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【海に挑む男】

────クルスベルクの最も精確なゼンマイに鯨の髭が使われる。なぜなら鯨こそ最も時間に厳格な生きものだからこそ。
一頭の鯨の潮吹きを数えてみよ。間隔も回数も常に一定だ。どんなときも、それこそ銛を打たれているときでさえも、途中で海に潜ることはない。
海洋の王たる鯨達が狩られるのも、この隙を突かれてのことに他ならない。そう、自らの命を脅かすほどに彼らは厳格なのだ。


潮吹きだ!鯨だ!
その一声に船が色めき立つ。遥か彼方の鯨は等間隔に六十の潮吹きをして海中へと沈む。
もはや海上からは何も分からないが、船長達は長年の経験から鯨の進路を目に見てるかのように把握していた。
舵はとられ帆は風を受け、一時間の後に鼻先の向こうに鯨を見た。
潮吹いたぞ!との声が響く。
用意されていた三艘の小舟が下ろされる。銛撃ちと舟頭と漕ぎ手の面々が瞳をぎらつかせていた。
その内の一艘に注目しよう。
頭を青鬼のガントウが務めている舟である。
青鬼ガントウが罵声混じりに拍子をとれば、鬼の漕ぎ手共がえっさほいさと動きだし、舟は尻を叩かれたように滑りだす。

さあ、ここからが鯨との時間との勝負だ。
あの鯨はちょうど六十を潮吹いたとき、銛の届かぬ深遠へと身を隠してしまうのだ。
すでに三度潮は吹かれた。残されたは五十七。急げよ舟よ!

荒波荒風、漕ぎ手の合い声、それらを突き通す頭の罵声。
青鬼ガントウの舟は他の引き離し、一直線に鯨の元へ。

また潮は吹かれ、残りは五十。速度を緩めることは許されない。
銛撃ちの黒鬼ゴサクはすべての喧騒を離れ、舳先にて鯨を静かに睨んでいる。力を貯えている。
黒鬼ゴサクの銛持つ手に、ぐっと力が籠められる。
その銛には綱が結び付けられている。大蜘蛛製の丈夫な綱は船首から船尾の綱巻車へピンと伸びていた。
ちなみに綱は巻かれているだけで、どこにも結ばれてはいない。舟が鯨もろとも海底に沈むことを防ぐためだ。

さて、残りはすでに四十。
しかし、銛は未だ放たれない。綱の長さがまだ足りない。

残り三十五となったとき。青鬼ガントウが叫ぶ。止まれ!
漕ぎ手たちが手を止めて、舟の揺れが収まりゆく。
さらに青鬼ガントウが叫ぶ!撃て!
黒鬼ゴサクがギュッと力を凝縮、瞬く間に爆発。
放たれた銛は軌跡に綱を引き、綱巻車を唸らせる。

しかし銛は高波に阻まれ鯨から外れ、残りは半分三十だ。
青鬼ガントウまた叫ぶ。綱を替えろ!次の銛だ!
そして叫ぶ!撃て!
黒鬼ゴサクは頷いて、吠声と共に銛を撃つ。
電光石火、風貫く銛は、見事鯨を貫いた!同時に、悶えた鯨が尾でもって海を打つ!
雷鳴じみた轟音。太鼓の腹が大海で太鼓のバチが鯨尾ならば、なんぞ雲上の雷太鼓に勝るとも劣ることがあろうか。
すなわち鬼共を痺れさせ、さらに銛を抜こうと暴れだしたのが悪かった。
その瞬間、暴虐が銛と繋いだ綱にも伝わり、綱は小嵐となって舟をあばれ、
あらうことか予備の銛を巻き込み、哀れな一人の鬼を切り裂いて海へ投げ落とした。

残りは二十五。
ホロウ!
沈む鬼への声があがる。
青鬼ガントウ綱を掴む。高速で引き出される綱が、青鬼ガントウの手を削り、煙までも生んでいた。
青鬼ガントウは叫ぶ。水掛け水!手繰れ綱!
綱巻車に海水掛けられ、濡れた綱は手のひらに少しやさしくなる。

残りは二十。
速力遅く逃げる鯨に、舟はまた距離を詰めていく。

残りは十五。
槍が放たれた。鯨が悲鳴をあげる。
他の舟共も銛を撃つ。一層の悲鳴があがった。

残りは十。
鯨は最後に一泣きし、そして動かなくなった。鬼たちが歓声をあげた。

巨大な肉塊が綱引かれじわじわと海を進む。亀の歩みのように遅い。
肉塊の上には音頭をとる鬼と、紐付きの銛を持った鬼達がいた。
肉塊からは川のように血が流れ落ち、辺りを血の海に変える。
それに惹かれて平鮫の一群がやってきた。
貪欲極まる奴らにもし気を許したら、肉塊は船に戻る前に骨だけになることだろう。
その前に鬼達は銛を撃ちだした。
群の内のわずかを仕留めたにすぎないが、もう十分だ。
見ろ、浅ましい奴らは間近の血肉に目を奪われている。
ほら、同士討ち。同胞食いの始まりだ。
この情景のなんて恐ろしいこと。
血の海に鮫共が食い合い、肉塊の上の鬼達が指差し嘲笑している。
地球人にこれが地獄と紹介すれば、大概の納得は得られるだろう。


さて、もう一仕事。鯨を船に上げなければならない。
鯨の腹に幾本も杭を打ち込もう。綱繋ぎ、柱にかけてひっぱろう。
えんやーこらどっこいしょ、と柱に頭を下げさせながら綱を引く。
鬼達の並はずれた膂力によれば難しい仕事ではない。

さあ、後は酒宴だ。宴会だ。
鯨のステーキ。鯨血塗した銛の刺身。フカヒレのスープ。
そして忘れてはならない脳鯨油。絹より滑らかに白く熟れた葡萄より芳醇。
この油に漬けて揚げれば、あの下らなくパサついたパンが極上の美味へと変わるのだ。

犠牲もあったがなんのその。
鬼達は今日も酔って食って歌うのである。


  • やられたぞー!とったどー!が単純明快な自然と馴れ合いではない勝負する生活。 命を取ること取られることに一つの悟りを感じる人々の明るさを見て明日の大漁を願う -- (名無しさん) 2013-10-04 23:54:39
  • ダイナミック!緊張感のある捕鯨シーンでした。でも鬼の漁師って泳げるんです?沈むんです? -- (名無しさん) 2014-05-07 22:49:38
  • 鬼達の糧を得るための命をかけた漁のなんと熱いことか。容易いことではない。 -- (名無しさん) 2014-06-15 18:52:24
  • 命を得るには命を懸けるシンプルでダイナミックだ -- (名無しさん) 2014-07-18 22:59:21
  • 異世界のスケールと気迫が伝わってくる豪快さ -- (名無しさん) 2014-08-22 20:17:02
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最終更新:2013年10月04日 23:52