比技とは、主に芸能の技巧を競うことをいう。
一口に比技といっても、そのやり方はさまざまである。お題に沿った詩句を交互に即興で歌い上げる闘句や、互いの周りを回りながら舞う双旋競舞のように技そのものを見せ合って競うこともあり、展覧会を開いて客を集め、衆の評価を問う形式もあれば、すでに存在する作品と同じ主題や手法で作品を作り上げることで、既存の作品に挑戦するというやり方もある。競うということを前面に押し出さず、いわゆる共作を行うことも比技の一種とされる。相手の技を知るには、ともに何かを作り上げることが最短の道だというわけである。
比技はきわめて一般的な行為であって、大延国の民はこれに良く親しむ。子らの遊びとして絵の描き比べは一般的であるし、酔漢が酒場で気ままに声を張り上げれば、これをうるさがった他の飲客が闘句を仕掛けて相手を黙らせようとすることもよくみられる光景である。笛や琴を嗜むものたちが集まれば、だれが一番かということで比技が始まる。流れる曲に合わせて人々が体を動かし始めることもあり、このようにして複数の比技が同時に発生することも自然である。
こうした複数の比技を同時に行うことが先鋭化した例として六合奏彩がある。だが六合奏彩について語るためには、作詩の比技である列書にかんする知識が欠かせない。そこで、ここではまず列書について触れる。
列書とは、いわば躍書を用いた作詩競争である。穏やかに進行することの多い比技の中では珍しく、厳しい時間制限を設けて勝負色を全面に押し出した形式である。その内容を大まかに言えば、躍字をどんどん並べることとなる。
列書を行うためには、まず審判と、時間を計るための道具、それに躍字を書くための道具を用意しなければならない。このうち最後にかんしては、未熟なものは版や筆などを用いることを許されるが、技量が高まればより変わった道具を使うことが求められるようになっていく。例としては壷に入った墨や袋いっぱいの砂、火炎や凝光・凝闇などの流体、素手などである。
準備が整えば、勝負が始まる。審判が無作為に選んだ、あるいは今回の勝負にふさわしいとみなされた一文字を題として選び、勝負の参加者に提示する。参加者の人数に制限はなく、全員が同時に勝負に参加することが許されている。
題字が示されると、参加者たちはその文字に続けるにふさわしい文字を素早く選びだして提示する。複数が同時に提示された場合は、よりふさわしいものが自然と選ばれる。選ばれた文字は即座に題字の下へ並べられ、これが新たな題字となる。新しい題字の次に並ぶ文字が提示され、そしてまた次の題字となる。こうしたことが、並べられた文字が一定の文字数に達するか、制限時間を過ぎるかするまで続けられる。最終的に一くさりの躍文が作り出され、これを審判が審査し、勝者を決定することとなる。
さて、これまで述べた列書のやり方には、「ある文字の次に並べるにふさわしい文字とふさわしくない文字とをどうやって見分けるのか?」という記述が抜け落ちていることに気付かれた読者も多いだろう。実際に、字を並べるには複雑な決まりがある。そしてこれこそ、列書の初学者たちを最も悩ませてきた問題に他ならない。これを理解するためには、延詩の特徴、わけても躍字によって書かれる真律詩について知ることが不可欠である。
大延国の真律詩は、地球における漢詩と同様、多分に技巧的な側面を持っている。
漢詩にはさまざまな規則がある。文字数に始まり、押韻や対句、歌い上げたときの韻律などのさまざまな要請から、漢詩では用いる文字を吟味することが要求される。詩人は文字について深く学び、詩句集と呼ばれる字典を携えて詩作に当たる。詩句集は、漢詩で用いる句の集積からなっている。詩作は込み入った作業であり、字典の助けを得て初めて可能になるといっていいほどである。
大延国の真律詩もまた、同様の事情を帯びている。より厳しいといってよいだろう。何しろ真律詩には漢詩のように人が定めたもののみならず、文字そのものの性質に拠る規則まで存在するからだ。躍字の驚くべき性質が、詩作にも影響を及ぼしているのである。
具体的な規則の一例を挙げれば、文字と文字の相性というものがある。ある文字に近づけてよい文字と、離しておくべき文字とが存在するのだ。この禁を破った時に起きる出来事はさまざまである。多くの場合、躍字たちは自ら動いてお互いの距離をとろうとするだろう。文字が列からはみ出し、あるいは紙の上から逃げ出してしまうというわけである。あるいは、近づけ過ぎてはならない文字の場合、二つの文字は互いに融合して新たな文字となってしまうこともあるだろう。こうして生まれた新たな文字が更に周りの文字と相互作用を起こせば、文書が連鎖的に変化し、あるいは消滅してしまうことさえある。いずれにせよ、詩文としては役に立たなくなってしまうのである。規則には他にもいわゆる同種の文字を用いぬようにする食合や、不吉な意味を宿した文字を避ける忌字構などがあるが、ここでは詳しく触れない。
こうした躍字の性質を加味した上で各種の制限を受けながら詩情を歌い上げるというのだから、真律詩の難しさが計り知れるだろう。そんなただでさえ困難な真律詩を、複数の人間によって即興で作り上げるのがほかならぬ列書なのである。生半可な腕前では一文字も寄与することの出来ないまま終わりを迎えてしまうことだろう。真の教養人だけが、列書を行うことができるのである。
列書はきわめて高い技能を必要とする高度な遊びでであるが、そんな列書を主軸として更に歌舞音曲や舞踊、絵画など複数の芸能を組み合わせて演劇の要素をも取り入れた技法が存在する。これを六合奏彩という。
基本的には列書と同様の準備が必要とされる。加えて、楽器や歌唱者の一団をはべらせ、演者もまた華美な衣に身を包むことが多い。演技を行う場所も入念に選ばれる。池に浮かべた小船や燃え盛る松明など、精霊をひきつける仕掛けを用意することも欠かせない。これは、六合奏彩は上位の精霊を使役するために行われることが多いためである。
準備が整うと、演者たちは列書を開始する。文字を書くために用いられる道具としては光精が最も尊ばれる。光を自在に操って詩句を虚空に書き連ねながら、演者たちは声を合わせて詩句を歌い上げる。伴奏を用いることもあれば、演者自らが弦を爪弾くこともある。ただ字を書くだけではなく、旋舞を行うこともよしとされる。風精の助けを借りて縦横に飛び回り、あるいは土精や水精などをあたりに配してともに踊るのである。こうして描かれた躍字による詩句は虚空に刻み込まれて光り輝き、みるものに主題を深く訴えかける。好まれる主題としては、景観の美しさや時の無常さなどが多い。
音と光、動作と詩句とが一体となって調和し、あたりに第二の現実を描き出す。これこそ、六合奏彩の精髄である。
史上に行われた六合奏彩の例としては、大オウテンが陸州で行った『断灰』がある。陸州を流れる灰河はたびたび氾濫を起こし、民は対応に苦慮していた。そこでオウテンは弟子とともに六合奏彩を執り行い、灰河の河伯をたたえる作品を歌い上げて付近の大岩に刻み込んだ。以来、灰河は水害を起こすこともなく、陸州における主要な水上交通路として利用されるようになった。岩に刻み込まれた詩句は現在でも残っており、通りかかる人々に自らの意味を訴えかけている。面白いのはその主題である。オウテンは『大都の酒場にツケがある』という、灰河とは全く関係のない主題を選んでいる。その上で、後からとってつけたように詠まれた肝心の灰河の名前すら何箇所も間違えているのだ。これで河伯が満足したというのも余人には理解しがたいことであるが、豪放な人柄と作風で評価の分かれる大オウテンのこと、無関係に見える詩句にも何かしら意味が潜んでいるのかもしれない。興味のある方は、一度灰河を訪れてみることをお薦めする。
大延国における芸能とは、人心を楽しませるというだけではなく、精霊や神をもてなすという重要な役割を帯びている。歌舞音曲によって精霊の注意をひきつけ、あるいは何かの願い事をするその代償として精霊をたたえる詩句や絵を捧げるなどといったことである。その頂点たる六合奏彩の使い手ともなれば、嵐を呼び起こし海を割ることも可能となる。優れた芸術家は、潜在的に強大な精霊使いとしての資質も備えているのだ。それゆえに、偉大な芸術家は尊敬を集め、手厚く保護される。優れた芸術家を後援することはきわめて名誉な事でもあり、高貴なものの義務でもある。
比技とは、そうした才能を発掘する為の手段であり、互いに研鑽を積むための道でもあるのだ。
(了)
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- 競い合うだけではないというのが興味わく。個の技を越えて全の技を押し上げていくような。芸能でも力を持つとその扱われ方も地球とは違ってくる納得 -- (名無しさん) 2014-07-18 21:45:36
- 異世界とそこに漂う力が芸能芸術を一つ二つ上に位置付けているのがよく分かりますね。子供でも誰でもその道に秀でる可能性があるというのは勉学の励みになりそうです -- (名無しさん) 2014-07-20 17:18:44
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最終更新:2012年05月09日 23:39