異世界の酒造業は特別な仕事だということを皆さんはご存知だろうか?
地球でも酒造りは世界各地で神聖視・あるいは特別視されていた歴史を持つが、異世界ではそれとは少し意味合いが違う形で酒造りに携わる者は特別に扱われる。
異世界での酒造りとは主に病持ちの仕事なのだ。
異世界には我々の世界と同じように菌やウィルスによって引き起こされる病に加えて、精霊が関わることで発症する病と神が関わることで発症する病がある。
前者二つは薬の処方や転地治療で改善するが最後の一つはそうはいかない、不治の病、死に至る病というものがとにかく多い。
神が関わる病で代表的なのは月神が関与する精神疾患の類だろう。
心が弱っている者が月を見ると月神に影響されて精神を病むことがある。
異世界では精神が未熟だったり不安定だったりする未成年者は夜に月を不用意に見ないことが一般的な教えとなっている。
イストモスの天文観測集団「神星教団」でもこの精神疾患を患う者はかなり多いと言われている。
異世界の月は凶事の象徴であり、心の均衡を乱す存在なのだ。
こうしたことから異世界では神由来の病は「呪い」として受け止められているが、一方では「祝福」とされるケースもある。
そしてこの「祝福」こそが酒作りに大きく関係するのだ。
神由来の不治の病に「腐れ病」という病がある。
ある日突然体にカビのようなものが生え、そしてそのカビのようなものはどんどん体に広がり、最後は全身カビだらけになってグズグズに体が腐り落ちて死に至る。
これだけ聞くとなんともおぞましくまた救いようのない病だが、死に至るのは適切な対処がされなかった場合の極めて稀なケースだ。
適切な対処をすれば病状は日常生活にまったく支障のないものにとどまり命を落とすということにはならない。
ただし、この病が完全に治るということはない、発症すれば死ぬまでこの病と付き合うことになる。
では、その適切な対処とは何か?それが酒作りである。
正確に言うと酒造りを代表とする発酵に関係する環境に近い場所での生活がこの病をほぼ無害化させる最善の治療法なのだ。
原理は定かではないが、一説ではこのカビのように見えるものは亜神の一種で、とにかく近くにあるものを変質させるのが大好きなのだという。
しかし生物を変質させるのは思いのほか難しいので、近くにより変質させやすい物があるとそちらを変質させることに夢中になって憑りついている者はどうでも良くなってしまう
そこでいつしか対処療法として腐れ病を患った者の近くに身代わりとして食べ物などを置く風習が生まれ、ある偶然から良質の発酵食品が極めて短期間に作れるということが判明したというのだ。
この病は他者に感染しないし、また子供に遺伝することもない一代限りの病だ。
また発症率も稀で数千人に一人の割合だといわれている。
このことから腐れ病を患うことは「呪い」ではなく「祝福」とされ、この病を患うことはただ生活してるだけでお金が入ってくる大変羨ましいものと認知されていることが多い。
異世界の発酵食品の製造には腐れ病を患った者の存在が欠かせない。
彼らがいるといないのとでは味も品質も格段の違いとなり、また製造期間にも大きく関係する。
彼らは現場責任者の指示に従って発酵場で好きなように生活していればいい、ただそれだけで発酵食品の品質は劇的に変化し、彼らには相応の報酬が入ってくる。
寝て起きて好きなことをしているだけで収入が得られるとはなんとも羨ましい話だとついつい筆者は思わずにはいられない。
しかし、不思議なことにこの病の元となる神については異世界関係の翻訳された書物をいくら読んでも該当する名前が出てこないのは不思議な話だ。
そして、もっと不思議なのは異世界の酒蔵には世界各地共通して点がある、それは赤く塗った長い顎鬚を蓄えた小柄な老人の像を祀っているということ。
特定の名称もなく由来不明のこの像は世界各地で不思議とモチーフとする種族こそ違えど共通した風習があるのは単なる偶然だろうか?
ここで筆者はある仮説を提唱したい。
この世界各地で共通する赤く塗られた像こそこの腐れ病の起因する神であり、人々から名を忘れられた神ではないだろうか。
腐敗と発酵を司る赤ら顔の老神、なんともユニークな神がもしいるとすれば、異世界にはもっとたくさんのこうした今では名も存在さえ忘れられた神はさらに多く存在すると考えるのが自然なことだろう。
月刊アトランティス 2006年6月号 より一部抜粋
- 正と負の反転のようなものの捕らえ方が面白いです。異世界ならではの力が加わるものつくりも世界観の構築に一役かっているんだなと思いました -- (名無しさん) 2014-04-20 19:50:31
最終更新:2013年08月11日 10:13