。
「おそい! 遂に来たか! とっとと帰らせて貰うぞ! それもただ帰るのではない! お詫びの印に千金万貨を持たされ、責任者の小娘が叩頭しながら涙ながらに謝罪の辞を述べるのでないと満足しないからな! とんでもない不当監禁だ! とっとと小娘をだせ!」
まるで堰を切ったようだ――とセイランは思った。何しろ、扉が開くその時までは、カンペイのものすごい大声は全く聞こえていなかったのである。カンペイは正座していた。卓につき、きちんと背筋を伸ばして手に持った筆を動かしながら、首だけこちらに向けてすさまじい勢いで唾を吐き散らしていた。その眼がセイランに据えられて見開かれ、次に大師に動いてひるんだように細められ、白王からは注意深くそらされて、再び自分のほうに向けられて血走るのをセイランは余裕を持って眺めた。中々に面白い百面相である。
「カンペイさん、カンペイさん」
蚊の鳴くような声が、机の向こうから流れてきた。セイランがそちらに眼をやれば、そこにいるのはマオである。神妙そのものの態度でこれまた正座しているマオは、まるで夢でも見ているように首を曲げてあさっての方向を向いている。
マオが見ているのは、『簿』の躍字である。
今しも、マオの顔めがけて『簿』からするすると文字列が伸びはじめた。文字列は事もあろうにマオの鼻の穴に滑り込んで止まり、しかしマオは一向に動じない。何事もなかったように鼻の穴から文字列を引き抜いてつまみ、ずれた眼鏡の向こうから眼だけをずるりと動かして内容を読み取る。こんなにも精彩に欠けた様子の異人を、セイランは今までみた事がなかった。
「カンペイさん、次は『耀白二十一年 石月十日 物品:食糧品、磁器、木製工芸品 許可』だそうです」
力の抜けきった平板な声に、カンペイの舌打ちが重なる。セイランをにらみつけたまま、カンペイはすさまじい勢いで筆を滑らせる。手元を見もせず、姿勢を揺るがす事もなく、カンペイの筆は用意された紙にさらさらと文字をつづっていく。筆運びは、セイランの見る限りでは達人のそれである。俄かには信じられない光景に、セイランはにらみ返す事も忘れて放心した。大師もまた、驚いたようにほう、と声を漏らした。
「なかなかご立派なお手前ですね、カンペイ殿」
「この程度の事、だれでも出来て当たり前でしょう。まともな教育を受けていさえすればの話ですが」
言いながらセイランをにらみつけて鼻の穴を大きく広げる。なんとも憎たらしい顔つきだが、しかしセイランは注意を払う事はなかった。後ろのほうで蚊の鳴くような声で読上げているマオと協力して、カンペイは恐ろしい速さで『簿』を書き下している。そのあまりの手際のよさに、セイランは思わず見ほれてしまっていた。ゴミ箱を開けてみたら宝が入っていたような、そんな思いもかけない状況である。
「カンペイさん、すごいです」
「みっともないことを嬉しそうに言わんほうが良いですぞ。先ほどから申しているように、これはあくまで教育の賜物。小生が才にあふれているからこのようなまねが出来るわけではないのです。ボンクラだろうとなんだろうと出来て当然、そのように目ん玉広げて驚いてみせることなど途方もなく恥ずかしいことなのですぞ。まあ、公主様におかれましては、一生かかっても手の届かぬ技かもしれませぬがな」
飛び出す嫌味の合間にも、カンペイの口からはよだれが当たり一面に降り注いでいる。しかし、紙の上だけは別である。まるで傘でも差したように、小さな染み一つ落ちはしないのだ。それがまた面白く、セイランはカンペイのこれでもかとばかりにいやみったらしい口調も気にならなかった。カンペイが鼻を鳴らした。
「まあいいでしょう。それで? モノは用意したのでしょうな?」
「モノ? なんですか?」
「この小生にお詫びとして渡す金だああああああ!!」
カンペイは筆を投げ捨て、立ち上がり、セイランにどしどし歩み寄って息を吹きかけた。凝り固まった口臭をこれでもかとばかりに浴びせられ、いつとも知れぬころからカンペイの前歯に挟まっているに違いないにんにくのかけらを拝まされながら、セイランはカンペイに対する評価を改めた。中身に宝が入っていようと、ゴミ箱はゴミ箱であって、近寄られるのは御免である。
「そもそもお前が約定を破るからこのような面倒な事になったのだ! 小生の金はどうなる! 何もかも異人が悪いのだから責任を取ってもらおうとするのは当たり前の事ではないか! 売り飛ばされたって自業自得だ! それも売り飛ばそうとしていたわけではないのだぞ! 未遂だ未遂! 推定無罪と言う言葉を知らんのか!」
「いや、未遂は未遂ですけど、でも売り飛ばそうとしてたのは事実でしょ」
「知った事か! 売り飛ばしてから文句言え! それをなんだ、ちょっと言い争いをしていたからなどという曖昧な理由で拘留され、さらには空まで飛ばされて不当に尋問されたのだぞ! あんなとんでもない拷問を受ける気持ちがお前に分かるか!」
「まあ、拷問のつもりはありませんでしたよ」と白王が微笑んだ。
カンペイはぎくしゃくと白王に目をやると、注意深くそれを無視して再びセイランに覆いかぶさった。
「挙句の果てにはここで掃除に書き物までやらされると来た! それもお前の尻拭いとしてだ! 大体お前が何もかもきちんとしておれば部屋に墨が飛び散る事もなく、その飛び散った墨をぬぐわされる事もなく、何よりお前の書き散らした書き取りと称する代物を拝まされて気分が悪くなる事もなかったのだ! なんだあののたくったヘボ字は! 見るからにお前の性根が表れておるわ! 誰に習ったかしらんが、どうせろくな教師ではないでしょうな!」
「まったくもっておっしゃるとおり。汗顔の至りです」と大師がつぶやいた。
カンペイは大師にぎくしゃくと目をやると、またしても無視してセイランに指を振りかざした。
「とにかく、事がこうなったのは何もかもお前の責任だ! 薄弱な根拠で束縛し、労苦を強いられたこの恨みは重い! だが小生は心のひろーい君子であるから、お前が反省の念を表せば許してやらんでもない。ひとまず叩頭せよ! 然る後に金を積め! 小生の被った損害を全てお前が償うのだ! 早くしろ! 今すぐだ! きええええええええ!!!」
カンペイは気の狂ったような勢いで泡を飛ばしている。セイランは一歩引いて飛び散る唾を避けると、大師と白王を交互に見上げた。セイランは見慣れたものであるからよいとして、二人とも眼前の代物に動じる様子は一切ない。流石である。
なおもわめきたてようと口を開いたカンペイに、ふと、白王が指をかざした。
全ての音が消えうせた。
一瞬、セイランは確かにそう思った。
だが、消えたのはカンペイのわめき声だけだ。どこからともなく現れた見えない壁がカンペイを押し戻し、飛び散る唾を受け止め、壁の向こうで発されているはずのわめき声を全てさえぎっている。両手を振り回して調子を上げるカンペイの踏みしめる脚は卓を揺さぶり、墨をこぼし、振動はセイランの足元にも確かに伝わっている。だが、音だけは全く聞こえない。
カンペイも見えない壁の存在に気が付いたのか、口を閉じた。城壁にでも穴を開けられそうな視線でこちらをにらみつけると、床を踏みしめて筆写に戻っていく。彫像のような目でこちらを眺めていたマオに、再び躍字が伸びていった。しぶしぶ作業を始めた二人にむけてにこやかに手を振りながら、白王は物いいたげなセイランに微笑みかけた。
「カンペイさんってとっても声が通る方なんですね。ただちょっとご近所迷惑かなと思いましたから、作業中は音を通さないようにしておいたのです。大気で壁を作ってですね。何かのときのために、監督役のレイレイさんにだけは声を運ぶようにもお願いしておきました。でも、もう少し慎み深い方かなと思っていたんです。レイレイさん、大変だったでしょう?」
急に振られて、レイレイはあわてたように頭を下げた。
「もったいないお言葉にございます。白王様じきじきにご配慮いただくなど」
「でも、うるさかったでしょ?」
「――実を申しますと、すこし」
「だいぶ?」
「――かなり」
「それでも、文句を言いながらとは言え、あのカンペイ殿が働くところに居合わせられたのは貴重な経験だったでしょう」
「ええ、それはもう大師のおっしゃるとおりですわ。白王様、お礼申し上げます」
「あら、どういたしまして」
白王はころころと笑う。ふと大師が、セイランに向き直った。ぜひとも大気の壁の作り方を教わらねばと内心決心していたセイランは、現実に引き戻された。
「さて、公主様」
「はい?」
「ご決定をお願いします」
「何の、ですか?」
「このものの処遇をどうするかです」と大師は目を血走らせたカンペイを指す。
「この国の民を売り買いするのでさえ、特別な免許が必要です。加えて、異人の身を売り買いすることはきわめて重大な外交問題になりえます。ここでどういった処置を下すかで、今後に大きな影響が出るでしょう。いかがされますか?」
「いかが、って……」
突然現れた重大決定に、セイランは思わず呆けた。にっくきカンペイをこき使って溜飲を下げるだけでは済まないものであるらしい。大師はあくまで真剣であり、白王すらセイランの言葉を待っている。セイランはなんとか心を建て直し、懸命に考えをめぐらした。いや、めぐらせようとした。
ぐう、という間抜けな音がセイランの腹から飛び出し、積みあがりつつあったセイランの思考を根っこから突き崩した。
「――昼食の用意を致しますわ」
大師がため息をつき、白王が満面の笑顔になった。抑揚を抑えたレイレイの言葉に、セイランは顔を真っ赤にしてうつむいた。
食事にはカンペイたちも同席する運びとなった。セイランは抗議したが、白王の「仲間はずれにしたらかわいそうですよ」の一言であえなく引き下がらざるを得なくなった。幽鬼のように成り果てたマオを先にやり、親の仇を見るような目でこちらをにらみつけるカンペイに対して、セイランは白王様と食事をするのだから、せいぜい行儀よくするようにと申し渡した。
カンペイ答えて曰く、
「公主様のごとき小娘から礼儀を教われる日がこようとは痛み入ります。今にも感涙の海で溺れてくたばれそうですな」
じゃあくたばったらいいです、とは流石のセイランも口には出さなかった。火もつきかねないにらみ合いを続けながら食事部屋に入り、カンペイやマオの世話を買って出ようとする白王を制し、今にも死にそうなマオを大師の指示で隣に座らせ、そのずり落ちた眼鏡を直してあげているうちに、やがて食事が運ばれてきた。雑穀の粥に、申し訳程度のあぶり肉。このところ贅沢という言葉の意味を忘れそうになりつつあるセイランすら驚く粗食である。いかにも申し訳なさそうに給仕するレイレイの気持ちを汲み取り、白王に詫びを述べようとしたセイランが見たものは、既にさじで粥を口に運び終えている白王の姿だった。早業である。
「ちょうどおなかが減ってたんです」
顔を赤らめながら白王は笑う。セイランは言葉を飲み込み、レイレイは胸をなでおろして立ち去り、開いた大口から文句と唾とを発射しようとしていたらしいカンペイも黙り込んだ。そうして黙々と食事は進み、食後の茶が運ばれてきたところで、大師がゆっくりと口を開いた。
「それで、カンペイ殿。いかなる事情があって、異人を売り飛ばそうなどとされたのですかな」
カンペイは茶碗を掴んだままそっぽを向いている。答えるのはそちらの義務だとばかりにセイランをにらみつけるばかりである。しかたなく、セイランはマオの商売とその失敗について話した。異世界での商売が失敗し、巨額の借金を負い、カンペイたちの金に手を付けて逃げてきたという事情を語り終えると、ぴしり、と音を立ててカンペイの手の中で茶碗が欠けた。
「なるほど」
顔色一つ変えぬ大師が、マオに視線を振り向けた。
「本当ですかな? 何かおっしゃりたいことは?」
「だまされたんだ……」
虚ろに輝く眼鏡をずりあげ、マオの口から言葉が流れ出した。
「本当なら大成功するはずだった……途中までは上手くいってたんだ……なのに商品が……模様が消えるだなんて知らなかった……俺は知らなかったんだ!」
マオは立ち上がり、咆哮した。抜け殻のように乾ききったマオの体の中で、何かに火がつき燃え上がったようだった。セイランは耳を押さえ、蹴倒された椅子を受け止めながら、呆然とマオを見上げた。
「俺はだまされたんだ! そもそも俺のTシャツに字を書く手配をしたのはあんたらじゃないか! あんたらにだって責任があるはずだ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 確かにいくつかはこっちで書きましたけど、残りはマオさんが自分で用意したんじゃないですか」
「はっ、なるほど。件の欠陥商品は公主様の手になるものでしたか。なら消えるのもやむなしというところですかな」
「そうとも! すくなくとも十着ぶんはそちらの責任だ! しめて五千元、きっちり耳そろえて払ってもらうからな! 慰謝料もだ!」
「五百糧ですか。いやはや」
大師がつぶやき、その眉毛が白く変色した。
五千元といえば大体五百糧。しばらく遊んで暮らせる額である。セイランはふと、怪気炎を吐いているマオが天井や壁でも観察すればいいのにと思った。年季の入った壁からは漆喰が零れ落ち、天井には雨漏りのシミがある。セイランたちがどうにか人間らしい暮らしを送れているのは、ひとえに家事を預かるレイレイの信じられないほどの努力があればこそだ。五百糧など、通関司を逆さに振っても出てくるはずのない金額である。
セイランとて冷めているのだから、大師は冷静なものだった。卓に登りかねない様子のマオとは対照的に、身を乗り出しすらしない。
「我々に責任があるとおっしゃいましたが、果たしてそうでしょうか」
「お前達が用意した字が消えたんじゃないか! それもきちんとした職人にやらせたならともかく、そちらの素人が用意したんだろう? 子供なんかに書かせるからだ! 不手際だ!」
マオの雄たけびに、カンペイが深々とうなずいてセイランをねめつけた。セイランは済ましてこれを流し、応ずる大師もまた肩をすくめた。
「いかにも、字を用意したのは我々ですし、その過程で公主様が多大な役割を果たされたことも間違いありません」
「ほらみろ!」
「しかし、字が消え去ることと、誰がその字を書いたかと言うことにはあまり関係がないかもしれないのですよ」
「は?」
「躍字はこちらの世界に属するものです。異界に持ち込めば、支えをなくした文字が消え去ることは充分にありえます」
「はい先生!」
白王が素早く手を挙げた。まるで大気が爆発でもしたかのように、マオとカンペイとが首をすくめた。硬直するマオに、白王は微笑みかけた。薫風の爽やかな笑みである。
「聞けば、異世界では風は歌わず、水は囁かず、大地は語らず、火は焼くものを選ばないとか。なんだかすごいところみたいですね。こちらの世界とも理がちがう、だから字も消えてしまうということですか?」
「え、あ、ああ、そうなんですか」
「そうです。特に躍字は、こちらの世界固有の力、神力によって駆動しているという性質があります」
たじろぐマオを、大師の静かな言葉が引き取った。
「故に、異なる世界に持ち込まれた躍字がこれまでどおりの状態を保つかどうかは誰にも分からないのです。この分野は我々にとっても未開拓であって、全く情報がありませんでした。ですから、事前に警告することも不可能だったのです。我々に責任はありません。同情はしますが」
突き放すような大師の言葉に、マオは萎みはしても倒れはしない。まるで袋の中に棒が入ってでもいる様に、平静を保つ何かがある。それどころか、まるで大師の言葉を予期してでもいたように流暢な反撃が飛び出した。カンペイですら目を瞠った。
「私が聞いた話と違うぞ! 確かに字はこちらの世界のものだ! だがしかるべき処置をすれば、異世界でもきちんと躍字がその性質を保つと聞いている! 異世界にはそうして持ち出された書だってあるそうじゃないか! 何も知らなかったなんて言わせないぞ!」
大気が、色を変えた。セイランには確かにそう思われた。
新たな色の源は大師だ。取り付く島のない鱗のような顔に、今はひび割れが出来ている。手に取れるほど熱い関心が、はがれた鱗の隙間から流れ出してマオを撃ち、ひるませたのがセイランにすら分かった。
「そのことをどちらで?」
「……こ、『紅玉楼』ですが……」
「『紅玉楼』にそのような話を出来る人間がいようとは思いませんでしたが」
「それは、だって確かに居たんだ。代書屋だって言ってた」
「失礼、どうやら、先ほどの公主様のお話では、そこのところを聞き落としてしまっていたようです」
言い落としてしまっていた。大師にちらりとも視線を向けてもらえず、それなのにこちらを見ていることだけは痛いほど伝わってくる。セイランは青くなって、マオが『紅玉楼』で出あったという代書屋について説明した。といっても大したことは言えない。ただそういう男がいたと聞くに留まっていたからである。セイランのたどたどしい説明を聞き終わると、大師はカンペイに厳しい視線を向けた。
「よろしければ、件の代書屋について、より詳しいお話をお聞かせ願いたいのですが」
大師の虎目は広がり、輝いていた。ぎちぎちと音を立てて甲殻が動き、さわさわと揺れる羽毛に虹色の波が走る。上背がわずかに伸び、横幅も広がって影を落とす。伸びだした蛇の舌の先に、ちらちらと踊るのは金炎だ。大師が繰り出す最大限の威圧行為は、セイランにもたまにしか見た覚えがない。しかし、マオときたら踏みとどまっていた。セイランは内心舌を巻いた。
「――その情報がほしいなら、情報料を頂きましょうか。そう、五百糧ぐらい」
「流石ですぞマオ殿、その手がありましたな! そういうことですから、さっさと耳そろえて払っていただきましょうか。おっと、件の代書屋の追及もお任せしたいものですな。なにしろそれがこちらのお仕事だと聞き及んでおりますからな」
「本当ですか? おい、だったら代書屋を捕まえて金を取り立ててもらうぞ! しめて六万元だ!」
「小生の取り分三千五百糧も確保しておいて貰いますぞ! いや、全て取り戻したわけではないとは言え、どうやら流れが向いてきたようですな!」
「ですね!」
息を吹き返した様子のマオに、立ち上がったカンペイが拳を突き上げてみせた。セイランは視線で二人を氷漬けに出来ないかと空しい努力を試みた。大師もまた、同じ努力をしているようだった。感情の抜け落ちた言葉が、大師の蛇舌からすべりでた。
「――どうにか、協力していただくわけにはいきませんか。五百糧は抜きで」
「断る」
「お断りですな」
にべもない。セイランは思わず立ち上がった。セイランは決してカンペイやマオの善良さを過大評価したことなどなかったが、こんなに見苦しい言葉が飛び出してくるとまでは夢にも思っていなかった。軽蔑と呆れが、セイランの脚と耳に熱となって凝った。
「ちょっとカンペイさん、マオさん。それはあんまり酷いんじゃないですか?」
「何がですかな、公主様?」
いつの間にか、カンペイは席を蹴り、腰を上げたマオを引き寄せてセイランの間に入り込んでいた。
「こっちはあなたたちを助けてあげようとしているんですよ? マオさんが商売に失敗しちゃったのは確かにお気の毒ですけど、誰のせいでもないじゃないですか」
「ちっちっち、公主様におかれては、先のお話を聞いていなかったのですかな。責任のほとんどは件の代書屋にあるのですが」
「そうですよ、知ってます。だから、その代書屋さんの事が聞きたいって言ってるんじゃないですか。そうですよね、大師?」と答えも聞かず「なのに話を聞きたければ情報料を払えって、そんなのむちゃくちゃです! そんな事言うなら調べてあげませんよ!」
「ほほう、そうですか。こちらとしては別にそれでもよろしいですぞ。ねえ、大師?」
セイランは大師に目をやった。大師は黙して答えない。決して首を縦に振ることなどないだろうとセイランは確信していたが、それでも即座に返答がないのは大師らしくない失敗だった。カンペイが唾を撒き散らした。
「とにかく、そちらが金を払わないうちは、これ以上の情報は一切出ません。出しませんぞ。そうですな、マオ殿」
「そんなのダメです! マオさん、いいんですかそんなので! みっともないと思わないんですか!」
「おっと、マオ氏に対する働きかけは代理人である小生を通してからにしていただきましょうか」
「もう、二人ともむちゃくちゃです。無理やり聞き出したっていいんですよ! お空の上で聞き出してあげてもいいです」
「それは別に構いませんぞ。異人を助けるという触れ込みの役所が異人に働いた無体の全てを、ことごとく市中に触れ回るだけです。だまされた哀れな異人を無責任にも見捨てた挙句、必要なことだけは空に投げ上げてでも聞き出したと。いやはや、今後の仕事がさぞやはかどるでしょうな。通関司の仕事なぞ、せいぜい公主様のおままごとに毛が生えたような代物でしょうから、はかどっても何の役にも立ちはしないでしょうが」
セイランの口から言葉が失われた。息も失われそうになっていた。いつもなら軽々受け流せるはずのカンペイの侮辱が、今日はセイランの心に正面からぶつかり、小さからぬ傷をつけていた。こんなにもふてぶてしく、理屈の通じない悪党が、それも自分の目の前にいる。そのことがセイランの心を重くさせ、ために衝撃が逃げないのだ。口をパクパクさせたセイランは、思わず大師に視線を向けた。
大師の眼は奇妙にうつろだった。セイランを助け、道理と権威を振りかざしてマオとカンペイとを打ち据えているはずの頭脳は、どこか他のところへと向けられているようだった。セイランの視線を受けて、大師がふと短いほうの眉を上げた。浮かんでいるのは当惑だった。一体いかがされましたか、公主様?
不意に、大師はカンペイたちの相手をしていないのだとセイランは悟った。
する必要がないのだ。マオが大師の知りたい情報を何か握っているとして、それを突き止めるのにマオたちの協力など必要ないのだ。なぜなら、大師は帝国一の頭脳を持った仙人だから。先にマオがちょろっともらしていた手がかりがありさえすれば、そこから真実を手繰り寄せることなど造作もないのだ。だから大師はマオたちを無視して、これからどうするべきかを考えている。金を払えと得意げにわめく二人のことなど、大師の視界には入っていない。その二人をよせばいいのに相手取って、勝手にゲンナリしているセイランの事もだ。
セイランの体から力が抜けた。椅子に倒れこむようにして座り込んだセイランに、カンペイの勢いがわずかにそがれた。
「おや、どうされましたかな公主様? 降参ですか? 五百糧を払う決心が付いたということですかな?」
「勝手にしてください。もう知らないです」
心からの言葉だった。何もかもがわずらわしく思われてきて、セイランはぼんやりとマオを見やった。よどんだ目つきを向けられて、マオの眼鏡がわずかにかしいだ。
考えてみれば、カンペイの言う事だってそんなに的外れではないのだ。今日一日セイランが成し遂げた事といえば、墨をこぼし、お茶を飲み、そこいらをうろうろしただけの事である。それで何かをやり遂げたような気分になっていたのだ。何をすればいいのかも分からず、かといって大師に与えられた仕事を満足にこなせるわけでもない。それどころか事あるごとに面倒を招きよせ、しかもそのうちのいくたりかは自分で種をまいているときている。確かに大師はセイランの顔を立ててくれる。しかし、それは単に大師がやさしいからというだけのことである。
惨めだった。セイランがその場で泣き出さなかったのは、単に人目があったからである。特に白王の前では、みっともないところを見せるわけにはいかなかった。少なくともこれ以上は。
セイランはなんとか取り繕うと、ぼそりと「カンペイさんたちは好きにしてください」とだけ言った。ようやく事に気が付いた大師が何事か言いかけたが、セイランは顔を背けた。しらけた空気が卓の上を流れた。それはもう、手を伸ばせばつかめそうなほどだった。
「あのー」
不意に卓上に突き出された手が、そんな大気を握りこみ、散らした。
白檀の香がセイランの鼻をなでた。優雅に返された手首の動きが、いともたやすくセイランの注意を捉えた。セイランのみならず、部屋に居合わせた全員が、白王に視線を集めていた。
「あの、お二人とも、ちょっとよろしいですか?」
春風に舞う綿毛のように柔らかく微笑みながら、白王はマオとカンペイにむけてひらひらと手を振った。素早く視線を交わしたカンペイとマオの間で何かが争われ、負けたらしいカンペイがなんともやりづらそうに口を開いた。
「な、なんでございましょうか、白王様」
「いえ、大した事じゃないんですけど、その代書屋さん、でしたっけ? のお話を聞かせていただけないかと思いまして」
あっけらかんと白王は言う。あまりの言い分に、カンペイが眼をむいたが、白王は頓着しない。
「いえ、もちろん無理にというわけではありませんよ。でもすごく気になります。なんだか不思議なひとがいて、躍字のことで異人さんをだましてたんでしょう? それも、偽者の躍書が出回ってるこの街でですよ。すごく込み入った事情がありそうですよね。面白そうだと思いませんか? ねえ、公主様も気になりますよね」
もちろん気になりますとセイランは思い、それが通じれば苦労はないですとも思い、どちらも口には出さなかった。もちろん、大師だってこの場で事情を聞き出せればそれに越したことはないのだろう。いちいち調べるより、協力的になったマオが逐一話した方が手間がかからないに決まっている。出来ないから問題なのである。
二人が風精だったらいちころなのにとセイランは思い、すぐに打ち消した。果たして、マオもカンペイも、白王の言葉に感銘を受けた様子はなかった。カンペイのほうはまだ空を連れまわされた経験が思い出されたのか、それとも六大霊王に表立って反抗することはさすがにはばかられるのか、どちらにしても少し気おされている。いっぽうマオはといえば、眼鏡をずりあげ、顔を高く上げて徹底抗戦の構えだった。白王が偉い人だということは充分理解したうえで、それでも一歩も引かない構えだ。
「お知らせしたいのはやまやまですが、ご承知の通り、私は金に困っています。ですから情報料としてお金を頂きたい。とりあえず五百糧! ほんの少しだってまかりません! いくらなんだかえらいらしい人が相手といえど――」
「いいですよ」
ふーん、いいんですか、とセイランは思った。
「――ふ!?」
思うだけでなくて、今度は口に出した。驚きのあまり舌が絡まり、きちんとした言葉は言い損ねた。それにしても、その場の面々の口から飛び出したものの中では一番はっきりとした言葉に近いものだった。マオは歯の間から息を吐き出し、カンペイは咳き込んで言葉を飲み込み、大師ですら顎を落としていた。
「五百糧お支払いしたら、お話を聞かせていただけるんですよね。分かりました。用立てます」
白王はあくまでにこやかに告げる。座の中で、いち早く正気を取り戻したのはカンペイだった。さっきまで食っていた泡をそのまま吐き散らして、カンペイは上ずった声を上げた。
「い、いや、お待ちください、気が変わったとマオ氏は言っています。たったの五百糧ぽっちでは、問題を解決するには至らないのです。問題が解決されなくては、情報をお話しするどころではありません。そうですよね、マオ殿?」
「まあ、そうなんですか?」
「そ、そうですぞ。ですからもっと金がなくては――」
「ではおいくらなら、その問題を解決できるのでしょう?」
カンペイたちの眼がよどんだ。沼地に身を潜めて、鳥の死骸が落ちてくるのをじっと待っている怪物のような眼だった。平板な言葉が、カンペイの頭の天辺から流れ出した。
「七千、いや、八千糧頂きましょうか。一粒たりともまかりません」
マオが抱えている借金は六千糧だったはずである。だがそのことをセイランが指摘するより早く、白王はいともあっさりと頷いていた。
「分かりました。現金は今手元にないので、そちらで引き出してくださいな」
そういって掌を差し出す。中指にはめられた簡素な指輪は公印だ。白金の指輪には、セイランのもつ通関司長のものとは比べ物にならないほど精緻な躍字が刻まれ、今もゆっくりとうごめいている。卓上に置かれた布巾を手に取ると、白王は指輪をかざし、生じたカマイタチで印を刻み付けてカンペイに差し出した。
「どこの両替屋でも結構ですよ。あと財部につながる役所ならどこでも。大金ですから、気をつけてくださいね」
呆けたカンペイがよろよろと進み出て、白王の手からよごれた布巾を直に受け取った。こぼれおちんばかりに開かれた眼で手の中の大金を見ている。気持ちはセイランも同じだった。何年も遊んで暮らせる金額が、いともあっさりと手渡されたのだ。それも白王の印という最高の形で。それも、子供だって騙せないような屁理屈で。
セイランは白王と大師とを見比べた。当惑が隠せないのは大師も同じようだった。大師が慎重に言葉を選ぶのを、白王はイタズラっぽい微笑みでじっと待っている。うろたえているセイランに、びっくりすることなど何もないといわんばかりに落ち着き払った表情を向ける。
カンペイが上ずった声をあげた。日光に当てられた怪物の断末魔はきっとこんな感じだろうと、セイランはぼんやり考えた。
「か、金が引き出せるかどうかを確認しなくては。情報は金が手に入ってから話させていただきますぞ」
「もちろん構いませんよ」
「失礼します。おいお前、行くぞ、ぼうっとするな早く!」
そうして、カンペイはマオを引きずるようにして部屋から出て行った。セイランはカンペイを蹴りだすためだけに見送りたい衝動に駆られたが、なんとなく立ち去りがたいものを感じて留まった。部屋から出れば、この異様な空気から抜け出せると同時に、戻ってきてしまうような気がしたのだ。白王が全ての問題を解決してしまう前の、あのいぐるしい雰囲気に。
「――なんと言っていいやら」
そうして大師が口を開いたのは、カンペイたちが出て行ってからかなりたっての事だった。
「とんでもない出費になりましたな。八千糧とは」
「はした金とは言いませんけど、いいんです。お金は貯めてたってしょうがないんですから」
「それにしても、もう少し使い方を考えてもよかったのでは?」
「あれでいいんです。あの異人さんだって、商売に失敗したくて失敗してたわけではないでしょ? ですから、ちょっとしたお手伝いをしてあげただけです。かわいそうですもの。あんなに死にそうな人は久しぶりに見ました」
「八千糧はちょっとした手伝いとは言いかねます。彼らのためにはならんでしょう」
「実を言うと、手助けはついでなんです。秘密の情報が聞きたかったんです。だってなんだかわくわくしませんか? 面白いお話が人助けのついでに聞けるならそれもいいかなって」
「彼らが戻ってくるとでも?」
「戻ってこなかったら、聞きに行けばいいだけじゃないですか。どこにでも行きますよ、私」
「そういう事にしておけということですか。まったくあなたは」
大師がため息をつき、肩をすくめた。それきり黙ってしまった大師の代わりに、セイランは何か言おうとした。頭の中がぐるぐると回って考えがまとまらない。ようやく出てきた言葉は「なんでですか?」だった。
「なんでって、何がですか?」
「何で、何で白王様がお金払うんですか? それもあんな大金」
「ですから、私が情報を聞きたかったからです。聞きたい人がお金を払うのって普通ですよね」
「で、でも、あんな話聞いてどうするんですか」
「さあ、どうしましょう。なんだかいかがわしいお店に潜む謎の人物! なんなら私が調べてもいいですよ。なんだか探偵みたいですごく楽しくなりそうですね。あ、公主様がお聞きになりたいなら、特別にお知らせしてもいいです。今なら安くしておきますよ? そうですね、情報料として五十粒ぐらい払っていただきましょうか、ふふふ」
ことさらに崩した笑顔ではぐらかされる。はぐらかされるだろうことは、セイランにもわかっていた。分かってはいるが、思いを上手く言葉に出来ない。セイランたちのもとに飛び込んできた面倒ごとを、いともあっさりと解決してしまった白王様に対して、セイランは何を言うべきか分からないのだ。
どうして助けてくれるのか、どうしてそこまでしてくれるのか。
自問しながらも、セイランは既に答えを見つけていた。白王は風をつかさどる王だ。風が気ままに吹きわたるように、白王もまた気まぐれそのものであって、突拍子もない行動はお手の物なのだ。突然セイランたちのもとにやってきて、垂れ込める暗雲をあっさり吹き払い、差し込んでくる日差しの中で微笑んでいる。白王様はそういうことを起こす人なのだ。惨めったらしくて強欲で、目先の事しか考えられないマオやカンペイやセイランと違って、誰かのために途方もない力をふるって、善い事をいともあっさり成し遂げる。帝国に吹き渡る全ての風は白王を慕い、その命に従う。白王様が、かくも立派で気高い心の持ち主だからである。
セイランは深い脱力感を覚えた。天真爛漫な白王の笑顔を見ていられなくて、セイランはそっと視線を落とした。
カンペイたちが戻って話をしてくれるまで、白王は通関司に留まるということになった。白王の相手は大師にまかせ、セイランは再び衛視の詰め所へと向かっていた。Tシャツを回収するためである。
もはやマオは借金を返済してしまったのだから、Tシャツがどうなろうと知った事ではないだろう。それでも、通関司で引き取ると決めたのだから引き取るとセイランは心に決めていた。ヒョウセイがなんといおうと、あれが衛視の荷物になっていることは間違いないだろうと考えたからである。差し押さえたTシャツをカタにとって、カンペイやマオからお金をいくらか取り替えそうとも考えたが、すぐに恥ずかしくなってその考えは捨てた。
――なんだか、スッキリしないです。
今日一日、セイランはいいとこなしである。なにかきちんとした事をやってやろうという思いは、ずっと空回りしている。
『通関司の仕事なぞ、せいぜい公主様のおままごとに毛が生えたような代物でしょうが』
そんなカンペイの言葉が、セイランの心に重くのしかかっている。全く、セイランのやっていることはおままごとである。自分でそれが分かっているから悔しいのである。カンペイを空高く投げ上げる妄想も、セイランの心を慰めはしない。
――なにか、なにかやらないと。
そうやって焦りながら歩くものだから、Tシャツを運ぶための車を借り忘れる。詰め所の裏門をくぐってから、セイランはその事に気が付いた。泣きそうになるのをこらえ、背筋を伸ばして前を向く。ここで泣いたら本当のおままごとである。
――別に、誰かに手を貸してもらえばいいです。言うこと聞いてもらいます。
見えない相手に虚勢を張りながら、セイランは改めて一歩を踏み出した。
何かに躓いて、派手に転んだ。
踏んだり蹴ったりとはこの事だった。一度は押さえたセイランの眼に涙があふれそうになった。怒りをこめてきっと振り向いたセイランを見返していたのは、雲のような綿毛に浮かんだ黒い眼だった。テンコウは嬉しそうによだれをたらして一声鳴いた。セイランは驚きのあまりものもいえず、首をかしげるテンコウをしばらくの間見つめていた。
「て、テンコウ」
やっと出てきた言葉に、テンコウは満面の笑みで飛びついてきた。のしかかってくるのを押し返しているうちに、セイランの中で怒りがむくむくと立ち上がってきた。今日一日のケチの付き始めといえば、間違いなくテンコウである。思わず振り下ろした拳はテンコウの顔にめり込み、すり抜け、徒労感だけをセイランの腕に残した。テンコウが飛び跳ね、今のもう一回やってとセイランにまとわり付いた。
「テンコウ!」
なんですか? とテンコウが首をかしげた。
「なんですかじゃないでしょう! 今までどこほっつき歩いてたんですか!?」
そんな難しい事聞かれても、とでも言いたげに、テンコウは地面を引っかき始めた。セイランはこめかみを揉んだ。
「あのね、テンコウ、あなたが書き取りダメにしたせいで、私はもうすごくいやな思いをしたんですよ」
そうですか、とテンコウはいい、地面を引っかく作業を再開した。セイランの怒りなどどこ吹く風である。綿毛を掴んでむしりながら、セイランはなおも言いつのった。
「大体、いてほしいときにいないってどういう事ですか! 白王様が来たからなんだって言うんですか。ちょっとぐらい白王様に顔見せてあげたっていいじゃないですか。あ、なんなら今からでも会いに行ってもらっていいんですよ。いや絶対そうします。ねえちょっと、聞いてますか、テンコウ!」
聞いていた。
テンコウはいつのまにやら、ぴたりと動きを止めてセイランを見ていた。すっくと背筋を伸ばした姿は、綿毛の塊ではなくて、きちんとした犬のようだった。その顔からは、全ての感情が抜け落ちていた。あまりの変わりように、セイランの怒りがそがれた。
「テンコウ……?」
大気が爆発し、セイランは思わずのけぞった。埃から目を庇っていたセイランが最後に見たものは、空の彼方に消え去る真っ白な綿毛の姿だった。取り残されたセイランは立ち上がり、服の埃を払い、風精の助けもないのに飛び上がろうとして、しばらく無駄な時間をすごした。
そうして疲れ果てたセイランの心は、ふと真っ白になった。
真っ白になった心に、小さな灯りがともった。
――テンコウを捕まえよう。
まるで最初から決まっていた事のようにくっきりとした考えが、セイランの中で形を取った。
――捕まえて、白王さまに会わせてあげよう。
白王様はセイランの大事な友達で、なにより大きな恩がある。いくら白王様が気にしていないからと言って、八千糧もの貸しを作ったままではセイランの気持ちはおさまらない。何かしらお返しをしなくてはならないのだ。白王様が心から喜ぶような、そんなお返しが。
そしてそれには、テンコウを連れて行くのが一番だ。帝国を縦断してまで白王様はテンコウに会いに来たのだから。千金に値する恩返しになるはずだ。何よりも白王を喜ばせる贈り物になるはずなのだ。
そもそも、テンコウはセイランの精霊なのだ。テンコウに言うことを聞かせるのは、他でもないセイランの役目なのだ。
セイランがやらねば、誰がやる。
空を見上げて、セイランは腰に手を当てた。迷いはなかった。やるべき事が、セイランの前に次の道を示していた。セイランは鼻息も荒くきびすを返すと、詰め所に駆け込んだ。
但し書き
文中における誤り等は全て筆者に責任があります。
- セイランがやらねば誰がやる -- (名無しさん) 2013-07-05 00:38:30
- 頑張れセイラン。泣いたらあかん -- (名無しさん) 2013-07-05 08:15:06
- 空回り?伝わらない?まだまだのびしろがあるってことでしょう -- (としあき) 2013-07-05 22:51:20
- セイランの持っている地球の重要性とか政治面での優先順位とか気になる -- (名無しさん) 2013-07-06 21:45:02
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最終更新:2013年08月11日 13:19