【サツキ会】

フタバ=スズキ八代目竜将軍が高級料亭『ハナブサ亭』へやってきたところ、ちょうど屯していた岡っ引たちが引き上げていくところだった。
彼自身はいつものように威厳も何もあったものではない着流し姿である。
それでも役人ともなれば将軍閣下の顔を覚えていない者などおらず、横を通るたび一様に略式ではあるが礼を欠かさず行っていく。
「なんでぇこりゃあ」と気の抜けた声を漏らした将軍はハナブサ亭の白塗りの塀沿いに歩を進め、門を潜ろうとしていた町方同心を捕まえた。
横合いからかかった無遠慮な声に鋭い視線を向けた魚人の同心は将軍と分かると態度を一転、背に鉄棒が入ったように姿勢を正す。
わけを聞かれて同心が口を開いたのと、その“わけ”が運び出されるのはだいたい同じ拍子だった。
岡っ引たちに縄をかけられて連れて行かれるのはいかにもごろつきといった風体の男たちだ。
ハナブサ亭の枯山水で構成される雅な庭園からぞくぞくと運び出されていく男たちは何故か皆氷漬けとなっている。
肉体の一部につららが垂れ下がっていたり、はたまた全身が霜で覆われていたり。それだけで何者の仕業か理解するのに時間はかからなかった。将軍にとっては。
「ガンセのやつ、無茶をしやがって」
苦笑いと共に同心と岡っ引たちを労って店の敷居を跨ぐ。
凍えているせいで威勢の悪いごろつきたちの罵声を背中に聞きつつ岡っ引の最後のひとりとすれ違い、玄関で待っていた女将に「よう」と手を上げて挨拶した。
深々と頭を下げた居住まいの美しい女将とはしばらくの付き合いである。“会合”に『ハナブサ亭』を使いだしてもう久しい。
ハナブサ亭に降って湧いた災難の火種となったのは我々だろうという限りなく正しい推測から女将に謝罪しつつ、ドニー杉で出来た廊下を女将の背を追って渡っていく。
木張りの廊下にひんやりとした空気が漂っているのは普段通りだが、どことなくその温度がいつものそれより低い気がするのは先程のごろつきたちの様子を見たからだろう。
やがて到着した巨大な襖―ハナブサ亭は外来の客のことも考え天井がかなり高い―を女将がしずしずと開けたところ、大規模の会食場には既に3人の待ち人が酒盃を空けていた。
一歩踏み入れて開口一番、将軍はその中のひとりに若干非難めいた口調で声を掛けた。
「おいガンセ!てめぇこの店に迷惑かけてんじゃねぇよ!
 店のもん何にも壊さなかったろうな!」
ミズハミシマの陸と海を繋ぐ海神気道橋や祀り舞台を一望できる最も位の高い部屋を雷鳴のような笑い声が満たす。
「は は は は は !
 てことは表のを見たかい殿様よォ!安心しろよォ、どいつもこいつも店の門前で片付けてやったぜェ?
 クロツグの透破どもが張ってるてのに馬鹿な連中だぜェ!」
げらげらと豪快に笑う凶悪な人相の鱗人を含めた、6つの瞳が一斉に将軍の方を向く。
小さな影、大きな影、途方も無く巨大な影。それぞれがフタバ=スズキ将軍を待っていた者たちだった。
「ガンセ……お前な!
 そういう楽しげなことを一人でやっちまいやがって!どうして俺を待たねぇ!
 待てよ、そうか伝令をよこしたのはお前だったなクロツグ?お前か!『少し遅れてやってこい』と俺を仲間外れにしやがったのは!」
「確かに大樹様にそうお伝えしたのは“私ら”のひとつですが、発端は“私ら”ではありません。
 そこの図体のでかい腹黒です」
将軍の恨みがましい視線を事も無げに受け流し、小さな影はそのすぐ横に“聳え立っていた”巨大な影をちらりと睨む。
「そりゃあ、まあ、そうでしょう上様。
 あんな大立ち回りの最中に上様をお呼びするわけには、まあ、いかんでしょうよ。
 いくら上様が喧嘩を買いたげになさっていてもそれをお咎めするのが拙の仕事ですし、それにそもそもの言い出しっぺはガンセですよ。なあ、ガンセ?」
巨大な影が苦笑交じりにじろりと対面の席に座る鱗人に瞳を向けると、若干ばつが悪そうに頬をかきつつその男は釈明を始めた。
「ま、まあなァ?
 元を正せば俺が招いちまった連中だしよォ?ケジメつけんのは俺の仕事ってもんよォ、いくら殿様でもそんなことをさせるわけはいかねぇわなァ。
 しかし詳しいことは後で話すがァ、これで今日の俺様の『議題』は無くなっちまいやがったぜェ。となりゃあ、俺はここにタダ酒飲みに来ただけってわけだァ!
 は は は は は は は は !」
男の長く裂けた口がにんまりと歪み、手のひらよりも大きな盃になみなみ注がれた酒を勢い良く喉の奥に流し込んだ。
三者三様、ひとつとして似た性質のない人格たち。席の上座へ向かって畳を踏みながら将軍は喉の奥で笑った。
この凸凹とした三人組こそミズハミシマに名高い三将。水精霊の寵愛を一身に受ける者。フタバ=スズキ八代目竜将軍が懐刀にして最強の切り札たち。
《凍えのガンセ》、《煙りのクロツグ》、《流れのキザン》。
敬意と畏怖を込めて遍く民たちに《三本槍》と称される、万夫不当の猛将たちである。
「そら、いつまでもじゃれてんじゃねぇよ!
 いつもの《サツキ会》、始めっぞお前ら!とりあえずは好きなだけ飲み食いしやがれ!」
部屋の最も奥に設えられた席へ将軍がどっかと座り込むと、3つの影が一斉に居住まいを正したのだった。




「あの方々の定例報告会、《サツキ会》にあなたがお料理を運ぶのは初めてだったわね」
厨房で料理の配膳を待っていた新入りに女将が再三の忠告を行った。
台所に忙しさはない。今日は貸し切りだからだ。ただ、奇妙な緊張感があった。張り詰めているようで緩んでもいる。
それはあのフタバ=スズキという将軍の人となりが生み出しているものなのか。
「知っての通り、フタバ=スズキ八代目竜将軍と《三本槍》の方々による個人的な近況報告会がサツキ会よ。
 公的な会合ではないけれど、ミズハミシマという国の運営の一端を担っている大事なものなの。
 あなたはここで働きだして1年だったわね。将軍様が是非新人には経験を積ませよとおっしゃるからあなたにお料理をお届けさせるけれども、くれぐれも注意するのよ。
 それから………」
鱗人の女将の口が酸っぱくなるほどの注意を受けた後、ようやく送り出されたのがつい先程のこと。
さぞや真剣な顔つきで話し合いが進められているのだろう―――とは、この料亭の誰もが思わないことだ。
なんせ――――普段のサツキ会は、スズキ将軍の幹部たちの報告会と称した酒飲み会でしか無いのを皆知っている。
「さて、さっきも言った通りよォ。あの残党共が俺の懸念材料としてここに持ち込む議題だったわけよォ。
 ヤツらはゴリガシラのジジイの領地で悪どいシノギをやってた極道でよォ、アクロ組てんだがァ…調子にに乗ってこの竜宮城下にも足を伸ばしてきたってわけだ。
 勿論乗り込んでぶっ潰してやったんだがちょいと逃しちまっててよォ?そいつがちと心配だったんだがァ…。
 何のことはねェ、俺に仇討ちしかけてきやがったがなァ。網を張ってないわけねェってのになァ!は は は は は !」
鱗人の横に座り『瑠璃海老の酒蒸し』を配膳すると「ありがとよ」と男臭い笑い方で礼を言ってそのまま殻ごとばりばり食べ始めてしまった。、
鎧のように分厚く硬質な光を放つ鱗の下に巨岩のように盛り上がった筋肉を閉じ込め、そしてそれと同等かそれ以上にいかつく大きな顎を持った大男。
下は紺色の袴、上は着物を肩に羽織っただけの裸といった装い。着物は金糸をふんだんに使ったひどく派手な錦模様で、男の人となりを示しているかのようだった。
背中側を黒々とした体皮が覆っているが喉から腹にかけては目の覚めるような美しい淡黄色であり、額から盛り上がった瞳には獰猛な荒ぶる意思の中にどこか静やかな知性が宿っている。
それらも相まってただの乱暴な傾奇者と思わせぬ何かを感じさせる男だった。
名をガンセ。ミズハミシマ最大の護りを敷かれる竜宮城下には3つの奉行所『竜宮奉行』があるが、その全体を統括する立場にいる重臣である。
薙刀《轟丸》を有し、水精霊の亜種たる氷精の加護を一心に受ける実力者のひとり。歯向かった者は尽く氷漬け、《凍えのガンセ》。
「ゴリガシラのジジイもカンカンさァ!は は は は !
 手を焼いていた連中がようやく見せた弱みだ、今頃やっきになって潰しにかかってんじゃねェかァ?ゲコゲコうるさく鳴いて奉行所に怒鳴りつけてる最中だろうさァ!
 なあクロツグ!てめェの“海風”はどういう風向きだァ?」
「……およそあなたの想像通りに“風”は吹いているようだ」
ガンセの対面の席に折り目正しく正座で座っている小さな、とても小さな影からそれは発せられていた。さほど大きくはないのによく通る声だった。
「今ゴリガシラ公の使者がこちらに向かっている。支部壊滅の報を受けて竜宮奉行所とアクロ組撲滅の協力体制を取りたい、という旨を持ってな。
 ガンセ、すぐにもあなたの元にも報がやってくるだろう。これはあなたの管轄だ。
 “私ら”のひとつによれば、そういうことだ」
空になっているお猪口に酒を注ごうとすると「いただこう」と女はお猪口を片手で支えつつ、己の見解を述べた。
2メトルはゆうにあるだろうガンセと比べれば何回りも小さい。銀糸による飾りがあるので辛うじて喪服には見えぬ黒い着物を来た小さな姿だ。
しかし、その姿もまた特異。服の飾りにある銀糸の美麗さが霞むほど美しい、銀の髪。そこから冷気を発しているように錯覚するほどだ。
公務においては短髪にすら思えるほど複雑に編み込んでいる髪も今は解いて肩口まで垂れ下がっている。誰もが羨むような艶やかな髪。
その髪の中から突き出ているのは髪とはまた違った艶やかさを放つ白亜の角だ。二又に分かれたその角が彼女を竜人なのだということを示している。
褐色のきめ細かい肌を視線でなぞっていけば細面に二つ並んでいる藍色の目に行き当たる。深海のように昏い蒼さに宿る冷たさだけで姿全体から感じる線の細さが引き締められて余りある。
細面から刃の切れ味すら感じるのに纏う雰囲気は深山にかかる濃霧のように不気味さを持った女だった。
華奢で一見若枝のような危うさが四肢にはあるのにその実は手先の指一本、つま先の爪ひとつまで全身が是凶器である。それだけの実力無しにこの席にいることは許されない。
《煙りのクロツグ》、竜宮島における隠密忍軍の頂点。
首長オトヒメと主従関係を結び領地を分けられた諸侯たる『海守』たちの全ての領地に“海風”を飛ばし、それに飽き足らず世界中に“風”を吹かせるミズハミシマの耳の長。
先に話に上がっていたゴリガシラも南部の海守だが、当然その“海風”は彼の元へも吹き付けている。既に届くはずの情報の内容もすっぱ抜かれて使者より先にここへ届いているのがその証拠だ。
ぐい、とお猪口に注がれた酒を飲み干したクロツグは、落としていた視線を上げる。見つめられれば多くの胸をざわめかせる藍の瞳がガンセを見た。
「……………ところで、たった今しがただが。
 “私ら”のひとつがお前が吹き飛ばした残党共の残りの行き先を捉えたぞ。
 お前、“私ら”が張ってるのを知ってわざと何人か逃したろう」
「………俺が出向くかァ?」
先程からこの部屋には自身しか足を踏み入れていないのに、いかにしてその情報を得たのか――驚く新人給仕を他所にガンセの目が鋭い光を帯びる。
ただそれだけでこれまでの豪快奔放とした態度から冷たい刃の温度まで下がる。火でありながら氷。冷たくありながら熱い。ガンセという男の有り様だ。
上座で腕組みをするフタバ=スズキ将軍と、ぐい呑みを摘んでいたキザンの視線もクロツグに集中する中、ことりと小さな音を立てて膳にお猪口をクロツグが置いた。
「必要ない。“私ら”で処理をする。
 追って沙汰は知らせよう。それでよろしいでしょうか、大樹様」
「おう、任せるぜ。“海風”に間違いはねぇだろう。いいな?ガンセ」
「殿様がそう言うなら、俺ァ何も言うことは無ェよ」
「………では、大樹様。途中ながら暫しの退席をお許し召されよ」
クロツグが双方からの断りを得た途端、新人給仕は視界の違和感に目を瞬かせた。
室内に立ち込め始めるは、霧。最初は薄っすらと、しかし白墨が流し込まれるように急激に濃く漂い始める。
やがて視界もおぼつかなくなった。室内だというのに右も左も分からなくなる―――と。
控えめに、だが確かに新人給仕の手を引く力がある。大きい。樫の枝でも差し向けられたかのような。
この濃霧の中ではただひとつの確かな感覚だ。思わずぎゅっと握りしめていれば、霧は徐々に晴れていく。
実時間では20秒も無かったのではなかろうか。晴れた先、新人給仕が見たのはこちらに手を差し伸べるキザンの姿と、その横に座っていたクロツグの空席だ。
「……いつものように霧に“溶けやがった”か。はっは、奴らも不幸だな」
「まったくだぜ殿様ァ。
 俺が行ってりゃ氷漬けになるだけで済むってのによォ。クロツグが行きゃァ容赦なしだぜェ」
「まぁ、これで一安心だねぇ。後始末は頼むよガンセ?
 ああ。もう大丈夫だよ。クロツグは足取りを掴ませないことに関しては徹底しててね。でも、まあ、こうしてみると結構派手だよねぇ」
遥か上、天井すれすれから人を安心させる緩やかな視線が差し向けられ、ようやく我に返って新人給仕は飛び退いた。
2対の手槍、《竹割長光》。それを腰に帯びた《煙りのクロツグ》率いる隠密忍軍は噂ばかりの先行する謎の多い存在だ。
筆頭のクロツグは水精霊でも特殊な亜種と縁があり、時に天候すら操るという眉唾な話もある。
………しかし謎という点では。その横に座っていたこの巨漢も、さして変わらないかもしれない。
ただ、座っているというよりは聳え立っている、と言ったほうが表現としては近いものだった。
それは小さな山だ。大柄な鱗人であるガンセが横にいても遠近感が狂うほどの巨漢だ。
「まぁ、クロツグが帰ってくるまでに拙の話をしようか。
 ……あ、お酒注いでくれる?はは、まあ、ありがとう」
へらり、と気の抜けるような笑顔は新人給仕の頭上2メルトルも上に浮かんでいる。
身の丈3メトル、いや3メトル50サンチはあるだろう。白い格子の中に淡い黄色の斑点を宿した独特の模様で皮膚は覆われている。
服装は華美すぎず質素すぎずといったもので、ところどころ装飾のある乳白色の羽織に黒の袴という出で立ちだ。
例えるなら巨大な巌がミズハミシマの正装を着こなしているようなものだが、圧倒的な存在感にも関わらず見た目ほど圧迫感を感じさせないのはこの巨岩の内面がそうさせるのかもしれない。
ちびちびとぐい呑みを傾けながら全員を見下ろすその瞳は身体に反比例するように小さく、だがしかし険しさはない。穏やかな光を湛えていた。
トロールの平均身長すら超えるこの男は、だがしかしトロールではなく、ミズハミシマでは珍しい高級官吏を担っている魚人である。
猪首から映える扁平とした頭からぐつぐつと大釜が煮立つ音が響く。“小さく”笑っているのである。
「で?キザンよ。
 お前からはどうだ?オオミズチノトゲマロの爺さんと顔つき合わせて金ぶん取ってくるのがお前の仕事だが、うまくいってんのかい」
「いやあ、まあ、上様。あの方はさすがですねぇ。
 先日海将棋のお手合わせをしたのですが、あの翁公はああ見えて攻めっけの強い戦いっぷりでして」
「うへえ。俺ァ、あの爺様とはなるべく顔合わせたくねェや。
 よくやるぜ腹黒野郎。お前じゃなきゃあの爺様の相手は務まんねェ」
「はは。まあ、でも、ある程度は、ね」
ちらりとキザンの流し目が新人給仕に送られる。
口が堅いことで知られるハナブサ亭でも、給仕がいる場所では出来ない話、ということらしい。そこでようやく新人給仕はこの場に居付きすぎたことに気がついた。
慌てて失礼しましたと詫びを入れ退出しようとしたところで、「ところで」とキザンの話が再開した。
「で、ここからは正味の本題。
 まあ、来ますよ――――海嵐」
途端、どっと溜息がふたつ上がった。フタバ=スズキ将軍とガンセのものだ。この場にクロツグがいれば…溜息はしなかったかもしれないが、やれやれと頭を振るくらいはしたかもしれない。
嵐たる『海嵐』を察知することなど、誰にもできることではない。だが、この場にいる男は別だ。この、《流れのキザン》は特別だ。
十字槍《波潜》の持ち主キザンは“流れる”水精霊に愛された男である。彼が一声かければ海中の水精霊が耳元に囁くのだ。海流の行方を。
「………やれやれ、いつ来る?」
「4日もすれば勢いも出てくるでしょう。そう水精霊は言ってますよ。
 というわけで、お二人はよろしくお願いしますよ」
「そろそろ時期だとは思ってたがなァ………しゃーねーやァ。
 ここから帰ったら3つの奉行所に出回りゃなァならねェな。アクロ組残党どころの話じゃ無くなってきちまいやがったァ。殿様ァ?」
「おう。俺の名前で全国に注意報を発布させるぜ。
 今年もなんとか乗り切らにゃならねぇな。ガンセ!竜宮城下は頼んだぜ!」
「応よォ殿様、竜宮城の城下じゃなにひとつ損害を出させやしねぇよォ」
「よし。キザン!」
「まぁ、発布する内容の草案を考えなければなりませんねぇ。こっちで考えておきますがよろしいでしょう?上様」
「ああ、任せるぜ。
 あとはクロツグが戻り次第………」
会談の場は突如として海嵐の対策会議所となりつつある。
酔漢の顔つきから一転、国の運営を司る者の表情となった三人を後に、失礼しましたと新人給仕は襖を閉めるのであった。




「『あちら』は海嵐の会議の真っ最中、か?」
1本1本運んでいたのでは間に合わないため、酒瓶の入った木箱ごと運ぶ決心を固めた新人給仕に後ろから声がかかる。
誰もいなかったはずの場所からだ。思わず振り返れば、柱の影からどろりと沸き立つような冷ややかな影がある。
装いを変えたクロツグだった。着込んでいた着物ではなく、いかにも忍びといった軽装。
請け負った仕事をもう終わらせてきたというのか。新人給仕の顔を見たクロツグは然りと頷く。
「だろうな。時期が時期だし、キザンが早めに予定を合わせてきたのはそういうことだろう。
 “私ら”のひとつを忍ばせても即座に感知する化物しかあの場にはいないが、そのくらい“風”が流れてこなくても予測はつく。
 “海風”を全国の海守へ差し向ける必要があるな。毎年のことだが面倒な仕事だ。手配しておくか………」
こりこりとこめかみを揉んでいたクロツグが新人給仕の視線に気づく。
給仕としては、絡繰や人形に似た作り物めいたクロツグが人間らしい仕草をしているのがどこか可笑しかったのだ。
ふん、とクロツグの細面が鼻息をついた。不快そうな感情はない。
「“私ら”とて面倒は面倒さ。海嵐については注意を細部まで行き渡らせよというのが首長オトヒメ様の厳命だ。
 本当の意味で全国を駆けずり回らねばならん。“海風”の速度はミズハミシマで一等だからな。全く、忍びが飛脚の真似事とは聞いて呆れる」
物陰で腕組みをしたままクロツグが話を続ける。意外と公的な場以外では饒舌な性分なのかもしれない。
「だが不満はない。大樹様、フタバ=スズキ八代目竜将軍様にはな。
 その一点でガンセとキザン、あの人知を超えた化物どもも結束しているのだろうよ。
 ……いかんな、喋りすぎだ。秘密は口が裂けても割るつもりはないが、引き換えどうでもいいことなら滔々と喋ってしまうのは“私ら”の悪い癖だ」
気を取り直すように軽く咳払いするとふいに酒瓶の入った木箱をクロツグはひょいと担ぎ上げた。
慌てて止めてもまるで聞き入れもしない。すたすたとサツキ会の面々が待つ宴会場へ歩き去っていく。
鱗人である自分よりひとまわりも小さなその竜人の背を見ながら、新人給仕はふと思う。
――――もしかしたら、愛想が悪いだけでいい人なのかもしれない。この人も。


  • 久しぶりの将軍配下登場。ミズハミシマ最高戦力の面々もしっかりキャラが立っていて時代劇めいた光景が浮かんでくる。言い回しや語句もしっかりそれっぽくてちょっとほっこりする流れにわむ -- ((代理)) 2016-10-15 21:53:00
  • 適度な騒ぎと緊張感のあるそこそこ平和な世の中のミズハミシマは時代劇のテンプレだな -- (名無しさん) 2016-10-15 23:49:49
  • 三本槍と将軍がそろうと大岩三つに囲まれた細い女性ということに?VIP部屋も思わず手狭に -- (名無しさん) 2016-10-16 20:39:05
  • 上でドンと構えているんじゃなくて細々と働いているのな三本槍 -- (名無しさん) 2016-10-27 06:58:52
  • 今のミズハミシマの治安や統治レベルってどれくらいなんだろうね。いっぱいある島はそれぞれ自治区みたいなものなんだろうか -- (名無しさん) 2016-12-19 08:54:12
  • 異世界の文化レベルや国家体制から成熟度合いは人間が思っている以上に進んでいるのかも知れない。ノスタルジックと現代の合わせたものみたいだ -- (名無しさん) 2017-03-28 19:05:03
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最終更新:2016年10月16日 00:28