【酒は飲んでも飲まれるな】

「ふぅ…助かった……」

寂れた御堂の中に一人腰を下ろす。
たまたま居た水精に、濡れ鼠の自分を乾かしてくれと頼み、音楽プレイヤーにスイッチを入れた。
小気味良い音楽とともに、服から、髪から、水が這い出ていく。
そう時間も経たないうちに、さっぱりとした心地になる。
すぐに礼を言おうとしたが、水精はいつのまにかに消えていた。
御堂の中は薄暗く、俺の他に誰もいない。
ため息を吐き、プレイヤーのスイッチを切る。電池の節約のためだ。
ざあざあと雨音が、ごうごうと滝音が、水音ばかりが耳に入る。
左の縁側の向こうは切り立つ崖で、その向こうに逆流する滝がある。
今回はこれを見物するために、山を登ったのだ。
中ほどを見るだけでは分からないが、滝の頭を見れば一目瞭然。
凄まじい勢いで水流が飛び出し、荒々しいアーチを描き、終点には爆発するがような水しぶき。
竜のような、の一言が俺の感想のすべてだ。見惚れることしか出来ない。
しかし、それはそれでいいのだが、滝を見られるということはいいのだけれども、
この大雨のなかで戸が開いているというのは、何とも不安なことである。
閉めたくて、閉めようにも、
向こうの戸は何枚か失せていて、閉めることが出来ないのである。
幸運にも風向きから雨は入ってくることはないが。
この幸運が続くことを願うばかりだ。


ふと、水音に紛れ、かすかな歌声が聞こえてきた。
いや、この童女の歌声は紛れてなんていない。
滝音に掻き消されて当然なのに、確かに歌声は届いている。

――歌声はだんだんと声量を増している。
そう、これはまるで、耳元にささやかれているような。
そう思った刹那に、振り向くが何もない。
立ち上がり、見渡しても誰もいない。
御堂の中は薄暗く、俺の他に誰もいない、……はずだ。

――歌声はだんだんと声量を増している。
ぎい、と床が軋んだ。瞬間に怯み、冷や汗を垂らす。
ばかめ……。自分で床を軋ませただけじゃないか。

――歌声はだんだんと声量を増している。
この御堂は曰く付きのものだったんだろうか……?
は、早く逃げよう。
いや、まて、外に出たとたんにというのもよくあるパターンだ。
そもそもこんな雨のなかで山歩きなんて自殺行為だ!
どうしたらいいんだよ!俺は!

――歌声はだんだんと声量を増し、
ぴしゃん!、と右の戸が開く音。

俺は尻餅をついていた。
そこには狐人の童女がいて、
瓢箪をさげていて、どうやら酔っているようだった。
濡れて酔った姿はどうにも妖艶で、
獣人趣味も童女趣味もないはずなのに、恐怖も忘れて眼を奪われていた。
童女がこちらを見やる。
俺は射竦められた。

「うふふふ、おいしそうなおやつがあるのぅ」

そういって手を伸ばし、艶やかな二本の指で俺をつまみ、口元へと持ってきた。
酒臭い息がもれる。濃厚さに嗅いだだけで酔ってしまえそうだ。
裂け広げられた口は、一息で俺を飲み込んでしまえそうなほど大きい。
いや、俺が小さいのだろうか。
笑う犬の「生きる」という遠近法を利用したジョークを思い出す。
なんて、でたらめ。
諦観しかない。
俺はここで終わりだ。
舌が伸び、俺を一舐め。

「ひぃ……」

思わず声が漏れた。声が出せたことに自分でも驚く。
そして童女も驚いているようだった。

「おおう、なんじゃ、なんじゃ、おやつではないみたいじゃのぅ。
 すごいのぅ。すごいのぅ。わらわをたぶらかすとは、どこのかみじゃ?」

質問されている。答えなければいけない。
俺は、震える声で答えた。

「い…いえ、お、俺は、ただの、にんん、人間、……です」

童女はいっそう眼をまるくし、そして大笑した。

「ほう、ほう、ほう!
 それは、それは、すごいのぅ!
 ただのヒトがわらわをたぶらかせるとはのぅ!
 うふふふ、ふふふは、あはははははははははははは!」

あんまりにも笑い、指からすべり落ちそうで、
はたまた指に潰されそうで、生きた心地がしない。

「ひー、ひー。わらった、わらった。
 わらったらつかれて、ねむくなってきおったよぅ。
 このおどうを、ねどこにしようかのぅ。
 そなたよ、じゃまだからのぅ
 ちょいと、のいておくれよ」

童女が俺をひょいと、外へ放った。
待ってくれ、と言う暇も無く、
そっちは崖だ、と言う暇も無い。
偶然に深い川でもあってくれ、と祈りながら俺は落ちていく。


とすん。

予期していた衝撃はなかった。
眼を開くと風景が一変していた。

「雨が………」

雨が止んでいる。地面は濡れてすらいない。
周囲に広がるのは、田園地帯だ。
唖然としている俺に、足音が近づく。

「あんちゃん、そんなところでなにしてんだい?」

鱗人の農夫だ。鍬を担いでいる。

「あ、いえ、お、俺にもなにがなんだか。
 あの…、ところで、ここはどこなんでしょうか?」

「ん?
 イナホ島のイナ村さ。ミズハで一番美味い米を作るところだ」

「ミ、ミズハで一番……?」

「おうさ、龍神様も絶賛したんだぜ」

農夫はそう言って快活に笑ったのだった。


  • 金羅の飲み歩きでしょうか。何はともあれ酔っ払いに巻き込まれると何が起こるか分からない先の読めない怖さがありますね -- (名無しさん) 2013-07-17 17:56:18
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最終更新:2013年07月17日 17:54