【極寒の宿で】

大戦下、捕虜になった先の苛烈さから一同で計画し実行した収容所からの脱走。
収容所内での蜂起で半数が撃たれ、収容所からの脱出でまた半数が肉片と化し、
戦った地の記憶だけを頼りに進んだ極寒の地で自分以外の残り全員が冷え動かなくなった。
仲間の遺服を重ね着し、胸には託された一本づつの遺髪を抱き深雪と吹雪く森を進む。
 もう駄目だと思っても 託された望郷の念が 私をまた一歩前と突き動かす
 だがしかし 身を縛る寒さの中では 人の体はやがて壊れてしまう

白と黒とが激しく入り乱れる視界の中で一つ、男は見つけた。
それはあまりにも優しく揺れる暖かそうな灯火。
痛みも空腹も何もかも忘れ、無感覚の中で雪を掻き分け光の下へと進む。
 それは小さな二階建ての丸太小屋であった 平屋だった我が家よりも狭いと思わせるほどの
 ただただ そこより漏れる灯りと空気の温かさは 我が家にも似た空気だった

戸の上に掲げられている木目の映える看板の文字は読めなかったが、
男は残った力を振り絞り、戸を叩く。 最早、喉は凍気で縛られ声は出ず。
一度、二度。三度目を叩こうとひび割れた拳を振り被った時、戸が開いた。
小屋の中より吹き出す暖炉とスープの何とも言えない緩やかな熱。
男は瞬く間に意識を極楽浄土へ舞い上がらせて気を失う。
糸が切れて倒れ込んだ先には、灰の銀毛に覆われた優しい谷間があった。
 嗚呼すまない皆よ 故郷へは届かず 私もあの世へと向かうようだ

気が付けばそこはベッドの上。
ふわり包み込む弾力の、何かの羽毛が詰め込まれた布団。
部屋の中央で揺れる暖炉の炎を見た時、自分がまだ浮世にいる事を実感する。
しかし、やっと体を起こすのが精一杯でベッドから出る事が出来なかった。
いや、出たくなかったのか。
戸惑いと安らぎが混ざる最中、がちゃりと扉が開く。
何よりもまず視線を釘付けにされたのは、盆の上に乗る赤いスープ。
そこより漂ってくる野菜と肉の香りが胃袋と眼球を鷲掴みにした。
徐々に近づいて来る盆が眼前まで来た時、男はふと上を見る。
 青く染められた髪まとめの布の脇より生えるそれは、故郷でも何度か見た事のある
  おおかみのみみ
 見つめる双眸は、金色の野に立つ黒い一つ岩
  かりうどのめ
 盆をゆっくりと差し出す手は、人の形なれど指や掌は紛う事なき
  獣の手
しかし、男は何よりも空腹であったのと、獣の目の優しさに何の警戒も抱くことなく、
盆を受け取り頬張った。
煮込み崩れた具材は弱った男の口や食道を難なく通り胃袋を満たす。
長らく感じた事の無かった旨みが舌の全てから染み込んでくる。
ベッドの横に椅子と机を置き、狼はそこに座り瓶からカップに注いだのは匂いでそれと分かる程の酒であった。
湯気が仄かに昇る木を刳り貫いたカップを受け取り一口飲んだ男の体は、じわりじわりと芯から熱が生まれる様。
一頻り、スープと酒を堪能した男は、込み上げてくる安堵によって再度ベッドに横たわる。
男の額を優しく撫でる獣の手は、今生の別れを告げた妻を思い起こさせた。

二日、三日、四日と、狼の看病と出される暖かな料理と酒により
男は立ち上がり動けるまで回復していた。
四日目の夜には石作りの風呂に入り、狼に背中を流してもらった。
 何度感謝の言葉をのべただろうか
 しかし返って来るのは聞いた事も無い言葉と 優しい微笑み
 獣の様な 人の様な
 しかし彼女より伝わる優しさの前では そんな事など瑣末な事なのだと

七日目の夜、出された赤いスープは今までのものとは少し違った甘い香りを浮き上がらせていた。
男が「いただきます」と言うと、狼は低くたどたどしい声で「オアガリナサイ」と返した。
料理を一口運ぶ毎に、酒を一飲みする毎に、男は大粒の涙を流した。
 暖炉の火を背に 微笑みを向ける誰か
 口に広がる肉と野菜の旨み
次に男が意識を起こした時にあった残照。
気が付けば誰かの馬車の荷台で揺られ、外に顔を出すと海が広がっていた。

「すぐさま馬車を降りてこっそり船に忍び込んだんじゃ」
「それでお爺ちゃんは北の島に渡って、そこから故郷まで戻ってきたんだよね!」
「お爺ちゃ~ん。いっつもはぐらかすけど、お爺ちゃんを助けてくれた人って誰なの?」
「それがワシにも分からんのじゃ」
「変なの!誰かは分からないのにスープとお酒の味は覚えているなんて」
「ほんと、お爺ちゃんってどんだけ歳とっても元気に食べるよね」
「後で調べたりレストランなどに行って分かったんじゃが、ありゃあボルシチという料理かも知れんのぅ」
「「ボルシチ!」」
「ほっほっほ。今度食べに連れていってやるぞぃ。 ただし酒は飲ませられんがの」



  • 誰も知らない宿に人ではない誰かというのがちょっと物悲しい。泊まった人の中にはおぼろげな記憶をもとにもう一度宿を探したというのもありそう -- (名無しさん) 2013-07-31 01:29:33
  • 夢のような幻のようなしかしそれは現実にあった温かい異種族との交流。かつて住んだ世界とは違う場所でそれでもまだ他者に優しくあれる狼人の心の強さにじんときました -- (名無しさん) 2016-11-27 16:40:12
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最終更新:2013年07月28日 00:30