雪という物を見て、人は何を想像するだろう?
人肌に重ねただけで滲み、崩れ、黄金を満たさぬ水の一欠片でしか無くなる儚さ。
一面の白い景色から感じる冬の厳しさ。古くから芸術的な価値を以て意匠となってきた叡智。
物というのは不思議な事に、見る側面や人物によって様々に姿を変える。
しかし情景を重ね、趣を撫でる――自然現象の一つであるという事実は易易と改変出来る物ではない。
しかしながら、これが自然現象と呼んで片付けるには異常な空模様だという事はとうに分かりきっていた。
異質な空気の震え。急速な雲の変化。先刻までは雨が降っていた事を示すかの様に木々は雨露をその葉から静かに垂れ流す。
驟雨であったならばすぐ太陽が照らしても良いものを、逆に曇天の空は暗くなるばかり。
"
ウェザー・リポート"による人工的な降雪だろうという結論を導き出すのに、そこまで時間を要するものではない。
直接見なくとも、確信出来る程には彼の行動はそれとなく読めるのだ。
降雪模様に包まれた会場の中、蒼白と憂いと苦笑いを帯びた感情のまま空を眺めるその男。
足取りは重いようで軽いようで、見る者によって様々な印象を受け取らせるだろう。
雪に足跡を残しても、すぐには積もって消えてしまいそうな泡沫の存在。
但し一参加者がその光景を見れば、驚く以外の何事も出来ないに違いないだろう程の異端さを纏っている。
その人物はある物語を紡ぎ、とある物語を夢想し、この会場を作り上げた主催者の一端。
即ち、荒木飛呂彦その人であった。
彼の表情に余裕は微塵も無い。
「目の前に雪にタイヤを取られた車が立ち往生しているから上着を汚してでも助けよう」だとか、
「こんな時に雪が降り積もるのはどう見ても異変だから元凶をとっちめてやろう」だとか、
そんな思考が介在出来る程落ち着いていない、ただただ逼迫した状況に追われている様な危うさ。
差し迫った驚異からの逃亡を図って、行く宛もなくただただ彷徨うだけの放浪のその現場。
導きの灯火は存在せず、ただただ当惑と悲嘆と狼狽と恐怖とその他諸々のマイナスな感情がごちゃまぜになっている。
笑っているのか泣いているのかは本人ですら分からない。グチャグチャなままその一歩その一歩を刻んでいく。
出来る事は歩く事だけ。歩けば舗装された道が目の前に現れるかもしれない、という淡い期待。
云わば遭難者である。
ここまで至らしめた原因、こうなるまでに至った経緯。
それらを想起し自制しようとする度に、あの忌々しい張り詰めたような笑顔が脳を埋め尽くす。
裸体。赤面。先程目にしたあの光景が浮かぶ度に、どうとも言い表せない感情の潮流が巻き起こってしまう。
フェードアウトさせて一刻も早く消し去りたいのに脳の一領域にこびり付いて削れない。
どうして、なんて言葉すらも喉に辿り着けない程澱んだ思考が彼をますます苦しめている。
冷静になりさえすればこの疑念を取り払える展開もあったかもしれないが、そうする事も出来ない嗟傷の中で呻くのが精一杯だった。
そもそも全裸の男を相手に冷静になれというのも無理があるのだ。
露天風呂という場所もルールがあるからこそ見ず知らずの他人とも一緒の湯に浸かれるものの、公共の場ではそうはならない。
ギリシャ彫刻における美と博物館に突如現れた露出狂が違うのは誰だって分かるはずだ。
太田君がもし仮に吹けば倒れそうなあの痩せこけた体ではなく、ルネサンス期の彫刻の様な均衡の取れた美術的な筋肉質の……
……いや、よそう。
想像するも悍ましい気持ち悪さを堪えて歩みを進める。
太田君にも見付からずに――もっと言えば誰にも見付からずに居たかった。どこに向かっているかもなるべく考えないようにしていた。
それでも当初思っていた通り、足を向けてしまえばこのゲームを根底から覆しかねない場所に歩を進めている自分が居る。
ダメだと思う感情と、太田君と事を交えるよりはマシだという感情。どちらが天使でどちらが悪魔かなんて分かる訳もない。
そもそも人の大勢居る場所に竄入して何になるのだ。逃げるならとっとと逃げてしまえば良いのにそれすらも出来ない。
それに仮に参加者が逆上して殺しに掛かってきた場合も戦闘に入ってこちらの手の内を明かした時点でゲームの進行に支障が出る。
ならば太田君の殺害と引き換えに上手いこと参加者に融通を利かせるか?
答えは否だろう。こと交渉においてこちらが不利になるのが見え見えだ。
わざわざ身を隠しているはずの主催者の一人が動揺しながら姿を現している時点で主催者間で何かあった事に気付かれる。
あそこにはゲームに乗っている参加者は誰一人として居ないのだから、そんな条件を出したところでどうにもならないのだ。
何故考えながら歩いているのだろう。
止まって考えればまだ打開のアイデアに閃けるタイムリミットを稼げるだろうのに。
何故あそこに行けば事態が解決すると信じ込んでいるのだろう。
誰かにこんな話を聞いて欲しくて雪の中を歩いている訳ではないのに。
あと少しで辿り着くという恐怖に己の心を塗りたくられそうになる。
何歩か歩くだけでエリアの境目に立つというのに、その何歩かが出ないという事実がそれを顕著に示している。
恐怖を支配するメソッドなんて作中で書いた身でも、一丁前に恐怖はするものだ。
太田君の男色への恐怖も大概だが、ここまでくるとどちらが上か分かったものではない。
時間経過で恐怖が和らぐかもしれないという希望すらも感じられない。
もしあそこから誰かが出てきたら、と思うと気が気で無くなるだろうという確信を持っている。
そうして立ち竦んで。
やはり一歩が踏み出せなくて。
ブツブツああでもないこうでもないと呟いて。
心臓が跳ねる音を一分間にどれだけ聞いたかも分からくて辟易して。
そして草を掻き分け雪を踏み締める音がして。
「うげぇ、全然違うじゃん。ダレよおっさん」
自分以外の存在が近付いていた事に否応が無しに気が付かされるのだ。
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【午後】C-4 魔法の森 南東部
心身共に疲弊した荒木の前に参加者が現れてしまったという事実。
少女の声。人の集まる場所の近く。太田君の顔。色々な要素が脳裏で鬩ぎ合っては弾け飛ぶ。
危険信号の点滅音はけたたましく耳の奥を揺らして離さず、この事態の緊急性を嫌程かというレベルで訴えていた。
いつもの調子なら接近してくる誰かの存在に気付くのは簡単だろうが、それすらも出来ない程に切羽詰まっていたのだから無理はない。
余程の訓練を積んでいたとしても極限状態に置かれた者が普段通りに振る舞える保証などどこにも無いのだから。
参加者に気付かれたというこの事態この状況は、それ程までに緊張を加速させるに値する。
彼の首の皮一枚で繋がっていた精神性の最後の牙城をいとも容易く壊してしまえる物を秘めていたこの接近劇。
思い付く防衛策は一つしか無かった。
「逃げるんだよォォォ─────ッ!!!!!」
自身の能力を使おうとは全く考えていない、イイ年した男の全力ダッシュ。
鍛え上げられた筋肉と、それを活かせる彼のトレーニング生活はこういう時に功を奏すのだ。
こと逃亡という観念に対して、年甲斐といったプライドは関係無い。
命あっての物種であるし、相手を振り切って追跡を断念させれば事実上の勝利と言っても過言では無い。
逃げるが勝ちというのも走為上という兵法三十六計に記された由緒ある戦法に由来している。
戦って玉砕する心配は皆無でも、相手の姿も確認せずに逃亡に走らせる程の余裕の無さが今の荒木には存在していた。
これからどうするかという展望は存在しないのに。
逃げれば事態が解決する訳でもないというのは嫌でも分かっている。
それでもまずは目の前の参加者から一刻も早く身を隠す事が先決だという考えを脳が思い付く前に実践していた。
姿は見られているだろうけれども、相手が一人の様子ならどうにかこうにかなるに違いないという淡い期待もある。
立場上は主催者なのだから毅然として振る舞うのが最適解だったかもしれないが、そんな心の余裕が無い事はとうに分かりきっている。
だが、結局は幸か不幸かという問題なのだ。
追跡者が逃がしてくれるかどうかはその時になってみないと分からないもので。
荒木の走っていたすぐ後ろの木が何の前触れも無く爆ぜたのはそれから数秒も経っていない事だった。
走りながらも振り返ると眼下に入るは黒い火柱。
火柱と形容するのがやっとな程、ソレはドス黒い揺らぎを風に靡かせながら天に迸らせていた。
バチバチと轟く木の焼け焦げる音が辛うじてそれが炎である事をこれでもかと認識させてくる。
弾け飛ぶ火の粉も怨念の宿ったかのような黒色。焼け焦げる木の姿も火柱と見分けの付かない程の黒炭一色。
視界の数割かが黒色で埋め尽くされて他の色を侵食してゆく、悪夢の様な何か。
こんな能力の使い手は居ないと思考が喧しく叫んでいる。
"マジシャンズ・レッド"の様な万能チートスタンドを配布したスタンドDISCに加えた事実も存在しない。
太田君の揃えた幻想少女達にもこんな炎を扱える該当者は居なかったはずだと記憶が訴える。
「あれェ生きてるのかぁ〜。まぁイイや。殺しちゃえば皆同じでしょ?」
炎の数々によって遮蔽物が取り払われ、焼け焦げた木の後ろから人影が姿を現す。
しかし後方に現れたその姿はどこからどう見ても語られ見せられた
藤原妹紅のそれで。
本来であれば白かったはずなのに今や黒く長く暗黒を湛えたその髪と、切り刻まれた痕の残る服装だけが記憶との相違点。
ただ、外斜視を思わせるようなその目の焦点の合っていない様子と口ぶりの危うさが、想定の一参加者と違う事を否応が無しに語っている。
DIOの肉の芽といった精神干渉手段とは別の意味で、何かがおかしいと判断するには充分過ぎる姿。
それどころか、違和感といえば遭遇時の発言。相手の姿を捉えながら誰だと聞いている。
主催者である自分の姿なんか最初のオープニングセレモニーの時点で見ているだろうから分かるはずだという仮定。
そうでなかったとすれば無謀なただの可哀想な少女だが、それはそうとしてもやはりその姿自体が違和感満載だ。
「■■■■───!」
最中、思案をぶった斬るかのような咆哮。
迷いも吹っ切れてくれれば良いのに、あくまで止まるのは頭の回転だけ。
憎悪や怨念を埋め込んで無理矢理発音に押し留めたとも言えるような、そんな惨憺たる声が耳を劈く。
何かがおかしい、何かがマズイ。
違和感や懸念など全て取り去ってしまえるレベルで目の前の少女は壊れているという確信。
ただやはり、主催として参加者を殺しにかかるのはゲーム的に宜しくない。
けれども太田君が目の前に現れる前に早くなんとかしなければならない。
そもそも主催者という立場を投げ捨てるなら後方の相手を一瞬で片付ければ良い話なのに、未だにそれに拘泥している自身もある。
逸る気持ち、焦る気持ち。全てを邪魔だてするかのように目の前の少女は黒く染まった炎を翳して放ってくる。
それでも走る。走る。撒けば事態の根本がが解決する訳では無いと頭の片隅で分かっていても、足が止まらない。
直線的で美的センスを微塵も感じられない弾幕を逃げながら避けるのは弾幕ごっこに精通していなくても余裕らしいが、それでも猶予が無い。
手を出せぬままの膠着状態。しかもこの場所は非常に宜しくない。
そもそも先程向かおうとしていた大人数集まっている場所自体がレストラン・トラサルディー。
逃亡している真っ只中ではあるが、ここから少し歩けば余裕で視界に入ってくる程度には大した距離も無く行けてしまう場所である。
この焦げた匂いや音から誰かが訝しんで様子を見に近付いてくる可能性も否定は出来ない。
もし参加者に見付かった場合、自分の余裕の無さを看過されたらそれはそれでマズイのはさっきも考えた通りなのだ。
しかもよりによってこの藤原妹紅と因縁のある面子もレストランに居る面々には混じっている。
心臓が跳ねる。息のペースが乱れゆく。足が縺れそうになる。思考が纏まらない。
死への恐怖は全く無かった。存在しているのはただただ己の行く末への不安という一点。
この先太田君に転んでも他の参加者に転んでも眼前の参加者に転んでも、残っているのは行先不透明な未来だけ。
どれが一番マシかなんて優劣付けれない。そもそも全てが一番ダメな選択肢のタイ。
このゲームを壊す事だけは絶対に避けたいという、ある意味子供じみたワガママが全てを邪魔しているのだという事に気付けず。
せめて突如反撃のアイデアが閃いてくれさえすれば。
もしくは何事も無かったかのように主催者として振舞う道筋が開かれさえすれば。
されども狂炎は止まない。
雪が降り積もっては溶かされていく。
―――息を飲む。
選択が、出来ない。
眼前が真っ白になる。
それでも諦めずに足は動かしている。
自身の能力で切り抜けられる方法を漸くその可能性に気付いて模索しようと出来たのは運が良かったのか。
両の眼を見開いた瞬間。
そこには草木の燃え跡が広大に広がるのみで。
藤原妹紅のその姿は、忽然と姿を消していたのだ。
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暴風雨の様に驚異が去ってまだ幾秒しか経っていないのに、体感では分単位で時が進んでいるように思える。
肩で息をしなければならない程に、遅れて吹き出した緊張の糸の縺れという名の楔は深く打ち込まれていた。
突然の転移という目の前に発生した僥倖の原因はいざ知らず、まだ根本的な問題の解決には一切至ってはいないのだ。
藤原妹紅という壊れた参加者が居なくなったからとて他の問題点となる太田君の存在や他の参加者の動向も安全な訳ではない。
どこに逃げれば安全か、確証のある行動は出来ない。―――少なくとも、会場内では。
主催者はパネルから参加者の位置を確認出来るが、それが主催者の位置もパネルに表示されない保証とはならない。
少なくとも大一番を決めるために入念な仕掛けをしているであろう太田君なのだから、そんなミスが無いはずがない。
地下空間のマッピングもされているのだから、そちらに逃げて座標だけ誤魔化すのも不可能である。
だが焦る思考に早く解を出せと責め立てる傍ら、視界にノイズが走った事実もしっかりと視神経から脳に行き届いていた。
瞬間、空間の一部が歪んで何かを形作ってそれは人型で見覚えのある帽子を被っていて―――
「荒木先生、大丈夫ですか!!」
その声と同時に思考が全て停止し、髪も全神経までもが震え上がる程の悶え。
背筋が凍った。それ以上に最適な表現はこの世に存在しないと言っても過言ではない。
運動後にかく気持ちの良い汗ではなく、雪やこの森自体の湿気に後押しされた、ゾッとするような気持ち悪さ。
振り返るまでもない。眼前に彼が居る。何も無かったはずの空間に突然転移して現れたのをこの目がはっきり捉えてしまっている。
一難去ってまた一難とも言うべきか。しかも先程の藤原妹紅以上の災難否、災害。
肌色を見せているのは腕と顔だけで、一糸纏わぬ裸体は存在しない。着衣の乱れや着崩しも見受けられない。
それにあの張り付けたような笑みを浮かべていない、ただただ心配している様に思えるその顔。
その数点に安堵して、それよりも大きな問題がある事に身が竦む。
「お、太田君!!??どど、どうしてこここに!!それにふ、服……!!??」
太田が目の前に居る現実が到底受け入れられずに、吐き出した言葉はギリギリで体を為しているだけのしどろもどろ。
体が驚愕したままわななき、足を滑らせてそのまま尻餅を付く醜態まで晒してしまう。
後方には焼け焦げた木の痕。立っていれば飛び越えられるだけの障害物も、今となれば追い詰めるのに都合の良い袋小路。
精神的にも肉体的にも逃げ場の無い、袋の鼠を追い詰める為の単純な行き止まりの完成である。
雪に足を掬われたのだ。立ち上がるまでのコンマ数秒。この状況で目の前の狂人が事を起こす可能性は否定できない。
いや、近くにレストランがあって参加者が来るかもしれない状態でそんな危険な事をするだろうか?
首を縦に振るのはこんな危機的状況では無理だ。
この男には、やると言ったらやる………『スゴ味』があるッ!
「服、あぁ……先程は人を出迎えるのに失礼な格好ですみません。一際礼節を欠いておりました」
弔意を示すかのような凛とした真剣な声。ハンチング帽を腕に携え、そのまま腰を軽く曲げた姿勢。
目の前の男のそれがアレやソレとは断じて関係が無いのは最早明白で、逆に白色の靄が掛かったのは荒木の思考の方だった。
汗も拭えない緊迫した状況に水を指すかのような謎の行為。この隙に逃げようとは出来ない気迫も揃って何がなんだか分からず。
やっとの事で足の筋肉を呼び起こし、雪の上に静かに靴先を下ろす。立てば事態が動くかと思ったが、そうでもないらしい。
謎が謎を呼び、頭は混迷に至る。真っ白で意味も定まらぬ言葉をちぐはぐに繋ぎ合わせて、事態の解決を図ろうとする。
そして漸く、その意味しているものが誠心誠意の謝罪の姿勢である事に遅れて気付くのだ。
それでも疑念は拭えない。
「し、しかし……僕が来ると分かっていながらあんな……つい裸になったと……」
「そこについては……その、パソコンの中身をつい見られるのではないかと恐れて慌ててしまって……」
「パソコンがな、なんだって言うんだ」
「……すみません、正直に申し上げます。ある事に使う為に参加者の座標を移動させられるツールを作成してました」
「それを、見られたくなかったのかい、太田君は……」
「ええ、荒木先生には無断でやっておりましたので……」
数秒の沈黙。雪のしんしんと降る音すら聞こえてきそうな程の静けさが辺り一面に広がった。
その無音のひと時がが二人の間では相当に気まずいものであったのは言うまでもない。
確かに俄かに信じ難い言い分でもある。妻帯者という立場をカモフラージュに事を及ぼうとした可能性のある人間の弁明だ。
向こうの初期作品でこちらのネタを流用したのが家庭を持つ前だという事実を踏まえると信憑性があるようにも思えてくる。
しかしながら、確かに考えてみればそんな与太話とも思えるトンチキ新説のシリーズよりは明らかに信用に足りるのも事実で。
精神的な拠り所を喪いかけた思索を再び元の状態に立て直せるのならそうした方が良い、という瓦解を恐れる心もそれを受け入れるのに一役買っていた。
一人は冷静さを欠いた結果あられもない痴態を晒し、もう一人はそれを見て冷静さを更に欠いた結果絶句して焦燥感に囚われ。
傍から見れば変な確執という短い語彙で締め括られるこの有様でも、太田や荒木にとって紛れもない大問題。
それを冷静になって飲み込んでみれば、後々酒のタネになるだけの笑い種。傍目八目とはよく言ったものである。
古今東西、諍いというのはどうやって解決するかは結局当人達に委ねられるのだ。
それがたまたまこんな逃走劇までしでかすとは先刻までの自身に聞いても要領を得ないだろう。
「まさかこんな所で一人歩いていらっしゃったのも、もしかして頭を冷やすため、だったり……?」
「……無粋だよ太田君」
無論、先程までの醜態を悟られるのは荒木にとっては御免被る事態である。
乱れた息を整える為に軽く深呼吸をすると、ひらひらと舞う雪の粉が息に掻き乱されるのがなんとも風流に思えてくる。
しかし冷静になると次第に呼気の冷たさが身に染みてくるようになり、ついさっきまでの自分自身をどこか他人事のように荒木は感じていた。
それと同時に余裕の出てきた心のスペースに羞恥心といった感情も戻ってきているのもまた同じく。
取り乱してあらぬ事に思い至った自分自身。浅ましくも悍ましい妄想など、思い出すも憚られるに決まっていよう。
逆に一刻も早く忘れてしまいたい。穴があれば入ってそのまま顔を隠したい、そんな心の疚しさは止まらない。
そんな先程の自分の焦りを追いやるかのように、今更になって気付いた疑問点が口を衝いて出ていた。
「しかし太田君こそだ。何故わざわざこんなところまで来たんだい?」
「その……ただのお節介です。先程の行為への謝罪というのもありましたけども」
「ふむ」
太田の言葉から一拍して、そうかと気付く。
どうやら頭の回転軸も次第に元に戻ってきているようだ。
「ははーん、なんとなく話が読めてきたぞ。まず君は僕と藤原妹紅の座標が一定間隔を取って移動していたのを見た。
そして万が一を危惧して、開発していたツールで藤原妹紅の座標だけをどこかに移動させた。
事の次第はこうなんじゃないかな?」
「荒木先生、お見事です。いやはや、短い会話からここまで類推されてしまうとは……」
「けれども
第二回放送前に単独で移動していたであろう藤原妹紅を移動させているのは戴けないな。
あれも君の仕業だろう?」
「……面目の無い事です」
顔を軽く俯かせた太田の方をふと見ると、手にちょっとした箱が抱えられているのが目に入った。
最初は謝罪のつもりもあったのだろうから、こういう時に菓子折りを持っていても不思議では無いのかもしれない。
箱自体は菓子折りにしてはやや厚みを帯びた形状をしているが、大きさとしては熨斗紙を付けても見栄えするくらいには大きい。
確かに通例的に菓子折りは挨拶と一緒に渡すのが礼儀という文章を目にする機会はあるだろうが、こんな雪の下では少々不格好である。
そのような大きさの箱を片手で軽々しく持っているにも関わらず、この細く折れそうな身体をした太田という男は若干のミステリーだとも荒木は思った。
そんな考えは露知らず。
荒木の目の動きを察したのかどうかは分からないが、太田は喜々とした表情で箱に手を掛けた。
蓋にまで指が至れば、いよいよ後は御開帳を待つだけである。
「これは太田君らしい立派な"菓子折り"じゃぁないか」
箱が開封されれば中には衝撃吸収材に包まれた、謹製だろう目を引く手作りラベルが目を引く赤ワインが一本鎮座していた。
まず目を引くのはロゼワインの様な透き通る綺麗さではなく、これぞ赤ワインと表現したいかの如く外果皮の赤紫の表現の強い色艶。
雪下の薄暗さで行うテイスティングだからとは言え、手に取ってまじまじと見ても透明さも兼ね備えたワインレッドは変わらず。
これ程の色合いならば渋さもたけなわ、フルボディの格をふんだんに味わえるだろうと胸が躍るのを感じずにはいられない。
ビンの下に目線を動かすと、当然と言わんばかりに沈殿した澱がワインとの境界線を見事に引いていて、素人目でも上質な物だと認識出来る。
それも当然か、太田が選んだ酒なのだ。ビール党であろうとも、酒には手を抜かない男だろうという期待が大きい。
「ふむ……やっぱり露天風呂で言っていたように、他者の行動に倣って感情を募らせようというわけかな。
太田君のようなチャレンジ精神も中々に含蓄がある、そういう姿勢は取り入れていきたいものだね」
「ンフフフ、そう言って戴ければ用意した甲斐があるってもんです」
そう言って太田はハンチング帽に手を掛ける。
いつもの帽子の下にはまたいつものハンチング帽が顔を覗かせ―――その上にはお誂え向きなワイングラスが二つ。
まるで買ってきたばかりと言わんばかりに、クシャクシャになった紙がグラスの中に押し込まれている。
初めからこんな時の為だけに用意したとしか思えない周到さに荒木は口元を手で隠して苦笑い。
「いやいや荒木先生、幾ら僕でも機会が来るまでずっと待つなんてそんな事出来ませんよ。
これは
姫海棠はたてにさっき"ウェザー・リポート"の制限の若干の解除を頼まれてふと思い立ったんです。
湯に浸かりながらの酒ときたら、次は荒木先生と雪見酒でもご一緒したいなと」
「確かに彼女は彼と同行していたね。ルールに抵触しない限りの主催者としての譲歩、か。全く太田君らしいな。
しかしわざわざ僕と酒を飲みたいが為だけにそんな提案を了承したのかい?」
「かもしれませんね、彼女に丸め込まれてしまったというのも大きいのですが……
ま、彼女の記事の次号次々号への期待の前払いでもありますから」
全てに思いを馳せるかの様な表情を浮かべながら、煌々とした声色で語る太田。
その瞳は少年時代の憧憬を見るかのように爛々と輝いているものの、独特の妖光をも放っている。
筋骨とは全くの無縁の様な体をしながらも、その実力や妖しさは荒木に引けを取らない雰囲気を醸し出している。
少なくとも、このゲームに掛ける情熱と酒への情熱という一見して別物の二つを奇妙なレベルで共存させている様は荒木以上のものであった。
楽しむ事を第一条件に多少の円滑な進行を取り払う姿は、さながら彼の目を通して見た
ジョセフ・ジョースターに近い。
これはあのジョセフも念入りに好かれるわけである。隠しきれない遊び心にもたまには与るべきだろう。
「そこまで言うなら君からの酒の招待、受けないわけにはいかないな。
太田君のさっきの失態は……水に、いや酒に流そうじゃないか」
「ありがとうございます、荒木先生」
荒木の持つグラスにとぽとぽ、とワインが注がれていく。
濁りを排した丁寧な色が無色透明なガラスの器に注がれ染まり、清く澄みわたる空の様に広がる。
ふむ、とグラスを静かに回すと中のワインもつられてゆっくりとその回転に追随していった。
ワインについて聞き齧った知識だけでも、重ね重ね良質なものだと分かっていく様には感嘆さえ覚えようか。
だが早く一口含みたい気持ちはそっと堪える必要がある。まだ空のグラスがもう一つあるのに、先に飲んでしまうのは失礼だ。
荒木は一旦グラスを雪の上に置いて、ワインの注ぎ手と受け手を交代した。
「あのシーンのジョニィとジャイロは聖なる遺体を全て失った後でしたが……
そういえば僕らは何も失ってませんでしたね」
「このゲームだとそりゃあ失う物も差し出す物も中々無いからね」
「ンフフ、それもそうです」
雪の中に乾いた音が一つ、丁重に響いた。
それはさほど大きくもなく、会場のどの参加者の耳に入る事も無く。
男二人の乾杯の音頭は人知れず幕を開けたに過ぎない。
「それじゃあ、『ネットにひっかかってはじかれたボールに』乾杯しようか」
「ええ」
クイッ、とグラスが傾けられて中のワインが下へ下へ。
喉を軽く鳴らし、その爽やかのようで重い味わいに舌鼓を打つ。
他の参加者が近くを通り過ぎるかもしれない、という懸念材料も今だけはどうでもよく。
先程の確執も恥も一旦脇道に逸らして。
ただ、持って来たワインに感銘を寄せていた。
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【午後】D-3 旧地獄街道
光の対義語は、と聞かれたら闇と答えるのが通例だろう。例えそれが作麼生と説破の様な場でも変わらないはずだ。
神がそう宣えば追聯したその二つの概念が生まれ、そこに交えぬ境界線が発生する。
そして互いが互いを嫌悪し合って元の黙阿弥に戻れなくなる。
世間の常識がそれを身に着けていない者を迫害する様に。
世間体を維持出来ない者がそこを離れざるを得ない様に。
異常者が健常者の様に振舞うのを忌避する様に。
この一面に広がる建物群の空間もその境界線の一つ。
幻想郷にて越えてはならぬラインを跨ぎかねない者達の収容房にして楽園。
旧地獄という、幻想郷に馴染めない妖怪にとっての不可侵の砦。
「何よあのオッサン、凶悪なツラして逃げやがって……しかもドコよここ」
太田に位置座標を飛ばされた藤原妹紅も、そのど真ん中に居た。
彼女もまた闇であり、異常の側の存在。本来であれば厭われるべき忌まれる者の側。
しかし不思議なもので、異常というのはあくまで観測者の倫理観に全てを委ねられる尺度の一つ。
彼女自身にとっては自分自身こそが唯一無二の正常性を担保出来る存在で、他の全てが異常なのだ。
暗闇に目が慣れて、その内光が何かを忘れてしまったら、もう二度と戻れない深淵の世界。
彼女の瞳に映る光は、一周回って闇になってしまった。
眼前に現れた主催者の顔ももう覚えていない。
あるのは醜い生への渇望だけ。
誰も自分に害しそうな敵が周囲に居ない事を確認してから、妹紅はその大通りを注意深く歩き始めた。
建物の雰囲気は、普通にどこにでもありそうな木造家屋ばかり。時折家っぽくない建物もあるが、基本的には住宅地。
しかしこの空間の天井は不気味で、天蓋は高く衝いた厚い岩盤に覆われ、隙間一つ無く太陽光の一筋すら届かない。
にも関わらず家々の軒先に吊るされた赤提灯の一個一個が周囲を照らしており、黄昏時の様な明るさを常に演出している。
しかし本来あるべき妖達の姿はどこにも無く、従ってそれらの纏う酒乱のアルコール臭ささえも漂っていない。
あるのはお祭り気分に取り残された建物の数々と、藤原妹紅の一人だけ。
孤独な旅路に輩は必要ない。
そう、輩なんて居ないのだ。
なのに。
『貴方しか居ない世界で果たして誰がアナタをマトモだって証明してくれるの?』
「うるさいうるさい、マトモじゃないお前が口を挟まないでよ」
また誰かが後ろから口を挟む。自分以外ここには居ないのだから、これはきっとマボロシなんだ。そうに決まっている。
けれども手を変え品を変え、時折こうやって当たり前のような質問をされる。
同じ声で同じ語調で私に付き纏ってちっとも離れてくれやしない。私にずっと付いてくるお前の方がよっぽどマトモじゃないっての。
頭は痛むし全てが散々だし、進んでも進んでも同じような建物しかない。
少し遠くに行けば立派な色とりどりの建物があるのは見えるけど、あそこに蓬莱の薬は無い気がする。
輝夜にはあんな豪華絢爛なのは似合わない。もっとドブ臭い場所の中で蠢いていた方がアイツらしい。
「例えばこんなボロ納屋の中に居たりは〜?」
なんかそれっぽい建物の扉を開けてみる。ハズレ。ただの小屋。
ヒトの跡すら感じられない程に冷え切っていて、扉を開け放った瞬間に冷たい空気が外に流れ込んできた。
おかしいな。こんな所こそ輝夜にお似合いだし、ここに輝夜が居れば自ずと蓬莱の薬を取り戻せるはずなのに。
いや、でもたまにはこういう場所で休まないとまたさっきの誰かみたいに逃げられる様な気がする。
誰かが来て殺されるのは嫌だからあまり眠りたくはない。蓬莱の薬を取る前に死ぬのは勘弁だ。
畳に腰を下ろしたまま壁にもたれ掛かって、片膝を立てる。こうすると眠りが浅くなって何かあればすぐに起きれる。
「……?」
前もこんな体勢をした事があった気がする。よく覚えていない。
よく覚えていないのは頭痛のせいだ。私に悪いところなんてない。
生きようとしているだけなのにそれが悪いことなわけがない。
『■紅。アン……もうマ■■じゃ■……。い……■■実を見■■……』
私を糾弾するな。
…。
何も聞こえない。
何も聞きたくない。
意識を闇に溶かす。目を瞑れば光は入らない。
何も間違ってないのに。
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【午後】D-3 旧地獄街道
【藤原妹紅@東方永夜抄】
[状態]:発狂、記憶喪失、霊力消費(小)、黒髪黒焔、全身の服表面に切り傷、浅い睡眠中、濡れている
[装備]:火鼠の皮衣、インスタントカメラ(フィルム残り8枚)
[道具]:なし
[思考・状況]
基本行動方針:生きる。殺す。化け物はみんな殺す。殺す。死にたくない。生きたい。私はあ あ あ あァ?
1:蓬莱の薬を探そう。殺してでも奪い取ろう。
2:―――ヨシカ? うーん……。
[備考]
※普通の人間だった時代と幻想郷に居た時代の記憶が、ほんの僅かに混雑しております。
※再生能力が格段に飛躍しています。
※第二回放送の内容は全く頭に入ってません。
※C-4境界線の鉄塔とレストラン・トラサルディーの真ん中ぐらいの位置で主催者二人が酒盛りをしています。
最終更新:2020年11月10日 11:20