大延国の文字は、漢字に似た表意文字であり、別名を躍字という。大まかに言えば、「生きている文字」という意味である。
大延国の街中には文字があふれている。都市部における識字率は大変高く、多くの民は代表的な文字のいくたりかを知っている。より複雑な書面となれば代書屋を頼る。代書屋の存在は市民生活の一部となっている。
だが市中につるされた看板をいくら眺め、あるいは酒家に転がり込んで品目をにらんだとしても、なぜ、文字が「躍る字」と呼ばれているのかは理解できないだろう。それもそのはずで、市井で用いられている文字は文字ではなく、あくまでその簡易版だからである。
真の文字、すなわち躍字は、主に公文書や歴史書に用いられる。
植物の繊維から作る紙や、細く切った板を用いる簡などが、文書を書く場合の代表的な素材となる。墨や筆も、地球のものとよく似た道具が用いられる。決定的に異なるのは、書かれる文字そのものである。
筆が紙を離れるや否や、ハネがぶるんと震える。
直線が大きく伸びたかと思えばまた縮み、曲線はくねくねと動き回って落ち着かない。にじんだ墨が巻き戻り、本来あるべき場所へと行儀よく収まっていく傍らでは、大胆に飛び出した墨が、書き手の打ち忘れた点を自ら打ってみせる。
まるで文字自らがあるべき形を心得ているかのような光景が、一文字ごとに披露されるのだ。
墨が乾いても、躍字の動きは留まるところを知らない。
水をかければ、躍字は逃げる。紙の上を滑って水を避けようとするのだ。意地悪をして紙を水に浸そうとすれば、躍字はなんと自ら水面に飛び込み、水上で整列していつまでも消えない。火にかければ、舞い上がる火の粉が書の形をとり、そのまま宙を漂っていく。適当な可燃物が見つかれば、そこに舞い降りてまた自らを焼き付ける。
魔法そのものである。だが特筆すべきは、大延国の民にとって、躍字は魔法でもなんでもないということである。「見慣れている」という意味ではない。彼らに言わせれば、「もともと文字とはこうしたものであるべきなのだ」という。「きちんとした字を書けば、それは動き回って当たり前、動かぬ字は不完全だ」というのである。
こうした言葉は、「躍字を書くのに特別な才能など必要ない」という事実によって裏付けられている。正しい書体で書きさえすれば、文字はそれだけで命を獲得する。それどころか、不完全な躍字を書くことのほうが、きちんと書くことよりもはるかに難しいのだ。躍字は自らを完成させたがり、筆や、紙や、時には書き手そのものさえ操ろうとするからである。書家の腕は、どれほど上手く躍字を御し、その勢いを削げるかにかかっている。達人の残した一言に、次のようなものがあるという。
「走り回る豚から肉を切り取り、しかも一滴の血も流さぬ。これこそ躍書の要諦である」と。
躍字の奇妙な性質はこれだけに留まらない。
大延国の人々は、生れ落ちたとき、自らの名をあらわす躍字を授かる。躍字そのものが、赤子のもとに訪れるのである。訪れるところは余人に見えず、ただ本人だけが、訪れた躍字の書体を「思い出す」ことになっている。赤子がハイハイし、つかまって立ち、言葉を発するようになれば、その次は自らの名前を躍字で書くことが続く。ある個人に対応する躍字は全土で一つしかなく、大延国の人々はこれを隠し、親しい人間にしか教えない。自らのために生まれてきた文字を、人々は自分自身と同じように大切にする。日常生活では通名を用いるが、これは躍字ではなく、日常的に用いられる簡体字である。
自分だけの躍字を持つのは人々だけではない。精霊、妖怪、仙人、場所や自然現象、時には歴史上の出来事にすら対応する躍字がある。当然、新たな躍字が生み出されることもある。こうした文字はいつのまにか大延国全土へ拡散する。昨日生まれたばかりの文字を、人々はまるで太古から存在していたものであるかのように自然に書く。新しい文字のことをいつ知ったのか? と問うても、彼らは首を傾げるばかりであろう。そして書き上げたばかりの躍字を指してこういうはずだ。すなわち、「これが教えてくれた」と。
そう、躍字は教える文字でもある。自らがあらわす人物や事物について雄弁に語り、読もうとする者の脳裏に印象を流し込む。この作用ゆえに、読めない躍字というものは存在しない。外国人であろうが異界人であろうが、あるいは言葉を持たぬ畜生や妖物であっても、躍字の意味するところを知るのに何の支障もないのだ。
こうした性質から、大延国の人々の間には「躍字はむやみに書くものではない」という意識がある。日常生活に用いるには、躍字はあまりに力強すぎるのである。
躍字の起源は知られていない。金羅が大延国に至る以前から使用されていたという事実から、金羅の手になるものでないことは明らかであるが、いかなる神がこの不思議な文字を生み出したのかという手がかりは失われている。
ここでは一つの仮説として、『巾上架庭』との関連に注目してみたい。
巾上架庭とは、ようするに箱庭作りのことである。麻布を広げ、砂や石を盛り、小さな亭や小屋をしつらえ、色を塗る。苔を植えたり、水を流してみたりと工夫をすれば、まるで小さな世界が立ち現れるようである。凝ったものともなれば、精霊たちの力を借りて動く庭となることもある。小さな屋敷の周りでたいまつが焚かれたり、瞬く光が庭を照らしたりするわけである。
ここで注意しておきたいのは、大延国の人々にとって、巾上架庭が単なる箱庭作りの範疇に留まるものではないということである。箱庭をこしらえることは、要するに天地創造の真似事であり、万有に対する深い理解があって初めて可能になるとみなされている。貴族や高位の官僚は巾上架庭の腕前を競い、展覧会を催して己が実力を誇示しようとする。役人登用の試験科目として現在も採用されていることからも、その重要性が伺える。
さて、ここで躍字と巾上架庭の関連を示す一つの事実を提示したい。それは、「巾上架庭によって新たな躍字が誕生することがある」という事実である。
最も最近の例として、ほかならぬ朱王クウリが、即位する以前に生み出されたとされる躍字がある。あるときクウリは巾上架庭を命じられ、鉄串を何本も配し、それらを支えとしてボロ布を張った。天と地、二枚の布によって切り取られた空間に欠けた璧玉を吊り下げた。意味するところは明白であり、それゆえに周囲からはごうごうたる非難が巻き起こった。「天地をあらわすのにこのような材料を用いるとは何事か」というわけである。ことは皇帝の治世を批判したとして御前における審議にまでもつれこんだが、その最中、突然として心神喪失状態に陥った重臣の一人が誰も見たことのない字を指で宙につづり、皇帝がこれを認めたため、クウリは許された。
余談となるが、クウリの生み出した躍字の意味するところは、大まかに言えば「振るう機会がなければ才能がどれだけあろうと無意味である」という具合になるという。皇帝の後継者候補の一人が生み出した文字としては、なかなか意味深である。
このように、巾上架庭は躍字の誕生に深いかかわりがある。となれば、最初の躍字もまた巾上架庭によって生み出されたと考えるのは飛躍であろうか。布の上に切り取られた世界が一つの文字に圧縮されることが自然であるのならば、世界そのものが創造されるそのとき、同時に世界のさまざまな事象を代表する記号も自然と生み出されるというのは、いかにも当然の理のように思われる。
現状、この仮説を検証する手段はない。だが一つの可能性がある。それは異世界である。異世界の事象を表す躍字は現時点で一つも存在していない。そして新たな世界と接するということは、要するに今まで存在しなかったものが視界に入ってくるという意味でもある。これから先、異世界をきっかけとして新たな躍字が生み出されれば、おそらくそれはもともと大延国にあったものとは似てもにつかぬものになるだろう。爆発的に誕生するはずの新たな躍字群を比較・分析すれば、はじめに生み出された躍字がどんなものであったのか、いわば躍字の進化系統図とでも呼ぶべきものが作れるはずだ。
躍字の起源が明らかになれば、それは同時に、人類の異世界に対する理解が新たな段階に達したことを意味するだろう。
躍字はただの文字ではない。表意文字、何かの意味を表す記号という枠を大きく超えている。紙の上に開いた躍字という小窓を覗けば、見えるのは万有そのものなのだ。
但し書き
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- 完結した一つの話。だけど、「躍字の起源」へのアプローチが興味深く、物語に広がりを感じるいい短編だと思う。この設定を大延国のみのものにするのは少し勿体無い気も。(かといってスラヴィアやらの洋風の国で躍字が使われるイメージはあんまないけど -- (名無しのとしあき) 2011-08-31 18:12:43
- 躍字を生み出した神とはいかなる存在か。躍字が延の文化圏周辺までしか現在書拡散していないことから金羅が延に来る前まで延に深く影響を与えていた神がいたのか?などいろいろ想像してしまう素晴らしい作品でした。 -- (名無しさん) 2011-08-31 18:24:39
- 自分の名を示す躍字を見られると色々筒抜けになりそうだし、躍字で書かれた戸籍とかがあるとしたら仙界だろうなぁ。 -- (名無しさん) 2011-08-31 18:42:30
- 元ネタは蟲師かな -- (名無しさん) 2011-12-26 16:55:43
- 精霊の一種と思っていたのですが不思議な力の根源として躍字という世界がしっかり作られているのには驚きました。この作品から躍字が本格的に始まったと思うと感慨深いものがあります -- (名無しさん) 2013-03-26 19:49:05
- 精霊よりも力はなさそうだけど大延国では身近にあって向上の友や目標みたいなものなのかな躍字 -- (名無しさん) 2013-10-11 22:33:33
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最終更新:2013年08月09日 01:20