記紀
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ゆかりの寺社(御朱印視点)
引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。
【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
三重県 | 花窟神社 | 熊野市有馬町上地130 | 【由】花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノ ミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。 |
滋賀県 | 多賀大社 | 犬上郡多賀町多賀604 | 【噂】伊弉諾尊が幽宮を構えて余生を過ごされた地。但し、古事記(真福寺本)の誤記説もある。 |
兵庫県 | 岩樟神社 | 淡路市岩屋 | 【社】①蛭子神が産まれた地。②伊弉諾尊が隠れ給うた幽宮。御朱印は石屋神社で拝受可能。 |
兵庫県 | 石屋神社 | 淡路市岩屋799 | 【-】岩樟神社の本務社。 |
兵庫県 | 伊弉諾神宮 | 淡路市多賀740 | 【社】伊弉諾尊が幽宮を構えて余生を過ごされた地。 |
島根県 | 揖夜神社 | 松江市東出雲町揖屋2229 | 【伝】黄泉比良坂伝説地の近くにあることから、黄泉の国に縁の深い古社とされています。 |
島根県 | 黄泉比良坂 | 松江市東出雲町揖屋2407 | 【伝】黄泉比良坂の比定地。御朱印は平賀公会堂にて拝受可能。 |
島根県 | 比婆山久米神社奥の宮(熊野神社) | 安来市伯太町横屋611-1 | 【伝】伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。 |
広島県 | 熊野神社 | 庄原市西城町熊野1160 | 【噂】伊邪那美命御陵の遥拝所だと伝えられています。御朱印はイザナミ茶屋にて拝受可能です。 |
福岡県 | 住吉神社 | 福岡市博多区住吉3-1-51 | 【由】当社の歴史は、およそ1,800年以上前に遡ります。全国に2,129社ある住吉神社の中でも、 最初の神社と云われており、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記され ています。 |
【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
広島県 | 比婆山神社 | 庄原市比和町三河内3462 | 【伝】伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。 |
徳島県 | 小門神社 | 阿南市見能林町東浦16 | 【噂】「橘の小門の阿波岐原(たちばなのをどのあわきはら)」の伝承地の一つ。イザナギ神が黄泉の国から帰還し禊を 行ったところ。一般的には「竺紫」との記述があるため九州とされますが、「阿波岐原」とも記述があるため阿波国であ るとも考えられなくもありません。 |
宮崎県 | 江田神社 | 宮崎市阿波岐原町産母127 | 【伝】敷地内には、伊邪那岐命が黄泉の国で穢れた体を清めるために身を沈めた「みそぎ池」があり、この地で天照 大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の3神を生み出した と伝わります。 |
【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
滋賀県 | 三本杉 | 犬上郡多賀町 | 【由】神代の昔、国生みの大業を終えられた伊邪那岐大神は高天の原からこの峠に天降られ、休息をなさった 時に、土地の老人が粟の飯を献上した。大神はご機嫌麗しくお召し上がりになり、食後その杉箸を地面に刺し たところ、その杉箸が根付き今見るような大木になったといわれています。 |
鳥取県 | 御墓山 | 日野郡日南町阿毘縁 | 【伝】『日野郡史』には、イザナミの葬られた地“比婆ノ山”は、御墓山のことだと伝えられているという記述 がある。 |
鳥取県 | 八石谷 | 日野郡日南町阿毘縁 | 【伝】イザナギは怒りのあまり、剣を抜き、カグツチの首を斬り落としてしまう。その血は、まわりの岩群 (いわむら)に飛び散り、そこから八柱(やばしら)の神が生まれた。大菅にある八石谷は、その八柱の神が生ま れた地だといわれている。 |
島根県 | 猪目洞窟 | 出雲市猪目町1338 | 【伝】猪目洞窟は出雲国風土記に「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、 黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれ、夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ、ここは黄泉の穴であると 記されている。また伊邪那美命(イザナミノミコト)が、死んだ伊邪那岐命(イザナギノミコト)を迎えに 行った黄泉の国の入り口であるともいう。 |
島根県 | 岩坂陵墓参考地 | 松江市八雲町日吉 | 【伝】『古事記』によると、「国生みを終えた男神イザナギノミコトと女神イザナミノミコトは、さらに神々 を生み、火の神を生んだイザナミは火傷を負って亡くなってしまいました。イザナギはその遺骸を比婆山に葬 った。」とあります。松江市大庭町と八雲町との境にある神納山(かんなやま)がその地に比定され、南端に ある古墳がイザナミノミコトの陵墓として古くから崇敬されていました。八雲町では親しみを込めて「神納の 御陵さん」と呼ばれています。 |
島根県 | 母塚山 | 米子市古市 | 【伝】伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。 |
広島県 | 千引岩 | 庄原市西城町熊野 | 【噂】最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」 と二人が問答したことから千引岩と名がついたと言われる。 |
徳島県 | 千引の岩 | 那賀郡那賀町内山日浦38 | 【噂】千人かかっても、動かせそうにない大きな岩であることから『千引(ちびき)の岩』と命名された。 |
伊邪那美
花窟神社 |
日本書記に「 一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬 村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌 い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。 花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。 南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。 此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月、及び元禄8年11月四至限界御定書を下 付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。 又、昭和23年4月10日天皇陛下が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立寄りあらせられる。 この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼 ばれる高さ12メートル程の岩がある。 この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。 |
花窟神社 |
母塚山 |
大国主(オオクニヌシ)の再生伝説の舞台「赤猪岩神社」から車で約15分、神社を見守るような位置に、母塚山は立っています。母塚 山は、国生みの女神、イザナミのお墓があった山といわれています。母塚山の展望台までは、道路が整備されており、車で行くことがで きます。展望台からは、中国山地の山々から大山、島根半島から日本海まで、パノラマの景色が楽しめ、特にここから見る大山は山陰一 の絶景とも言われています。 展望台にはベンチもあるので、天気の良い日にはお弁当を食べるのにちょうど良いロケーションです。 |
南部町 |
比婆山久米神社奥の宮(熊野神社) |
当社は、延喜式内社であって出雲風土記には久米神社・熊野神社とも記されています。主祭神は伊邪那美命でありこの比婆山は、伊邪那 美命の御神陵地としても有名で社殿奥の御陵がそれである。また尼子・松平(母里藩)の崇敬社として栄えてきたが時に子授・安産・子 育ての守護神として出雲・伯耆など近在はもとより全国各地からの参詣者が多く人々の信仰を集めている。 |
島根県神社庁 |
比婆山神社 |
古事記に記す伊邪那美命の葬所と伝えられている。もともとは比婆山の比和側に鎮座していた二千年以前の古社。 創建時代「不 詳」 所要時間5分 ― 「平成21年度版 広島県観光便覧」より ― |
ひろしま観光ナビ |
御墓山 |
御墓山 『古事記』に「イザナミノミコトは、出雲の国と伯耆の国との境、比婆山に葬りし」と記されており、御墓山はイザナミノミコトの御陵 として、庄原市西城町と安来市伯太町にまたがる比婆山とともに伝説の地として伝えられています。 |
よりみちにちなん |
熊野神社 |
中国山地にひっそりと佇む広島県庄原市の熊野神社は、古事記で日本を生んだとされる伊邪那美命(イザナミノミコト)を葬った比婆山 を遥拝する神社です。境内には杉が100本以上あり、そのうち11本が目通り幹囲(周囲)5m以上で県の天然記念物に指定されてい ます。原始的な雰囲気さえ漂う神社をご案内しましょう。 |
TABIZINE |
黄泉平坂・千引岩
揖夜神社 |
揖夜神社御鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻(かみよのまき)には「伊賦夜坂(いふやざか)」についての記述があ り、『日本書紀』齋明天皇五年(西暦659年)の条に「言屋社(いふやのやしろ)」、『出雲国風土記』に「伊布夜社(いふやのやし ろ)」、『延喜式』神明帳(じんみょうちょう)に「揖夜神社(いふやじんじゃ)」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知ら れていた古社であることは疑うべくもありません。 神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜 大社」「揖屋大社」と称されていた様です。 |
ひがしいずもネット |
黄泉比良坂 |
古事記神話に登場するイザナキ、イザナミの夫婦神は日本の国土と多くの神々を生み出したことで有名ですが、二人が現世と死後の世界 に引き裂かれた舞台となったのが、松江市東出雲町にある黄泉津比良坂(よもつひらさか)といわれています。 静かなたたずまいの中、黄泉(よみ)の国への入り口をふさいだ大きな岩が神秘的な雰囲気を醸し出しています。 この世とあの世をつなぐ舞台といわれる根拠は、黄泉津比良坂の近くにあるイザナミを祀(まつ)った揖夜(いや)神社が、出雲国風土 記に「伊布夜(いふや)社」と記され、古事記では「出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか)」と記されていることから、伝承地とされてい ます。 揖夜神社は出雲地方でも最古級の一社で、堂々とした大社造りの本殿は風格が感じられ、拝殿に置かれた円鏡に写し出された光景はどこ か幻想的です。 【以下略】 |
島根県 |
猪目洞窟 |
縄文から古墳時代にかけての埋葬や生活を物語る数々の遺物が発見された洞窟。「出雲國風土記」に記載のある黄泉の穴はこの洞窟だと いわれます。 |
出雲観光ガイド |
千引岩:徳島県 |
この大岩は,『古事記や日本書紀』に書かれた「千引岩(ちびきのいわ)・千人所引磐石(ちびきのいわ)」に推定される。 日本最古の歴史書『古事記』によると,国造りの途中で亡くなった妻,伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉(よみ)の国, 比婆山(ひばやま)へ会いに行った伊邪那岐命(いざなぎみこと)は,「見てはいけない」と言われた醜い妻の亡骸を見たため妖怪達に 追われるはめとなった。 逃げる途中に投げつけた髪を束ねた葛や櫛が,山葡萄や竹の子に変わり,それを追っ手が食べている間に逃げのびたが,なおも追ってく るので坂本にあった桃の実を投げつけると追っ手達は逃げ帰ってしまった。 最後に伊邪那美命(いざなみのみこと),自身らが追いかけてきたので,伊邪那岐命(いざなぎみこと)は,千引の岩で道を塞いだ。 黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎみこと)が,竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あわき はら)で,禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさ のおのみこと)が生まれたと書かれている。 『古事記』に書かれたこの物語は,現在の徳島県内の地名に当てはまる所が多く,徳島県山川町から阿南市見能林町までの地域を舞台と して繰り広げられた物語と考えられるのである。 伊射奈美(いざなみ)神社は,『延喜式(えんぎしき)神名帳』(平安時代九二七年)に阿波国に一社のみ記録され,ほかの県にはあり ません。 『古事記』の物語は,この式内社 伊射奈美(いざなみ)神社がある穴吹町舞中島から始まり,高越山(こおつざん)を経て「カズラを 投げたら実が生った」と書かれる。上勝町雄中面(おなかずら)・生実(いくみ)。 「くし櫛の歯を投げると竹の子が生えた」竹ガ谷・(旧やつら八面神社に竹を型取った,灯ろうがある)「桃を投げた」丹生谷(にゅう だに)地域には,百合(もあい)・桃の木坂・桃付等の地名があり,神社には桃を型取った木彫りがある。また,相生町には,昔からヨ ミ坂と呼ばれる坂もある。 黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎみこと)が,四国の東端の阿南市見能林町柏野で,禊(みそ)ぎ祓(はら)いを すると天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれた。 以上が,『古事記』等に書かれる「千引岩(ちびきのいわ)」に関わる物語である。 |
「阿波古事記研究会」現地看板 |
阿波岐原
血洗神社 |
安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承 神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血 洗の池と呼名され、胞衣は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字ホツマ (秀眞伝) の記録に判然として 残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの 処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住 時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍に より土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国 明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神とし て霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 大海人皇子(天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入り て当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬 街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の 一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六 十年記念事業として之を建つ。 昭和六十一年五月三日 血洗神社氏子一同 |
血洗神社境内由緒書 |
江田神社 |
「みそぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」として知られる江田神社。その歴史は非常に古く、10世紀の初期に記された『延喜式』にもその名 を見ることができます。 日本最初の夫婦と言われる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と 伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っており、良縁を願う参拝者が多く 訪れます。 同じ敷地内には、伊邪那岐命が黄泉の国で穢れた体を清めるために身を沈めた「みそぎ池」があり、この地で天照大神(あまてらすおお みかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の3神を生み出したと伝わります。 また、強いパワーを持つと言われる御神木が2つあり、1つは社殿左側に植えられた招霊木(おがたまのき)は天岩戸伝説に登場する赤い 実をつける木。もう1つは大きなクスノキで、木の下の方にあるコブに触れると強運を得られると言われています。 |
宮崎市観光サイト |
住吉神社
住吉神社:福岡県 |
住吉神社は底筒男神(そこつつのをのかみ)、中筒男神(なかつつのをのかみ)、表筒男神(うわつつのをのかみ)の住吉三神を祭神と しています。御出現は、伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされたときにお 生まれになったと「古事記」に記されています。相殿(あいどの)には天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、神功皇后(じんぐう こうごう)を配祀し、これを併せて住吉五所大神とも呼ばれています。 住吉神社の御神徳は、ミソギハラヘの御出現の由来から、「心身の清浄」を以てすべての災から身を護る神として古より広く信仰されて います。 また、つつのを(筒男)の「つつ」には星の意味があると云われ、航海・海上の守護神としても厚い崇敬があります。 |
住吉神社 |
伊邪那岐
多賀大社 |
和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀 に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし 『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産 みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」 は「淡路」の誤写である可能性が高い。 |
Wikipedia |
伊弉諾神宮 |
古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委譲され、 最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮」を構へて余生を過ごされたと記される。 その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、當神宮の起源である。地元では「いっくさん」と別称さ れ日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められている。 本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は、禁足の聖地であった。御陵を中心として神域の周囲 に濛が巡らされたと伝え、正面の神池や背後の湿地はこの周濛の遺構という。 建物や工作物は、明治九年から同二十一年に官費で造営さ れたものが殆どだが、神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進による。 境内地は、約一万五千坪。沖積地にあって天然記念 物の大楠など照葉樹林に覆はれ、四季を彩る草木が繁茂する日本最古のお社である。江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領した とあり、広大な神域であった。 |
伊弉諾神宮 |