昔々。これは、かの永代剣聖スイメイがまだ一介の武者修行者であった頃のお話でございます。
大都から南に下ること三百里。街道沿いの宿場町、石杯(せきはい)。
旅の商人も今宵の宿を定め、閉門を告げる木槌の音が響き渡る夕暮れ時。
既に人通りも絶えた門外の往来で、狐人の少女と狼人の若者が対峙していた。
狐人の少女は歳の頃、十四、五。男物の衣服に身を包み、背丈に合わぬ長剣を佩いている。
狼人の若者もまた武芸者であろうか。みすぼらしい身なりに似合わぬ大剣を背に負っていた。
「スイメイ師よ、何故私では駄目なのですか。私では貴方の弟子となるには不足なのですか!」
激昂した狼人の若者が、眼前の狐人の少女に喰ってかかる。
スイメイと呼ばれた狐人の少女は、冷静さを崩さず穏やかに狼人の若者に応える。
「そうではない、クウガ。私は未だ修行中の身。他人の師たる資格が無いのだ。
お前の素質は常人を遥かに上回る。しかし私に師事してもその才は実らぬまま潰えるであろう。
クウガ、お前には優れた才がある。焦らずにお前に相応しい師を探すがよい……」
スイメイは諭すようにゆっくりと狼人の若者クウガに告げた。
クウガはスイメイの言葉を聞くうちにみるみる激情が鎮まり、やがて地に突っ伏して悄然と項垂れた。
スイメイは落胆するクウガを痛ましそうに見つめていたが、やがて意を決したように懐から一枚の紙を取り出すと己の指を噛み切り溢れる血で三つの躍字を書き付けた。
そしてクウガの傍らに跪き、躍字が書かれた紙をその手に握らせクウガの目を見つめながら語りかけた。
「これは私が初めて編み出した技。仮の名を"穿空牙"という。しかしこの技には真の銘が無い。まだ完成していないのだ。
クウガ、この技をお前に託す。お前ならこの技を完成させることが出来る。道程は違えどお前と私は共に武の窮みを目指すともがらだ。
私からの手向けと思ってこれを受け取ってくれ、クウガ」
スイメイの言葉は憐憫を含んではいたものの、真摯で真心のこもったものだった。
しかしクウガはスイメイの言葉に一切反応せず、託された技を握り締めたまま呆然と地面を見つめていた。
暫くの間、スイメイは立ち去り難いようにクウガの側に佇んでいたが、やがて悲しそうに溜息をつくと
短い別れの言葉とともにきっぱりと踵を返し、そのまま振り返らず大都の方角へ歩き去って行った。
一人残されたクウガは、地に膝を着けたまま死んだように項垂れていた。
それから幾刻が過ぎただろうか。ふと我に返ると既にあたりは真っ暗になっていた。
白むほどに強く握り締めた掌の中にくしゃくしゃに丸められた一枚の紙。
震える手で広げると、そこに血で書かれた三つの躍字があった。
『穿』
『空』 『牙』
それを目にした瞬間、クウガは雷に撃たれたように硬直した。
たった三つの躍字が、一人の少女が編み出した未だ世の誰も知らぬ剣の絶技を現している。
限界まで目を見開き食い入るように見つめていると、突然、三つの躍字がゆらりと起き上がった。
凡庸な使い手にはゆらゆらと揺れる躍字にしか見えぬだろうが、クウガもまた並外れた武才の持ち主だった。
クウガの眼前に美しい女剣士の姿が浮かび上がる。それはスイメイが成長し剣士として完成した姿の様にも見えた。
掌中の紙は揺蕩う湖面に変貌し、その上に立った女剣士は一礼して双剣を構えると、ゆるゆると回るように舞い始めた。
滑るような歩法と流水のように滑らかな動き。突如、雷光の如く双剣が閃き、穏やかな湖水に直径一尋ほどの穴が穿たれる。
神速の突きと全身で練り上げた螺旋の勁が為す絶技であった。女剣士は再び穏やかな流水の動きに戻りゆるゆると舞い始めた。
なんという威。なんという美。
人はこれほどのものに成れるのか。
これぞ武だ。これこそが武の窮みだ。
女剣士の舞いはそれ自体が完成された套路であった。クウガは悠々と舞う女剣士の姿に魂を抜かれた様に見蕩れていた。
クウガの顔には恍惚とした笑みが浮かび、その両目は女剣士の一挙手一投足を追って中空を彷徨っている。
至福の時が過ぎ、やがて双剣の舞いは終わった。幻影の女剣士は一礼し、元の三つの躍字に戻った。
(この技を、俺ごときに託すのか)
クウガの両眼が暗く濁った。
感動と興奮は、そのまま当量の鬱屈に置き換わった。
武芸者にとって己の技は命に斉しい宝だ。
それを捨てるのか。天すら掴めるこの絶技を。
スイメイ師は、いや奴はこの技を俺に託すと言った。
俺ならばこの技を完成させられるとも。馬鹿な。これが奴の残酷さだ。
奴は己のあまりの天才故に、他人の凡才ぶりに気付けぬのだ。
俺では到底手が届かぬ。この技の窮みに。
スイメイには微塵の悪意も嘲弄も無かった。
しかし憐憫がときに決定的に他者を傷付けることを知るにはスイメイは若過ぎた。
無音の暴風のような数瞬が過ぎた。クウガの全身を炎の様に苛む屈辱はやがて一つの決意に結晶した。
クウガは地に伏せた顔をゆっくりと起こし、そのまま天に向け目を見開いた。
その両目には石の様に硬い決意が込められていた。
奴に匹敵する才を探す。この技を完成させ体得できる剣才を。
俺自身の才は到底奴には及ばぬが、他人の才を見抜く目は奴に勝る。
スイメイ、いつか貴様の前に立つ。俺自身は果たせずとも俺を継ぐ者が必ず。
いつの日か貴様の剣を破り、貴様の心に俺の名を刻んでやる。
暗い双眸を天に向けたままクウガは心の中で叫び続けた。
それは己自身への呪いの言葉であり、スイメイへの誓いの言葉でもあった。
やがてクウガはゆっくりと立ち上がり、スイメイが歩み去ったのとは反対の方角、
南西に聳える塞王の彼方、遥かなる南蛮の地を目指して歩き始めた。
昔々。これは南蛮の地に一大武侠集団を造り上げたかの"剣狼"クウガが、まだ一介の放浪者であった頃のお話でございます。
次なる御話はまたの機会に。それではこれにて。
終
- やっぱり異世界でも必殺技の名前は叫ぶんです? -- (名無しさん) 2013-12-27 22:16:28
- スイメイって意外と抜けててお茶目さんですね -- (名無しさん) 2014-02-18 22:54:01
- 澄み渡る潔い武人の世界。ところで異世界でも必殺技は名前を叫ぶものなのだろうか -- (名無しさん) 2014-10-18 03:50:52
- 昔でも全くぶれないスイメイに筋金入りの孤高の天才を実感します。並び立つ者がいない絶対の力と他者への理解というピースが欠落した性格はシキョウとの追いかけっこに落ち着くまで様々な今話のようなすれ違いを生んだのだろうかと想像しました。本当に生まれた頃よりそのままとすら思わせる若スイメイでした -- (名無しさん) 2019-01-13 20:20:04
最終更新:2013年12月15日 21:15