【四階、五法、六象】

 およそ地球と異世界の違いは数多いといえども、物理的な現象の振る舞いほど異なるものもないだろう。
 地球の物理現象は厳密な法則に従っている。だが異世界ではそうではない。風が吹く、火が燃えるといった物理現象は、精霊という存在によって引き起こされている。精霊は地・水・火・風・光・闇の六種に分けられ、それぞれが自我をもち、時には知性を具え、異世界の住民の一角を占めている。人間たちとコミュニケーションをとることすら全く珍しくない。
 こうした精霊たちの力を借りることによって、人は自然現象を意のままに操ることができる。これを精霊魔法という。異世界で魔法といえば主に精霊魔法を指す。精霊魔法には海を割ったり大地を揺るがしたりと言った大掛かりなものから、洗濯物に風をはらませたり、光によって暗いところを照らしたりといった日常的な用法までさまざまなものがある。精霊魔法は異世界の生活に深く根を張っており、誰もが精霊魔法に親しんでいる。
 こうした精霊魔法のありようは国や地域によって大きく異なるが、その中でも特異的な発展を遂げたのは大延国である。大延国では国家が精霊魔法の技法を学問として整理しているのだ。
 大延国が国家として精霊魔法を研究している理由は、国の仕組みを知ればおのずと明らかになる。
 大延国の頂点に立つのは皇帝である。皇帝は、その権威を二つのものに負っている。一つは主神である金羅の神威、そしてもう一つは、力ある大精霊たちから受ける信任である。皇帝がその地位に就くにあたっては、精霊宮に住まう多くの大精霊たちから支持を取り付けなくてはならない。こうした支持こそは、皇帝が天地を安らかに保ち、万が一天変地異が起きた時にはそれを沈める能力をもっていることを保障するものである。この能力が故に、皇帝は皇帝足りうる。皇帝になるということは、大延国における全ての自然現象に責任を持つということでもあるのだ。それゆえに、皇帝は自らの国土をより確実に制御するため、精霊について学ぼうとする。皇帝の元で、国土を維持管理する職務に就くものたちもまた同様である。
 また、国による精霊魔法の研究が進んだことには、もう一つの理由がある。それは六合霊皇の存在である。
 六合霊皇はかつて金羅の子として生まれ、比類なき精霊魔法の力をその身に宿して皇帝の地位に就いた。その能力は留まるところを知らず、精霊を完全に意のままにして操るどころか、精霊の意思を奪い取って傀儡とする段階にまで及んでいた。六合霊皇の死後、服従させられていた精霊たちは解き放たれ、人間に対する不信をあらわにした。拡張に継ぐ拡張で荒廃した社会や政治に加えて、自然現象までもが大いに混乱したため、この時代は延の歴史における最初の暗黒時代として記録されている。
 こうした状況を収拾するために求められたのが、精霊との正しい付き合い方であった。精霊を尊重し、しかも人間には害をなさないようなだめ、あるいは相手を怒らせることなく力を借りる術の有用性はこの上なく意識された。天地を正し、人々を安んじる優れた精霊魔法の使い手に延はすぐさま注目し、国家としてこれらを抱え込んで国の再建に役立てようとしたのである。
 このことが、現在の精霊魔法研究の根底となっている。そしてこうした研究の集大成が、『四階』、『五法』、『六象』という通称『三書』に代表される、完成の精霊魔法書である。
 『三書』はいずれもカクフによって、第一縮小期の中ごろに著された書である。六合霊皇崩御の直後という混乱期に書かれていながら、これらの書は延国における精霊魔法研究の礎となり、今に至るまでも並び立つもののない名著である。以下に、それぞれの具体的な内容について触れる。


 『四階』は、精霊と親しみを深めるその段階を四つに分けることを教える。すなわち、戯、術、功、道である。
 「戯」とは精霊の力を借りる最も簡単なやり方のことを指す。この段階では、精霊がこちらのためになることをしてくれるかどうかは保障されない。精霊がこちらに興味を示しそうな状況を整えて、面白がった精霊が働いてくれることを期待するのである。具体的な例の一つとして、『四階』では物干し竿に下げる鈴が挙げられている。鈴の音は風霊を呼び寄せ、物干し竿の周りで精霊を躍らせる効果を持っている。こうして風が巻き起こり、それが再び鈴を鳴らして更なる風霊たちを招きよせる。これによって、洗濯物が乾きやすくなるという工夫である。もう一つの例として挙げられているのが水車である。ポテンシャルエネルギーを利用して仕事を取り出す地球とは違い、異世界の水車は水霊が押してくれなければたとえ流れの中にあっても動くことはないのだ。水霊の興味を引くため、大延国の人々は水車に装飾を施す。その多くは、側面に尖った針のような模様を無数に刻むという形で行われる。このトゲに水霊が体をこすり付けて遊ぶことによって水車をも押すことを期待しているのである。こうした精霊戯は、庶民の知恵と言う形で人々の間に伝えられていたものが多く含まれている。
 「戯」から一段階進めば「術」となる。術は精霊に何かをしろと命じることで行われる。水を断ち割り、光をともし、大地を揺さぶるといった、いわゆる魔法らしい魔法が術に当たる。術者と精霊との間にどの程度の信頼関係が築き上げられているかによって出来ることは大きく異なる。多くの場合、精霊たちに働いてもらうための代償はただではない。その内容は物品や術者の奉仕といったものから、歌舞音曲などによる賞賛、時に人間には理解不能な行動を取るように要求することから、文書による契約などで精霊を縛るもの、言葉巧みに精霊を騙す方法まであり、精霊によってさまざまである。『四階』ではこれらの例のほかにもいくつかの事例を挙げており、中には精霊との婚儀を通じて術を行使した例も収録されている。精霊は人とは成り立ちを異にする存在であるが、相通じることは決して不可能ではないということだろう。
 だが「功」ともなると、こうした精霊との契約はとたんに意味を成さなくなる。もはや精霊を縛り、あるいは命じることはなくなるからである。精霊使いと精霊の目指すところは完全に一致し、まるで一体となったかのように魔法を行使し始める。指示を下すに当たっては言葉や動作すら必要がなくなり、精霊との表立った意思疎通すら鳴りを潜める。面白いのは、功の段階にいたる事で、行使することが不可能になる魔法が存在することである。こうした魔法は水を石のように固めたり、燃えるものの無いところで火を生じさせるといった、精霊の得意としないことを無理やり行わせる類の行為であることが多い。功を修めた使い手は、精霊のなすところに逆らおうという考えそのものを失っていくのだ。
 「道」を極めた者は大延国の歴史を通じても稀であり、『四階』にも記述は少ない。道に踏み入った術者は自らの意志を失って自然に解けていくとも、はたまた精霊を支配する生きた理そのものと化すとも、単に精霊そのものとの合一を見るというだけであるとも言われている。とかくこの「道」に関わる記述は曖昧である。
 全体を通してみると、「戯」や「術」では非常に記述が詳しくまた事例も豊富で、特に精霊戯などは当時の生活習慣の記録としても優れた価値がある。一方で、後半になると具体性は薄れ、抽象的な思索や神秘学めいた根拠に乏しい推論などに多くの頁が割かれている。これは、精霊功や精霊道を実際に極めたとされる人間は歴史を通じても希少であり、またそうした術者が記録を残していなかったために、他者による研究が難しかったことなどが理由として挙げられるだろう。折り悪しいことに、当時はいわゆる第一縮小期と呼ばれる時代であり、すなわち南蛮の反攻や大躍字の消失などによって多くの記録が散逸の憂き目にあった時期である。そうした中で、あやふやな伝承を頼りに著述を進めなくてはならなかったカクフの苦労が忍ばれる。



 『五法』は、精霊魔法の技法を大きく五つに分類し、それぞれについて、より細かな技法を記述する書である。
 特筆すべきは、本書はすでに存在する技法をまとめたものではないという点である。『五法』はまず始めにいくつかの公理を設定し、そこから出発して精霊魔法とは何かという理論を組み立てていく。そうした理論の帰結として、このようなものが存在するはずだという精霊魔法が導き出されるのである。これはきわめて異彩を放っている特徴であり、『四階』および後述する『六象』と大きく異なる点である。
 『五法』の提示する精霊魔法の技法とは、すなわち「招」「散」「観」「易」「導」の五つである。それぞれ、精霊を招き寄せることによって対応する現象を引き起こす技、逆に精霊を追い払うことによって現象を消滅あるいは停止せしめる技、精霊を通じて自然のありようを知覚する技、精霊の気質を変質せしめる技、精霊に命令を下して自然を操作する技を指している。
 こうした五つの技法それぞれが六種の精霊と組み合わされることにより、たとえば大地の精霊を招きよせる「招地」や、水霊を追い散らす「散水」といった応対が生じる。こうした応対の一つ一つについて、更に具体的な技法が挙げられ、それぞれが命名されていく。火精に働きかけて炎を大きく育てる導火・と言った具合である。こうした技法にはそれぞれ、躍字による名前が与えられている。
 それぞれの技法が導出されるに当たっては、もちろんただ天下りに結論が下されるわけではなく、非常に長大な推論が行われる。だが実のところ、こうした推論はきわめて難解であり、それどころか論理が破綻していたり矛盾をきたしていたりすることも少なくない。意味不明な術語がつぎつぎに飛び出し、前後のつながりもあいまいなまま一足飛びに結論に至り、全く無関係に見える話題が挿入されと言った具合に、論理を旨とする文書としては不適格な要素があふれかえっているのである。それゆえに、推論の部分は無意味であるとする学派もかつては存在し、『五法』自体が精霊魔法の技法書としてふさわしくないとして放逐された時代もあったのである。
 だが現在では、こうした『五法』の推論部分の価値は見直されている。そのきっかけとなったのが、『五法』が予言していた「易風・凝」という魔法の発見である。
 「易風・凝」とは、精霊を完全に変質させる技法の中でも最も強力な、精霊の持つ性質を完全に変えてしまう技法の一つであり、大気をそのまま固体化せしめるという効果であった。この技法は『五法』に記述されてはいたが、実際に行使できたものはおらず、対応する技法は実在しないものとみなされていた。『五法』の対称性を確保するために挿入されたダミーだと考えられてきたのである。だが、第代皇帝にして白王であったロウムはこの技法に挑戦し、苦心の果てに風の精霊をつなぎとめてレンガ状の固体とすることに成功した。こうした技法は転変を喜びとする風の性に明らかに逆らうものであったが、実際にはきわめて高い安定性を持ち、ロウムはこうした風のレンガを用いて空中に浮かぶ透明な楼閣を建造することにまで成功したという。ロウムの死後、この空中宮殿は所在が分からなくなったが、現在でも延国では空から透明な塊が降ってくる事例が何年かに一度の割合で発生している。余談ではあるが、ロウムによって空中宮殿に多数運び込まれたという美術品の噂とあいまって、空中宮殿を探索しようという試みは今でも続けられている。盤下宝脈伝説や緑狸公の隠し財産などと同様に、大延国に数多く伝わる宝物譚の一つである。
 さて、このエピソードで重要なのは『五法』がその存在を予言していた技法が実在したという点である。かつて無意味なたわごとと考えられてきた『五法』の推論部分は、実際にはきわめて複雑な原理を記述しようとした努力の結果かもしれないという可能性がでてきたのだ。
 こうした可能性を後押しするのが、『五法』を著すに当たってカクフが行ったとされる躍字『乾』への潜書である。この時カクフは実に半月もの間ぶっ通しで潜書を行い、自然の内奥に踏み入ってその根本を掴んだとされている。一般に、異世界の物理現象をつかさどる精霊たちは移り気ではあるが、その行動にはある程度の法則性が見られる。カクフはこの背景に何らかの根本原理があるという仮説をたて、躍字『乾』への潜書によってその仮説を立証しうる何らかの証拠を掴んだのだという点においては、後世の学者の多くが支持するところである。
 現在でも、『五法』の推論部分を解読する作業はいまだ多くを残している。各種の躍字を取り扱う簡林院では、日々の潜書によって『五法』の記述を支持するような証拠の探索が休むことなく行われている。こうした作業は専門の潜書官と一流の精霊使いたちで作る集団によって行われており、特に大都簡林院では各地から集まった英才たちがその知性を存分に発揮して精霊魔法の探究に努めているのだ。


 『六象』の六とは精霊六種、すなわち地精、水精、火精、風精、光精、闇精を意味し、象は現象を意味する。六象が記述するのは、自然現象と精霊たちの対応関係であり、その実像は自然に関する記述を満載した百科事典の形を取る。
 カクフの『六象』にかけた執念は偏執的と呼んで一向に差し支えない。『四階』や『五法』も決して寡巻の書ではないが、『六象』の大著ぶりはそれらをはるかに越えている。それもそのはずで、『六象』が目指したのは大延国のありとあらゆる事柄を記述することだったからである。
 たとえば、「水」という項目には水がいかなるものかと言う定性的記述を振り出しとして、全土の河や池沼の名前と周辺地域の情報、そこに住まう精霊の名を一つ一つ挙げていく。もし河に支流があれば支流ごとに頁が分けられ、そこに生き物が生息していればその種類を網羅して更に頁が分かたれる。河の記述が終われば、次はそれらの水利に与る街の記述が続いて更に頁が割かれ、その街に伝わる水車の模様について一つの巻が費やされる。万事がこの調子である。こうした体裁を取ったのは、当時発生していた歴史的資料の散逸に悩まされていたカクフが、後世のために可能な限り情報を集積して残そうと努力した結果であると推測されている。
 このような『六象』の持つ情報量は恐るべきものがあるが、全体の見通しはきわめて劣悪といわざるを得ず、また記述のなかには年月を経て陳腐化するものも少なくなかった。このため、『六象』には多くの注釈書や抄訳版が作り出された。こうした書の中でも現代に至るまで用いられているのがリコウの『六象要訣』である。リコウは長大な『六象』の内容からあくまで精霊や自然現象の性質に関する記述を抜き出すだけにとどめ、加えて『四階』や『五法』との内容の応対に対して考察を加えている。無秩序な情報の塊と言った感のある『六象』を体系的にまとめた名著として、初学者から熟達者に至るまで人気の高い書である。



 これら三書は、大延国における精霊魔法使いの必須教養として重視されている。多くのものは『四階』から入り、『五法』、『六象』と進むにつれて専門性が高まる。特に『四階』などは村の寺子屋などでも教えられ、人々が精霊と接する際の基礎知識として浸透している。より詳しい学問を求めるものは私塾に通い、あるいは師匠に弟子入りするなどして本格的な知識を身につけていく。精霊魔法には実践が大きな要素として重視されるが、一方で知識が軽視されることもない。特に科挙や、その合格後に役人として働くことになる者は、精霊に親しんで魔法を自在に操ることはもちろん、三書への精通も要求されるのである。より専門的な研究は簡林院や大学、六部の持つ研究機関などで行われ、皇帝の元には毎年の研究成果が提示される。また、歌舞や音曲などによって精霊たちの機嫌を取る精霊魔法使いとて、三書に無縁ではない。『四階』や『六象』には、精霊と相通じるためのやり方としてそれらの芸も記載されているためである。
 こうした書の存在と浸透によって、大延国の民は特に精霊に親しみ、自然の恵みを享受して豊かな暮らしを営んでいる。大延国の民は、互いをよく知ることこそが相異なる二者の間を取り持つ最良の方法であると知悉しているのである。

(了)

 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
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  • 凄いのは語っている内容が現実にあると確信させちゃう説得力だと思った -- (としあき) 2012-09-01 01:58:48
  • 精霊と人との関係と性質が段階的に説明しているだけでなく、他歴史人物の話を絡めているのが単調にならずに面白い! -- (名無しさん) 2013-03-15 23:51:06
  • 精霊を住民と見るか自然の一部と見るかは付き合う上で大きく作用しそうですね。決して順風満帆だったとは言えない大延国の歴史の中で様々な思いで精霊と接し人自らが納得するために作った理とも思えますが最後民にとって親しみを以ってと結実するのが大延国らしくていいですね -- (名無しさん) 2014-12-21 18:10:52
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最終更新:2012年08月29日 23:19