【汗衫公主 七】

 風たちは鮮やかな猛禽のように市城の空を駆け巡り、大気そのものを太鼓のように打ち鳴らした。
 どん、どん、と腹の底を揺さぶる振動が市城に響きわたり、驚いた人々が頭上を見上げてため息を漏らす。一方風たちは大気を震わせながらも耳を澄まし、目を凝らしてテンコウの姿を探している。ひときわ耳を大きく広げた風の一体が、不意にかっと目を見開いて声を張り上げた。
「きたぞ!」
 市城の中央、金色に輝く炎の門の頂上付近。ふらふらと漂う白い毛むくじゃらの犬が、金炎に身をあぶられながらセイランたちを見上げている。風たちが放つ衝撃を全身で受け止め、目を円らに見開いて口を大きく開けている。変わり始めた風向きを全身で感じ取っているのだ。
 今度こそ、テンコウを捕えて見せる。
 セイランはできる限りそっくり返ると、口に手を当てて声を張り上げた。
「テンコウ! もう逃がしませんよ! 覚悟してください!」
「そら!」
 セイランの言葉に合わせるように、やおら一体の風精がほほを膨らませて空気を吐き出した。小さな風が巻き起こり、あたりに漂う埃を取り込んで渦を巻く。小さなつむじ風は風精が手を差し伸べると大きく膨らみ、さらに多くの砂粒を巻き上げて成長していく。たちまちのうちに、らせん状の砂槍が姿を現していた。
 風の腕が槍をむんずとつかみ、テンコウめがけて投げ放つ。その勢いは矢よりも稲妻よりも早く、セイランの目に止まるはずもない。だからセイランが見ることができたのは、金炎にぶち当たって音もなく消滅した槍の残骸であり、無念そうに鼻息を漏らした風の姿であり、どうやってか槍をかわしてあくびをするテンコウの姿だった。
「やるな」「惜しかった」「ではこれならどうだ」
 ほかの風が、次々と虚空から得物をつかみだしていく。大きく広がる投網があった。鋭く輝く穂先があった。何重にも連なった鈴が、まるで見た目はムカデだけれど泣き声だけは美しい虫のようにうごめく。滲み現れた吹き流しの色ははためいて絡まりあい、一つの巨大な旗のよう。幅広の曲刀を両手に下げた風が体の周りで刃を振り回すさまは目にも留まらず、かと思えば時にぱっぱと動きを止めて、歓声を上げている観衆たちに敬礼する。お祭りだ、とセイランは気づいた。風の精霊総出のお祭りだ。そろいの服を着て、お気に入りの道具をもって、市城に吹き渡るすべての風がテンコウを追いかけるお祭りなのだ。わかっているのかいないのか、門の上のテンコウがすくと背筋を伸ばした。一瞬おいて静寂が訪れる。誰もが息を詰めている。何かが大気を、そしてセイランの意思をも膨らませていく。その何かに背中を押されるようにしてセイランは機会を待った。これはお祭りだ。だとすれば音頭が必要なのだ。皆が自分を解き放てるように、楽しい楽しい大暴れの時間を、心の底から味わえるように。
 もう少し。
 もう少し。
 いまだ。
「かかれええええええええええ!!!!」
 すべての色が、目にも留まらぬ速さでどよめいた。風精の胸元にしがみつきながら、セイランはテンコウがさかさまの雷のように天へ駆け上るのを見た。追いすがる風たちが手にする吹き流しをまるで色とりどりのしっぽのように引き連れて空を走り抜け、間一髪でそのすべてを振り切っていく。急降下して建物の間に入ったテンコウについていけない風たちが屋根や壁にぶつかって散らされ、かと思えば横合いから飛び出した曲刀に顔をかすめられてテンコウがもんどりうつ。
 吹き上がる砂埃を切り裂いて突っ込んでくる曲刀使いの刃を、テンコウは身軽にかいくぐっていく。地に落ちていた吹き流しをくわえあげ、テンコウは曲刀使いの足元を縦横無尽に走り回って、「ふぴゃー!」の声も高く勝ち誇る。いつの間にか吹き流しは曲刀使いの足と言わず腕と言わず絡みついてしまっている。無念そうにうめき声をあげた曲刀使いが身をよじり、すると戒めはあっさりほどけてすり抜ける。当たり前ですとセイランは苦笑いだ。風を縛れるわけがない。ほかならぬテンコウにしてからが、紐の一つもつけられないぐらいなのだから。
 一転してうろたえたテンコウに、曲刀使いが一撃を振り下ろす。哀れテンコウの首はあっさり切り落とされ――転がる首が思い出したようにくしゃみをする。あっけにとられる曲刀使いの目の前で、テンコウのもこもこした体が首に断面を押し付けると首はあっさりくっついてしまう。当たり前ですとセイランは脱力する。雲を断てる刃があるとして、テンコウは雲よりはるかにしぶとい。
 テンコウがふてぶてしくニャーと吠えると、曲刀使いも高笑いする。ぶんぶんと刀をまるで風車のように振り回し、優雅に一礼してさっと曲刀を空へ投げ上げる。落ちてきた刃がチン、と音を立てて見えない鞘に収まった時、風の姿もまたそこにはいない。テンコウは見物している子供がなめている飴をねだり、かと思えば背後に迫る風たちの攻撃をあっさりかいくぐって大空へと飛び込んでいる。
 次から次に追い込まれては逃げおおせてみせるテンコウの姿を、セイランは風精とともに追い続けた。はじめのうちこそ中々つかまらないことに業を煮やしていたセイランも、テンコウの鮮やかな逃げっぷりを見るうちにだんだんと楽しくなり始めていた。何しろこれは極上の見世物だ。今までに誰も見たことがないような風たちの一大大騒ぎ、それもセイランの席ときたらかぶりつきだ。町中の人がセイランを羨んで声を上げている。それに加えて、テンコウは結局セイランの友達だった。いつもは動く座布団ぐらいにしか扱っていなかった存在の思いもかけない雄姿に、セイランはすっかりテンコウのことを見直していた。今しも四方八方から投げかけられた投網をかいくぐってみせたテンコウの姿にセイランは歓声をあげ、風精にもっと近づくように指示した。
 返事はなかった。ひげもじゃの風精は、一人浮かぬ顔をしていた。
 まるで何かを恐れるように、あたりをはばかるかのように太い首をすくめ、剣呑な目つきで周囲を見回している。顔のしわがどんどん深くなっていくさまを見て、セイランはどことなく嫌な予感に駆られた。テンコウを応援していることがばれたのか、捕まえられないことを気に病んでいるのか。それとも。
「どうされたのですか」
「よくありません」
 深刻そのものだ。やっぱり捕まえられないと思っているのだろうか。
「大丈夫ですよ。テンコウもあれだけ追い詰めてるんですからそのうち疲れますよ。だから、もう少し頑張ってくださ」
「それどころではないのです。皆が」
 風精が言葉を切り、セイランを抱え込んで上昇し始めた。抱きすくめられて息のできなくなったセイランはそれでも何とか這い出すと、風精の髭を引っ張ってこちらを向かせた。
 間違いなかった。風精は今やはっきりと怯えている。
「風精さま、どうしたんですか、何があったんですか」
「皆が」
 おどおどした目つきの風精が、突然奇妙なことをし始めた。着ていたTシャツをずり上げ、生地に鼻を押し付けたのだ。Tシャツ越しの空気をいっぱいに吸い込むと、風精はうめいた。
「本当は違うのです。でも、皆が誤解している」
「なんですか。誤解って何のことですか。いったい何が――」
 ドン――という音が、セイランの言葉を遮った。
 セイランは眼下の街を見おろして青ざめた。風たちは今や、テンコウのことを完全に無視していた。でたらめに飛び回り、瓦を吸い上げ、建物を揺さぶって奇声を上げている。固定されていないものを何でも巻き上げては投げ落とし、かと思えば竜巻の姿を取って人々を追い立てる。あっけにとられたように首をかしげるテンコウの前で、風の一体がその姿を真似してくすくす笑った。
 まるで――とセイランは冷や水をかけられたような気分になった。
 まるで酔っぱらってしまったようにしか見えない。でもなぜ? いったい何に酔っぱらっているのだろう?
「酔っぱらったりなんかしないはずなのです」
 風精が悲しげにうめいた。
「この装束には、異界の薬なんか入っていないのです。だから着ても酔わないし、現に私は酔わなかったのです。酔えるかなと思ったのに。力が出せるかと思ったのに。だめでした。でも皆は酔ってしまったのです」
 セイランの脳裏に光景がひらめく。ヒョウセイがTシャツをゆでていた謎の儀式。異界のこかいんという薬。
『薬を水に溶き、件のTシャツなる衣類にしみこませて持ち込んだら、洗って薬を溶かしだしてから煮詰めて取り出すのです』
 あれを、風たちも聞いていた。人の口から出たすべての言葉と同じように、風たちもこかいんの話を耳にしていたのだ。それもいかにも風らしく、中途半端な聞きかじりを。そして思い込みから酔っぱらってしまった。
「何もかも誤解なのです」と風精が言った。


 そんな馬鹿な――と言いかけて、セイランは言葉を飲み込んだ。確か風たちが言っていなかっただろうか? セイランがTシャツを渡した時の、あの様子。

『この異界の装束が、なにやら力を与えてくれる』
『この装束には、異界の息吹が宿っている』

 ありもしない力、ありもしない息吹だ。人を狂わせるよくない薬があるという思い込みだ。
 もちろん、そこまで風精がバカなはずはない。吸ってもいない薬で、酔っぱらってしまえるわけがない。
 薬だけなら。思い込みだけなら。けれど、風精たちの背中を押して、明後日の方向に走らせてしまうものがもう一つあった。テンコウとの追いかけっこだ。
 セイランは大都の育ちだから、食神祭には当然親しんでいる。国中から集まってくる金炎厨師や観光客で、大都は祭りの間眠ることのない不夜城に変貌する。いつもの何倍の人たちが一堂に集まる祭りの時には、人々の気が立ってしまうものなのだ――と、父変わりであるハンリョウはいつも言っていた。
「だからこっそり抜け出したりするなよ。面倒に巻き込まれるぞ」
 それでセイランはどうしたかといえば抜け出して面倒に巻き込まれていた。おのぼりさん同士の喧嘩に巻き込まれたのだ。地元出身の料理人を贔屓して盛り上がった群衆が、負けた方の料理人の仲間とぶつかり合って殴り合いになった。セイランは這う這うの体で逃げかえり、ハンリョウにこってり絞られて往生したものだった。熱気はそれだけで人を酔わせ、狂わせるものなのだ。
 今の状況も、全く同じことだった。
「風精さま、風精さま!」
 セイランが急き立てても、風精は面倒くさそうに見返すばかりだった。急に怒りに駆られて、セイランは風精の髭を轢きむしった。風精は瞬きさえしなかった。
「ぼんやりしないでください!」
 セイランは喚き、風精を殴りつけた。
「止めないと、早く止めないと大変なことになっちゃいます!」
「もうなってます。駄目です。どうしようもない」
「何あきらめてるんですか! しっかりしてください! 白王様に」ああ、白王様に合わせる顔がない「白王様にいいところ見せたいんじゃなかったんですか! どうしても欲しいものがあるって、お願いすることがあるんだって言ってたじゃないですか!」
「もうおしまいです。こんなことになってしまっては。私はもうずっと」
「おしまいじゃないです! 何とかなります、絶対、私が何とかしてみせます。だから私の言うこと聞いてください、何とかするために、力を貸してください!」
「もう貸してます」
 どんより曇った目で風精が言う。
「私の力じゃ、もうどうにもなりません」
 ダメだ――焦燥が、ごわごわした毛だらけの手でセイランの心臓をわしづかみにした。もうこの風精には頼れない。すっかりあきらめきってしまっている。
 セイランは狂おしく市城を見下ろした。風たちは相変わらず荒れ狂っている。セイランは思わず白王を探した。舞上がってきた白王さまが、衣をひらひらさせながら飛び回り、風たちを鎮めてくれはしないだろうか。一切何も起こりなどしなかったように、すべてを片付けてくれはしないだろうか。
 ダメです――セイランは歯を食いしばった。これ以上、白王様に手はかけさせられない。みっともないところも見せられない。この事態を収拾すべきはただ一人、張本人であるセイランがやるしかないのだ。
「わああああああああああ!」
 セイランは身をよじって吠えた。腕を振り回して風精の体をバシバシ叩き、決意を込めて風たちを見据える。もはや風たちは笑ってさえいなかった。獲物をいたぶる猫のように、わけもなく怒り狂う獣のように、火のついたように泣き喚く赤ん坊のように。風たちはすっかり自分を見失ってしまっている。
 そしてそんな風たちにもみくちゃにされて、テンコウがこちらへ来ようともがいている。
「テンコ―――――――――――――!」
 セイランは手を伸ばしてテンコウを呼んだ。豆粒のように丸いテンコウの瞳がはっきりとセイランの姿を捉えた。体を膨らませて飛び出そうとしたところに、無数の風たちが縋り付く。さっきまであんなに簡単に振り切れていたはずの風たちが、今はいともあっさりとテンコウを捕え、引きずりおろして抑え込んでいる。苦しげに身をよじるテンコウの口に石が突っ込まれた。地面に押し付けられたテンコウの体はだんだんと小さくなり、その有様に風たちがげらげらと耳障りな笑い声を立てた。
「テンコ―――――――――――――!」
 信じられない有様だ。さっきまでとは完全に力関係が逆転してしまっている。もうだめだ。そんなことばがセイランののど元までせりあがってくる。ここまでだとは思わなかった。単なる勘違いが、風たちにここまで力を与えてしまっているのだ。精霊の力はその心の在り様によって大きく変わる――そんな教科書の言葉を、セイランは今やはっきりと飲み込んでいた。魚もおだてれば陸に上がる。風は思い込みで酔っ払い、すべてを台無しにしてしまう。
 思い込み。
 思い込みを正すにはどうしたらいいだろう。正しいことを言えばいい。もし、相手が耳を貸してくれさえするなら。では、相手がこちらの話なんか全然聞いてくれそうにない場合はどうだろう。どれだけ声を張り上げても、どれだけ理路整然と話しても、これっぽっちも届かない相手には。
 セイランは、そんな相手を知っていた。言いたい放題唾を飛ばし、こちらの話には欠片も耳を貸さない相手を。カンペイだ。身勝手で居丈高ではた迷惑な、セイランの天敵。
 カンペイみたいな相手のあしらいなら、セイランにはお手の物だった。毎日と言っていいほど顔を合わせ、追い払い続けてきた。そうでなくてもお手本がある。欲の皮の突っ張ったカンペイを一発で黙らせたあの白王様の手際を、セイランはまさにその場で見ていたのだ。
 話を聞かない相手に話を聞かせる方法はたった一つだけ。それは意表を突くことだ。
 セイランは息を吸い込み、頭をすっかり空っぽにした。
 そうして浮かんできた言葉を、何も考えずそのまま口にした。
「どろぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
 何ですか、それ。自分の言葉にセイランは苦笑した。それでも口は止まらない。セイランは抱きすくめてくる風精の腕の中から身を乗り出して、眼下の風たちを指さして声も限りに詰った。
「どろぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー! 返せ! 返してください!」
 何を返すんでしょう、と考えて、セイランはくすくす笑う。しいて言うならTシャツだろうか。あれはたしかにセイランがあげたものだ。それを泥棒呼ばわりなんてとんでもないいちゃもんもいいところ、全く筋が通らない。
 そして筋が通らないからこそ、相手の注意を引くことができる。理不尽は更なる理不尽には勝てないのだ。ちょうど、うろたえている人がもっとうろたえている人を目にして落ち着きを取り戻すように。
 今や破壊は止んでいた。風も、人も、市城にあるすべての目が、セイランのことを見上げていた。すべての耳がセイランのたわごとを聞き、すべての首がひねられていた。そうです、とセイランは満足げにうなずいた。今の私は、この街で一番頭がおかしいのです。頭がおかしいから、なんだってやってのけるのです。
「風精さま!」
 言葉も鋭く振り向いて、セイランは風精をにらみつけた。ひげもじゃの精霊はきょときょとと目を動かし、ずいぶん小さくなってしまった。
「返してください」
「か、返すとは何を」
「盗んだTシャツです。ほら、あなた達もです!」とこれは眼下に怒鳴り「まったく不届きものですね」
「そんな馬鹿な。アレはもらったもので」
「そうですね」
「じゃあ、泥棒だなんていわないでください。そうでなくても白王さまに合わせる顔が」
「その白王様から盗みました。私が」
「は?」
 嘘ではなかったように思う。事後承諾のつもりで借りたのだ。そういえば白王様ではなくて、マオのものであったかもしれない。構うものかとセイランは笑った。ここで一番効くのは白王様の名前のはずだ。それに、どうせ八千糧も払うのだ。白王様だって、情報以外にもちょっとぐらい何かを受け取っていいはずだ。
「それをあなた達にあげました。だからあなた達も同罪です。さあ、盗んだものを返しなさい! 今すぐ! 白王様のものですよ!」
 不思議な感覚だった。ちっとも筋の通っていない理屈なのに、言えば言うほどもっともらしく思われてくるのだ。自分の言葉に勇気づけられて、セイランの態度はどんどん大きくなった。
「酔ってますよ!」思わず口に出してしまう。風たちが酔っぱらうのもわからなくもない。思い込むのは簡単だ。思い込みに従って何かをしでかすのはもっと簡単なことだ。
「さあさあ、早く盗んだものを返してください! さすがの白王様も怒りますよ! 白王様からは逃げられません! ちょっと、聞いていますか! どろぼう! どろぼーーーーーーう!」
 ひらり、と何かが地面に落ちるのを、セイランは確かに見たと思った。
 風たちが姿を消し始めていた。身にまとっていたTシャツだけを残し、声もなく宙に溶けていく。うまくいった、とセイランは内心快哉を叫び、風たちのうなだれた様子を見てわずかに後悔した。身をよじってみた風精の顔は、罪悪感に泣きぬれていた。
「そんなつもりはなかったです。ごめんなさい」
 巨体に似合わぬか細い声で、風精は涙ながらに謝った。ひげもじゃの顔がだんだんと透けはじめていた。制止しようと、事情があるのだと説明しようと伸ばしたセイランの手は、風精の髭をあっさりとすり抜けた。まとっていたTシャツを残して、風精の体全体が瞬いて消え失せた。
 そうして、セイランは中空に投げ出された。
 悲鳴を上げることを思いついたのは、落ち始めてしばらくしてからのことだった。
 言葉にならない叫び声が、セイランののどから飛び出した。ぐるぐる回る視界の中で、地面がどんどん大きくなっていく。そんな中で、真っ白な何かが自分めがけてすっ飛んでくるのをセイランは視界の隅に捉えていた。
 テンコウだ。テンコウが助けに来てくれる。ああ、でも――セイランの中の冷静な部分は、落ちる速さと彼我の距離をはっきり測っていた――間に合わない。
「てんこーーーーーーーーーーーー!!!」
 テンコウが駆ける。地面がどんどん近づいてくる。セイランは思わず目をつむり――
 どん、と何かがぶつかって、セイランの落下が止まった。



 首の後ろをつかまれて、吊るされているような感覚があった。
 テンコウが間に合ったんだ――とセイランが目を開けると、ちょうどテンコウがこちらへ向けて最後のひとっとびをやるところだった。弾丸のようにぶち当たってきたテンコウは全身でセイランを包み込み、ふああああと気の抜けたような声を発した。いい加減に書かれた落書きのような目は、今やいっぱいに広がってセイランを見つめている。むみゃふぇ、とテンコウが小さく鳴いた。
「ありがとう、テンコウ。助けに来てくれて。追っかけまわしたりしてごめんなさい。びっくりしましたよね」
 にゃあああとテンコウが笑う。セイランはテンコウの綿毛に顔をうずめ、テンコウから噴き出してくる風を胸いっぱいに吸い込んだ。いいお布団です、とセイランは微笑んだ。暖かくて、フカフカで、セイランのことを心の底から案じてくれて、困った時には駆けつけてくれる。たとえ、ちょっとくらい間に合わなくても。
 間に合っていなかった。
 そうだ、とセイランは顔を上げた。落下が止まったのは、テンコウが来る前のことだ。何かが首の後ろ、セイランの服の襟にあたり、セイランを宙に繋ぎ止めたのだ。
 セイランはそっと手を伸ばし、それをつかんだ。
 つるつる滑る半透明の細い棒。ちょっとぐらい力をかけてもたわむばかりで折れない。突き出しているほうに視線を向けると、目に入るのは羽飾り。真っ白な羽が切りそろえられて、棒の根元にはまっている。矢だ――とセイランはいぶかしんだ。誰かが放り出されたセイランを矢でつなぎとめたのだ。くるくる回って落ちている小さな的を、それもど真ん中にあてれば死んでしまうから服のほうに当てるようにして。達人の業だった。こんなことができる射手が近くにいたのだろうか。たまたま通りかかって、地面にぶつかるセイランを見るのは忍びないからと矢を放って空中に――
 矢は何もないところに刺さっているはずだ。だってここは空の上だから。
 目をむいたセイランの前で、矢がどんどん薄れ始めた。あっという間に消え失せて、支えのなくなったセイランの体をテンコウがしっかり受け止める。こうなればもうセイランのお手の物だった。いつも空を飛んでいるときのように、テンコウの毛をしっかりと握りしめながら、セイランは地上に人を探した。あんな不思議な矢を射ることのできる人が誰なのか、今はもうセイランにもわかっていた。
 見つけた。
 通関司の屋根の上、セイランが思った通りの場所に稀鴉将軍は立っていた。ゆるくたらされた弓手には、よく見なければわからないほどに透き通った弓。風を操り、矢を思い通りの場所に飛ばし、空中に突きたてることなど、将軍になら朝飯前に違いない。降下中にできる限り深く頭を下げると、将軍の顔を隠した垂れ布がわずかに揺れた。将軍は体の向きを変えて敬礼すると、一歩後ずさって姿を消した。
 そうしてセイランは、テンコウとともにゆっくりと通関司の屋根に降り立った。二人がセイランを待っていた。袖に手を入れて苦笑している大師に一礼すると、セイランはテンコウとともに、屋根の上にひざまずいた。
「白王様、改めてご挨拶を申し上げます」
 セイランの叩頭を、今度ばかりは白王も止めようとはしなかった。


「白王様、ごめんなさいとんでもない騒ぎを起こしてしまいました。全部私が悪いんです。ごめんなさい!」
 一息に言い切って、セイランは再び頭をこすりつけた。屋根というのは人が立つようにも、まして土下座をするようにもできていない。転げ落ちないようにしっかり捕まっていても、ぐらりとなることはある。そんな時、セイランを支えてくれるのはテンコウだ。セイランにぴったりとくっついて、もこもこしたすべり止めになってくれるのだ。苦手な白王の前だというのに。逃げようともしないで。
「ごめんなさい! テンコウを連れてきてあげようと思ったんです! あんなことになるなんて思ってなくて――」
「――お礼を言わないといけませんね。それと、お詫びも」
 セイランは頭をあげた。かがみこんだ白王様が、セイランを助け起こそうと手を差し出しているところだった。白檀の香をまとった白王様の美しい顔は、何とも言えず申し訳なさそうな表情を浮かべていた。どうして、とセイランは思った。申し訳ないのは私のほうのはずなのに。
「公主さま」
「は、はい」
 よいしょ、とセイランを引っ張り上げて、白王様はくしゃりと笑った。
「公主様、この白王、心からお礼を申し上げます。本来ならば私がなすべきことで、公主様のお手を煩わせてしまいました。それもとても難しいことを」
 なすべきこと。とても難しいこと。セイランがやったこと。
「テンコウを連れてきたことですか? そりゃ最後はうまくいきましたけど、でもあんなに風たちを巻き込んでしまって――」
「まさにそれこそ、私がなすべきことだったのですよ、公主様」
「へ? で、でも、大暴れさせてしまって」
「そうして不満を発散することも大事なのですよ。気が沈んで、苦しくて、どうすればいいのかわからない時が誰にでもあります。風とてそれは同じこと。そんな時に、風穴を開けてあげることも私の役目なんです。大暴れだって、方法の一つですよ。私もあまり嫌いじゃありません」
「ほどほどにされるがよろしいでしょう」と大師が生真面目に応じる。「あなたのめちゃくちゃに付き合わされる者が気の毒ですからな」
「はいはい、ほどほどにします。とにかく、公主様、私の代わりに、あなたは助けようとしてくれたのです。私のもとに連れてきてくれたのです。どうすればいいのかわからなくなってしまった迷い風を」
 白王の視線が滑り、セイランの傍らの何もない場所に据えられた。
「さあ、おいでなさい。名もなき髭もじゃさん」
 大気が傾いだ。空中にあいた穴から絞り出されるようにして、何かぐしゃぐしゃしたものが姿を現した。ぐしゃぐしゃは広がって布になり、縮み上がってしわのよったTシャツになった。袖から腕が、裾からおなかが、襟元から髭もじゃの頭が飛び出し、かと思うと腕は裾をつかんで伸ばして頭にかぶせてしまった。沈痛そのものという雰囲気を全身から発散しながら、風精はへそをだし、Tシャツをかぶって縮こまっていた。
 目を丸くしていた白王が、こらえかねたようにくすくす笑った。
「まあ、面白い格好ですね」
「合わせる顔がないのです……」
「そうなんですか。とても立派なお顔立ちなのに。素敵なおひげですよ」
「ここにいる資格なんかないのです!」
 まるで打ち据えられでもしたかのようだった。髭もじゃの風精はもがいていた。苦しいのに、自分ではそれをどうすることもできないでいるのだった。ぐしゃぐしゃになったTシャツがかぶさっている頭のあたりに、小さなシミができていた。泣いているのだ。
「私なんかどうでもいいのです。おまけに私は泥棒なのです」
「あ、あの、それは違うんです! 私が嘘ついて言ったことで――」
 泡を食ったセイランを、白王が目顔で制した。まるで泥棒呼ばわりのことは大して重要ではないとでもいうように。そうだ、とセイランは思った。風精は今まさに、おまけに、と言っていた。風精を苦しめている何かは、泥棒呼ばわりよりも先にあるものなのだ。
 いったいそれは何だろう?
「公主様?」
「は、はい」
 白王は花のように微笑んでいた。ひらひら踊る羽衣に取り巻かれて、白王様は途方もなく美しかった。その魅力を、今の白王は残らず風精のほうへと向けていた。
「公主様、お願いがあります。こちらの方を、私に紹介してくださいませんか。そうすれば、きっと公主さまにもお分かりいただけるかと思います」
「紹介、ですか」
「基本的な礼儀として」と大師が鹿爪らしくわりこんだ。「貴人に、それも霊王ほどの身分の方にお目通りするにあたり、たとえ目の前にいようとも、客が直接話しかけることは言語道断です。まず客のほうから挨拶を申し上げ、それをしかるべき立場の者が貴人に代わってうけます。その後、その代わりのものが客人を紹介し、伝言を伝えるという次第なのです。今の白王様はあまり堅苦しい礼儀にはこだわらぬお方ではありますが、かといってないがしろにすることが許されるわけでもありません。さあ、公主様、今こそ客はあなたに挨拶を済ませたのですから、今度は公主様がお取次ぎする番です」
「ご説明ありがとうございます、大師。さあ、公主様、教えてください。こちらの方はいったいどなたですか?
「それは――えっと、この街の風精さんで」
「公主様」
「はい、ちゃんとやります。こちらの方は、この街の風精様です。生まれたばかりなんです」
「それだけですか?」
「え、えっと――」
「それだけです」
 もし、今の風精の言葉を絞ったならば、きっと大きな水たまりができたことだろう。人を飲み込んで溺れさせる冷たい泉ができたことだろう。セイランは思わず風精を見た。風精は今やはっきりと涙を流していた。
「それだけです。それでおしまいなんです。だって私には――」
「名前がまだ、ないんですね」
 白王様が、言葉を静かに引き取った。風精はがくがくとうなずいていた。何度も首を振りながら、声にならない嗚咽を漏らしていた。
 セイランには、風精を白王様に紹介してあげることなどできなかった。なぜなら、名前を知らないから。なぜなら、風精には名前がないから。

『白王様に、お願い事があるのです』
「とても大事なお願いなんです。大事なお願いをするのですから、きちんとしなくてはならないのです』
『白王様に認めてもらえるだけのことをしてからでなければ、白王様から何も受け取れないのです』

 セイランの腑に、理解が落ちた。
 苦しんでいたわけだ。何かを成し遂げたがっていたわけだ。風精は何物でもなかった。自分は確かにそこにいるのに、何をすればいいのかわからない。何ができるのかもわからない。誰も、本当の自分のことを呼んでくれない。誰にも自分を見せることができない。だってそんなものはありはしないから。名前がない。自分がいない。自分がどうしてここにいるのかわからない。
 だから誰かに名前を付けてもらわなくてはならない。誰かに自分を認めてもらわなくてはならない。
「珍しいことです」
 大師がひげをしごいた。
「風がこれほどまでに強い自意識を得たならば、おのずと名前のほうから訪ねてくるというものです」
「大師がそれをおっしゃるんですね。ご自分も、お名前のことでは苦労されたと聞いておりますけど」
「おっしゃる通りです」
 大師たちの言葉も、セイランの耳にはあまり入ってこなかった。セイランは茫然としていた。気づいているべきだった。セイランも同じ苦しみを共有していたのだから。立派な何かになりたかった。人に認めてもらいたかった。同じだった。なのにセイランは深く考えなかった。風精さまとしか呼ばず、あちこち引きずり回した挙句に失敗して、名前をもらえるかもしれないという風精の希望を打ち崩した。最後には泥棒呼ばわりまでして突き放したのだ。
 信じられないほど残酷なことだった。
 セイランは立ち上がり、うめいている風精に寄り添った。風精の体がすこし縮んだ。拒絶されたように思われて、それでもセイランは腕を伸ばして風精を抱きしめた。謝らなければならなかった。セイランは風精にしがみつき、ごめんなさいとささやいて涙を流した。
「公主様、そして名もなき風精よ、立ちなさい!」
 二人ははっと顔を上げた。凛とした声だった。白王は二人の前に浮かび上がり、言葉の調子とは裏腹に満面の笑みを浮かべていた。わきに控えているのはテンコウだ。白王様に手を添えられていやそうに体をよじりながらも、しぶしぶといった様子で付き従っている。
 セイランと風精はのろのろと立ち上がった。
「二人とも今日の件で多大な貢献がありました。ですからこれより、あなた達二人に褒美を授けます。はじめに、吉風公主セイラン! 進み出なさい!」
「は、はい!」
 転ばないように慎重に、屋根の上をゆっくりと歩く。前にやってきたセイランに、白王様はテンコウを抱き上げて見せた。
 もふえ、と唸るテンコウの目は、見たこともないほど複雑な色合いをたたえている。貸一つと言われている気がして、セイランの気が少しだけゆるんだ。
「吉風公主」
「はい」
「あなたは世にも強力な精霊であるテンコウ、かの『天の狗』を私のために追いつめ、この通り連れてきてくれましたね?」
「はい。でもそれは、風精さまが」
「もちろん。それでも、誰にでもできることではないのです。公主様がいたからこそ、このような難事が成し遂げられたのですよ」
 白王はしかつめらしい顔を作った。
「たとえ私が、風を司る霊王である白王が本気で風を駆ったところで、テンコウ様に追いつくことなどできはしません。影を踏むことすらできないのです」
「そうなんですか?」
 確かにテンコウは速かった。あんまり速くて、普段のごろごろしている姿しか見ていないセイランには信じられないほどだった。それでも、テンコウは捕まったのではないか。風精たちが抑え込んでいたのではなかったか。
「もし公主さまがいなければ、テンコウ様は世界の果てまでだって逃げてしまわれたでしょう。大風を呼び起こして、阻むものを吹き散らしてしまったことでしょう。それをしなかったのは公主様がいたからです。そばを離れたくはなかったのです。あんまり遠くに行きすぎて、駆けつけられなかったら大変ですから。それに大暴れすることもできなかった。傷つけてしまうからです。だからこそ、この街を離れず、逃げ回ってばかりだった。だからこそ、付け入るスキができたのですよ」
 その通りだ、とセイランは思った。テンコウはセイランのもとに来てくれた。どことも知れない世界の果てまで逃げ出すのは簡単だったのに、そうしなかった。いつでも戻ってこれる場所にいたのだ。それにセイランが気を落としているその時にだって、様子を見に戻ってきてくれたではないか。詰所に行った時も。風精に振り回されて酔ってしまったときも。
 今もこうして、セイランのために我慢してくれているではないか。セイランの面目を保つためだけに。
「テンコウ……」
 どうしたの、とテンコウが言った。豆のように丸い目、落書きのような口、そのすべてが、セイランを気遣ってくれていた。守ってくれていた。愛してくれていたのだ。
「ありがとう、テンコウ」
 どういたしまして、とテンコウがいった。白王もまた、うなずいた。
「そういうわけですから、公主さまにおかれては、ご自身の果たしたお役目をご理解いただけたと思いますので、あらためてご褒美を授けたいと思います。大師?」
 大師が進み出た。
「白王様におかれては、今回の褒美として、異人の所有にかかるくだんのTシャツの所有権を白王様に移転し、しかるのちに公主に与えられるのが適当だと思召されたのです」
「泥棒はよくありませんが、そもそも私のものではありませんから、私から盗むことなどできるわけがありません。加えて、もともと私はあの異界の服を欲しいと思っていました。きちんとした方法で手に入れて、おわびとして公主様にもお渡しします。受け取っていただけますね?」

『白王様から盗みました』『あなた達も同罪です』

 これは自分に対する褒美ではないのだとセイランは理解した。風精の名誉を回復するためのものなのだ。見かけに合わない小心者が、自分を責めずに済むように。
「はい! ありがたく頂戴します」
 セイランは深々とお辞儀をした。大師に目配せされてセイランは脇へのけ、すると白王は空を踏んで風精の前に立った。
「名もなき風よ」
「はい」
「あなたもまた、テンコウ様をわがもとに連れてくるにあたり、公主に協力して多くの風を集め、束ねて指揮するという偉業を成し遂げました。そうですね?」
「――できなかったです。みんな、酔っぱらって」
「加えて」
 白王のはっきりとした一言が、風精の言葉を断ち切った。
「皆がありもせぬ薬に酔っ払い、自分を見失い、大暴れをしても、あなただけは冷静にして己を見失うことがありませんでした。公主を守り、街に害をなすこともなかった。まさにこれこそは、風の中でも特に珍しい美点なのです。およそ風というものは浮かれているもの、一つ所にとどまらぬもの、目まぐるしく変化し続けずにはいられないものなのです。よく言えば変幻自在、悪く言えばいい加減で無責任なもの。ろくに考えもせず、触れるものすべてを巻き上げて地にたたきつけてしまうもの。しかるにあなたは、その場の勢いに騙されることなく、はっきりと公主を守ってくれた。この私の掛け替えのない友人である公主を。あなたは褒美に、この白王から最大限の贈り物を受け取るに値します。さあ、名もなき風精よ、願いを言いなさい!」
「――名前を、名前をください!」
 Tシャツをひきずりおろし、体を精一杯膨らませて風精が吠えた。
「私は名前がほしかった。白王さまに名前を付けていただきたかったのです!」
 その体から、三波の風が吹き出してセイランたちを揺さぶった。風精は叫んでいた。声は風精の心の真ん中から飛び出していた。
 白王が掌を突き出した。その指にはめられた公印が光り輝き、大気そのものに印を刻み込んだ。白王だけが描くことのできる印だ。
「いいでしょう。望み通り、白王の名において、あなたに名前を授けます。受け取りなさい」
 印をぎゅっと握りしめて、白王は作った拳を風精の額に叩き込んだ。過たずうたれた額に、かまいたちが躍字を刻み込む。つるっぱげの額に刻み込まれた躍字はただ一度強く発光すると、溶けるように消え失せた。放心していた風精の目に、ゆっくりと力が戻ってきた。
「白王、さま」
「名乗りなさい、あなたの名前を」
「私は――私の名はフドウです。私は揺らぎません。私は確かなものです。私は――私には名前があります! 私はフドウ、フドウです! 私には名前があります!」
「素晴らしい名です。フドウ、あなたにはもう一つ贈り物があります。名付け親である私からのお祝いです」
 白王がすっと手をあげた。どこからともなく飛んできた矢が、白王の手のひらにあやまたず収まった。
「あなたにはこの地の風たちを導くだけの実力があります。また、テンコウ様を捕えてみせたその働きには目を瞠るものがあります。よってあなたには風伯としての地位と、この矢を授けます。この矢は彼の雷帝が『三隻』を討ち果たすべく風たちに与えたもの。大延国の平安を守護するものとしての象徴です。受け取りなさい」
「はい!」
 今や風伯とフドウは、はっきりと力を増していた。矢をうやうやしく受け取り、しっかりと握りこむ。そうしてフドウは晴れやかに笑った。
「ありがとうございます、白王様。このフドウ、感謝に堪えません。全身全霊をもって、役目を果たします!」
 高く高く、フドウは笑った。踊るように旋回し、そうせずにはいられないとでもいうように腕をパッと広げ、何度も何度も自分の名前を口にしてはくるくる回る。滲み出してきた多くの風たちを引き連れて、フドウはコマのようにくるくると回りながら天高く上昇した。ぽん、と大きな音を立てて、フドウの姿は虚空に消えた。まるで見えない花火が上がったかのようだった。
 セイランはため息をついた。ふと見ると、白王もまた、ため息をついているのだった。二人は顔を見合わせてくすくす笑い、ついには爆笑した。
「うまくいってよかったです。公主様、ご助力ありがとうございました」
「私、別に何にもしてないです。それに、よかったです。ちゃんと風精さまの――じゃなくて、フドウさまが元気になってくれて」
「本当ですね。あんなに髭もじゃなんですもの。泣き顔なんて似合いませんわ。それと、テンコウ様もご協力ありがとうございます。」
 白王がテンコウにほおずりすると、テンコウは首を絞められでもしたようにうめき声をあげた。


 白王がテンコウを解放するまではしばらくかかった。白王がぐったりしたテンコウを抱え、セイランの手を取ってひょいと屋根から飛び降りると、やじうまたちが拍手で迎えた。人々にひとつ頭を下げて、後に続いて飛び降りてきた大師を迎え入れる。通関司の中に入ると、レイレイが奥から飛び出してきてセイランに抱き付いた。かと思うとぱっと離れ、腰に手を当てて目を吊り上げる。目の端っこににじんでいた涙をぬぐおうともせず、レイレイはセイランをにらみつけた。
「もう、また無茶して! 心配したんですからね!」
「ごめんなさい、心配してくれてありがとう、レイレイ」
「もう、大師も白王さまもお二人とも何にもしてくださらないんですから。公主さま、今度やったらお暇をいただきますからね」
「はあい」
 レイレイはまあそれでもよかったですなどと言いながらいそいそと奥へ戻り、セイランたちは食堂に入って席に着いた。レイレイが淹れてくれたお茶を飲んで、セイランは生き返ったような気持ちになった。今日という日は信じられないほど長かった。
「公主さま」
「はい?」
 白王さまが、とん、と音を立てて湯呑を置いていた。
「お詫びしなければならないことがもう一つあります」
 セイランはすわりなおした。白王も座り直し、するとなぜか大師も座りなおした。卓に小さな笑いが満ちた。
「お詫びって、何ですか?」
「八千糧のことです。あれは出すべきでないお金でした」
 今度こそセイランはすわりなおした。白王がわけもなく出してくれた大金のことだ。通関司に降りかかってきた危機を退け、性悪の異人とカンペイを黙らせ、そして――
「――あんなお金の出し方は、公主様に負担をかけると気づかなかったんです」
 人は贈り物をされると喜ぶ。けれど、それには限度もある。どうしてそんなものをもらえるのかわからない贈り物は、相手にとって重荷になる。

『白王様に認めてもらえるだけのことをしてからでなければ、白王様から何も受け取れないのです』

 フドウはそうした。大きなことを成し遂げ、だから白王からの贈り物を胸を張って受け取ることができた。
 でも、セイランの八千糧はちがった。もらえるはずのないお金だった。受け取ることなどできない過剰な好意だった。たとえ白王にとってみればはした金だったとして、セイランの側で収まらないのだった。
 だからセイランはテンコウを捕まえた。何かをしなければならないと思ったから。このまま使い走りの、お小遣いをもらって喜ぶだけの子供で終わりたくなかったから。
「相手にいいことをしてあげるつもりで、かえって追い込んでしまうのは、私にはよくあることなんです」
 白王様が笑う。後悔の笑い、悲しみの笑い、そして何より自嘲の笑いだ。
「風は分別のないもの、触れるものすべてを巻き上げてしまうもの。だからって考えなしではいけないのは、今日学んだとおりです。ですから、公主様、ごめんなさい」
「いいんです」
 いいのだった。セイランはもう、借りを返していたのだから。この吉風公主ことセイラン様は、白王様が求めて止まなかったテンコウを連れてくることのできる人間であり、現に連れてきてあげたのだから。差し引きとんとんだった。それに――
「それに、カンペイさんのあの顔が見れたのは、八千糧だしてくださったおかげです」
「見ものでしたな」と大師。
「見ものでしたね」と白王も舌を出した。「実を言うと、ちょっとぎゃふんと言わせてやりたいと思っていたんです。その価値はあったかなって」
「まったくですな」と大師。
「でしょう?」
「とはいえ、それだけではないでしょう。あなたは無邪気なようでいて、きちんと計算をしている」
「あら、大師、それって何のことでしょう」
「では私が代わって絵解きをして進ぜましょうか。白王様」
 大師の顔にしわが動いた。
「いくら見ものであったとはいえ、あんな男に八千糧出してやる義理などありません。ご自分でもお認めになった通り。当然、私たちがみすみすそのままにしておくはずもない。ですから」と大師は言いかけた白王を制し「ですから、なんとか損失を埋めなくてはなりません。正式に振り出されてしまった手形を返せということはできません。かといって、通関司で用立てられるでしょうか? すぐには無理でしょうな。いきおい、白王様、あなたには立て替えてもらったのだということにせざるを得ません。我々通関司が、白王様に借金をしているという格好です」
「なるほど、借金ですか」
 白王はちらちらと天井に、使い込まれた卓に、ぼろな椅子に目をやった。大師が笑った。
「ご明察の通り、返済には何年かかるか知れたものではありません。逃げも隠れもしませんが、何しろ手元不如意なことが多いものですからな。返済が滞るのはままあることでしょうな」
「ですよね」と白王。
「ところで、借金取りというものは、返済が滞ると目の色を変えるものです。取立てにやってくるのですな。したがって」と立ち上がりかけたセイランを手で制し「したがって、白王様も同じようにされることでしょう。八千糧といえば、人任せにできる金額ではございませんからな。多少の用事に優先する金額でさえあります。何度も何度も取立てにお越しいただくことになるでしょうね」
「なるでしょうね」と白王。
「そうですよ!」
 セイランは意気込んだ。借金取りときたらすごいのだ。あのマオですら、異世界の借金取りから逃げてきたそうではないか。借金取りは容赦なく相手を追い詰める。何度も何度もやってくるのだ。金を返せと叫びながら。
 何度も何度も。
「何度も、何度でもお越しください、白王様! 心からおもてなしいたします!」
「何しろ、借金取りの機嫌を損ねてはなりませんからな。最大限歓待いたしましょう。金は出ないでしょうが。もちろんテンコウ殿も協力してくれます」
「そうですね。そういうことなら、来ないといけないかもしれませんね」
「ずいぶん白々しいですな。最初からこれが狙いだったのでしょうな」
「まあ、勘ぐりすぎですよ、大師。私はただ、ぎゃふんと言わせたかったんです」
 セイランは胸の高ぶりを抑えられなかった。白王様がまたやってくるのだ。金を返せと心にもない口実を振りかざし、セイランたちに会いにやってきてくれるのだ。ああ、なんてことだろう。
「お手柔らかにお願いしますよ。テンコウ殿が卒中を起こされてもいけませんから」
「そんなことないですよ! 何度でも来てください! 何しろ八千糧ですからね! 大金なんですから!」
 セイランは卓の下に潜り込み、テンコウを引っ張り出した。テンコウはまるで雷でも落ちたかのようにあたりを見回し、白王に視線を移した。白王が笑った。セイランも笑った。
「テンコウ様、そういうことですから、これからもお邪魔しますね」
 テンコウがふぁあああああとあくびをした。床に下ろされて伸びてしまったテンコウを指さしながら、真面目くさってセイランは言った。
「テンコウ、楽しみですって言ってます」



 結局、白王様はすぐに発つことになった。どこからともなく現れた稀鴉将軍が知らせを持ってきたのだ。
「放っておくと、へそを曲げてしまう子がいるんです」
 白王様はそういって詫びた。市城を離れる前に空を一回りし、どん、どん、と大気を打ち鳴らす。市城の人たちすべてに手を振られて見送りを受け、白王様は飛んで行ってしまった。セイランもテンコウとともに屋根の上で見送った。白王の姿が地平線の向こうに消えると、テンコウはくたりと広がってセイランにもたれかかるのだった。
 そして白王と入れ替わるように、通関司に人がやってきた。
「ごめんください、一つお尋ねしたいことが」
 異人の老人だった。品のよさそうな細身の老紳士は、セイランを見るとおや、というように片眉をあげた。セイランもまた、すぐに気が付いた。門をくぐった時、セイランがちょうど居合わせたあの老夫婦の片割れだ。責任者は誰かと問いかける老人にセイランは指輪を見せ、話なら自分が聞きますと胸を張った。老紳士はセイランを侮ったりしなかった。それなら、と懐から写真を一枚取り出す。写真を一目見て、セイランはあっと声をあげた。マオだ。借金取りに追われて焦燥していなければ、こんな風でいるはずの顔。
「実は、先ほど空を舞っていたTシャツのことでお尋ねしにまいりました。衛視のほうで聞きましたらば、こちらに引き渡す予定だったとのことで。実は、あのTシャツを持ち込んだ人物を探しているのです。ご存知でしたら、ぜひ」
「しゃ、借金取りですか!」
 思わずセイランは声をあげた。ついに追手が追いついたのだ。マオも年貢の納め時だ。とはいえ白王さまからもらった金で借金は返せるだろう。もしカンペイと仲間割れを起こして巻き上げられていなければ。巻き上げられていそうだなあとセイランは思い、かくまってあげるのが温情というものだろうかと首をひねった。今朝までのセイランなら間違いなく見捨てていたのだが、今のセイランには余裕があった。それに、すぐ見つかるだろうとはいえ、本当に居場所は知らないのだ。どことも知れぬ場所に旅立ちましたと言おうとして、セイランはやっと、老紳士があっけにとられているのに気が付いた。
「いいえ。逆です。私は借金が無くなったとお伝えしに来たのですよ。マオさまのお父上の命を受けて」
 共産党の地区委員なのだ――と老人はいい、偉い人なのだと付け加えた。大学に押し込んだはずの息子が出奔し、得体の知れない事業に手を出した挙句失敗、実家に借金を作って異世界に逃げだした。それがセイランの知っているマオなのだと老人は説明した。
「坊ちゃんには手を焼いておられるのです。ですが、見捨てたわけではありません。もう向こうの世界の借金はきれいになっております。在庫を抱えてこちらの世界に来たところまで突き止めましたので、私としては、こちらで商売でもやって成功なさっていればそれでよいかと考えていたのです。さっきの空を飛んでいたTシャツは売れたのでしょうか? 泥棒なんておっしゃっていましたね、お嬢さん」
「失礼ですけど、マオさんには商才ないと思います」
「存じております。わたくしも付き合いが長いですから。ご迷惑をかけたのでしたらお詫び申し上げます。こんなことを申し上げるのは何ですが、マオ様も必死ではあるのです。お父上があまりにも立派すぎるものですから。何か成し遂げようとせずにはいられないのです。空回りしてしまうことも重々承知の上で。だから許せとは申しませんが」
「いいです。そういうことなら許します」
 同じだ、とセイランは思った。何のことはない、マオだってセイランたちと同じだった。ちょっと空回りしてしまっただけだ。セイランだって、同じようにしくじって青ざめていたではないか。
 セイランは老人に、すぐ探して見せると請け合った。今日の間は観光を楽しむように言うと、老人はすこし苦笑いした。
「それではというのもなんですが、安全な店を教えていただけませんか。妻がすこし、よくない屋台に手を出しまして。皆さんがあれだけご警告してくださったのに。日帰りは無理そうですから、宿も探しているのです」
 確かに、老紳士のほうも少し顔色が悪いのだった。
「ご飯ならミン爺の屋台がいいですよ。お泊りは金栄館へ。もしかすると、マオさんだっているかもしれませんから」
 そういって、セイランは目いっぱい笑って見せた。



 実を言うと、マオはまさしく金栄館にいたのだった。心底やつれはてていたマオを老紳士に引き渡すと、マオは少しだけ生き返ったような様子を見せた。老夫妻は安心した様子だった。カンペイの姿はなく、大金を得て身を持ち崩している様子もなかった。案の定金だけもって逃げられたそうで、セイランはここぞとばかりにカンペイを貶した。マオも加わってめちゃくちゃに言い、それで少しは気が晴れたようだった。セイランは老夫妻の晩御飯にお相伴にあずかり、それはもうたらふく平らげた。
 翌朝、マオたち一行を門まで送り届けると、セイランはおとなしく自室へ戻り、ダメになってしまった書き取りの続きに手を付けた。仕事である。
 ――銀器、不可。家具類、可。書籍、可。
 傍らには大師が坐し、セイランを手伝っている。いいと言ったのだが、大師のほうも譲らなかった。カンペイにやらせた作業の確認は二人でやるのがいいのだと言い張ったのだ。二つの眼より、四つの眼のほうが過ちを見つけやすいのだと。何食わぬ顔で二つの眼を生やしながら言うものだからセイランは笑ってしまって、二人でやることになったのだった。
 積みあがった書簡をくり、思いのほか流麗なカンペイの手筋に複雑な思いを抱きながら、セイランはテンコウに寄りかかった。膨らんだテンコウの体が座布団のようにセイランを支える。何とはなしにテンコウの毛をつまんでいるうちに、セイランの心に小さな疑問が浮かび上がった。
「大師」
「なんでしょうか」
「テンコウと、白王様のことなんですけど」
 大師の手が止まった。虎の眼をくるりと動かしてセイランを、その傍らに寝そべっているテンコウを見る。テンコウはふふぁあああとあくびをした。
「どうして、白王様があんなにテンコウに構うのかということですか?」
「そうです。何がそんなに特別なんでしょうか」
「テンコウ殿は、友とするにはよい方ですよ。それだけのことだとは思いませんか」
「でも、白王様言ってましたよ。世にも強力な精霊であるテンコウって。『天の狗』とかなんとか。そんなの私、知らなかったです。私の風精なのに。大師は知ってたんですか?」
「――ええ」
「じゃあ白王様がテンコウを好きなのも、テンコウが強い精霊だからなんですか? それにテンコウも、白王様に構われてなんで嫌がるんですか。優しくしてあげればいいのに。テンコウ、どうなんですか」
 そうですね、とテンコウがいい、セイランに背を向けた。セイランがつついても知らん顔である。大師は困ったように髭をしごいた。二列に並んでいた目の上のほうが引っこみ、いつも通りの大師の顔を形作った。
「公主様、確かに私は事情を存じております。テンコウ殿のお姿も、白王様がテンコウ殿に構う理由も。ですが、私の口からは申し上げることができません。なぜなら、これはテンコウ殿の名誉にかかわることだからです」
 名誉。テンコウの。セイランは意表を突かれた。こんなもこもこしたバカ犬みたいなテンコウに、名誉が。
「忘れないでください、公主様。テンコウ殿はあくまであなたの精霊です。だからこそ、秘密にしておきたいこともあるのです。いつか、時が満ちたならば、テンコウ殿自らお話になることでしょう」
 テンコウが、話す。セイランは横で寝息を立てる座布団をうちながめた。これがある日急に起き上がって、居住まいを正して、「本日は大事なお話があります」なんて言ったりするのだろうか。「名誉にかかわることですので」
 セイランは笑いださずにはいられなかった。あんまりおかしくて、隠し事をされていることにたてていた腹もどこかに行ってしまった。面白いじゃないですかとセイランはテンコウをつついた。テンコウが秘密を明かしてくれる日というのは、きっとセイランの人生の中で忘れられない日になることだろう。
「それから、白王様がテンコウ殿に構う理由に関して言えば、これは私の想像ですが、単にテンコウ殿が逃げるからですよ。彼女はああいう人柄ですから」
 いかにもその通りだとセイランは思った。白王様はそういう人だ。テンコウが必死に逃げれば逃げるほど、うれしくなって追いかけてしまうだろう。たとえ本人の言っていた通り、追いつけないのだとしても。
 でも――とセイランはいぶかしんだ。なら、なぜテンコウは逃げるのだろう。白王になにか含むところがあるから、逃げるのではないか。たとえ白王様本人は気にしていなくても。それは一体、何だろう?
「小娘を出せ!! 全責任はお前にある!!!」
 濁った喚き声。のど元まで出かかった言葉は、そのまま溶けて消えてしまった。どすどすと乗り込んできた声の主を、セイランは冷ややかな目で見つめた。大師もまた、顔をしかめている。
「なんだその眼は! よくもハメてくれたな! 補償しろ! 金を全部返せ!」
「なんのことだかさっぱりわかりませんけど。大声出さないでください。迷惑です」
「盗人猛々しいとはまさにこのこと! お前がチクッたのであろうが!」
「ですから、最初から話してください。なにがチクッたですか。いちゃもんつけるのやめてください」
「何を――」
「カンペイ殿におかれては、おそらくはご家庭の宝物に手を付けておられたのがご父君に露見したのではありませんか」
 大師が静かに言った。カンペイが目をむき、泡を吹いた。
「そのとおりだ! お前らが大暴れしたおかげで今回の輸出品がバラバラになった! これでまず儲けが水の泡だ! おまけに父が今回の件を嗅ぎ付けた! お前らが引き起こした例の大風で蔵の戸が破れた! おかげでいらぬ注意をひいてしまい、中身に手を付けているのがばれたのだ! いずれ劣らぬゴミ屑にとんでもない値段をつけて全額補償しろ、さもなくば勘当だと抜かしおった!」
「ゴミ屑とはひどいおっしゃりようだ」と大師。「旧家であるからには、値の付けようのない財物もあったでしょうに」
「知ったことか! でまあ勘当するというなら致し方ない、こんな家小生のほうで願い下げだと言ってやったのです。幸い懐には軍資金が唸っておりましたからな」
「マオさんの取り分も全部取ったんですよね。信じられないです」
「どうせあの間抜けに握らせておいたところで下らんものにつぎ込むのが関の山ですからな。金は有効活用できる人間が握ってこそ金なのです。ところが、あの人でなしどもときたら小生の手形を取り上げおったのです! 尻の毛までむしりおったのです!」
 セイランは大師と顔を見合わせた。なんということだろう。あれだけの大金をつかんだはずのカンペイは、結局破産していたのだ。自分のしたことの償いをして。
「何もかもお前たちのせいですぞ! だから賠償を要求します! まず実質的損害の八千糧、それから精神的損害の分が同じく八千糧、しめて一万六千糧! いますぐ耳そろえて払っていただきますぞ! なんとしてでも取り立てて見せる! さあ、金を出せ小娘! どうなっても知らんぞ!」
「無理です」とセイラン。「どう頑張っても出ないです。それに、自業自得じゃないですか」
「なんということだ! 人を窮地に叩き落としておいてその言いぐさか! こうなったらどうやってでも金を作ってみせ――は?」
 カンペイの唾が止んだ。耳をそばだて、まるで何かに怯えるように首をすくめる。脂汗をぬぐいながら、カンペイはしきりと視線を彷徨わせた。
「おい、小娘、このぼろ屋には裏口はないのか。逃げられるような場所が」
「逃げてるんですか。うちのテンコウみたいですね。なんだか知りませんけど早く捕まってください」
「どうでもいいから早く教えろ、こうしている間にも――はあ!」
 目を血走らせ、悲鳴にも似たうめき声を張り上げながら、カンペイは書斎の窓に突進した。開け放たれた窓からそのまま身を投げ、すこししてドスンという音。ひょっとして首を折ってはいないかというかすかな希望を抱いてセイランは窓から外を覗いたが、すでにカンペイの姿はなかった。ああ見えて体は軽いらしい。
 そうしてカンペイと入れ替わるように、ヒョウセイが部屋に入ってきた。
「すみません、こちらにカンペイ殿が来ていませんか」
 ヒョウセイは案内してきたレイレイに礼をいうと、大師とセイランに敬礼した。
「実は窃盗の容疑があるとして起訴されているので、身柄を拘束したいのです。こちらに来ていたとの情報を得ているのですが、いかがでしょうか」
 セイランは言葉をなくしていた。大師は礼儀正しく目をそらしていた。レイレイは卒倒しそうになっていて、セイランはそんなレイレイに目配せして事情の説明を問うた。わかりません、とレイレイは身振りで答えた。ここに来た時からずっとこの格好だったんです。レイレイはちらちらとヒョウセイに目をやりながら引っこみ、セイランはやっとの思いで言葉を絞り出した。
「あ、あの、隊長さん」
「なんでしょう」
「そ、その格好は」
「――これですか」
 こともなげに、というには少し間が空きすぎていた。ヒョウセイはことさらに胸を張ると、鎧の代わりに着ているTシャツを引っ張って見せた。丸出しになった二の腕は、セイランには眩しすぎた。
「これは、シュウどのから提案を受けてきているのです。衛視の中でも、特に異人たちにかかわる者が身に着けるようにと。なんでも、従来の鎧はあまりに威圧的に過ぎ、無用に人々を怯えさせているからということでした。異界の装束をまとって出迎えれば、警戒もとけるだろうということです。一理ある、と思いましたので、拝借してこの通り着用した次第です」
 一理もなにもないのでは、とセイランには言えなかった。現にヒョウセイはもうこの刺激的すぎる服を着てしまっていて、おそらくはこの格好のまま市中を歩いて通関司まで来たのだ。遅すぎた、とセイランはほぞをかんだ。どうにかして、シュウが寝言を言う前に止めておくべきだった。
「私はこの格好を気に入っております。動きやすいです。それに、好評でした。異人たちにも、隊員たちにも」
 それはそうでしょうとセイランはマヒした頭で考えた。ヒョウセイほどの美人が、それも衛視の隊長などという堅苦しい職業の人が、こんなあられもない格好でうろうろしているのだ。好評でないわけがない。当の本人が納得しているからには他人が文句をつけることなどできるわけもなく――と、セイランはヒョウセイを横目で眺めた。寡黙で怜悧なヒョウセイの容貌が、どことなく温度を帯びているように見える。セイランですらドギマギしてしまうような眺めだった。世の男性などいちころに違いない。
 どうにかして止めるべきではないのか、言いにくいことを誰かが言うべきではないか。セイランは思い悩み、ついに突破口を見出した。このTシャツは確かセイランのものだ。マオの借金はきれいになったのだし、何ならカンペイの八千糧から不足分を払わせればよい。だから、自分のものだから勝手に着ないでくれといえば取り上げられるに違いない。セイランは頭の中で筋道を立てた。完璧な理屈だ。ヒョウセイを泥棒呼ばわりするようで心苦しいが、
「あの、ヒョウセイさん、その服のことなんですけど、それは私の――」
「よくお似合いです!」
 窓から何かが飛び込んできて、セイランの言葉を吹き飛ばした。盛り上がった筋肉が渦を巻き、飛び散った紙を大師の体から飛び出した無数の腕が押さえつける。風精のフドウはTシャツごしにはちきれんばかりの筋肉を見せつけると、ヒョウセイの肩に手を置いて満面の笑みを作った。
「同じ服を着ています。あなたは同志です。あなたの名前は何ですか?」
「ヒョウセイです」
「いい名前です! 私の名前はフドウです!」
「ご尊名を賜り恐縮です。以後お見知りおきを」
「お見知りおきます! では仕事があるので失礼します!」
 嵐のように飛び出して、フドウは行ってしまった。控えめに言っても唐突なこの闖入に、ヒョウセイは毛ほども動じていなかった。さすが金黙星と感心したセイランに、ヒョウセイは小さく首を振った。
「今朝から何度も自己紹介していただいているのです。よっぽどうれしかったのでしょうね。この服も、フドウさまはいたくお気に入りのようで、ずっとついてこられるのです。ところで公主様、お話が途中だったようですが」
「もういいです、ごめんなさい」
 万事休すである。セイランは男たちの視線に串刺しにされるヒョウセイのことを思い、何とか対策を考えようと頭をひねり、通関司もまた異世界の客を迎える仕事なのだからTシャツを着なくてはならないのではないかという可能性に思い当たって血の気が引いた。ヒョウセイの瞳に熱がこもっているような気がし始める。口には出さないけれど、ひょっとして隊長さんはすごく恥ずかしがっているのではなかろうか。冷静そのものの立ち振る舞いの陰には、口車に乗せられてしまってやけくそになった女の意地が隠れているのではあるまいか。
 そんなこと、セイランごときに聞けるわけがない。
「あの、カンペイさんですけど、そこの窓から逃げました。どこに行ったか分かりません」
「ご協力ありがとうございます。では失礼します」
 何事もなかったように部屋を辞するヒョウセイを最大限の気づかいで見送ると、セイランは大師と顔を見合わせてため息をついた。
「あるいはまさにこうした事態こそが、異界とかかわるということなのかもしれませんね。異なる価値観と出くわす衝撃というわけです」
「私、頼まれてもあれ着ませんからね」
「もちろんですよ、公主様。では仕事に戻りましょう」
 大師の手が何本にも別れて伸び、書簡を拾い上げてセイランに渡した。セイランは姿勢を正してこれに取り組み、テンコウは寝言でにゃーと鳴いた。
 異世界からTシャツが持ち込まれた騒動の、これがすべての顛末である。

 了


 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • エピソード完結乙です。最初に予想した展開とは違うところに落ち着きましたが、相変わらずのクオリティーと分量に大変大満足でした!ところでTシャツ装備のヒョウセイさんって全体としてはどんな格好なんでしょ? -- (名無しさん) 2014-08-13 00:09:33
  • 風の玩具箱をひっくり返したような丁々発止、大立ち回りは気分爽快。テンコウの全容が明らかになる日はくるのだろうか? -- (名無しさん) 2014-08-13 00:15:33
  • 感情や心と精霊の力の関係や人の意では計りきれない危うさを実感。しかしコカインはまずいですぞコカインは -- (名無しさん) 2014-08-13 00:57:40
  • 白王さまに惚れました -- (名無しさん) 2014-08-13 22:01:06
  • 感情表現や言葉の前にワンクッション何かを挟むことで説得力が増すというか。今回はセイランの心情と性格なりが前面に出ていて楽しかったです。かなり大事に発展し大物も登場しましたが丸く収まって何よりでした -- (名無しさん) 2014-08-14 22:52:54
  • 風の描写が素敵 -- (名無しさん) 2014-08-17 21:22:03
名前:
コメント:

すべてのコメントを見る
-

タグ:

i
+ タグ編集
  • タグ:
  • i
最終更新:2014年08月12日 00:27