第049話 怖くなんてない ◆mN6xOjBOEY
碁盤の上で、二人の掌が踊る。
一人が、碁笥から石を取り出す。素早く、人差し指の背に乗せ、中指でそれを挟み込む。
しなるように動く彼らの指は、まるで芸術品のように華麗で、国宝品のように厳格だ。
いつだったか、
進藤ヒカルはこの指の動きを神様のものと形容したらしい。
「ねぇホラ、碁盤には九つの星があるだろ? ここ宇宙なんだ。
そこにさ、石を一つ一つ置いてくんだ。星を増やすようにさ。
どんどん、宇宙を作ってくんだ。まるで神様みたいだろ」
そして、慣れない手つきで摘んだ黒石は進藤ヒカルの輝ける未来を暗示するかのように光りだす。
「オレは神様になるんだよ。この碁盤の上で」
小学生らしい、可愛い理屈だ。ヒカル本人からではなく、筒井さんから聞いた。
夜空を見上げると、文字通り満天の星空。
東京では決して見られない、この景色のなかで、ヒカルは神様になっているのだろうか。
流れ星が空を滑る。
今の星はヒカルが置いた星だろうか。ヒカルはこの夢の中で神様になっているのだろうか。
握り締めた指が冷たくなっている。
かつて人だったはずのそれは、既に物体に成り果てている。
血は乾き、体温は消え去り、動く気配さえ見せない。
ヒカルの魂は、この指にはない。きっと、夜空の上。宇宙の中に彼はいる。
そして、悪夢が覚めたとき、きっと彼は自分より少し高い身長で、仏頂面をしながら話しかけてくるのだ。
「待っててね、もうすぐそっちに行くから」
最後の一人になったとき、ヒカルにきっと会うことが出来る。
最後の一人になろう。
藤崎あかりがそう決意したとき、彼女は砂浜から歩き出していた。
人を殺さなければ、ヒカルに会えない。何も悩む事はない、ここは夢の中だし、殺しのために用意された舞台だから。
歩き出すと決めたら、周囲の海がやたらと黒い事に気付いた。
月明かり、星明りしか存在しないこの島で見る海は、観光写真で見るようなエメラルドブルーのそれではない。
人の体を流れる静脈血のような色。きっと、ヒカルの指についている血の色と同じ色なんだろう。
(これが夢ならこの海はヒカルの血でできてるのかな)
あかりはそんな事を思って、少しだけ水を舐めてみる。しょっぱかった。
よくできた夢だことで……
「うるぁーーー!!」
(え、何? 一体、なんなの)
突然、怒号が木霊する。場所は鎌石村近くの車道。
「ま……、……オレ様に……………」
聞き取れない小さな声。男の声だ。年はあかりとそう違わない。
月明かりが映し出す彼の姿はよく見えない。けれど、微かに聞き取れる声がその怒りを伝えてくる。
理不尽な事件に巻き込まれた事を嘆いているのだろうか。
あかりには彼が何を考えているのか分からなかったが、唯一つハッキリしている事がある。
「あの人が最初の相手だね」
彼が自分の最初の犠牲者だという事だ。小さな両手に、支給品のバタフライナイフを握りこむ。
不思議と恐怖心はない。迷いもない。ここは夢だから。いや、それ以前にヒカルに会うためだから。
けれど、迷いはないくせに手は汗ばみ、震えてくる。
やはり、夢だからとか、ヒカルに会うためだとか、そんな言い訳をしても人殺しは禁忌なんだろうか。
「震えないで私の体。気持ちに迷いはないんだから」
気持ちと正反対の行動をとる体が恨めしい。
震えを打ち消すように、バタフライナイフを強く握りしめた。
大丈夫、私ならやれる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
日々野晴矢は憤慨していた。
奇妙な事件に巻き込まれたからではない。奇妙な支給品を渡されたからだ。
イタリア職人の魂の結晶、と言えば聞こえはいいが免許のない自分では所詮お荷物に過ぎない。
支給品の名はジーク。イタリアのジーク社が開発した二人乗りの自動車だ。
所謂スーパーカーと言うもので、当時一般道最速と言われていたフェラーリさえも上回る性能を持つ。
アクセルを踏み込むと20秒で時速300kmをオーバーする怪物マシン。日本国内では走る場所すら見つからないだろう。
さて、現在その怪物マシンを所有するのは怪物高校生日々野晴矢。
怪物とはいえ、一介の高校生である彼はジークの扱いに戸惑っていた。
「うるぁーーー!!」
と、大声を張り上げて一発蹴りを見舞う。ジークの車体に革靴の痕がついてしまったが、それ以外の変化はない。
「やっぱ、誰もいねぇ……」
当たり前のことを再度確認する。
「まったく、あのボケジジィどもが、オレ様に車を渡すなら運転手ぐらいつけろっての」
車と鍵だけ渡されても扱いに困る。喧嘩は強くても車の運転技術は持っていない。
バイクなら、何とか運転技術を身につけた。けれど、この車はどうしようもない。
しばらく、車の周りを旋回してみる。色々と考えてみる。
けれど、どうにも扱い方は思い浮かばなかった。
仕方無しに支給された鍵を使い中に入る事にする。中には居心地のいいシートが二つ並べてあった。
晴矢はリクライニングを限界まで下げ、そこに横になる。
さて、考えても仕方のない車は放っておこう。
それより当面の問題は、今後どうするかと言う事だ。
晴矢は、ジークのキーを回し車内灯を点ける。左ハンドルの運転席には、一冊の本が置いてあったがそれは無視。
自身に支給された他の品物を確認する事にする。
時計に水に食料……、これらは何の変哲もない支給品だ。
コンパスみたいな、普段使わないものもあったが、とりあえず気にするほどの事もない。
他にある支給品といえば、一枚の紙。どうも、ここにいる人間たちの名簿のようだ。
「ほほぉ、オレ様と戦うことになった不幸な連中の名簿かね?」
自分が負ける事など微塵も想像していない。だから、ここに書いてある連中は全員犠牲者だ。
もっとも、殺すつもりは毛程もないわけだが……と、ここで、晴矢の動きが止まる。
名簿には自分の知る者の名前がいくつか載っている。
「これは、どういうことじゃ?」
一条、山ノ上、親しい下僕たち。伊部、神崎、かつて闘った者たち。
彼らまで、この事件に巻き込まれていると言うのか。
自分はいい。世界征服を企む人間に障害は付き物だ。だから、あのボケジジィどもを華麗に倒しさえすれば問題は解決する。
だから、今の今まで、この事件に巻き込まれていても晴矢は決して焦らなかったし、怒りも感じなかった。
けれど今は……
「…………」
晴矢の顔面を、無言の怒りが覆う。
山ノ上には保険医として、生徒たちを守る責務がある。
一条にはバンドの一員として、音楽を奏でる夢がある。
伊部もまぁ……アレだが、アレだ。
彼らの目指すところは世界征服ではない。彼らがこんな事件に巻き込まれても、得るものは一つもない。
無論、ムッツリスケベこと
一条誠や伊部は心配いらない。
彼らはなんだかんだで、高い戦闘力を有している。だから、この島から日本に生還する事も決して難しくないだろう。
問題は、戦闘力を持たない
山ノ上春香である。
この事件がどんなものか、今のところ情報は全くない。
けれど、殺し合いが誇張に過ぎないとしても、大勢の人間を拉致して、島に連れ込んでいる以上まともな事件でない事は事実だ。
だからこそ、春香は守らなければならない。
晴矢は車内灯を切り、ジークのエンジンを止める。
行動方針は決まった。
春香を探す。
何よりもまず、先にやる事は、それである。一条や伊部とは、その過程で出会う事があるだろう。
一刻も早く動かなければ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ネクタイのないワイシャツに、ブレザーの制服を着た男は、白い車の周りを暫く旋回していたかと思うと、車内に入っていった。
あの車が、男の支給品なんだろうか。
そう考えると、このゲームの規模がいかに大きいものか悟る事ができる。
しかし……
あの車、いかにもスーパーカーと言った感じだ。
幼い男の子が憧れる車、それそのものの形をしている。
「クスッッ」
と、あかりの笑みがこぼれる。
きっと、ヒカルもあんな車に憧れた頃があったんだろう。だからこそ、スーパーカーが支給されている。
いかにも自分の夢の中らしい支給品ではないか。
可愛らしい。
これは、無意識に自分がヒカルに惹かれていた事の証明なのだろうか。
「ヒカル……今すぐ会いに行くからね」
足音を消しながら、スーパーカーに近づいていく。
その右手には、バタフライナイフがしっかと握られている。
さてと、近づくのはいいが、どうやって殺そう。
車の助手席の隣。窓のすぐ下に隠れて、藤崎あかりは考える。
相手は、自分と同年代とはいえ男である。
ナイフ一本で敵うのだろうか。仮に勝てたとしても、抵抗されれば、こちらも怪我をしてしまう。
それに、殺すべき人間は一人ではない。
ここで怪我を負ってしまえば、後々の行動に影響を与える。
仕留めるのは一瞬で、反撃を許さずに行わなければならない。
今さらながらに、ハードルの高さを感じる。
十数センチの刀身が、やたらと頼りなく思える。
そう思うと、手が震えてきた。
自分は恐怖を感じているのだろうか。
違う、そんな筈はない。と頭を振る。だって、ここは私の夢だから。これはヒカルに会うためだから。
恐怖を感じる理由は何一つない。
けれど、体の震えはどんどん強くなってくる。
「お願いだから、言う事を聞いて。頼むから……」
自分の体に言い聞かせる。
今、自分が殺すべき相手は薄いドアを挟んで、僅か数十センチの所にいる。
ここまで来て、恐怖を感じるなどあってはならない。
こんな所で、息を潜めてナイフを持って隠れているんだから、相手に何の言い訳もできない。
殺すしかないところまで来ているのだ。だからこそ、震える体が許せない。
心と頭は、既に殺す決意をしている。あとは体だけ。
藤崎あかりは、星空を見上げて深呼吸をする。全身の力を抜く。
そして、ヒカルの指を見つめる。
「絶対にやるからね……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バタンッ……
ジークのドアを開け、晴矢は外に出た。
「あっ………」
車外には、しゃがみ込んだ少女が一人。ナイフを握りしめている。
「あん? 何してんじゃ」
他愛ない質問。当たり前の言葉だったが、少女の体はビクッと震えて、その目には極度の怯えが見えている。
「何してるって聞いてるんじゃ!」
二度目の質問だが、少女は震えるだけで決して答えようとしない。いや、答えられない。
月明かりの下、可愛らしい顔でナイフを持ちながら震える少女。
どんな事情があってここにいるのか定かでないが、まともな状況でないことは一瞬で悟る事ができた。
「こ…くない………ンタ…んて、…んぜん………」
少女が何かしら呟いている。晴矢には全く聞き取れない。
全く……、今すぐ春香を探さなければならないと言うのに、厄介なことが起こってしまった。
「何なら、オレ様の下僕にしてやろうか?」
怖くて震えているなら、守ってやればいい。どうせ春香も守るつもりだ。
今さら守る対象が一人増えたところで、何の問題もない。
「怖くない……怖くない……、怖くなんかない!」
少女の独り言が、先程よりハッキリ聞こえる。
恐怖により、頭がおかしくなったのだろうか。同じ事を繰り返し呟いている。
「アンタなんか、怖くない!!」
刹那、少女が大上段に構え、ナイフを晴矢目指して振り下ろす。
反射的に晴矢は、ナイフを払いのける。
「何じゃ、お前。刺客だったのか?」
少女は払い落とされたナイフを見つめたまま、動かない。いや、動けない。
「言え、お前の目的は一体なんなんじゃ?」
突然襲われれば、晴矢とて困惑を隠しきれない。せめて理由だけは確認せねば。
けれど、少女は無言のままナイフを見つめている。そして、震えている。
「言わないと、秘奥義くすぐり地獄の刑じゃ」
「アンタに言ったって、仕方ないじゃない……」
少女の呟く声は震えている。
「どうして、死なないのよ、ナイフで切ろうとしたのよ! 死んでよ、私の夢なんでしょ!
ヒカルに会えないじゃない、死んでよ、今すぐ死んでよ」
少女はブレザーの上から晴矢の首を絞めようとする。
けれど、少女と自分の力の差は悲しいほど開いている。
少女がどれだけ、自分を殺そうとしても、ナイフを失った状態では不可能だ。
「くるぁーー!」
叫び声一閃。頭突きを食らわせる、ジークに。
それで十分だった。天井のへこんだ車体を見て、少女は震える体で膝をつく。
「どうして、どうして、ヒカルに会わなきゃ駄目なのに。どうして……」
少女は自分との力の差を実感してしまったらしい。
全く、無敵すぎるのもこれだから困る。
「おい、今の事は水に流してやるから、言う事を聞け」
再び、少女は晴矢の言葉を無視する。
「おいおい、オレ様を怒らせといてただで済むと思ってんじゃないよな?」
相手が不良ならとっくに殴り倒している。無力そうな女子高生だからこそ、まだ目の前の少女は無傷なのだ。
これ以上、自分を怒らせたらただで済む保証は全くない。
ゆっくりと、少女が立ち上がる。
「お? 言う事を聞く気になったか?」
だが、次の瞬間。少女は晴矢に背を向けて走り出してしまった。
「こら、逃げてんじゃねーぞ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
藤崎あかりは走り出した。
目の前の少年から逃げ出すために走り出した。
一体、何だというのだ。これは自分の夢なのに、どうしてあの少年は素直に殺されてくれないのだ。
やはり、人殺しは自分とって超えられないハードルを持つものだったと言うのか。
ナイフがあっても、彼に勝てる気がしない。そのナイフさえ、今はもう無い。
やれる事と言ったら、逃げて逃げて逃げまくって、彼の手の届かないところにいくことしかないではないか。
それに、私の体は一体どうしてしまったのだろう。
恐怖も、迷いも何も感じてないはずなのに、終始体は震えたままで、傍目からは怯えているようにしか見えない行動を取っていただろう。
こんなはずじゃなかったのに。
最後の一人になって、ヒカルに会いに行くはずだったのに。
ここは私の夢だから、私が望んだ行動は全て実現するはずだったのに。
なのに、気付けば自分は走り出している。逃げ出している。同じ年頃の少年から。
無力すぎる。
藤崎あかりと言う人間は、所詮何もできない人間だと言う事なのか。
どれ程走っただろう。
時間にして、1時間ほどか。いや、感覚が全く無いから10秒かも知れない。走りきった後、自分の足が全く抵抗を感じなくなった。
地面を蹴る感触が無い。宙をブラブラと前後している。懸命に走っているのに、足は地面に届いていない。
後ろを見れば、先程の少年が自分の上着を掴んで持ち上げていた。
逃げる事さえ、自分にはできないのだ。
少年が自分を地面に下ろす。重いとはいえないが、決して軽くも無い自分を事も無げに少年は持ち上げてしまった。
あかりは、自分の体の奥からどうしようもない震えが来るのを感じた。
今になって気付く。
この震えは恐怖だったのだ。
自分では怖くない、怖くない、などと思っておきながら、実際にはとてつもない恐怖を体が感じていたのだ。
「お前のようなヤツは、秘奥義くすぐり地獄の刑じゃ」
くすぐり地獄。
名前から察すると、体中をくすぐられると言う事だろう。
年頃の男が、女に対してただくすぐるだけで行為を終えるだろうか。
とても、そんな事は思えない。
このまま、この少年は自分を……考えただけで怖くなる。
その行為は、あかりにとって未体験のものであり、今はまだ誰かとしよう等と考えた事もない行為だった。
少年の手があかりに近づく。
藤崎あかりには、これを防ぐ術が何一つ存在しない。
彼の手が、あかりに触れる直前。
あかりは気を失ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「全く……最後まで訳の分からん女じゃな」
自分から襲い掛かってきて、ちょっと脅したら気絶してしまって。
晴矢にとっては、意味の分からない少女だった。
伊部のような女だったら、一発ぐらい殴っても良かったかも知れないが、相手がどう見ても無力そうな女だから、なお始末が悪い。
さて、この女をどうするか。
起きている状態であれば、連れて行くことも考えたが、気絶してしまえば連れて行く事が出来ない。
背負って島を移動する事も不可能ではないが、間違いなく足手まといになってしまう。
一刻も早く春香を探さなければならない現状では、彼女を連れて行くことなどできない。
とすればどうする? 迷っている時間はあまり無い。
仕方無しに、晴矢は少女を抱えてジークのところまで運んでいく。
「オレ様に感謝しろよ」
暗い夜空の下、女子高生を無造作に地面に置き去りにするわけにはいかない。
ジークの中に入れておこう。
晴矢はそう考えて、ジークのシートに彼女を寝かしつけた。
ここなら、心配は要らない。春香を見つけたら、戻ってきて事情を聞くのもいいし、このまま放って置くのもいい。
「さて、春香先生を探しに行くかのう」
ジークに鍵を挿したまま、晴矢は鎌石村へと向かう。
探すべきは山ノ上春香。決して、ムッツリスケベが言うような恋愛感情からではない。
いやもう、それは断じて違う。
けれど、とにかく探して守ろう。
そんな事を考えながら、晴矢は歩いていた。
【B-5 車道(ジークの中)/一日目・午前4時00分ごろ】
【藤崎あかり@ヒカルの碁】
状態:健康、気絶中
装備:なし
道具:支給品一式、ジーク@こちら葛飾区亀有公園前派出所、ヒカルの右人差し指
思考:1.ヒカルに会いたい。
2.夢から醒めるために人を殺して一人生き残る。
3.このゲームに恐怖を感じ始めている、晴矢が怖い。
※バタフライナイフはジークの側に落ちています。
ジークの運転席においてある本は簡単な運転マニュアルです。
【B-5 車道/一日目・午前4時00分ごろ】
【日々野晴矢@BOY】
状態:健康
装備:なし
道具:支給品一式
思考:1.春香を探す。
2.一条、伊部を探す。(1のついでに見つかると思っている)
3.クソジジィ達(主催者)を倒して生還する。
最終更新:2008年02月13日 13:44