一人の旅人が深い草むら掻き分け進む。
深い草むら風に波打ち、歩く先には穴を隠す。
注意一秒怪我一生、灯台下に油断大敵。
恐れは隠され、踏み出す一歩に躊躇いなし、哀れ旅人は引力に傾ぐ。
そのまま傾き傾き落下して、勢いのまま縦回転。
上の光は高さを増して、にじむ涙が尾を引いた。
悲鳴を飲み込んだのは何の意地だったか。
迫る大地の圧力に、もはや心の堰は決壊しきり、旅人は叫ぶ。
「たすけ…て…!」
『ほいさっさ』
ヴォン。風渦巻き、風昇る。
バタバタバタと服を鳴らして旅人は減速、トスンと四つん這いに着地した。
何があったか分からぬ様子で、震える手足は子鹿のよう。
零れた涙が右手を濡らし、慌てて目元の涙をぬぐう。
少し一息、顔を上げると、目と鼻の先に緑色の猫がいた。
これは、風の精だ。
(ああそうだそうだここは異世界だった)、と旅人はいまさらのように思い出し、
命の恩を緑の猫にもらったことに気がついた。
「ありがとう!ありがとう!」
感謝を叫び、緑の猫に抱きつこうとする旅人。
しかし、緑の猫は腕をすり抜け、穴の底に一言残して雲散霧消した。
『いいってことよー』
もはや命の危機は遠く、しかし体の震えは止まらない。
リラックリラックスと震える手で煙草を取り出せば、ひどい中毒患者みたいだと苦笑が漏れた。
煙草を口に咥え、新たに手に持つは百円ライター。
カチカチと石を鳴らせば、出るは小さな火花ばかりで、ああこいつはガス切れだ。
替えのライター無いことに、いつかかつての自分自身を旅人は罵倒する。
諦め悪い旅人は、火花でもって煙草はつかんか、と
燃え上がれー燃え上がれー、と鼻歌しつつ石を打ち鳴らし続けていた。
そんなこんなで十数分、思う一念が何かに通じたのだろうか。
散った火花の一片が、虚空に消えず、勢い増せば、ボンッと響かせ、なんとカトンボに変じたのだ。
漂う熱。焦げた匂い。そして、めらめらと輝いている。
おお、火の精だ。
『ももも燃燃燃、燃燃、燃、燃や燃や燃や燃や燃やすよ、ななななな何を燃や燃やそう?』
「来た、来た!こいつだ、こいつの先に火を着けてくれ」
言うやいなや、カトンボの足が発射され、煙草の先に黒い毛が生えて、炎上。
旅人は煙草を一振りして、あらためて咥える。
煙は肺を侵し、脳に浸み、顔を歪ませたが、一息つかさせた。
旅人は不味くてしかたがないと思いつつも、安心する。だって中毒者だもの。
肺に溜まった煙を、ポンッ、と吹き出したら、
煙はわっかとなって飛んでいった。
『けけけけっけっけ煙だ、わわ、わっかだわっかさ、くぐるよくぐれ』
カトンボは楽しそうに煙の輪をくるくるくぐる。
カトンボの熱気は上昇気流を産んで、煙の輪は縦へ縦へと伸びていき、
しまいにぷちんと千切れて散った。
ポワポワと輪を吹き出しつつ、周りを見渡す。
旅人はようやく視野狭窄から立ち直り、
ここが縦穴の底ではなく、長く伸びゆくトンネルの中途であることに気がついた。
床、壁、天井、全て同じ材質。ヌッとなめらかであり、継ぎ目が見当たらない。
旅人は同じものを地上で見たことがあった。
誰の手によって出来たのかにも理解が至った。
煙草を咥えつつ、頭上の穴より差し込む光に手をかざす。床に手の影が写る。
手を複雑に組み替えると、太陽に光る床を背景に影の兎が現れた。
それを見た火の精が、カトンボから兎へと変ずる。
旅人は「カモン光の精」と呟き、影の兎を走らせ、光と影の境目へと向かわせる。
影の兎は闇に溶けず、反転、光の兎となって現れた。
影を背景とした光の兎は、にゃんと鳴いて、三次元兎に変じた。
旅人は光の精に頼みを言った。
「行く先を照らしてくれ。ついでに迷わないように後へ目印も欲しいんだ」
『にゃんにゃかにゃーん』
光の兎が鳴くと、旅人の目がサーチライトのように光を発した。
わりかし愉快な光景だが、写真でも撮らなければ旅人自身には確認できない。
旅人は、明るくなっていることに、ただ喜んでいるばかりである。
旅人は煙草をふかしつつ、足を進める。
少しばかり進んだところで振り向いた。
うしろに残る旅人の足跡がまぶしく輝いていた。これなら迷っても大丈夫だろう。
旅人は軽くステップを踏みつつ進む。ときたま煙の輪を出しながら。
なぜ普通に歩かないかと聞かれたら、精霊を使うには遊び心が必須だからと答えよう。
向こうに人影が見えた。蟻人だ。
羽がなく柔らかいフォルム、女の蟻人だ。
まあ確認するまでもなく女の人に決まってはいるが。
なぜなら、男の蟻人は即ち王子であり、国に数人しか存在しないからであり、
今も首都の塔の頂上で、甘酒を飲んでいるに違いがないからだ。
寿命を含めて考えると蟻人の国は若い女性だけで構成され、つまり国民総女学生である。
その蟻人は背嚢をしょって、モップのようなものを手に持っていた。
服は緩く薄いものであり、両脇に広くスリットが入っている。
これは蟻人の呼吸器が脇の下に位置する為である。
旅人の鼻にとある匂いが入り込む。
人の鼻の知覚外の成分もあったが、翻訳加護によって人間に理解できる情報に変換される。
蟻人は煙草に不快感を感じているようだった。
「屋内での煙は停止が良いことです。呼吸が苦しくなりましょう」
「ん、ああ、申し訳ない」
謝罪し、旅人は吸いかけの煙草を放りなげた。
火の精が変じた兎の上方へ煙草は飛んでいき、火の兎が飛びつき飲み込み、瞬間に灰となる。
蟻人は背嚢から籠を取り出した。中には青色の虫が幾匹か。
籠から捕りだし投擲すれば、愉快な鳴き声と共に一直線に飛んでいく。
それに続いて強い風が吹き抜ける。風の精が虫を追いかけ遊んだのだ。
虫は天井の穴より外へ飛び出し、灰と煙とをはらんだ風も外へ飛び出し、ついでに火柱が吹き上がる。
トンネルの中にはもはや煙は一片もなく、清浄な空気に満たされていた。
蟻人は触覚を旅人に近づけた。
「それでも臭いが残ります。加えて汚さを残しています。入浴することは良いことでしょう」
蟻人は旅人の意思を確認せずに担ぎあげた。風呂へ運んでいくつもりである。
「うわっ!?…っと、お、下ろしてくれ!」
「まだです。到着は遠いことです」
「いや、そういうことじゃなくてだなあ…!」
蟻人、特に兵隊カーストや外交カーストに属さない者は、こういった善意の押しつけをしがちだ。
感情が動くとき、人間の神経や内分泌物はあくまで体内にのみ直接影響する。
しかし、蟻人の場合は感情が体内を駆け巡るだけでなく、
体外へフェロモンとして放出され、周りの蟻人の脳に直接響きわたる。
そればかりか、菌糸ネットワークにより論理的思考もある程度共有されてしまう。
自分のしたいことされたいこと相手にしたいことされたいことが、
ほとんど常に一致している環境で彼女たちは生きてきたのだ。
そして、ネットを共有しない異種族に対しても、経験的に同じように対応することが多い。
よって彼女たちは基本的にお節介であり、つまり国民総おばちゃんである。
無駄に強い力に旅人は脱出を諦め、されるがままに運ばれる。
蟻人の足が止まったことに、銭湯に到着したことを知った。
担がれたまま、旅人は部屋の中に運び込まれる。
今までと異なり、ほのかな灯りがあった。
匂いが流れてしまうから、視覚で補うためだろう。
中は脱衣場であり、番頭のような蟻人が一人いた。といっても料金徴収をしているわけではない。
入浴で薄まる個人識別用の香を付けなおす役を担っているのだ。
旅人を床に降ろすと、蟻人は服を脱ぎだした。
働き蟻に男はいないので、当然男湯女湯の別はない。
羞恥心も薄い、というより、ほとんどないといってもよいほどだ。
さて、蟻人は自らの衣を畳むと、旅人の服を脱がしにかかる。
しかし脱がし方がわからなかった。
「脱がせません。丸洗いにしましょう」
「待った。脱がせ方なら教えるよ」
旅人の協力により、服は無事に脱がすことが出来た。
なぜ旅人はこんなにも協力的なのだろうか?
旅人は担がれたままの十数分間の内に、されるがままの楽しさに目覚めたのである。
裸になった旅人は再び担がれ浴場に持ち込まれる。
熱気がたちこめ、湿気が飽和。
広さは日本によくある銭湯のものと同じほど。
床の材質は他と同じようで、しかし少し密度が高い。
浴場は空ではなく十数人かの蟻人が利用していた。
体を洗う者も、触角をみがく者も、湯に浸かる者もあった。
湯船は浅い。気門が両脇下にあるためだ。入浴は半身浴が基本である。
多くは腰下のみを浸からせていたが、そればかりでもなし。
片側の気門をふさぎ右左と半身浴をする者も、息を留め潜水する者も。
旅人の洗浄が始まる。
お湯を全身にかけ、アライアブの幼虫の粘液を身体中に塗りたくり、お湯で流す。
湯船に投げ入れ数分。
また粘液を塗りたくり、こんどは蜘蛛糸の布で丹念にみがく。そして、お湯。
また湯船に投げ入れ数分。
水で火照りを除き、火と風の精に頼んで乾燥させれば、綺麗な旅人の完成だ。
旅人はこの作業のあいだ、時折悲鳴をあげるも、概ね流されるまま抵抗はなかった。
脱衣場に運ばれ、番頭的蟻人に背中を叩かれ、降ろされる。
旅人は自分のリュックから服を取出し着替え始めた。
「そういえば、さっきの服はどこに?」
「服は洗濯でした。明日には手元に戻りましょう」
「一泊しなきゃいけないわけか?」
「同じように考えていました」
再び担がれる旅人。次は食事場へ運ぶと蟻人は告げた。
すでに光の兎はどこかへ消えている。
旅人を担いだ蟻人は闇の中へ溶けるように消えた。
終わり
- >「たすけ…て…!」 『ほいさっさ』『いいってことよー』 穴という単語に釣られて読んだけど何とも楽しい命がピンチだった -- (とっしー) 2013-01-19 00:54:57
- 終盤の展開で「注文の多い料理店」を思い出したのだが。つまりそういうことなのか・・・? -- (名無しさん) 2013-01-19 04:19:12
- 精霊の見せ方とやり取りが特徴を捉えていて秀逸。 まるで精霊使いの様に振舞う旅人は命の危機を乗り越えたからなのだろうか。 ひょんな事から思わぬ訪問となった中でも蟻人の行動と設定が説得力もあって面白い -- (名無しさん) 2013-07-26 22:55:09
- 緑の猫というのが何とも風の精霊っぽくていいですね。他の精霊のやりとりも無邪気さがあって楽しいです。それにしても女王の産んだ幼虫を扱うかのような対応というものに蟲人なりのおもてなしを感じました -- (名無しさん) 2013-11-16 17:26:01
最終更新:2013年01月01日 18:26