夕暮れの空に一定の間隔で気合いの声々が響く。
音の源は汪鉄流の道場だ。ここの道場は四足の大家である。
四足とは無手の武術のことを示す。四足をもって駆ける姿より名付けられ、その速力を誇りとしている。
また、四足に対して武器を用いる武術を二足と呼ぶ。
武器を持つと必然的に二足で立つことが、その所以だ。弓術をはじめとして、その火力を誇りとするものである。
双方共に利点欠点があり、どちらが優れているとは言えない。
だが、戦場の花形といえば四足士なのである。速度により、必然、先陣を勤めるがゆえに。
そのため腕一本での成り上がりを夢見て、四足の看板を叩くものは後を断たない。
今、水人形を相手に打ち込みをしている門弟達も、少なからずそういった者であった。
今日も常のように修行は厳しく、日の沈み切るまで続けられる。
西の空から赤みが消えたころ、ようやく狼人の師範代が終わりを告げた。
各々一礼し、ヘトヘトの体を引きずるように庭を後にしていく。
今宵の月は三姉妹とも細く、また星々も瞳を閉じる者が多い。
夜は不思議と暗いが、帰途につく門弟たちの足に危うさはない。夜目の効かないものすらも。
これもまた長年の鍛練によるものだろうか。
夜は止まることなく更けていき、それにつれ濃さを増していく。
静かだ。
何もかもが夜に飲まれている。
三姉妹はいよいよ糸のように細く、星々もかすか。
人々はみな早々に眠りにつき、灯は吹き消されていった。
夜だ。
夜が来ている。
誰もが静まりかえり、身を委ねざるをえない夜が。
精霊たちもまた夜の雰囲気にいる。
風は止み、水滴は落ちない。虫の歌も、葉々のざわめきも、何もかもが止まっている。
闇の精すらも、ただ夜闇に溶けるばかりで像を結ぼうとしない。
しかし、一つ空を切る音があった。
かすかだが夜に飲まれず、ここにまで届いている。
夜を切り裂き進むほどの鋭さがあったのだろうか。
音の主を探すと、まもなくみつかる。道場の庭にて壮年の虎人が鍛練を続けていた。
動きはひどくゆったりとしていた。風を切る音など出そうにはない。
しかし、ゆるやかだが、力に満ちていた。
壮年の虎人がゆるゆると腕を引き、撃ち出す。
じわじわと腕が伸びゆく。ブレは僅かもない。正確な動き。
全身が連動し幾つもの円が生まれ、結果として爪は直線を描く。
そうして、ついに腕は伸び切った。
静寂があり、静寂があり、
爪の先の空間に溶けていた精霊たちが、緊張に耐え切れず押し殺すように悲鳴をあげる。
空を切る音がした。
壮年の虎人は、やはりゆるやかに腕を戻す。一礼をして、息を吐いた。
庭の木陰から湧き出るように虎人の少女が現れた。
声をかけようとして、躊躇う。
夜の暗黙を破ることを恐れたためか、壮年の虎人の気迫にあてられたためか。
なんにせよ、最終的に少女は声をかけることを決意した。
「………ねえっ!!」
少女は自分の声の思わぬ大きさに驚き震え、慌てて口を押さえる。
深呼吸一つ、気を落ち着かせる。
改めて、密やかに言葉を吐いた。
「……ねえ、なんで、なんでこんな夜にまで頑張っているの?
もう、十分強いよね?」
壮年の虎人は応える。静かだが響く声で。
「……なんで、か。なんでだろうなあ」
「やっつけたい人がいる?」
「違うなあ」
「国一番になりたい?」
「ちと違う」
「世界一だ!」
壮年の虎人は少し微笑んで、手招きをした。
少女は首を傾げつつも、近寄っていく。
「上手く言えんがなあ……」
天に向け爪を振るった。
「……きっとそうだ。俺は、こういうことを夢に見た」
「………!」
少女が見上げた天には、月の三姉妹が細く、そして並んでいる。
まるで、天につけられた爪跡のように。
- 自然に囲まれた高山の頂に佇む修行場という神秘にも似た雲が流れるような文章でした。獣ゆえの獣と闘法とすでに志は遥か天という求道者の高潔さに感動しました -- (名無しさん) 2013-10-06 19:01:38
最終更新:2013年10月06日 18:56