「水鉢~、水鉢はいらんかね~」
「あぁ、ちょっとこっちに来てくれ」
「はい、まいど!」
雨上がりの夕刻、昼過ぎあたりから唐突に降った猛烈な雨はほどなくして降り止んだものの、水気をたっぷりと含んで重く湿った空気は不快であり、私はたまらず家の前に通りかかった水鉢屋を家に呼ぶことにした。
「はいはい、ちょっと失礼しますよっと」
背中に大きな荷物を背負った水鉢屋はそう言って家の中に上がり、家の中心はどのあたりかと尋ねてきたので、私は彼を央柱のところまで連れていき、そこで彼は背中の荷物を床に下ろし、背負い布をはぐって中から出て来たものを見て私は思わず声を出してしまう。
「これは見事な水鉢だ。さぞ名のある職人の作ではないかい?」
「旦那なかなかの目利きだね、そうさ、これは匠聖タンガラの作、と代々言い伝えられてるものでね、まぁ、私はそんなわけないと思っちゃいるが、それでもなかなかの腕をした職人が丹精込めて作った間違いなく我が家の家宝の品さ」
そう言って水鉢屋の彼はゲロゲロと笑ってみせる。さすがに匠聖タンガラの作などと言うのははばかられるのだろうが、それでも大人が一抱えするほどの大きさでありながら、その縁が少々ずぼまった半円の形と落ち付いた蒼い色と滑らかさにはなんとも言えない色気のようなものがあり、その表面に彫られた彫刻も見事なものだ。
「それじゃはじめますね」
彼はそう言ってドカリと水鉢を抱えるようにしてその場に座りこみ、懐から取り出した水筒を傍らに置き、その蓋を器代わりに中に入った水を少々注ぎ入れ、注ぎ入れた水でチョンとその膨らんだ指先を濡らし、その指で水鉢の滑らかな縁を緩やかになぞりはじめる。
―――――ッ
水鉢独特のかん高い音が家の中に響く、人によっては不快に感じる者もいるというその音は水の精を呼び寄せる性質をもっていると昔から言われ、実際にその性質を利用することで水鉢屋などという商売が成り立っているのだから、実際その通りなのだろう。
「今日はずいぶんと儲かってるんじゃないかい?」
「えぇ、おかげさまで」
私と水鉢屋はそんな会話をしながらも彼は水鉢の淵を一周指先でなぞるごとに指先を濡らし直しながら音を出し続ける。しばらくの間はかん高かった水鉢の奏でる音色がゆっくりと柔らかな音色に変化しはじめ、それと同時に部屋の空気と水鉢にも変化が現れ始める。
「何度見ても面白いもんだね」
「子供は大層面白がりやすね」
水鉢が音を奏ではじめると水鉢の底に水が溜まり始め、最初は僅かな量だったものが音色が変化していくごとにその量は増え、最終的にそれは水鉢から溢れんばかりの量となり、家の中に満ちていた湿り気を帯びた不快な空気も多少和らいだ物となっていた。
「水はどうしやすか?」
「水桶に入れてくれ」
「はい、わかりやした」
水鉢屋は水鉢の中に溜まった水をザバリと水桶の中に移すと、持参した手ぬぐいで丁寧に水鉢の内側と外側についた水気を拭き取り、手慣れた手つきで水鉢を布で包んで来た時と同様に背負い直す。
「ありがとう助かったよ」
「また声をかけてくだせぇ」
私は水鉢屋にお礼の言葉と代金を支払い、それを掌の中で手早く確認した彼は「まいど」と言ってゲロゲロと喉を鳴らして家を出て行く。
「水鉢~、水鉢はいらんかね~」
そしてまたしばらくすると表の通りからカラッとした水鉢屋の声が聞こえ始めるのだった。
- どんな味がするんだろう水。どこにでもありそうな異世界の日常だ -- (名無しさん) 2015-04-08 00:29:22
- 雰囲気のある芸術品の類かな?と思ったら意外と風情のあるあそびにも見えた。匠とか造型とかそれっぽくて説得力ある -- (名無しさん) 2015-04-08 02:49:01
- 実益&趣き。う~んワビサビ -- (名無しさん) 2015-08-28 23:24:30
最終更新:2015年04月07日 20:05