――この異世界の風の気紛れさは地球のそれの比ではない。
風の精の意のままであるから、わずか1m四方の中で上下左右編目のような突風があることすら珍しくはない。
ゆえに風を読むことなど不可能。特にこのような長距離のものならば。
だからこそ、古今東西の弓者は言う。
美しくあれ、と。
―――――――以上、クマ出版『すっぱりわかる!めくるめく異世界の技術:武術編』より
晴天。
草原は明々と風に揺れ、ざわざわと人々の熱気が場を覆う。
周囲のお祭り騒ぎと雰囲気が反転した一角があった。
氷のように冷たいような、じわじわと熱が籠もるような、そんな沈黙が場を満たしている。
栗毛の
ケンタウロスの男――フリーダは、深呼吸をする。
手に馴染む黒弓をみて、フリーダは改めて思う。
なんて素晴らしい弓なんだろうか。
夜を固めたような黒色。金属のようななめらかさ。それでいて手にきゅっと吸い付き汗ですべらない。
しなやかさも類をみない、Uの字に折り曲げたとしても折れることはないように思える。
弦の美しさも筆舌につくしがたい。
ただ一本の弦は不思議なほどの強さを秘め、ほつれはどこにも見当たらない。
そして、この軽さはなんだろう。ほとんど筆と同じくらいじゃないか。
――ああ、まったくもって、分相応でない弓だ。
これを手渡されたとき、妹はどんな顔をしていただろうか。
弓に目を奪われ、まったく記憶にないのが恥ずかしい。
『族長に好意で貸していただきました。兄様は、心配なさらなくても大丈夫ですよ』
タダで貸してくれるものじゃないのは分かっている。
妹が、重圧をかけないように嘘をついたのはわかっている。
わからないなんて思ってるのは、あのどこか抜けた妹だけだ。
ああ、勝たなくてはならない。そうでなくては、全てを失ってしまうだろう。
「そろそろお前の出番だ、フリーダ」
そう声をかけたのは蒼毛の偉丈夫、アィグだ。
「ああ、分かった」
フリーダは、黒弓を持ち矢筒を背負う。
アィグはさの黒弓を見て何か言おうとし、止めて、改めて口を開いた。
「容赦はせんぞ」
「手を抜いて見ろ、お前の首に狙いをつけてやる」
フリーダは笑った。
フリーダはついに舞台に昇った。
観客は沈黙をもって見つめている。
草原の風はいつものように気ままだ。
五つの的は遠い。豆粒のように小さい。
始まりの位置につく。走りの終わりは六百ヤードほど先にある。
走り出したら止まることは許されない。
百ヤードほど進むごとに矢を放つことになっている。
フリーダは喝と一声気合いを入れて、駆けだした。
この戦いにおいて最大の敵は、自らのブレだ。
疾走に揺れる。呼吸に揺れる。鼓動に揺れる。
しかしどれも止めるわけにはいかない。
だから、束ねる。誤差にしない。
常には無理が出る。束ねるのは射撃の一瞬。
駆け、駆け、駆け、──四足が地を離れた瞬間。
まさに鼓動も呼吸もともに跳ね、すべてが空中の頂点の刹那において静止。
矢が放たれた。
横風に煽られることはない。
なぜか。
その姿に焦りはなかった。停滞はなかった。ウォンと弦がうなる。
まさしく型を一分たりとも外れることなく、流れるように矢は飛んだ。
真なるものは美しく、美しさに精霊は惚ける。
無風が生まれた。
感嘆の静寂の中、矢は右斜め上に飛び立つ、
親指に弾かれたときのわずかなうねりが矢に適切なしねりと回転を与え、
ぬめるように弧を描き、吸い込まれるように的の天頂へと向かい、
中たる。
それを確認することもなく次の矢をつがえ、発射、命中。
発射、命中。
発射、命中。
残り一つで
完全。
そう期待してしまった。興奮してしまった。
鼓動を一つ強く鳴らしてしまった。
呼吸と疾走と鼓動のリズムが崩れた。
苦し紛れに放たれた矢は、当然のように外れた。
しかし、歓声があがった。
三百ヤードの距離にこれほどの的中率を誇るものは数少ない。
この大会に集まった勇士の中ですら片手で数えられてしまう。
フリードは内心ほぞを噛みながらも、歓声に応えた。
しばらく経ち、すべての者が撃ち終えた。
フリードは選抜の中にギリギリすべりこめた。
これからが本番だ。
舞台は夜に移る。
夜こそ
イストモスの弓は冴え渡る。
的は八百ヤードの遠くに離れ、昼だとしても砂粒のように見えず、
この暗闇の中ならば鷹人ですら捉えることは出来ない。
フリーダはまた舞台に立つ。
これが最後だ。昼のような失態はもう出来ない。
鼓動と呼吸を整える。
静かにさせるわけではない。
駆けるうちに必ず熱くなるのだから、むしろ恒温を意識する。
整ったと確信し、フリーダは駆け出す。
的はまったく見えない。
フリーダは目を閉じ、祈る。
(――――星よ)
一瞬の閃きが胸に去来する。
かすかに瞬き、刹那のうちに大気に溶けそうなわずかな輝き。
経験と本能のどこにもよらないそのカンを逃さず、確信する。
矢を番える、弓を引く。
よどみとブレとを極限までそぎ落としたそれは正しく、美しい。
ざわざわと騒がしい夜風が緊張に射止められた。
静謐な空間を矢の風切る音だけが、弧を描いて切り裂く。
中ったかどうかは知らない。関係ない。
フリーダはしかるべく位置に至れば、しかるべく撃つだけだ。
駆け、撃ち、撃ち、撃ち、撃つ。
無心のまま五射が完了。
息を吐く。星を見る。
充足がフリーダの胸に満ちていた。
八百ヤード先で確認が終わり、風の精に乗せて結果が伝えられる。
一拍の間が開き、かつてない歓声が草原を包んだ。
- 競弓の背景や人物の関係など色々気になる所はありつつも後読の爽やかさはひとしお -- (名無しさん) 2012-09-13 22:58:39
- 静と動が織り成す息を呑む光景からの静謐は射矢と共に止まった風が一斉に吹き出したような後読感でした。予選本戦と二段構えなのも盛り上がるのに十分でした -- (名無しさん) 2015-01-11 18:18:55
- 大きな戦いがなくなったけど人々の競争などの手段として戦う術を伝え残す分かりま -- (名無しさん) 2018-05-12 07:15:13
最終更新:2012年09月09日 20:19