「申し訳ございません! 私の監督不行き届きでございます!」
「大師、同じことは二度言わぬぞ」
再び地面に頭を擦り付け始めた大師に向かって、クウリが親しげに言葉をかける。
「我が不肖の娘の尻拭いのために大師の偉大な頭脳が磨り減るとあっては、金羅様と父祖から預かっておるこの帝国の損失である。到底認めるわけにはいかぬ」
「いかにも。大師、ご自愛なさいませ。我が妹が悪いのでございますから」
ハンリョウが調子を合わせて、大師を助け起こす。セイランはそれを呆然と見ていた。クウリが髭をしごいて感慨深げに言う。
「帝国きっての頭脳の持ち主たる十面大師を出し抜くというか、もてあまさせるというのだから、我が娘ながら末恐ろしい限りだ。加えてやらかした事でくよくよしたりもせん強い心まで持ちあわせておる。しかるべきところに生まれ落ちておればその道で大成したかも知れぬのう。その場合、母親はよろこばなんだろうが」
「陛下!」
「戯れはこのあたりにしておくか。さてセイラン」
クウリが顔を引き締めた。先ほどまでの楽しげな表情は姿を消し、かわりに現れたのは厳しい目つきだった。
「お前は日ごろから勉強を散々怠け、その結果として大師に手を焼かせておる。そのことについてどう思う?」
「それは——」
セイランは大師を見た。大師の虎目は伏せられ、耳も垂れていた。いつもセイランを追い詰めては怒鳴っているときの面影はそこにはなかった。これほど打ちひしがれた大師を、セイランは見たことがなかった。さすがのセイランも、これには堪えた。
「あの、大師には悪いことをしたと思います。ごめんなさい」
「公主さま……」
クウリが重々しくうなずいた。
「ではセイラン、大師に対する償いとして、お前は何ができると思うか」
「えっと、つぐないですか」
「そうだ。大師はお前に散々迷惑をかけられたのだから、その分を大師の喜ぶことでもして埋め合わせねばならぬぞ。さあセイラン、何ができるか?」
——大師の喜ぶことですか。
セイランにはさっぱり見当がつかなかった。何か食べ物でも贈ればいいだろうか? しかしセイランは大師が何を好んで食べているのかすら知らなかった。肩でも叩けばいいだろうか。セイランは大師の肩を叩く自分の姿を想像しようとして失敗した。となれば。
——ひょっとして、おとなしく勉強しろってことですか。
セイランは身震いした。思い返してみれば、大師はセイランを追いかけとおして『五帝記』なり他の書なりを読ませようと死力をつくしてきたのではなかったか。だからあんなにやつれているのだ。ということは、セイランのするべきことはおとなしくするということに違いない。来る日も来る日も大師が持ってくる書物をおとなしく読み、書き写してすごす。散歩もお預けなら、息抜きの本だって後回しになるに違いない。仕方ないのだ。それが大師の望みというなら。
——無理です。絶対無理です。
セイランはぎゅっと目をつぶった。
「——どう見る、ハンリョウ」
「『無理です。絶対無理です』と言ったところでしょうか」
「そこまで無理か。同じ兄妹でもここまで違うのか。クウエンやお前などは来る日も来る日も紀林に入りびたり、どうかすると飯を食わぬことすらあったと聞いておるが」
「申し訳ございません! 私の教え方がまずいのでございます!」
「とてもそうは思えぬがの。勉強時間のあらかたを逃げることに費やしておったというではないか。嫌いになれるような何かを教わってすらおるまいよ。にしてもセイランよ、お前は果報者だの。お前が普段から足蹴にしておる相手にこんなにも庇われて」
「べ、べつに足蹴になどしておりません……」
「しておる」
「陛下、お言葉ですが、私はべつに足蹴になどされておりませんし、さらに言えば公主をお庇いもうしあげているのではないのです」
大師が声を上げた。
「ほう」
「ただ己の職責を果たしえなんだことが悔しいのでございます。公主さまをお預かりしたというのに、施すべき教育をきちんと施すこともできませぬ。それはひとえに、私が無能だからでございます」
「大師ほどの頭脳の持ち主が無能というのであれば、帝国のほとんどは脳みその腐り果てた阿呆ということになろうな」
「陛下、真に勝手な言い草ではございますが、この場でお願いしたき儀がございます」
クウリが眉を上げた。大師は深々と息を吸い込み、ゆっくりと語りだした。
「先ほど公主様が空を飛んでおられるのを目にしましたとき、この子は手に負えぬと悟りました。私は今まで公主さまにできる限りの教育を施そうとして参りましたが、せん無い事でございました。公主さまは風でございます。空を吹き渡る風を押さえつけることなど誰にも出来ない事でございます。ましてや書物を読ませるなど。
どうかお願い申し上げます。吉風公主さまの後見人から外れることをお許しください。公主さまにはテンコウどのがおられます。かのお方は少々変わったところもございますが、あのお方の下でなら公主さまも健やかに成長されることは疑いございません。そもそも私が後見人についたこと自体が誤りだったのです」
——なんだかすごいことになってきたです。
大師をクソジジイと呼んではばからなかったセイランだが、こうもはっきりとその大師からでさえ、見込みがないと言い切られるのは悲しいことだった。ちょっと勉強を怠けただけだと思っていたことが大きく膨らみ、セイランの思惑を超えて転がり始めていた。セイランは大師の横顔を盗み見た。大師は決然とクウリを見つめている。セイランはクウリに目を移した。真顔になったクウリが口を開いた。
「——よかろう。十面大師、セイランの後見人から外れることを許す」
「え、え」
「ありがたき幸せにございます」
「吉風公主」
「は、はい!」
「というわけだ。今後はテンコウ殿だけがお前の後見人と相成った。異論はあるまいな」
「あ、あの、でも」
「それに伴って、お前を日々の勉学から解放するものとする。お前に勉学を教えることの出来るものがいれば別であるが。ハンリョウ、どうだ、当てはあるか」
「帝国の人事全てをつかさどる吏部の尚書として申し上げます。大師に不可能ならば、大延国にはセイランの教育を預かれるような人材は存在しませぬ」
「うむ」
「ちょ、ちょっと兄上」
「そういうことだセイラン、今後は監督はつけぬから、空でも何でも好きなだけ飛ぶがよい」
クウリが手を振り、大師が頭を下げた。それで話が終わったといわんばかりに、クウリが立ち上がり、ハンリョウがそれに従った。セイランは思わず立ち上がり、皇帝のゆくてをさえぎろうとした。大師が取り押さえようと手を伸ばしたが、セイランはそれをかいくぐると、クウリの前に立ちふさがった。
「おかしいです! 父上も大師もどうしてそんなに大げさな話にするですか! ちょっと勉強をサボっただけなのに、大師は辞めるっていうし、兄上は私のことを馬鹿にするし」
「大げさも何も、より望ましい方法を取っただけのことだ。お前に勉学をさせるぐらいなら、大海を飲み干そうとするほうがまだ簡単なようだからな」
「私そんなに手に負えないわけじゃないです! 勉強だってちゃんと出来ます!」
「ならおとなしく書を読んでみせるがよい」
「やります! でも一つだけ言わせてください! 書はつまらないです! どうでもいいことばかり書いてあるし、書き写そうとしたら字は逃げるし。本当にどうでもいいことばかり書いてあるんですよ? 父上だってご存知でしょう!」
クウリは答えず、傍らの大師を顧みた。大師は首を振りながら、ブツブツと何事かつぶやいていた。
「——どうでもよいことと申したか。大師の言葉にも一理あったようだ。この子は何一つ学んでおらぬ」
「面目次第もございません」
クウリの言葉に、セイランは疲れを聞き取った。クウリの伸ばした手がセイランの肩を掴んだ。セイランは思わず息を呑んだ。
「よいかセイラン、お前が今しがたつまらんと切って捨てたものはな、お前が考えておるよりはるかに価値のあるものだ。よかろう、朕自ら教えてくれよう。跪け、吉風公主!」
目を白黒させながら、セイランは膝をついた。ハンリョウがセイランに歩み寄り、その傍らに膝をついた。反対側には大師が位置した。二人が位置についたのを確認すると、クウリは高らかに声を張り上げた。
「これよりお前に三つの問いを発する。首尾よく答えることができたなら、充分とみて今後の勉学はすべて免除し、加えて褒美をも与える。もし答えることあたわざれば、朕の申し付ける雑用を引き受けてもらうこととする。吏部尚書ハンリョウ、十面大師、そなたたち二人が証人となれ」
「は、はい」
「心得ました」
「——心得ました」
セイランの傍らで、ハンリョウと大師が深々と頭を下げた。セイランも習って頭を下げる。ひそかに横を盗み見ると、ハンリョウが目配せしていた。意味が分からず、セイランはゆっくりと頭を上げた。
「大師、かの問題をこれへ」
「は」
大師が立ち上がり、懐に手を入れて何かを取り出した。それは羽だった。セイランが追いかけとおした躍字が表面にひしめき合い、ゆらゆらとうごめいていた。クウリが手を動かすと羽はひらひらと飛んでその手に収まり、とたんに手のひらから発した炎が羽を瞬く間に焼き尽くした。舞い散った火の粉が躍字の形を取り、空中に列をなして整然と並んだ。あごひげをしごきながら、クウリが文字に指を滑らせると、文章がするすると流れた。やがてクウリが指を止め、セイランのほうを向いて高らかに声を上げた。
「では問おう。『我が国の国号は何か?』」
「へ?」
セイランは当惑した。あまりにも簡単な問いだった。何かの罠ではないかとセイランはクウリの目を覗き込んだが、クウリの表情には何も表れていなかった。セイランはためらった。
「答えよ、公主。わが国の国号は何か?
「え、延です。大延国です」
「うむ。正解である」
躍字の一列が発光し、その中の『延』という文字が大きく膨らんで輝いた。クウリが指を一振りすると、文字は輝きを失い、大師が差し出した巻物の中へ戻っていった。
セイランは胸をなでおろした。と同時に、疑問がわきあがってきた。
——どうしてこんな簡単な事を聞くんでしょうか?
「この国は名を延という。我らが皇祖のご命名である」
まるでセイランの心中に答えるように、クウリが静かに言葉を発した。深々と吸い込まれた息を吐き出し、クウリの発した言葉は歌うような調子を帯びていた。
「かつてこの地に帝国なかりしころ、人々は種族ごとに分かれて互いに争っていた。絶えることのない嘆きは大気を満たし、地に染み入り、すべての火と水を濁らせて汚した。守護する神とてなく、魑魅魍魎が当たり前のように跳梁跋扈し、強者が弱者を肉としてはばからぬ世の中であった。
そんな折、一筋の明るい炎がこの地を訪れた。九尾白面の狐神たる金羅様、我らが金炎聖母である」
「——金羅様を目にした者たちは、みなそろって彼の神を我がもとに招こうとした」
セイランは驚いてハンリョウに目をやった。顔を上げたハンリョウはいたずらっぽく微笑むと、朗々と声を上げてクウリの言葉を引き継いだ。
「神を手中に収めることこそ、この地を制することにほかならぬ。だれもが抜け駆けを恐れるあまり、人々は結託して一つの宴席を設け、金羅様に自分たちを選んでもらおうとした。人々は財物を積み上げ、歌舞音曲を奏で、最高の食材と料理で神をもてなそうとした。これこそ延史における最初の比食にして、食神祭の起源である」
「——そんな中、皇祖は弦の切れた琴と、ひび割れた大皿をもってその場に姿を現した」
ハンリョウの言葉を引き継いだのは大師だった。まるではじめから打ち合わせでもしていたかのように、大師は流暢に言葉を並べていった。
「卓抜した精霊魔法の力を持ちながら、どこの勢力にも属するでもなくこの地を彷徨っておられた皇祖は、驚きあきれる群集を制し、金羅様にもてなしの感想を問うた。金羅様は黙して答えず、重い沈黙が流れる中、宴席の行われた地を治めていた豪族の一人がこっそりと進み出て、皇祖にまともな琴と、料理の載った皿を差し出した。この豪族はかつて、皇祖に大火を鎮めてもらったことがあり、そのときの恩を覚えていたのだ。皇祖は顔色一つ変えずに皿を金羅様に差し出し、自らは琴を奏でるでもなくただ掲げていた。歌い手の一人が琴に近寄り、皇祖の代理として音曲を奏でた。彼の風精はかねてから皇祖とよしみを通じており、窮状を見かねたのだった。緊張した歌い手が喉を詰まらせると、皇祖は杯を取り、ほかの豪族に付き従っていた水精が進み出て杯を満たし、歌い手の喉を潤した。どこからともなく現れた光精と闇精が歌に合わせて踊り、我も我もと持ち寄られた料理を皇祖は割れた皿の破片に取り分けて、金羅様だけでなく居合わせた多くの者たちに振舞った。
「「「こと此処に至り、皇祖は立ち上がって大喝した。曰く、『万事当にかくあるべし』」」」
三人が声を合わせた。唱和はほんのわずかでさえずれることがなかった。まるで踊るように、クウリとハンリョウと大師がお互いの言葉を引き継いでいった。
「そうして、再び金羅様にもてなしの感想を問うた」「金羅様は答える代わりに金炎を生み出し、その場に居合わせたものたちことごとくを暖めた」「人々が何も持たぬ皇祖を見かね、自らできる事で助けようと望んだように、金羅様もまた自ら持てるものを差し出したのだ」「かくして人々は皇祖を唯一の主と戴いて臣下の礼をとり、皇祖はこの宴のようなあり方がいつまでもなくなることのないようにとの思いをこめて、国号を『延』と定めた」
ハンリョウと大師が立ち上がり、拱手して深々と礼をした。クウリも答えてうなずき、呆然とするセイランに微笑みかけた。
「以上の事柄は『延史通鑑』に書かれておる。かの削岩筆こと大コウテツ師の手になるもので、破弦片皿の故事として名高い。ま、お前がそこまで知っておったかは追求せぬことにするがな。いうなればセイラン、我らは未だに宴の中にあるのだ。互いが互いをもてなす、果てしのない宴にな」
セイランはただうなずいた。国の名前の由来など、これまで考えたこともなかった。しかも、それを大師もハンリョウも皇帝さえも一言一句間違えずに暗記しているのだ。セイランは改めて舌を巻いた。これまで親しみのあまり侮っていた二人が、急に大きく思われた。
「では第二問だ」
セイランは固唾を呑んだ。クウリは満足げに髭をしごくとにやりと笑った。
「掃星十八年の正月、範帝が自ら主催した宴において、範帝はある参加者のために特別な料理を用意してこれをもてなした。一体誰のためにいかなる料理を用意したのか、答えよ」
セイランは息を呑んだ。一問目とは比べ物にならないほど難しい問題だった。セイランは必死に頭をひねったが、手がかりすら思い出すことができそうになかった。目が泳いだ。小さな咳払いが聞こえた。脇に控える大師に目をやったとき、セイランは思わず息を呑んだ。
「どうしたセイラン、答えられぬか」
クウリが問いかけたが、セイランはそれどころではなかった。大師は伏したまま、その姿をレイレイに変じていた。ハンリョウがこらえかねたようにぷっと吹き出し、クウリもまた大師に目をやって苦笑いした。大師が咳払いして、再びもとの姿に戻った。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ない。時折、姿を保っておくことが出来なくなるのです」
いかにも申し訳なさそうにぼそぼそと言い訳しながら、大師はふとセイランに小さく目配せした。とたんに、セイランの脳裏に閃いた光景があった。部屋を抜け出してレイレイの部屋に転がり込んだときのことだ。まるで何日も前のように思われるその時のことを思い出し、セイランは勢い込んで口を開いた。
「あの、分かりました。範帝のはとこの息子の五番目の奥さんで、出された料理は亀卵料理でした。それで、奥さんは一皿も食べなかったんです」
「その通りである。彼の女はなかなか孕まず、そのことで困り果てておった。卵に箸をつけぬことを夫がとがめると、妻は『これもまた子供でございますから』と答えて涙を流した。範帝はこれを聞き、『亀の卵ですらかつこれを慈しむ、ましてや児をや』と述べて、彼の夫婦がよその子を養子として育てることを認めた。当時は子がなければ家は断絶というのが普通であったから、これは画期的なことであった。範帝はこのようにそれまでの決まりをよりよい形に改めることをいとわなかったがために、彼の御名には『守るべき良き決まりごと』という意味が与えられた」
セイランは力強く頷いた。その内心では、大師に感謝していた。大師は助けてくれたのだ。セイランは大師の横顔を見た。日差しを照り返す鱗の間にあいた口から、ちろちろと舌が出入りしていた。目はぎゅっと瞑られていた。セイランはひそかに頭を下げて、クソジジイ呼ばわりはやめようと心に決めた。
「よろしい。では第三問である。異界につながる門が開いたのを知っておるか?」
「はい」
「よろしい。正解である」
「へ?」
セイランは気の抜けた声を漏らした。今のが問いだとは思えなかった。だがクウリは満足げに髭をゆすると、手を一振りして空中に燃える躍書を握りこんだ。セイランの背中を、ハンリョウが親しげにぽんぽんと叩いた。大師がセイランを助け起こし、ハンリョウはクウリの脇に移ると、懐から筆を取り出してさらさらと宙に滑らせた。筆の先端から滲み出した闇が形を取り、セイランの前で再び文章となって並んだ。セイランにも読むことが出来た。
「吉風公主よ!」
「は、はい」
「そなたはすべての問題に首尾よく答えた。よって、今後すべての勉学を免除する」
「はい!」
「それから褒美として、そなたを界門通関司長官に任ずるものとする」
クウリがさっと腕を突き出すと、ゆったりとした衣の袖が垂れた。そこに炎を宿した指を当てると、袖は焼ききれて一枚の布となった。ハンリョウの書いた文章がそこに飛び込み、染み付いた。できばえを眺めたクウリは満足げに笑うと、セイランに向かって投げ渡した。
「取れ、吉風公主。そなたの任命状である。玉璽はその布を以って代わりとする」
セイランは言われるままに布を受け取った。わけもわからず文章を目で追っていると、躍字が語りかけてきた。その声に耳を傾けるうちに、セイランは驚きのあまり声も出せなくなった。
「界門通関司とは、異界の門から現れるお客人をもてなし、あるいは門を抜けて異界へ赴かんとする民のために便宜を図る役目である。このところ界門において多くの問題が生じており、しかも問題を一括して引き受ける部署がないときておる。だれもが面倒な事は自分の管轄外であるといいはり、一方で旨みのある仕事は率先して己がものにしようとする。このような大騒ぎの始末で政が麻痺しかかっておる。だから、専門の部局を設けることとしたのだ。
さて、問題は人選だった。各所の利害も調整しつつ、ある程度有能な者も集めねばならぬ。加えて、異界に対する窓口となるのだから、できるだけ大延国の代表となるにふさわしい者を選ばねばならぬ。ほとんどの人員は選び出したが、ただ長官職だけが決まらなかった。あてが一人おったのだが断られてな。なんでも、『公主様の教育でそれどころではない』のだとか。まあそれは建前で、仙人を役職につけた前例がなかったことが本当の原因だろう。そうだな、十面大師?」
「ご賢察の通りでございます」
「範帝の故事にならえば前例の有無など知ったことかと思うし、いまや大師は教育係から解き放たれておる。だが、無理強いもよくないからの。さて、そんなところで朕は頭を悩ませておった。吏部尚書のハンリョウに手伝わせて適当な人材を探してみたが、どれもぱっとせん。そこで大師の提案で在野の人間を募ってみることにした。朕は気がすすまなんだが、他に手がないなら妥協するのもやむなしといったところだったのだ。ところがそこに、今までに考えても見なかった選択肢が飛び込んできた。セイラン、お前のことだ」
クウリはぱっと腕を広げた。
「皇族であるから身元は間違いようのない。やる気もある。公文書を追いかけるためとあらば兵士を向こうに回して追いかけっこを演じ、空を飛んで禁裏に押し入ることもいとわぬ。しかも大師の作った試験問題に見事全問正解してのけた。セイラン、お前こそ界門通関司長官にふさわしい人材である。むりやり机にかじりついておるよりも、こちらのほうが退屈せずにすむだろうしの」
セイランは目を回しそうになっていた。やっとのことで口を開き、喉を湿らせて言葉を搾り出した。
「あの、でも私はまだ、そういう仕事のことはよく分からなくて——」
「それこそがお前の最も優れた点であるのだ」
クウリが歯をむき出して笑った。愉快で愉快でたまらないという様子であった。
「お前が長官の職に就くことは誰も反対することができん。皇帝と吏部尚書が正式な手続きで選び出したのだからな。そして一度その椅子についてしまえば、お前が出す命令にはすべての部下が従わねばならぬ。それが長官の権威というものである」
「あの、だから、どういう命令を出せばいいのか分からないです」
「だからお前は補佐役探さねばならぬな。お前は自ら仕事を覚えるまで、補佐役の言うことに従えばよいのだ」
大師が深いため息をついた。その小さな音で、混乱していたセイランの頭の中が不意にするりと片付いた。
「分かりました! 大師を補佐役にしたらいいんです!」
「その通りだ」
クウリが手をたたいた。
「仙人を直接長官職につけるとなれば問題になろうが、長官が相談役として仙人を抱えるぶんには何の不都合もない。誰でもやっておることだからの。界門通関司の職は途方もなく難しいものとなるだろうが、幸い大師は帝国きっての頭脳の持ち主である。きっとうまい知恵を出してくれることだろう」
「お言葉ですが陛下、私は——」
「大師はいまやセイランの後見人からはずれ、自由な立場である。だからセイラン、無理強いすることは出来ぬ。もしお前が大師に自分の補佐を務めてほしいのならば、誠心誠意頼まねばならぬ。できるか、セイラン」
「はい」
セイランは大師に向き直った。大師は困惑したように目をそらした。垂れた耳が震えていた。セイランは大師の前に跪くと、地面に頭を擦り付けた。驚いた大師が助け起こそうとしても、セイランは立ち上がろうとしなかった。そうして、腹のそこから大きく声を出した。
「十面大師さま、大師を先生と仰ぎ、そのおっしゃることに従います。これからはクソジジイ呼ばわりもしません。書を読めというなら読みます。あ、でも、逃げない書だったらですけど」
「——無理に読もうとするから逃げるのですよ。本当に読みたいなら、ただ躍字が語りかけてくるのを待てばよいのです。むやみに追いかけようとしてはなりません。私もまた、公主様と同じ過ちを犯しておりました。心からお詫び申し上げます」
セイランは頭を上げた。大師は笑っていた。ばらばらな顔の部品の一つ一つが、力を合わせて不器用な笑顔を形作っていた。セイランは大師の笑顔を初めてみたことに気がついた。
大師がセイランの手を取り、助け起こすと、セイランは大師に抱きついた。
それから三日がすぎさり、セイランの姿は再び吏部尚書の執務室にあった。
運び込んでもらった小さな机で、セイランは書簡に埋もれていた。両脇に積み上げられた山が崩れ、机に突っ伏していたセイランにむかってなだれ込んだが、セイランには払いのける気力も残っていなかった。
「どうした、まだ半分も見ておらぬようだが」
セイランの上に積みあがった書簡を、ハンリョウの手が崩した。あきれたように髭をしごくハンリョウに向かって、セイランはもぞもぞと手を伸ばした。
セイランが埋もれているのは、界門通関司の役人たちに関する資料である。セイランは界門通関司の長官として、人事をつかさどる吏部から資料を分けてもらって、これから部下になる者たちのことを把握しようとしていた。
「だって、多すぎです……どれだけ見てもきりがないです」
「きりならあるぞ。たった五十人分ではないか」
「多すぎです!」
怒りにかられてセイランはがばっと体を起こした。
「だいたい、全部の部下の人の名前を知っておかないといけないなんておかしいです!」
「名前だけではないぞ。大まかな経歴と長所短所、それに親戚関係も押さえておく必要がある。なにしろ人を使うのだから、その人がどのような能力を具えておるのか把握するのは当然のことだ。だいたいを頭に入れたら、後で直接会って面談しておくのも忘れるなよ。きちんと見てやれば、人はよく働くものだからな」
「私はただのお飾りです。そういうのは大師がやればいいんです」
「もうやっておられるぞ」
ハンリョウはこともなげに言った。
「お前に渡した資料のは重要な役職につくものたちの分だ。残りはすべて大師が見ておられるし、ついでに言うならお前が今見ておるぶんも、大師の審査はすでに通っておるのだ」
「じゃあ見なくてもいいじゃないですか」
「バカを申すな。お前の承認なくしては何事も進まぬと思え。大師はお前のためを思って面倒なところを引き受けておられるが、それに甘えてはならん。お前はお前の仕事を果たすのだ」
「……はい」
セイランはおとなしく次の資料を手に取った。飛び跳ねる文章を苦労して読みながら、時折天窓に目を向ける。テンコウが破壊した窓はあれから修理され、外に「進入禁止」という札が貼られたという。テンコウはあの後たっぷりお叱りを受け、聞いたところでは白王さまのところに預けられているらしい。脅しのつもりが、結局現実となってしまった。悪いことをしてしまったとセイランは反省しきりだった。
「——こちらにおられましたか」
執務室の扉が開き、大師が姿を現した。セイランは思わず姿勢を正し、手元の資料に集中しているふりをした。大師はハンリョウに頭を下げると、セイランの前に一つの箱を置いた。簡素な飾りの施された、手のひらに乗るほどの小さな箱だった。
「これは?」
「公主さまに必要なものでございます。皇上から預かって参りました」
要領を得ず、セイランは箱を開けると中身を手に取った。とたんに飛び出した何かが、セイランの周りを一巡りすると再び箱の中に収まった。恐る恐る手を伸ばすと、それはセイランの指をするすると登り、巻きついて細い指輪となった。
「界門通関司の長官職たる証、公印でございます」
大師の言葉に応じるように、指輪の一部が膨らんで躍字を形作った。手元の紙に近づけると、生じた小さなカマイタチが紙を器用に切り抜いた。セイランは目をみはった。
「むやみに使われませぬよう。大事なものでございます。皇上におかれましては、公主さまがそれを正しくお使いになることをお望みでございます」
「はい! ちゃんと正しく使います。大師にいろいろ言われないで済むようにちゃんと使って見せます」
「それは結構」
うれしさのあまり、セイランは指輪を撫でさすって眺めた。何かを授かったということがうれしくて、思わず飛び跳ねそうになった。風の力がこめられているというのも気に入っていた。テンコウに見せれば、さぞや喜ぶだろう。
「大師、あの、この字の、この部分はどういう意味ですか?」
セイランは指輪の躍字と、自分の名前を示す躍字を比べた。ほとんど同じように見えるが、少しだけ違いがあった。セイランの名前には、風をあらわす形が含まれている。でもこれには、他の要素も加わっているように思われた。まるで建物のような——
「ああ、その、それは」
大師が口ごもった。セイランの指輪を覗き込んだハンリョウが、ことさらにいかめしい顔を作った。
「それは建物、もっと言えば屋根を意味する躍字だ。それをお前の名前とこう組み合わせるということは、つまり公主たるお前の姿が屋根の上にあるということになる。まあ簡単に言えば、こんどの界門通関司長官は屋根に上るようなお方だということが、この印を見たもの全てに伝わるというわけだ」
「それってどういうことですか」
セイランは頬を膨らませた。大師は目をそらした。
「公主様もご存知の通り、役人が新たな地位に着けば、印章も新たに作らねばなりません。どういった印章を用いるかは勝手に決めて構わないのですが、なにぶん慣例というものがございます。あまり突飛なものはいけないのです。それで、公主様が慣例やしきたりといったものが苦手だということをかんがみまして、勝手ながら私が意匠を考えて皇上にご提案申し上げたのでございます」
「それじゃ大師がこの模様にしたんですか。私が印を押すたびに、私が屋根に上ることが皆に伝わるって事ですか!」
「そんなに憤るような話でもないと思うぞ、セイラン。かのロクセイ公などは寝台から転がり落ちる己の姿を印章に使っておられたというしな」
「そんな人なんかどうでもいいです! もう、なんてことしてくれたんですか、大師のバカ!」
セイランは立ち上がると、書簡の山に手を突っ込み、抱えられるだけ抱え揚げた。そうして、決然と大師を押しのけ、部屋の外に歩み出た。
「おいセイラン、どこへ行く?」
「屋根の上です! そこにいればいいんでしょ、ふんだ!」
勢いよく啖呵を切ると、セイランは駆け出した。廊下を曲がり、中庭に飛び出し、セイランは空を見上げて叫んだ。
「てんこーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
だが応えるものはなかった。そよ風すら巻き起こらず、セイランは悔しさのあまり地団太を踏んだ。テンコウは白王様のところで謹慎処分を受けているのだった。だがいまさら、大師たちのところに戻るのもはばかられた。仕方なく、手近な兵士を捕まえてはしごを用意させようかとセイランが考え始めたときである。
浮遊感とともに、セイランの体が宙に浮いた。とっさに巻物を抱え込んだセイランの体が舞い上がり、中庭に掛かる屋根の上にふわりと降り立った。つかまれていた後襟が放され、セイランが振り返ると、羽毛を撒き散らしながら大師の翼が腕に戻っていくところだった。大師はセイランを支えると、自分は屋根の端に座り込んでぶらぶらと足を揺らした。大師に似合わぬ子供っぽいしぐさに、セイランは思わず噴出した。大師は懐から取り出した書簡を読み出し、セイランもその横に腰掛けて同じように書簡を読んだ。
「——あのような意匠を選びましたのは、あれこそ公主様を正しくあらわす躍字であると思ったからなのです。」
手元に目を落としたまま、大師がいかにもいいにくそうに口を開いた。セイランは黙り、ただ大師の言葉を待った。
「吉風公主様はその名の通り、風のごときお方でございます。建物、すなわち世間の常識にとらわれず、自由に吹き渡ることこそ公主様の真髄でございます」
大師の耳が揺れていた。セイランは大師の言葉に耳を傾けながら、その様子をただ眺めていた。
「異界は、文字通り異なる世界でございます。門をくぐって現れる異人たちには、我々の常識は通用しないかもしれません。そうしたもの達を相手取るに当たって、必要な事は常識にとらわれることではございません。より高いところから自由に眺める視点が必要なのでございます。そうして初めて、異人たちを理解しようとする出発点に立つことができるのでございます。その点において、公主さまはこの上なく界門通関司にふさわしいお方でございます。ですから、そのことを印章にこめたのです」
「自由な風、ですか」
セイランは指輪に目を落とした。指で模様をなぞり、その意味するところを心に描いた。テンコウを従え、大師に教えを乞いながら、異界の人間達を一生懸命世話してやるのだ。皆は屋根の上を見上げて、セイランの仕事をほめてくれるだろう。セイランが通関司でよかったと喜んでくれるだろう。
——悪くないです。
セイランは大師に向かって微笑んだ。大師もまたうなずいた。そのまま視線を前に投げていた大師が、ふと眉を上げた。セイランもまた大師が見ている方向に目をやった。
「あ、テンコウ!」
白く膨らんだような毛の犬が、よろよろと宙を駆けていた。そのままセイランに向かってぶつかってくるのを、セイランは全身で受け止めて笑い声を上げた。
「テンコウ、どうしたですか。もう謹慎解けたんですか? 白王様のところもそんなに悪いもんじゃなかったですか」
「にゃあああああ」
テンコウが恐怖に身を震わせてセイランにのしかかった。精一杯無害そうな顔を作ったテンコウの視線がすべり、大師を捉えるとこの世の終わりを見たような表情になった。大師がため息をついた。
「——本来ならテンコウ殿はまだ謹慎中のはずですが、白王さまには私から話しておきましょう」
「ですって。よかったですね、テンコウ」
テンコウはまだ油断がならないという目で大師とセイランを見比べていた。そんなテンコウの頭を撫でて、セイランはにっこりと笑顔を作った。
「テンコウ、私ね、大師と仲直りしました。それだけじゃなくて、偉い地位も授かったんですよ。ほら、こんなの貰いました」
印章を突き出されて、テンコウはへっへっへと舌を伸ばした。そのままごろんと転がると、セイランの膝に頭を預けた。
何かいいたげな大師が、そのまま言葉を飲み込んだ。大師とテンコウにはさまれて、セイランは腰掛けている瓦屋根にそっと手を這わせた。さわやかな風が、セイランと大師の周りを流れていった。
(了)
但し書き
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- テンコウがまさかの犬型でビックリ。その由来のSSとかも期待してます。あと成長後のセイランが大師とテンコウを従えて界門通関司としてバリバリ働くところとかも見てみたい。 -- (名無しのとしあき) 2011-10-08 16:29:30
- セイランはその周辺の人たちに大事にされているというのが伝わってきました。魅力的な登場人物が多いのが楽しいシリーズです。にゃーと鳴くものの犬そのもののテンコウがなんともいえない可愛らしさでした -- (名無しさん) 2013-05-12 16:02:16
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最終更新:2011年10月17日 12:07