若き延の皇帝がうんざりとした顔で判子を押し続けている。彼の仕事は精霊といちゃつくことだけではないのだ。
(なーんで、こんな仕事までしなきゃならんかなあ。だったら判子押す速度で皇帝決めりゃあいいのに)
この若き皇帝、内容をまったく吟味していない。右にある判子ナシの巻き物を判子アリに変えて、左に積んでいるだけだ。
臣下を信頼していると好意的にとることも出来ようが、実のところ今現在隣に立って狸人の役職と名前すら把握していなかった。
皇帝が「疲れた」と机に突っ伏した。
最高級の木材で出来たそれはつるつると心地よく、耳がぴくぴくと動く。
「なあなあ、もう止めにしよう。そろそろ、奥で遊びたくなったんだよ」
机の横に巻物を持って立つ狸人に皇帝が声をかけた。
その狸人は老年を迎えて、体毛は白く色が抜けていた。壮麗な服装は内侍の官職をあらわしている。
長く伸びたアゴの体毛を撫でながら、内侍は答えた。
「いやさ、まだまだ終わりませぬぞ。と申したいとろですが、それもまた重要な仕事でありますがゆえ、
ふむふむ、ならばこの一つを最後に今日は終わりとしましょうか」
「おおっ、話が分かる奴だな!褒めてやるぞ!」
内侍は差し出す巻物を、皇帝は喜色を浮かべて受け取った。
(最後だし、たまには中身を読んでやってもいいかな)
そんなことを思いながら気分よく巻物を開く。小難しい文が並んでいるが、これでも皇族の教育を受けている。
わりかし難なく読み解いて、困ったように呟く。
「楽州における水害の認可か……」
「ええ、気が溜まっているようでして」
「人が、多く死ぬのか」
「避難の準備は整っておりますゆえ」
「絶対大丈夫なんだな?」
「万の努力を尽くしましょう」
「大丈夫だとは言ってくれないのだな」
「嘘は許されませんからなあ」
「……押さないことにしたぞ。文句はないな?これまで全部通したんだから、一つくらい構わんだろうさ」
内侍は深々と頭を垂れた。
「もちろんで御座います。陛下のお言葉に逆らうものがどこにいましょうか。
しかし、水霊どもは如何しましょうか。臣一同微力を尽くす所存ですが、陛下のご意見を拝聴したく」
「そこの水霊とは悪い仲ではない。俺が言えば、しばらくは待ってくれるはずだ」
「慈愛帝の故事を御存じでしょうか?」
「………………」
「彼の帝は民に限りなく優しいお方でした。災害にひどく心を痛め、すべての精霊を御自ら押さえられました。
御治世においては天地の恵み限りなく慈愛帝と讃えられました。
しかし―――――」
皇帝が口を挟んだ。
「―――――崩御とともに爆発したんだろ、鬱憤が。もういい。わかった」
「では?」
皇帝は憂鬱そうに印をつまみ上げる。
「認可する。
――ああ、くそ。やっぱ読むんじゃあなかった」
「それもまた、よろしいかと」
「いいや、読むぞ。隅々まで読んでやる。何も知らない俺は何も言えなかったが。 次からは、違う。
覚悟しろ、少しでも不備や不満があったら罵倒をあびせるからな」
「ほっほっほ。それはそれはお怖いことを。 臣一同気を引き締めませんとなあ」
「あいつらが奴隷か敵か、いっそ意思がなければ気は楽だったんだがな」
「ええ、同胞や家族とも、とてもとても。
最善でも、せいぜいは優しくも我が儘な恋人といったところでしょうなあ」
皇帝は立ち上がり鈴を鳴らした。扉が開く。
「……俺はもう奥に行くぞ」
「陛下、風精の方々がさびしそうにしておられましたよ」
皇帝は振り向かず。
「わざとだ。
色恋ごとにまで忠言を与えるつもりなら、百年は研鑽を積んでおけ」
「ほっほっほ、これは失敬失敬」
内侍は楽しそうに笑って、頭を深く垂れた。
- 絵に描いたような政務に飽く皇帝がいるというのが逆に安心しましたがしっかりと器の大きさを見せてくれました。優秀な皇帝には有能な臣下がいるものですね -- (名無しさん) 2014-10-05 18:24:00
最終更新:2012年07月17日 16:10