『ヴィクトリア期の世界と経済学の異端』 R.L.ハイルブローナー 著
「正統か異端か」それは考え方が正しいか否かではなく、その時代の思想・風潮に適合するか否かで決定される。どれだけ正しいことを主張したとしても、それを受け入れられない背景や受け入れる必要性がない場合、異端者は時代の片隅に置かれ時には抹殺されてしまう。極端な例を挙げれば、17世紀前後のコペルニクスやガリレオ、ブルーノが異端者の代表格になるだろう。彼らほどではないにしろ、ヴィクトリア期のイギリスも正統派経済学者と異端派経済学者の運命がはっきりと分かれた時代であった。
当時のイギリスは発展期にあり資本主義システムを悲観的に概観する人物を求めていなかった。従ってヴィクトリア期には資本主義システムを緻密な論理を組み立てて肯定する者が正統派となる。一方、資本主義システムを悲観視し、独創的な視点で資本主義システムの破滅を予言する者たちが異端派とされた。人間を「快楽機械」とし数理心理学で説明したフランシス・シドロ・エッジワースをはじめ、フレデリック・バスティア、ヘンリー・ジョージ、ジョン・A・ボブソンなどがそれである。
彼らの思想は私を魅了するものであった。確かに、正統派の経済学者であるアルフレッド・マーシャルの論理などと比較すればその論理は不完全なのかもしれない。しかしながら、彼らの独創的な思想は的を射ていないとは言えず、時代背景が異なれば正統派となっていたことだろう。
先に挙げたコペルニクスのように、異端として掻き消されてしまう思想は真理を突いていることが間々ある。絶対的に信じられた正統がある世界では、常識外れの異論は異端でしかないようだが、裏を返せば、突拍子もないことを主張する人物を見つけたら注意せよ、と歴史の異端者たちに示唆されている気がするのは私だけだろうか。