【甚兵衛模様の同席者】

「釣れるかい、外からのお客人」

頭の上から声が降ってきたのはあまりに突然の事だった。
岸辺から水平線の彼方まで届けとばかりに遠投した糸の先に集中していたからか。
あるいはちょうど太陽が"彼"の影を私の方へ投げかけない位置にあったからか。
ともかくその声は唐突で、そして隣から聞こえてきたというものではなかった。
まさしく天から降ってきたも同然だったのだ。
ちょうど拡声器を備えた電信柱の下に立っていたような、そんな感覚だった。
思わず声のした方へ振り向くのは自然の道理であり、そしてそこには『壁』があった。
語弊なく言えば『壁のようなもの』がそびえ立っていた。
それは服を着た壁である。
材質は分からないが、素人の目で見ても仕立てのいい着物――とはいえ巨大な凧を思わせる布地の大きさだ――でその壁は覆われていた。
思わずまじまじとその壁を見つめれば、着物の羽織の先には丸太のような腕と思わしきものがくっついている。腕組みによって袖が前に垂れ下がっていた。
袴の先には大樹の根のような足と思わしきものが生えている。まるでずっとそこに生えていたかのようにがっしりと地面に突き立っていた。
ようやく首を思い切り上へ傾げてみれば、着物の衿口にあたる部分からにょっきりと猪首の頭が生えている。
扁平とした頭と掃除機の吸い込み口のごとき巨大な口、反比例するように小さな瞳を備えた顔が私をじっと見下ろしていた。
見下ろしていたといえば正しいのだが、少々注釈が必要かも知れない。
その黒真珠のごときつぶらな瞳はどこか稚気を含ませており、……よくよく見れば、口も笑みの形へ湾曲しているように見える。
「さて、ここで糸を垂らしているということはヨニャ・ナーシが狙いかな?
 まあ、釣果は芳しくないと見た、まだ『波』が来ていないからね」
ミズハミシマ観光中にも度々耳にした、巨大な海太鼓の腹の底まで鳴り響く極低音。
びりびりと空気を水を震わせ脳天から届いて頭の芯まで染み渡るようなあの音に言葉という旋律を載せたような声だ。
一瞬ドニー・ドニーのトロールと見紛えたことを責められはしまい。そうでもなければ亜人としてもありえない体躯の大きさだった。
違うとすれば。トロールとは違い毛並みはなくつるつるで、それと鰓がついている。
白い格子の中に淡い黄色の斑点を宿した独特の模様で背中側の体皮を覆っている。
尻尾も体に習って非常に巨大な尾ひれが先についており、そういった数々の特徴がこの『壁』を魚人として認識させるに至った。
そう、魚人である。魚人と呼ぶにはあまりにも大きいが。
ただ、圧倒されるのはその巨躯だけだとすぐに気づく。
大きな口から発せられる重低音には微塵の硬質さも無く丸みを帯びた友好色がある。佇まいにも険がない。
「やれやれ、仕事が面倒くさくてねぇ。
 まあ、大したものはなにも出せないんだが、拙のさぼりに少し付き合ってくれないかい」
可笑しそうにそう言った巨大な魚人はこちらの横に袴が汚れるのも気にせずゆっくりと器用にあぐらをかいて座り込んだ。
……地響きひとつ立てずに。巨体に似合わずあまりに静粛な動作だった。
太陽の光はこちらに影を投げかけない位置だったとはいえ、この大質量が近づいてくるのに何故気づかなかったのだろう…。


しばらくとりとめもない話をしているうちに、男は自らが国の役人なのだと語った。
曰く。
「役人といっても普段は便利屋みたいな立場でね。
 命じられるままあちこちに出向いて困ってる人の話を聞くのが仕事なのさ。
 まあ、ヨニカ・ゲア・カシでじっとしているよりは気に入っているかな」
上司が型破りな人で付き合うこちらも大変さ、とくすくす笑う。
この男が喉奥で笑うと遠雷のような味わい深い響きがある。そうやってよく笑う男だった。
獲物のかからない釣り糸を垂らしつつ、しげしげと隣の『壁』を観察する。
初めはただただその体躯に驚くばかりだったが落ち着いてくると見えてくるものもある。背負っている長物が目に入った。
空気だけでその視線に気づいたのか彼もまた釣り竿の先を目で追いながら苦笑する。
「まあ、仕事柄ね。
 拙の国にもいろんな人がいるから、全員が全員拙みたいなお役人に好意的というわけじゃあない。
 まあ、なるべくこういうもののご厄介にはなりたくないんだけれどね。食べるかい?」
彼がその懐から取り出した菓子袋を礼を言って受け取る。それなりに大きな包みのはずなのだが、男の大きな手では摘むのがやっとというところ。
中身は何かの海藻の根の輪切りではあったが、こちらの世界で言う甘草を固めたものに似た味わいだった。ガムのような歯ごたえだ。
咀嚼しつつ彼の言う『ご厄介になりたくないもの』を観察する。先端は布で出来た穂鞘に包まれているが、どうやら槍のようだ。
3メートルは有にあるだろう男が背負っているものだから常識はずれに長い。
朱色の柄に紫色の飾り房のそれは質素な佇まいではあるが、ところどころに美しい装飾が施されていて品の良さを伺わせた。
彼は武官なのだろうか?そう聞くと渋々といった様子で肯定した。
「まあ、これも先祖からの家宝みたいなものでね。
 我が家系はそうやってちまちまとミズハミシマのまつりごとの一席を担ってきた家なんだな。
 いやはや、拙にはちと荷が重い。特にこうやって外回りの最中のさぼりを幸福にするような男にはね。
 まあ、どうにかこうにか務めあげているよ。最近は荒事も少ないから武官だなんてお飾りのようなものだけれどね」
やれやれ、困ったもんだ。ごろごろと笑い声をあげるその素朴さはこちらに遠慮をさせない不思議な魅力を持っている。
本人はそう言うが、困った人の話を聞いて回るなんてきっと天職なのだろう。
そう聞いた彼が難しい顔をした。
「んん、まあ、どうだろうねえ?
 拙などまだまだだよ。拙の上司は拙など足元にも及ばないくらいそういったことは得意だ。
 ふふん、正直自信を無くすね。あれだけ好き勝手やってみんな丸く収めちゃうんだからね。
 まあ、あの暴れように肝を冷やしてかちんこちんに凍らせてるのが何人もいるが拙の知ったこっちゃない。
 あの方はやりたいようになさればいいんだよ。どうせ拙の考えなど遠く及ばない深慮をお持ちに違いないからね」
皮肉とも尊敬とも取れる声音で男は頬を掻く。
いやにその上司というのを持ち上げる。一体何者なのか尋ねると悪戯でも思いついたような悪い笑い声が響いた。
「運が良ければ会えるだろうさ。
 きっと知らず知らずのうちにね。きっと本当の肩書を聞いても想像なんかつきやしないよ。
 いや、まあ、そうでもないかな?知ってる者は知ってるから聞き及ぶこともあるかもしれないね」
どうやら相当の曲者らしい。想像などつきはしない、というのがよく分からないが、型破りというのは嘘ではないようだ。
ところでお客人は何故この国に?と話題を変えてきた彼にわけを話す。
休暇を利用しての観光である、これまでいくつもの国を休暇のたびに巡ってきていると伝えると男から蒸気機関車の唸りのように空気が噴出された。
どうやら感嘆のため息だったらしい。
「そうかあ、いいねえ。観光の旅。拙も隠居したらしてみたいものだ。
 まあ、今は立場が立場だからね。そういうことはできないけれど憧れはするなあ。
 さて役人としてはミズハミシマの宣伝をしておくべきかな?自分で言うのも何だが、拙の国は良いところだ。
 海の中にこれほど大規模な街があるのはここだけだし、陸上も海中もどこをとっても風光明媚だ。どこの国にも負けはしない。
 海嵐がやってくるシーズンはちょいと不便だが嵐が明けたあとの海は息を呑むほど透き通っていて筆舌に尽くしがたい。
 最近は観光にも力を入れているから外からの客向けに整備もされてきている。気に入ってもらえれば嬉しいな。
 ……区域こそ限定されているが、釣りも楽しいしね?」
ドニー・ドニーの荒波から大きな魚を釣り上げるのとはまた趣が違っていいだろう?
そう含み笑いしながら言った彼がその場から切り株を引っこ抜くように立ち上がる。
やはり、超重量だというのに振動ひとつ起こさなかった。せいぜい砂粒がこぼれ落ちて生まれたささやかな音色くらいか。
終始一貫していた態度と同じ、柔和な色を湛えた瞳がこちらを横目で捉えている。
「あともう少しだけ粘ってごらん。
 もうじき『波』が来る。釣りの面白いところだね、人事を尽くしたらあとは幸運を祈るだけだ。
 ふふ、まあ、楽しかったよ。拙の与太話につきあってくれてありがとう。
 それじゃあそろそろ行くよ。このミズハミシマで良い日々を過ごしておくれ。拙たちはあなたを歓迎しよう」
彼はそう言って袴についた埃を手で払うと、それきり振り返りもせずにのそりのそりと岸辺より街道へ向けて立ち去っていく。
小山のようなそれが遠ざかっていくのはちょっとした冗談のようだ。だが私はそれが冗談などではなく、もっと温かいものだと知っている。

突然竿が当たりを伝えてきたのは、だいたいその頃のことである。





ヨニャ・ナーシでぱんぱんに膨れ上がった網籠を宿の女将である鱗人に見せると唖然とされた。
今日のいきさつを話すと、呆れたような、感心したような顔をしてこう言った。
「あんたは相当運のいい人だねぇ」
わけが分からずその意味を問うと、その中年の鱗人はこう話してくれた。
「そりゃキザン様だよ。
 士族長フタバ=スズキ八代目竜将軍が懐刀、ミズハミシマ最強の《三本槍》のうちのひと振りさ。
 鱗人や竜人を差し置いて魚人で代々士族をお務めされている一族のご出身なんだけれども、その中でも傑物でね。
 魚人だなんて信じられないくらい背高のっぽで恐ろしくお強いんだが、普段はとてもお優しい方だそうだよ。
 水精霊に愛されていらっしゃって、お会いできるとその日は幸運が訪れるとか言われているのさ。
 逸話にゃ事欠かないよ?そうだねぇ、たとえば……」
山一つ担いでみせたとか。
海嵐の中をそよ風の中を駆けるがごとく平然と泳いで被災地区を助けて回ったとか。
その背を拝んだ者、その終日までとことん運に恵まれるとか。
ミズハミシマとドニー・ドニーが国境線で揉め事を起こしたとき、かの大船長ラウダフルとサシで決闘して裁くことになったが押し込まれつつも一昼夜殴り合って決着がつかずに引き分けに持ち込んだとか。
そんな嘘だか本当だか疑わしいような話が出るわ出るわ。
しかしそれが本当なら、つまり彼が言っていた“上司”というのは―――――





「おうキザン!任務ご苦労、と言いたいがなぁ!」
「まあ、そう仰ると思っていましたよ。上様」
「はは!さすが話が早ぇな!もう調査済みってか?」

今日も適度にさぼりつつ要領よく命令を完遂したキザンは、そうして男臭く笑うフタバ=スズキ八代目竜将軍の御前で苦笑した。


  • ジンベイザメ的な巨漢の武官様! 軽功の類か巨体を思わせぬムーブと、自信に裏打ちされたようなおおらかさが何とも素敵。 -- (名無しさん) 2016-06-27 11:51:55
  • ビックな男がビックなフィッシング?任務が気になるけど身体が大きくてどこで何しても目立ってしまうな -- (名無しさん) 2016-06-27 23:19:21
  • 大きさの表現が壁だ山だと目に浮かんで楽しかった。遊び人渡世人風のフタバ将軍の部下は中々に曲者揃いそう -- (名無しさん) 2016-06-28 04:27:46
  • 大きな体と大らかな物腰だけど賢そうというか知識人みたいな意外性を感じるキザンさんだ -- (名無しさん) 2016-07-05 23:21:12
  • ミズハミシマの支配体制とか国の分布とか気になった -- (名無しさん) 2016-07-08 23:36:35
  • 大柄偉丈夫の風格と情緒ある言い回しが重なって素晴らしきのんびり釣り景色なお話 -- (名無しさん) 2017-12-09 19:07:08
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最終更新:2016年06月28日 12:44