【神戸中華街にて】

 白帆和馬がその奇妙な客に遭遇したのはバイト先の中華料理店でのことだった。
 彼がバイトをしているのは神戸南京町の一角にある中華料理店天翔楼である。
 華やかな高級中華と言うよりは地域に根差した中華料理店といったところだが過去には何度も地元テレビや全国放送で取り上げられた味に定評のある店である。
 時間は丁度昼時のランチタイムの客が掃け、ディナータイムまでのもっとも飲食店にとって暇な時間、その日その時間も店内には他に客はおらず、後から振り返ってみればまるでそのタイミングを見計らったようにその客は来店した。

「ここから・・・・ここまで順に出してくれるかしら?」

 そう言ってその客が応対した和馬に指し示したのは店のメニューの端から端までだった。

「あの・・・」

 和馬は言葉に詰まる。どう考えてもふざけているかそうでなければタチの悪いイヤガラセだ。

「お客様。お一人でございますか?」
「そうよ?食事は大勢で食べるのは好きだけど今日は一人。何か問題があるのかしら?」

 和馬は改めて気づかれないようにその客の身なりを観察する。はっきり言って数馬がこれまで見たこともない美人である。切れ長のどこか狐を連想させる瞳にぽってりとした唇は思わず吸い寄せられそうになる魔性めいたものを感じるほどで真っ赤なチャイナドレス風の衣装によって浮かび上がるボディーラインは年頃の男性にははっきり言って凶悪すぎる。

「・・・店員さん?」

 それとなくだったつもりが思わず見とれていたのかもしれない、女性の声に我に返る。

「あ、えっと・・・しかしお一人でこの量は無理があるかと・・・当店ではテイクアウトは行っておりませんし・・・」
「全部食べるわよ?残すなんてもったいないじゃない」

 和馬の言葉に当然じゃないといった表情と声音で客の女性は言い切る。

「そう・・・ですか・・・」 
「ね?だから早く料理をもってきてもらえる?私おなかがペコペコなの」
「は、はぁ・・・」

 返答に窮した和馬の横に人影が現れ彼の聞きなれた声が発せられる。

「どうされましたか?」

 和馬のバイトの先輩でありフロアリーダーを勤める大谷がやってきて和馬に代わって応対する。

「私おなかがペコペコなんだけど店員さんがイジワルするの、なんとかしていただけないかしら?」
「かしこまりました。それではドリンクと前菜からでよろしいでしょうか?」
「えぇ、それじゃお願いね」
「それではごゆっくりお楽しみください」

 大谷は接客スマイルでメニューを下げると隣でポカンとした表情をした和馬を連れてバックヤードへと戻る。
 そしてフロアの客からこちらが完全に見えなくなったことを確認して和馬は思わず大谷に向かって声を上げる。

「大谷さん!いいんですか!?」
「声がちょっと大きいよ和馬君、それからあのお客さんすごい美人だったね、芸能人かな?テレビで見たことないからモデルさんかもしれないなぁ」
「いや、それは僕も思いましたけど・・・ってそうじゃなくて!」
「だから声がちょっと大きい、何?」
「何って注文受けちゃったことですよ!どう考えてもおかしくないですか!?」
「ん?ああいうお客さんほどたまにおかしな人がいるんだよ。だけど客として来店する以上はそれなりの対応しないとダメでしょ?」
「そりゃ・・・そうですけど・・・」

 大谷の言葉にそれ以上の言葉を失う和馬。

「時々いるんだよね、ストレスがたまってるのか無茶なことやってそれを発散しようとする人がさ」」
「大谷さんこういうお客さんの経験あるんですか?」
「別のお店でのことだけどね、すごく横柄な態度になる人とかいろいろいたなぁ~、無茶な注文をする人もいたし」

 大谷が過去に何件かの飲食店で働いていたことは以前に聞いていた和馬はやっとそこで得心する。

「なるほど、そういうことだったんですね・・・」
「うん、そういうこと。だから私から調理スタッフに事情説明するから和馬君はお客さんにドリンクから運んでよ」
「わかりました」

 自分よりはるかに経験豊富な大谷の言葉に平静を取り戻した和馬はドリンクの用意を始める。

「まるで子供会のイベントみたいだな・・・」

 一カ月ほど前にあった近くの子供会のイベントでの子供相手のてんやわんやを思い出す。
 和馬はそんなことを考えながら丸トレーに色とりどりのソフトドリンクのコップを載せそれを慣れた手つきで持ち上げると客のテーブルへと運び並べていく。

「これはお酒?」
「いえ、コーラやオレンジジュースなどのソフトドリンクだけです」
「そう、じゃあお酒も持ってきてくれるかしら?」
「・・・・わかりました」

 内心「いいのかな・・・」と思いつつも大谷の対応を真似て答える。
 バックヤードに引き返す途中前菜の皿をトレーに載せた大谷と入れ違いになり「問題なさそうです」というニュアンスの目配せをし大谷も「でしょ?」というような目配せでそれに応えた。

「お待たせしました。中華風海鮮サラダと香草と海老の生春巻きです」
「あら、思ったより早いのね」
「早い、安い、ウマイが当店のモットーです」
「それじゃ味にも期待させてもらおうかしら」

 背後の女性の楽しそうな声が響く。
 それは後から思えばこれから始まる戦いのはじまりを告げるゴングだったのかもしれない。




「大谷ちゃん、こういうのも経験したことあんの?」

 厨房スタッフのリーダーを勤める土井がフロアの様子を伺いにバックヤードにまで姿を表し大谷に尋ねたのはそれから1時間後のことだった。

「いやぁ・・・さすがにこんなのは未経験ですよ・・・」

 大谷は土井に苦笑いを浮かべて答える。
 当初はドリンクと前菜でダウンするだろうと思われていた客の女性はその予想を簡単に裏切り、運ばれてきたソフトドリンクや酒を次々に飲み干し料理を瞬く間に平らげながら、なおも「次の料理はまだかしら?」と料理の催促をしている有様だ。

「あの細い体のどこに飲み物と料理が入ってるんだ?」
「ギャル茂木ちゃんみたいですね?もしかして本当に大食いタレントとか?」
「でもある程度食ったらトイレとかで吐いてるって聞いたぞ?そうじゃなかったら物理的に無理だろ・・・」
「でも、あの人料理食いはじめてから一度も席立ってないよ?」

 そんな会話がバックヤードでは数人のフロアスタッフの間で囁かれていた。

「俺、こんな光景どっかで見たことあると思ってたですけど・・・アレですよ、那由多と不可思議の神隠しに出てきたアレですよ」

 和馬が思わず例に挙げた日本人ならある程度の割合で知っているであろうアカデミー賞受賞アニメ映画に普段なら「お客様に向かって何言ってんだ」と言いそうな大谷を筆頭に「あぁ、アレか・・・」と頭の中に映像が再生されたのかその中の数人が呟く。
 それほどその客の女性の食べっぷりは異様だった。上品さこそ欠片も損なわれていないが「これだけの量が一体どこに消えるのか?」と疑わずにはおれないほどの量をすでに彼女の胃袋の中に消えているはずであり、彼女は来店して席についてから一度としてトイレなどに立ったこともなく黙々と飲み物と料理を食べ続けている。

「次の料理はまだかしら?」
「おいおい、まだ食う気かよ・・・」

 その声を聞いた土井が怪物でも出くわしたかのような表情を浮かべて声を漏らす。

「今日平日だから上のほうのストックねぇぞ・・・」

 土井の言う上とは普段滅多に注文が出ない高級料理のことだ。高級料理を売りにしている店ならともかく事前予約や宴会シーズンなどを除いて冷凍などで鮮度が落ちにくい食材を除いて少数の食材ストックしかないのが多くの中華料理店の内情である。

「土井さん、どれが完全に無理です?」
「あ?・・・コレとコレは昨日使って完全にアウトだな。こっちの列もちょっと厳しいと思う」

 大谷の差し出したメニューを指差しながら土井が材料の不足しているメニューを伝える。
 材料の不足しているのはどれも高級食材か調理するのに事前準備が必要なものだ、天翔楼では主に馴染み客の事前予約か年末年始などの宴会シーズンなどでしかオーダーされた記憶がない。

「ウチってつくづく庶民的ですね・・・」

 大谷が思わず苦笑する。

「高級食材なんて事前予約もない時にストックしてても鮮度が落ちるだけなんだから当然だろ」

 大谷は当然といった口調でそう言い切り和馬も思わず苦笑いを浮かべる。

「じゃあ、この料理をもっていくついでにお客さんにそう伝えてきます」
「オゥ、頼むわ」

 出来上がった料理を席へと運んだ大谷がメニューのいくつかが出せない趣旨を説明すると箸を止めてその説明を聞いていた女性は心底残念そうに肩を落とす。

「どうでした?」

 客への説明を終え、綺麗に食べ尽くされた皿をトレーに載せて戻ってきた大谷に和馬が尋ねる。

「うん、わかったってさ。その代わりできる料理はジャンジャンもってきてだって」
「まだ・・・食べるんですか・・・?」
「みたいだね・・・」



 それからさらに二時間。相変わらずのペースで料理の催促は続き、それに調理スタッフはまるで年末年始の宴会時かと思うような忙しさで対応し、ついにデザート料理の最後の一品を残すだけとなっていた。

「信じられねぇ・・・本当にうちのメニュー9割制覇しちまったよ・・・」
「土井さんお疲れ様です・・・」

 最後のデザートメニューである天翔楼特製杏仁豆腐の器をもって厨房から呆然とした表情の土井が姿を現す。

「まさか本当にあるだけの料理食いきるとはな・・・一日で店のメニューほぼ全部作るなんてもう二度とねぇだろうな、というか無いことを祈るわ・・・」

 大谷に杏仁豆腐を手渡しながら土井が疲労した声で呟く。

「お疲れ様です。調理の人たち大丈夫ですか?」
「まぁ大丈夫だろ。俺は裏でちょっとタバコ吸ってくるわ」
「はい、追加の注文あったら呼びますね」
「勘弁してくれ・・・」

 ゲンナリした声を出して土井は奥へと消える。



「これが最後のデザートになります」

 そう言って大谷は土井から渡された最後のメニューである杏仁豆腐を静かにテーブルの上へと置く。

「あら、これで最後?そう思うとなんだか名残惜しいわね」

 そんなことを言いながら女性は目の前に置かれた杏仁豆腐の器を手に取るとレンゲでシロップに浸かった杏仁豆腐を掬って口へと運ぶ。

「うん、とっても美味しい♪」

 程よい甘さとツルツルと喉越しの良い杏仁豆腐の食感に彼女は頬をほころばせる。

「当店自慢のデザートですから」

 天翔楼の杏仁豆腐は牛乳寒天のなんちゃって杏仁豆腐ではなく正真正銘の杏仁を使ったものであり、創業者の頃から変わらぬ味と製法を貫き「天翔楼といえば杏仁豆腐」と言われるほどの自慢の逸品だ。

「そう。これだけでもこの店を選んで正解だったわね」

 ほどなくして杏仁豆腐の器は空となりカランと乾いた音を立てて器の中にレンゲが置かれる。

「うん!満足満足♪」

 ポンポンとあれだけの量を収めたにもかかわらずわずかに膨らんだようにしか見えない腹部を軽く叩く。

「食後のお茶はいかがしますか?」
「お願いするわ」

 大谷の問いに、彼女はニッコリと笑って答えた。



「さて、御代はいくらになるかしら?」

 ほどなくして大谷が持ってきた食後のサービスのジャスミンティーの注がれたアジアン調のティーカップを手に持ちながら女性は和馬に訊ねる。

「はい、こちらになります」

 その言葉に応じて和馬は彼女に伝票を見せる。

「代金は現金でしょうか?カードでしょうか?」
「現金しか持ち合わせがないので現金でお願いするわ」

 内心「一人でこれだけの値段は十分たいした金額だよ・・・」と思いつつも差し出された見慣れない厚みの一万円札の束を受け取る和馬
「領収書はいかがいたしますか?」
「え?そうね~・・・お願いするわ」
「お名前はどのようにいたしましょ?」
「名前ね、ちょっと書くものを貸してもらえるかしら?」
「あ、はい。これをどうぞ」

 和馬は持っていたボールペンを差し出す。

「・・・・こういう字よ」

 客は和馬のペンを取り、紙ナプキンにスラスラと書いてみせる。その字は一見漢字のように見えたが細かな部分が違っていた。
「それでは少々お待ちください」

 そう言って和馬はレジのほうへと去り、入れ違いにやってきた大谷を女性は呼びとめる。
「ちょっといいかしら?」

「はい、どうかされましたか?」

 呼ばれた大谷は彼女のほうに向き直る。

「ちょと料理を作ってくれた人に伝言お願いできるかしら?」
「はい、どのような伝言でしょう」
「あれだけの品数を一皿だって雑にせず手早く作りきったのは本当にお見事だと思うわ。ただし焼き飯の味がちょっとイマイチだったかも?あとは本当においしかったわって伝えておいてほしいの」
「伝えておきます」
「お願いね」


「さて、そろそろガミガミ五月蝿いのがきそうだからお店を出ようかしらね」
 大谷が彼女の伝言を伝えに奥へと去るのを見送ると 彼女は誰にともなく呟き、空になったジャスミンティーのカップを静かにテーブルの上に置き静かに席を立った。


「あれ?お客さんは?」

 領収書の紙を持った和馬が大谷に尋ねる。

「いない?さっきまで食後のお茶を飲んでたけど、お手洗いじゃない?」
「え?今までお手洗いの掃除してましたけど誰も来ませんでしたよ?」

奥からそれまでトイレ掃除をしていた別のスタッフがそう言いながら戻ってくる。

「じゃあ入れ違い?そんなバカな・・・」

 慌てて客の後を追って店の外に出た和馬は雑踏の中であの客の姿を探したが見つけることができなかった。

「いない・・・まいったな・・・」
「お客さん見つかった?」
「あ、間に合いませんでした・・・」
「そか、まぁ仕方ないね。領収書は保管しておけばいいだろうし。それよりもうこんな時間か、今まであのお客さん以外に客が入ってこなかったのが不思議だなぁ」

 大谷は人通りを増した通りを見て呟く。 昼のランチタイムと夕方からのディナータイムの谷間の時間帯だったとは言え、一組の客だけしか店内にいないというのは閑古鳥の鳴く店ならともかく彼らの働く天翔楼では経験したことのないことだった。

「今日は変な日でしたね・・・」
「まだ終わってないけどね」

 そんな会話を交わして和馬と大谷は店の中へと戻っていった。


 その日、神戸中華街では同じような時刻に味に定評のある高級中華料理店から知る人ぞ知る昔ながらの中華料理店さらには路上販売の屋台まで全メニューを注文し調理可能な料理すべてを完食し立ち去ったという年恰好や性別は見事にバラバラ老若男女わかっているだけで9人の謎のフードファイター集団が出没したという話を二人が知ることになるのは数日後のことになる。


 そして、天翔楼ではこの日訪れた客が残して行った領収書が額が額だということで保管されることとなるが受け取りにやってくる者はおらず。しかし、いつの頃からか「触った者に福を呼ぶ領収書」と呼ばれることとなるのはまた別のお話。



「神戸中華街制覇なう・・・・っと」

 平日の夜でも待ち合わせの人々で賑わう神戸中華街に程近い広場のベンチ、そこに腰掛けながら慣れない手つきで手に入れたばかりのスマートフォンを操作しツイッターに書き込む一人の女性の姿があった。

「探しましたぞ!まったく身代わりまでこさえて何をなさっておいでか!」

 突如しわがれた声を上げて長身の人影がズカズカと人ごみを掻き分けて女性の方へと近づいてくる。

「あら?もうバレちゃったの~?」

 女性はベンチに腰掛けたまま上目遣いに近づいてきた人影に尋ねる。

「バレちゃったの~?じゃありません!さぁ!帰りますぞ!」
「ヤダヤダ!まだお菓子屋さん巡りしてないもん!」
「じゃかあしい!大部分は向こうに置いてきてるとは言えあなたのような方がホイホイこちら側に来ていいものではありませんぞ!」
「グスン・・・・だっておいしいもの食べたかったんだもん・・・」

 長身の人影に一喝されシュンとなる女性。

「まったく・・・・しおらしい態度を偽ってもダメですぞ?どうせ次はどこに行こうか考えておられるのでしょ?」
「うん♪」

 彼女はケロリとした顔で小さく舌まで出してその言葉を肯定する。

「・・・・・ハァ、あなた様はいつものことながら・・・」
「いつものことならいい加減慣れたらどう?あなたといい他の二人といい少し心が狭いんじゃないかしら?」
「あなた様が自由すぎるだけじゃ!もういい!帰りますぞ!」
「は~~~い」

 女性は反省の色が微塵もない声でそう応えると長身の人影の腕に自らの腕を絡ませる、長身の人影は深い溜息をつき、次に短く何事かを呟く、その瞬間キンと空間が鳴り常人には知覚できない波紋が周囲に広がる。

「あれ?さっきまでそこにスゲー美人な人いなかった?」
「え?いたっけ?」
「いやいや、いたっしょ?モデルみてーな美人がさ!」

 先ほどまで二人の人影があった場所にはこの混雑の中不自然な空間があるだけ、それもすぐにそれはそうあるべきとでも言うように他の誰かがベンチに座り不自然な空間を修正する。
 そのことに違和感を覚えた者はごく僅か、その僅かな者達もやがてはその違和感も忘れてその場を後にする。そこに少し前まで人知の及ばぬ超常の存在が居たことなど知るよしもない。

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最終更新:2015年12月18日 20:19