【海を見に行く】

旅籠、飯屋に、土産屋、娼館。たれの煙と、うねる喧騒。
お泊りやす、いらっしゃい、お泊りやす、美味しいえ、人を寄せよと鈴が鳴る。
海パン、サンダル、首には財布、肌はいまだに小麦に遠く、男が一人歩きゆく。
看板娘の数多を越えて、たどり着いたは砂浜で。
踏みしめればキュと鳴いて、ああ、目の前の青色が。

「海だーー!」

男は叫んだ。叫ぶともさ。
聞けよ、さざ波。嗅げよ、潮風。
海だ。海なのだ。この大きくも美しく、空に似て、空よりもずっと近い。
母なる海だ。男ならば興奮しないはずがない。
しかも!
この海は、母なる海ではない。
異世界の海だ。他人の母だ。人妻の海だ。
男ならば興奮しないはずがない。
「ひゃっはーーー!海だーー!」

全力ダッシュ。砂に、足を取られながらも。
バシャバシャと全力ダッシュ。しかし水が速度を許さない。
もどかしくも楽しそうに、男は進む。
バシャンっ!
転んだ。

「ぼごばーーゎ゛ー!」

身を引き締める冷たさに男は喜んだ。
肩が浸かるところまで歩くより、転んだほうが手っ取り早い。
水中で叫んだ声は、泡になって溶けていく。

「ぼごばっ!ぼごばっ!海だっ!………おや?」

水中にもかかわらず言葉が透き通るように放つことが出来ていた。

「あー、あー、……すぅ。……?」

首を傾げる男の前に、獣面魚が現れた。

『テンションたけーな!』

水の気配が色濃い。水の精霊に違いない。
そしてこの不思議な現象も水の精の仕業だろう。
無駄なテンションの高さが、水の精を喚んだのだ。

「おお!?呼吸が出来る!すげー!深海行こう!」

気付きと共にノータイムで全力で男は泳ぎはじめた。
精霊をかえりみることもない。男は海しか見ていなかった。

『思い切りいいなおい!?って、そこの兄さん!待ってくんな!俺から離れたらやばいっつーの!』

「おーけー了解!ついて来いよー!ピリオドの向こう側までな!」

『うひゃあ!?異人さんってのはわけわかんねー!?』

「ハハハ!海だー!海だぞー!」

グイグイと進む。進む。
水の精は突き放され置いていかれるかに見えたがそこはそれ。
そこに水はあり、精神だけの速度で進み、水を形作ればあっと言う前に隣にいる。
そしてついでに男を加速。理由は特にない。

「ハハハハ!波が来ている!来ているぞ!」

進んで進んで、ついたところは珊瑚礁。
赤白黄色と鮮やかで、ごつごつつるつる多彩な突起。
見惚れ止まるも、無理はない。

「おお…、おお……!ここまで綺麗なものを見たのは初めてのよーな気が!」

『確かに綺麗だなー。俺もこんなん初めて見たわ』

「水の精なら、珍しいもんじゃないんじゃねーの!?」

ここに、初めて会話が成立した。
異世界交流とは、甚だ難しいものである。

『かもしれんが宵越しの記憶を持たねえのが、ミズハの精の心意気ってもんよ』

この発言は嘘ではないが根拠もない。
先日の記憶を持ってないこの精霊がテキトーに思いついたのだ。
真実かもしれない、今朝うまれただけかもしれない。真実はいつも海の底に沈んでいる。

「粋すぎてついけねー。ハハハ!」

男は、一息溜めた。

「よし!昼寝しよう!」

『なんでー、昼寝で一日を潰す気か?』

「なんかいい夢見れそうだろ!?」

『まぁ待てよ、落ち着け。寝顔見てるだけなんて、俺飽きるぞ。お前死ぬぞ』

「ハハハ、夢に命賭けらんねー男なんていねーし!じゃあ、グッナイ」

瞬眠。いびきも聞こえぬ。
水の精は、見捨てるかどうか悩んでいるが、ついに一つの結論を出した。



男の意識が浮上する。
うすらうすらと瞳が開く。
一声。

「どこよここー!?」

ハハハ、愉快な顔だ。ほどよく驚愕に歪んでおるわ。

『くはははははは、いい顔だ!寝てる間に深海に連れてきてやった!驚けい!』

頭上に、水面がない。そう、ここは深海だ。
さざ波は当然のように遠近法に塗りつぶされる。
大波うねりの生み出す陽光の屈折も遠すぎる。
海だ。どこまでも海だ。

「マジで!?やったー!ありがとうっ!!」

『え、あ、おお……。礼にはおよばねーよ……』

「でも深海というには、…………明るかないか?」

確かに水上が想像できないほど深いが、どうにも"深海"という雰囲気ではない。
見ろ、なんとも言えない明るさが茫とあたりを照らしている。
海底にはほら、海草たちが草原にも似て。
適度に愉快な海の仲間たちが遊んでいるじゃないか。

『闇の精でそまってねーからなー』

そうだ、異世界において天の星々だけが有力な自然光ではない。
光の精のあるところ、光が生まれるのだ。
また逆に、闇の精の元に影が蠢き、はたまた、火の精の元には熱がある。
水は虚空から湧き出し、そこかしこに鉱石が生まれ、流れは何がなくとも流れ出す。

「よくわからんが、見やすいことはいいことだ!さあ、いこう!」

『ん、帰んのか。送っていくぞ』

「ハハハ、何を馬鹿な。観光は始まったばかりだ!」

『元気なやっちゃなー。まあ、いいけどよ!』


  • 終始テンションの高さに笑う。 冒頭の歌のような言い回しの向こうに海が見えた -- (名無しさん) 2012-08-12 19:55:39
  • 「異世界交流とは、甚だ難しいものである。 」に思わずお前が言うか!と突っ込んでしまいました。主人公のテンションに釣られて水精霊さんも終始ノリノリ -- (名無しさん) 2012-08-13 16:43:29
  • 獣面魚から離れ過ぎると男はどざえもんになるよねこれ。精霊が何故その姿をしているのかも気になったところ -- (としあき) 2012-08-14 08:56:00
  • 何このシーマンよりもおぞましくもお茶目な何か -- (名無しさん) 2012-08-21 02:24:45
  • 海の表現がテンション上がっているそのままで楽しい。人それぞれ人によってはこんな観光模様になったりもするんだろうなと異世界の海の中を思い浮かべながら感じました -- (名無しさん) 2014-11-16 19:06:16
  • 記憶のない精霊というのがなんとも新鮮な驚きだ。向こう見ずな者を見捨てない精霊のやさしさを感じる -- (名無しさん) 2016-11-01 22:01:05
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最終更新:2012年08月12日 19:54