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黄泉の国

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記紀

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古事記【原文】 古事記【現代語】 日本書紀【現代語】 日本書紀【原文】 備考
故爾伊邪那岐命詔之「
愛我那邇妹命乎那邇二
字以音、下效此」謂「
易子之一木乎」
そこで伊邪那岐命の仰せられるには、「わた
しの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ
。」と仰せられて、
そのとき、伊弉諾尊が恨んで言われたのが、
「ただこの一人の子のために、我が愛妻を犠
牲にしてしまった。」
于時、伊弉諾尊恨之曰
「唯以一兒、替我愛之
妹者乎。」
乃匍匐御枕方、匍匐御
足方而哭時、於御淚所
成神、坐香山之畝尾木
本、名泣澤女神。
伊邪那岐命の枕の方や足の方に這い臥して泣
かれた時に、涙で出現した神は香具山の麓の
小高い所の木の下においでになる泣沢女神で
す。
そして、伊奘冉尊の頭や足のあたりを這いず
り回って、泣き悲しみ、涙を流された。その
涙が落ちて神となった。これが丘の上の木の
下に現れる神で、啼澤女命という。
則匍匐頭邊、匍匐脚邊
而哭泣流涕焉、其淚墮
而爲神、是卽畝丘樹下
所居之神、號啼澤女命
矣。
故、其所神避之伊邪那
美神者、葬出雲國與伯
伎國堺比婆之山也。
このお隱れになった伊邪那美命は出雲国と伯
耆国との境にある比婆山にお葬り申し上げま
した。
伊弉冉陵墓
├三重県:花窟神社
├広島県:比婆山久米神社
├島根県:比婆山久米神社奥の宮
├鳥取県:御墓山
├島根県:岩坂陵墓参考地
└島根県:母塚山
於是伊邪那岐命、拔所
御佩之十拳劒、斬其子
迦具土神之頸。
ここに伊邪那岐命は、お佩きになっていた長
い剣を抜いて御子の迦具土神の頸をお斬りに
なりました。
伊弉諾尊はついに、腰に下げた十握剣を抜い
て、軻遇突智を三段に切った。その各々が神
となった。
遂拔所帶十握劒、斬軻
遇突智爲三段、此各化
成神也。
爾著其御刀前之血、走
就湯津石村、所成神名
、石拆神、次根拆神、
次石筒之男神。
その劒の先についた血が清らかな巖に走りつ
いて出現した神の名は、石拆神、次に根拆神
、次に石筒之男神であります。
また、剣の刃からしたたる血が、天安河のほ
とりにあるたくさんの岩群となった。これは
経津主神の先祖である。
復劒刃垂血、是爲天安
河邊所在五百箇磐石也
、卽此經津主神之祖矣
鳥取県:八石谷
三神次著御刀本血亦、
走就湯津石村、所成神
名、甕速日神、次樋速
日神、次建御雷之男神
、亦名建布都神布都二
字以音、下效此、亦名
豐布都神。
次にその劒のもとの方についた血も、巖に走
りついて出現した神の名は、甕速日神、次に
樋速日神、次に建御雷之男神(建布都神、豊
布都神)です。
また、剣の鍔からしたたる血が注がれ、神に
なった。その名を甕速日神という。次に熯速
日神が生まれた。その熯速日神は、武甕槌神
の先祖である。または甕速日命、次に熯速日
命。次に武甕槌神が生まれたとも言われる。
復劒鐔垂血、激越爲神
、號曰甕速日神、次熯
速日神、其甕速日神是
武甕槌神之祖也、亦曰
甕速日命、次熯速日命
、次武甕槌神。
また、剣の先から滴る血が注がれて神となり
、その名を岩裂神という。次に根裂神。次に
磐筒男命が生まれた。ある言い伝えには、磐
筒男命と磐筒女命と言っている。
復劒鋒垂血、激越爲神
、號曰磐裂神、次根裂
神、次磐筒男命、一云
磐筒男命及磐筒女命。
三神次集御刀之手上血
、自手俣漏出、所成神
名訓漏云久伎、闇淤加
美神淤以下三字以音、
下效此、次闇御津羽神
次に剣の柄に集まる血が手からこぼれ出して
出現した神の名は闇淤加美神、次に闇御津羽
神であります。
また、剣の柄頭から滴った血が神となった。
その名を闇龗という。次に闇山祇。次に闇罔
象が生まれた。
復劒頭垂血、激越爲神
、號曰闇龗、次闇山祇
、次闇罔象。
上件自石拆神以下、闇
御津羽神以前、幷八神
者、因御刀所生之神者
也。
以上石拆神から闇御津羽神まで合わせて八神
は、御剣によって出現した神です。
所殺迦具土神之於頭所
成神名、正鹿山上津見
神。次於胸所成神名、
淤縢山津見神。淤縢二
字以音。次於腹所成神
名、奧山上津見神。次
於陰所成神名、闇山津
見神。次於左手所成神
名、志藝山津見神。志
藝二字以音。次於右手
所成神名、羽山津見神
。次於左足所成神名、
原山津見神。次於右足
所成神名、戸山津見神
。自正鹿山津見神至戸
山津見神、幷八神。
殺されなさいました迦具土神の、頭に出現し
た神の名は正鹿山津見神、胸に出現した神の
名は縢山津見神、腹に出現した神の名は奧山
津見神、御陰に出現した神の名は闇山津見神
、左の手に出現した神の名は志芸山津見神、
右の手に出現した神の名は羽山津見神、左の
足に出現した神の名は原山津見神、右の足に
出現した神の名は戸山津見神であります。正
鹿山津見神から戸山津見神まで合わせて八神
です。
故、所斬之刀名、謂天
之尾羽張、亦名謂伊都
之尾羽張。伊都二字以
音。
そこでお斬りになつた剣の名は天之尾羽張(
伊都之尾羽張)といいます。
於是、欲相見其妹伊邪
那美命、追往黃泉國。
伊邪那岐命はお隠れになった女神にもう一度
会いたいと思われて、後を追って黄泉国に行
かれました。
その後、伊弉諾尊は伊奘冉尊を追いかけて、
黄泉の国まで行って話し合われた。
然後、伊弉諾尊、追伊
弉冉尊、入於黃泉而及
之共語時、
爾自殿騰戸出向之時、
伊邪那岐命語詔之「愛
我那邇妹命、吾與汝所
作之國、未作竟。故、
可還。」
そこで女神が御殿でお出迎えになった時に、
伊邪那岐命は、「最愛のわたしの妻よ、まだ
国造りの途中ですから、還っていらっしゃい
。」と仰せられました。
爾伊邪那美命答白「悔
哉、不速來、吾者爲黃
泉戸喫。然、愛我那勢
命那勢二字以音、下效
此入來坐之事恐。故、
欲還、且與黃泉神相論
。莫視我。」
伊邪那美命は、「それは殘念なことを致しま
した。早くいらっしゃらないので私は黄泉国
の食物を食べてしまいました。しかしあなた
様がわざわざおいで下さったのですから、何
なんとかして還りたいと思います。黄泉国の
神樣に相談をして參りましょう。その間私を
御覽になってはいけません。」
そのとき、伊奘冉尊は、「わが夫の尊よ、い
らっしゃるのが遅すぎました。私はもう黄泉
の国の食物を食べてしまいました。そして、
私はもう寝ようとするところです。どうか寝
姿を見ないでください」と言った。
伊弉冉尊曰「吾夫君尊
、何來之晩也。吾已湌
泉之竈矣。雖然、吾當
寢息、請勿視之。」
如此白而還入其殿內之
間、甚久難待、
とお答えになって、御殿に戻られましたが、
なかなか出ておいでになりません。
故、刺左之御美豆良三
字以音、下效此湯津津
間櫛之男柱一箇取闕而
、燭一火入見之時、宇
士多加禮許呂呂岐弖此
十字以音、
しびれを切らして左の耳のあたりに束ねた髮
に挿していた清らかな櫛の太い歯を一本欠い
て火を灯し、入って御覽になると蛆が湧いて
ごろごろと鳴っており、
伊弉諾尊は聞き入れず、こっそりと爪櫛をと
ってその端の太い歯を欠き、手灯として見る
と、膿が流れ、蛆が湧いている伊奘冉尊の姿
があった。今の世の人が、夜一つの火を灯す
ことを忌み、また夜、櫛を投げることを忌む
のは、これがその起こりである。
伊弉諾尊、不聽、陰取
湯津爪櫛、牽折其雄柱
、以爲秉炬而見之者、
則膿沸蟲流。今世人、
夜忌一片之火・又夜忌
擲櫛、此其緣也。
於頭者大雷居、於胸者
火雷居、於腹者黑雷居
、於陰者拆雷居、於左
手者若雷居、於右手者
土雷居、於左足者鳴雷
居、於右足者伏雷居、
幷八雷神成居。
頭には大きな雷が、胸には火の雷が、腹には
黒い雷が、陰にはさかんな雷が、左の手には
若い雷が、右の手には土の雷が、左の足には
鳴る雷が、右の足には伏せている雷が居て、
合わせて八種の雷神が出現していました。
このとき、伊弉諾尊は大いに驚き、「私は思
いがけぬ酷く汚い国にやってきた」と言って
、急いで逃げ帰った。
時、伊弉諾尊、大驚之
曰「吾不意、到於不須
也凶目汚穢之國矣。」
乃急走廻歸。
於是伊邪那岐命、見畏
而逃還之時、其妹伊邪
那美命言「令見辱吾。
」卽遣豫母都志許賣此
六字以音令追、
そこで伊邪那岐命が驚いて逃げてお還りにな
る時に伊邪那美命は「わたしに恥をかかせた
。」と言って豫母都志許賣に追わせました。
そのとき、伊奘冉尊が恨んで言った。「どう
して覗き見して下さるなという約束を守らず
、私に恥をかかせたのですか」そして、冥界
の鬼女八人、あるいは泉津日狭女という女を
遣わして追いかけさせた。
于時、伊弉冉尊恨曰「
何不用要言、令吾恥辱
。」乃遣泉津醜女八人
、一云泉津日狹女、追
留之。
爾伊邪那岐命、取黑御
𦆅投棄、乃生蒲子。
伊邪那岐命が御髮につけていた黒い木の蔓の
輪を取って投げたところに、野葡萄が生えて
なりました。
そこで伊弉諾尊は、剣を抜き後を振り払いな
がら逃げた。また、髪に巻いていた蔓草の飾
りを投げた。これが葡萄になった。
故伊弉諾尊、拔劒背揮
以逃矣。因投黑鬘、此
卽化成蒲陶、
是摭食之間、逃行、猶
追、
それを取って食べている間に逃げましたが、
なおも追いかけてきたので、
醜女はこれを見て拾って食べた。食べ終わる
とまた追いかけてきた。
醜女見而採噉之、噉了
則更追。
亦刺其右御美豆良之湯
津津間櫛引闕而投棄、
乃生笋。
今度は右の耳に束ねた髮に挿していた清らか
な櫛の歯を欠いてお投げになると筍が生えま
した。
伊弉諾尊はまた爪櫛を投げた。これが筍にな
った。
伊弉諾尊、又投湯津爪
櫛、此卽化成筍、
是拔食之間、逃行。 それを抜いて食べている間にお逃げになりま
した。
醜女はまたそれを抜いて食べた。食べ終わる
とまた追いかけてきた。
醜女亦以拔噉之、噉了
則更追。
且後者、於其八雷神、
副千五百之黃泉軍、令
追。
今度は八雷神が、沢山の黄泉の軍勢を連れて
追ってきました。
爾拔所御佩之十拳劒而
、於後手布伎都都此四
字以音逃來、猶追、到
黃泉比良此二字以音坂
之坂本時、取在其坂本
桃子三箇待擊者、悉迯
返也。
そこで佩いていた十拳剣を後手に振りながら
逃げたのですが、なおも追って、黄泉比良坂
の坂本まで来た時に、その坂本にあつた桃の
実を三つ取って投げたところ、皆逃げて行き
ました。
爾伊邪那岐命、告其桃
子「汝、如助吾、於葦
原中國所有宇都志伎此
四字以音青人草之落苦
瀬而患惚時、可助。」
告、賜名號、意富加牟
豆美命。自意至美以音
そこで伊邪那岐命はその桃の実に、「お前が
わたしを助けたように、この葦原中国に生活
している多くの人間たちが苦しむ時には助け
ておくれ。」といい、意富加牟豆美命と名付
けました。
最後、其妹伊邪那美命
、身自追來焉。
最後には伊邪那美命が御自身で追っておいで
になった.
あとから伊奘冉尊自身も追いかけてきた。こ
のとき、伊弉諾尊は、もう黄泉の国の境の、
平坂についた。
後則伊弉冉尊、亦自來
追。是時、伊弉諾尊、
已到泉津平坂。
一説では、伊弉諾尊は大樹に向かって放尿さ
れた。これが大きな川となった。泉津日狭女
がこの川を渡ろうとする間は、伊弉諾尊はも
う泉津平坂に着いたという。
一云「伊弉諾尊、乃向
大樹放尿、此卽化成巨
川。泉津日狹女、將渡
其水之間、伊弉諾尊、
已至泉津平坂。」
爾千引石引塞其黃泉比
良坂、其石置中、各對
立而、度事戸之時、
大きな巖石で黄泉比良坂を塞ぎ、その石を中
に置いて両方で向かい合って離別の言葉を交
かわした時に、
そこで千引きの磐で、その坂路を塞ぎ、伊奘
冉尊と向かいあって、縁切りの呪言をはっき
りと唱えた。
故便以千人所引磐石、
塞其坂路、與伊弉冉尊
相向而立、遂建絶妻之
誓。
千引岩
├広島県:千引岩
└徳島県:千引の岩
伊邪那美命言「愛我那
勢命、爲如此者、汝國
之人草、一日絞殺千頭
。」
伊邪那美命が仰せられるには、「あなたがこ
んなことをなされるなら、わたしはあなたの
国の人間を一日に千人も殺してしまいます。
」といわれました。
そのとき、伊奘冉尊が言われたのは、「愛す
るわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃる
ならば、私はあなたが治める国の民を、一日
に千人ずつ締め殺そう」
時伊弉冉尊曰「愛也吾
夫君、言如此者、吾當
縊殺汝所治國民日將千
頭。」
爾伊邪那岐命詔「愛我
那邇妹命、汝爲然者、
吾一日立千五百產屋。
そこで伊邪那岐命は「あんたがそうなされる
なら、わたしは一日に千五百も産屋を立てて
見せる。」と仰せられました。
伊奘諾尊がそれに答える。「愛するわが妻が
、そのように言うなら、私は一日に千五百人
ずつ生ませよう」
伊弉諾尊、乃報之曰「
愛也吾妹、言如此者、
吾則當産日將千五百頭
。」
是以、一日必千人死・
一日必千五百人生也。
こういう次第で一日にかならず千人死に、一
日にかならず千五百人生まれるのです。
そして、「これより入ってはならぬ」と言っ
て、持っていた杖を投げられた。これを岐神
という。また持っていた帯を投げられた。こ
れを長道磐神という。また着ていた衣を投げ
られた。これを煩神という。またその申又を
投げられた。これを開嚙神という。
因曰「自此莫過。」卽
投其杖、是謂岐神也、
又投其帶、是謂長道磐
神、又投其衣、是謂煩
神、又投其褌、是謂開
囓神、
故、號其伊邪那美神命
、謂黃泉津大神。
かくしてその伊邪那美命を黃泉津大神と申し
ます。
亦云、以其追斯伎斯此
三字以音而、號道敷大
神。
またその追いかけたので、道敷大神とも申す
ということです。
またその履を投げられた。これを道敷神とい
う。
又投其履、是謂道敷神
亦所塞其黃泉坂之石者
、號道反大神、亦謂塞
坐黃泉戸大神。
その黄泉の坂を塞いでいる巖石は、道反大神
、またの名を塞坐黃泉戸大神と申します。
いわゆる泉津平坂というのは別世界のところ
ではない。ただ死に臨んで、息が絶えそうな
時をこういうのだと。塞がっている磐石とは
、冥界の入口にふさがっている大神のことで
ある。別名を道返大神という。
其於泉津平坂、或所謂
泉津平坂者、不復別有
處所、但臨死氣絶之際
、是之謂歟。所塞磐石
、是謂泉門塞之大神也
、亦名道返大神矣。
故、其所謂黃泉比良坂
者、今謂出雲國之伊賦
夜坂也。
その黄泉比良坂というのは、今の出雲国の伊
賦夜坂という坂です。
黄泉平坂
├島根県:揖屋神社
├島根県:黄泉比良坂
└島根県:猪目洞窟
是以、伊邪那伎大神詔
「吾者到於伊那志許米
上志許米岐此九字以音
穢國而在祁理。此二字
以音。故、吾者爲御身
之禊」
伊邪那岐命は黄泉国からお還りになって、「
厭な汚い国に行ってきたので、私は禊をしよ
うと思う。」
伊奘諾尊が帰られて、後悔しながらこう言っ
た。「私はさきにひどく汚い所に行ってきた
。だから私の体の汚れたところを洗い流そう
伊弉諾尊、既還、乃追
悔之曰「吾、前到於不
須也凶目汚穢之處。故
、當滌去吾身之濁穢。
而、到坐竺紫日向之橘
小門之阿波岐此三字以
音原而、禊祓也。
と仰せられて、筑紫の日向の橘の小門の阿波
岐原においでになつて禊をなさいました。
伊弉諾尊は、筑紫の日向の川の落ち口の、橘
の檍原に行かれて、祓払いをされた。
則往、至筑紫日向小戸
橘之檍原而秡除焉、遂
將盪滌身之所汚、
阿波岐原
├徳島県:小門神社
└宮崎県:江田神社
故、於投棄御杖所成神
名、衝立船戸神。
投げ棄てた杖から現れた神は衝立船戸神、
次於投棄御帶所成神名
、道之長乳齒神。
投げ棄てた帯から現れた神は道之長乳歯神、
次於投棄御囊所成神名
、時量師神。
投げ棄てた袋から現れた神は時量師神、
次於投棄御衣所成神名
、和豆良比能宇斯能神
。此神名以音。
投げ棄てた衣から現れた神は和豆良比能宇斯
能神、
次於投棄御褌所成神名
、道俣神。
投げ棄てた褌から現れた神は道俣神、
次於投棄御冠所成神名
、飽咋之宇斯能神。自
宇以下三字以音。
投げ棄てた冠から現れた神は飽咋之宇斯能神
次於投棄左御手之手纒
所成神名、奧疎神。訓
奧云於伎。下效此。訓
疎云奢加留。下效此。
投げ棄てた左の腕巻から現れた神は奧疎神と
次奧津那藝佐毘古神。
自那以下五字以音。下
效此。
奧津那藝佐毘古神と
次奧津甲斐辨羅神。自
甲以下四字以音。下效
此。
奧津甲斐辨羅神、
次於投棄右御手之手纒
所成神名、邊疎神。
投げ棄てた右の腕巻から現れた神は邊疎神と
次邊津那藝佐毘古神。 邊津那藝佐毘古神と
次邊津甲斐辨羅神。 邊津甲斐辨羅神とであります。
右件自船戸神以下、邊
津甲斐辨羅神以前、十
二神者、因脱著身之物
、所生神也。
以上の船戸神から邊津甲斐辨羅神まで十二神
は、お身体につけてあった物を投げ棄てられ
たので現れた神です。
於是詔之「上瀬者瀬速
、下瀬者瀬弱。」而、
初於中瀬墮迦豆伎而滌
時、所成坐神名、八十
禍津日神訓禍云摩賀、
下效此。、次大禍津日
神、
そこで、「上流の瀬が速く、下流の瀬が弱い
。」と仰せられて、真中の瀬に下りて身体を
お洗いになった時に現れた神は、八十禍津日
神と大禍津日神でした。
体の汚い所を濯ぐ際、伊弉諾尊は、「上の瀬
は大へん流れが速い。下の瀬は大へん流れが
弱い」と考え、中の瀬で濯ぎをされた。それ
によって生まれた神を名づけて、八十枉津日
神という。
乃興言曰「上瀬是太疾
、下瀬是太弱。」便濯
之於中瀬也、因以生神
、號曰八十枉津日神。
此二神者、所到其穢繁
國之時、因汚垢而所成
神之者也。次爲直其禍
而所成神名、神直毘神
毘字以音、下效此、次
大直毘神、次伊豆能賣
神。幷三神也。伊以下
四字以音。
この二神は、あの黄泉国の穢れによって現れ
た神です。次にその禍いを直なおそうとして
あらわれた神は、神直毘神と大直毘神と伊豆
能売神です。
次にその汚れたのを直そうとして生まれた神
を、神直日神という。次に大直日神。
次將矯其枉而生神、號
曰神直日神、次大直日
神。
次於水底滌時、所成神
名、底津綿上津見神、
次底筒之男命。於中滌
時、所成神名、中津綿
上津見神、次中筒之男
命。於水上滌時、所成
神名、上津綿上津見神
訓上云宇閇、次上筒之
男命。
次に水底でお洗いになった時に現れた神は底
津綿津見神と底筒之男命、水中でお洗いにな
った時に現れた神は中津綿津見神と中筒之男
命、水面でお洗いになった時に現れた神は上
津綿津見神と上筒之男命です。
また水の底に潜って濯いだ。それによって生
まれた神を、名づけて底津少童命という。次
に底筒男命。また潮の中に潜って濯いだ。そ
れによって生まれた神を、名づけて中津少童
命という。次に中筒男命。また潮の上に浮い
て濯いだ。それによって生まれた神を、名づ
けて表津少童命という。次に表筒男命。全部
で九神がお出でになった。
又沈濯於海底、因以生
神、號曰底津少童命、
次底筒男命。又潛濯於
潮中、因以生神、號曰
表中津少童命、次中筒
男命。又浮濯於潮上、
因以生神、號曰表津少
童命、次表筒男命。凡
有九神矣。
此三柱綿津見神者、阿
曇連等之祖神以伊都久
神也。伊以下三字以音
、下效此。故、阿曇連
等者、其綿津見神之子
、宇都志日金拆命之子
孫也。宇都志三字、以
音。其底筒之男命、中
筒之男命、上筒之男命
三柱神者、墨江之三前
大神也。
このうち御三方の綿津見神は安曇氏の祖先神
です。よって安曇の連たちは、その綿津見神
の子、宇都志日金拆命の子孫です。また、底
筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の御三方
は住吉神社の三座の神樣であります。
その底筒男命、中筒男命、表筒男命は住吉大
神である。底筒少童命、中筒少童命、表津
少童命は阿曇連らがお祀りする神である。
其底筒男命・中筒男命
・表筒男命、是卽住吉
大神矣。底津少童命・
中津少童命・表津少童
命、是阿曇連等所祭神
矣。
福岡県:住吉神社
於是、洗左御目時、所
成神名、天照大御神。
次洗右御目時、所成神
名、月讀命。次洗御鼻
時、所成神名、建速須
佐之男命。須佐二字以
音。
かくて伊邪那岐命が左の目をお洗いになった
時に御出現になった神は天照大御神、右の目
をお洗いになった時に御出現になった神は月
読命、鼻をお洗いになった時に御出現になっ
た神は建速須佐之男命でありました。
それからのち、左の眼を洗われると、お生ま
れになった神を天照大神という。また右の眼
を洗われると、お生まれになった神を、名づ
けて月読尊という。また鼻を洗われるとお生
まれになった神を、名づけて素戔嗚尊という
。皆で三柱の神である。
然後、洗左眼、因以生
神、號曰天照大神。復
洗右眼、因以生神、號
曰月讀尊。復洗鼻、因
以生神、號曰素戔嗚尊
。凡三神矣。
右件八十禍津日神以下
、速須佐之男命以前、
十四柱神者、因滌御身
所生者也。
以上、八十禍津日神から速須佐之男命まで十
神は、お身体をお洗いになったので現れた神
樣です。
此時伊邪那伎命、大歡
喜詔「吾者生生子而、
於生終得三貴子。」
伊邪那岐命はたいへん喜ばれ、「わたしは随
分沢山の子を生んだが、一番しまいに三人の
貴い御子を得た。」と仰せられて、
伊奘諾尊が三柱の子にそれぞれ任命したのは
、「天照大神は高天原を治めなさい。月読尊
は青海原の潮流を治めなさい。素戔嗚尊は天
下を治めなさい」
已而、伊弉諾尊、勅任
三子曰「天照大神者、
可以治高天原也。月讀
尊者、可以治滄海原潮
之八百重也。素戔嗚尊
者、可以治天下也。」
卽其御頸珠之玉緖母由
良邇此四字以音、下效
此取由良迦志而、賜天
照大御神而詔之「汝命
者、所知高天原矣。」
事依而賜也、故其御頸
珠名、謂御倉板擧之神
。訓板擧云多那。
頸に掛けておいでになった玉の緒をゆらゆら
と搖らがして天照大御神にお授けになって、
「あなたは天をお治めなさい。」と仰せられ
ました。この御頸に掛けた珠の名を御倉板擧
之神と申します。
次詔月讀命「汝命者、
所知夜之食國矣。」事
依也。訓食云袁須。次
詔建速須佐之男命「汝
命者、所知海原矣。」
事依也。
次に月読命に、「あなたは夜の世界をお治め
なさい。」と仰せになり、建速須佐之男命に
は、「海上をお治めなさい。」と仰せになり
ました。
故、各隨依賜之命、所
知看之中、速須佐之男
命、不知所命之國而、
八拳須至于心前、啼伊
佐知伎也。自伊下四字
以音。下效此。
それぞれ命ぜられたままに治められる中に、
速須佐之男命だけは命ぜられた国をお治めな
さらないで、長い髭が胸に垂れさがる年頃に
なってもただ泣きわめいておりました。
このとき素戔嗚尊は齢もたけ、長い髭が伸び
ていた。けれども、天下を治められなくて、
いつも泣き恨んでおられた。
是時、素戔嗚尊、年已
長矣、復生八握鬚髯、
雖然不治天下、常以啼
泣恚恨。
其泣狀者、青山如枯山
泣枯、河海者悉泣乾。
その泣く有樣は、青山が枯山となり、海や河
も乾してしまいました
是以惡神之音、如狹蠅
皆滿、萬物之妖悉發。
そういう次第ですから乱暴な神の物音は夏の
蠅が騷ぐようにいっぱいになり、あらゆる災
いが起りました。
故、伊邪那岐大御神、
詔速須佐之男命「何由
以、汝不治所事依之國
而、哭伊佐知流。」
そこで伊邪那岐大御神が速須佐之男命に「ど
ういうわけであなたは命ぜられた国を治めな
いで泣きわめいているのか。」と問われたの
で、
そこで伊奘諾尊が尋ねた。「お前はなぜいつ
もこんなに泣いているのか?」
故、伊弉諾尊問之曰「
汝、何故恆啼如此耶。
爾答白「僕者欲罷妣國
根之堅洲國、故哭。」
「わたくしは母上のおいでになる黄泉国に行
きたいと思うので泣いております。」と答え
られました。
素戔嗚尊は答えた。「私は母について根の国
に行きたいと思ってただ泣くのです」
對曰「吾欲從母於根國
、只爲泣耳。」
スサノヲは男親のみによる単為生殖だったの
では?
爾伊邪那岐大御神大忿
怒詔「然者、汝不可住
此國。」乃神夜良比爾
夜良比賜也。自夜以下
七字以音。
伊邪那岐大御神は大変お怒りになって、「そ
れならあなたはこの国には住んではならない
。」と仰せられて追い払ってしまいました。
伊奘諾尊はこれに不満をもち、「望み通りに
しなさい」といって素戔嗚尊を追いやった。
伊弉諾尊惡之曰「可以
任情行矣。」乃逐之。
伊邪那岐大神が高天原から天降る。 滋賀県:三本杉
別伝7では、伊奘諾尊が剣を抜いて軻遇突智
を斬って、三つに断たれた。その一つは雷神
となった。またその一つは大山祇神となった
。また一つは高鼈となった。
一書曰、伊弉諾尊、拔
劒斬軻遇突智、爲三段
。其一段是爲雷神、一
段是爲大山祇神、一段
是爲高龗。
軻遇突智を斬ったときに、その血が降り注い
で、天の八十河原にある沢山の岩を染めた。
それによって生まれた神を、名づけて磐裂神
という。次に根裂神。その子の磐筒男神。次
に磐筒女神。その子の経津主神が生まれた。
又曰、斬軻遇突智時、
其血激越、染於天八十
河中所在五百箇磐石、
而因化成神、號曰磐裂
神。次根裂神、兒磐筒
男神。次磐筒女神、兒
經津主神。
倉稻魂はウカノミタマと、少童はワタツミと
、頭邊はマクラヘと、脚邊はアトヘと、熯は
ヒと読む。龗はオカミと読む。吾夫君はアガ
ナセと、湌泉之竈はヨモツヘグヒと、秉炬は
タヒと、不須也凶目汚穢はイナシコメキキタ
ナキと、醜女はシコメと、背揮はシリヘデブ
フクと、泉津平坂はヨモツヒラサカと、尿は
ユマリと読む。絶妻之誓はコトドと、岐神は
フナトノカミと、檍はアハキと読む。
倉稻魂、此云宇介能美
拕磨。少童、此云和多
都美。頭邊、此云摩苦
羅陛。脚邊、此云阿度
陛、熯火也、音而善反
。龗、此云於箇美、音
力丁反。吾夫君、此云
阿我儺勢。湌泉之竈、
此云譽母都俳遇比。秉
炬、此云多妣。不須也
凶目汚穢、此云伊儺之
居梅枳枳多儺枳。醜女
、此云志許賣。背揮、
此云志理幣提爾布倶。
泉津平坂、此云餘母都
比羅佐可。尿、此云愈
磨理、音乃弔反。絶妻
之誓、此云許等度。岐
神、此云布那斗能加微
。檍、此云阿波岐。
別伝8によると、伊奘諾尊が軻遇突智命を斬
って、五つに断たれた。これらはそれぞれ五
つの山祇となった。第一の頭は大山祇となっ
た。第二の胴体は中山祇となった。第三の手
は麓山祇となった。第四の腰は正勝山祇とな
った。第五の脚は雜山祇となった。このとき
に斬られた血が降り注いで、石や砂や草木が
染まった。これが草木や石や砂自体が火によ
って燃える由来である。
一書曰、伊弉諾尊、斬
軻遇突智命、爲五段。
此各化成五山祇。一則
首、化爲大山祇。二則
身中、化爲中山祇。三
則手、化爲麓山祇。四
則腰、化爲正勝山祇。
五則足、化爲䨄山祇。
是時、斬血激灑、染於
石礫・樹草。此草木沙
石自含火之緣也。
麓とは山の下の方のことでハヤマと読む。正
勝はマサカまたはマサカツと読む。䨄はシギ
と読む。
麓、山足曰麓、此云簸
耶磨。正勝、此云麻沙
柯、一云麻左柯豆。䨄
、此云之伎、音鳥含反
別伝9によると、伊奘諾尊がその妻を見たい
と思われて、殯斂のところへ向かった。この
とき伊奘冉尊はまだ生きていた頃の姿で出迎
え、一緒に話された。伊奘冉尊は、「我が夫
よ。どうか私をご覧にならないで下さい」と
言った。
一書曰、伊弉諾尊、欲
見其妹、乃到殯斂之處
。是時、伊弉冉尊、猶
如生平、出迎共語。已
而謂伊弉諾尊曰「吾夫
君尊、請勿視吾矣。」
そう言うとたちまち見えなくなった。そこが
暗かったので、伊奘諾尊は一片の火を灯して
ご覧になった。見ると、伊奘冉尊は死体が膨
れ上がっていた。その上には八種類の雷が起
きていた。伊奘諾尊は驚いて逃げ帰った。
言訖忽然不見、于時闇
也。伊弉諾尊、乃舉一
片之火而視之、時伊弉
冉尊、脹滿太高。上有
八色雷公、伊弉諾尊、
驚而走還、
このとき、雷たちが皆立ち上って追ってきた
。そこで伊弉諾尊は、道の傍に大きな桃の木
を見つけ、その木の下に隠れた。そして、そ
の実を採って雷に投げつけると、雷たちは皆
逃げていった。このことが、桃によって鬼を
防ぐ由来である。
是時、雷等皆起追來、
時道邊有大桃樹、故伊
弉諾尊、隱其樹下、因
採其實、以擲雷者、雷
等皆退走矣、此用桃避
鬼之緣也。
このとき伊奘諾尊は、その杖を投げてこう言
った。「ここからこちらへ雷は来ることがで
きない」これを岐神という。この神の本名は
来名戸の祖神という。八つの雷というのは頭
にあるのを大雷という。胸にあるのを火雷と
いう。腹にあるのを土雷という。背中にある
のを稚雷という。尻にあるのは黒雷という。
手にあるのは山雷という。足の上にあるのは
野雷という。陰部の上にあるのは裂雷という
時伊弉諾尊、乃投其杖
曰「自此以還、雷不敢
來。」是謂岐神、此本
號曰來名戸之祖神焉。
所謂八雷者、在首曰大
雷、在胸曰火雷、在腹
曰土雷、在背曰稚雷、
在尻曰黑雷、在手曰山
雷、在足上曰野雷、在
陰上曰裂雷。
別伝10によると、伊奘諾尊が伊奘冉尊のい
る所へ来て言ったのが、「あなたが愛しくて
やってきた」それに伊奘冉尊が答えて言われ
たのが、「どうか私を見ないで下さい」伊奘
諾尊はそれを聞かれないで、なおもご覧にな
った。
一書曰、伊弉諾尊、追
至伊弉冉尊所在處、便
語之曰「悲汝故來。」
答曰「族也、勿看吾矣
。」伊裝諾尊、不從猶
看之、
それで伊奘冉尊は、恥じ恨んで言ったのが、
「あなたは私の本当の姿を見てしまわれまし
た。私もあなたの本当の姿を見ましょう」伊
奘諾尊は恥ずかしいと思われたので、そこを
出て帰ろうとされた。
故伊弉冉尊恥恨之曰「
汝已見我情。我復見汝
情。」時、伊弉諾尊亦
慙焉、因將出返、
そのとき、ただ黙って帰らず、誓いの言葉と
して、「もう縁を切りましょう」と言われた
。また、「お前には負けないつもりだ」とい
われた。そして吐かれた唾から生まれた神を
、名づけて速玉之男という。次に掃き払って
生まれた神を泉津事解之男と名づけた。これ
らは二柱の神である。
于時、不直默歸而盟之
曰「族離。」又曰「不
負於族。」乃所唾之神
、號曰速玉之男。次掃
之神、號泉津事解之男
。凡二神矣。
その妻と泉平坂で相争うとき、伊奘諾尊が言
われたのは、「当初、あなたを悲しみ慕った
のは、私が弱虫だったのだ」このとき、泉守
道者が申し上げて言ったのは、「伊奘冉尊の
お言葉がありまして、『私はあなたともう国
を生みました。どうして更にこの上生むこと
を求めましょうか。私はこの国にとどまって
、ご一緒には参りません』と」このとき菊理
媛神が申し上げられることがあった。伊奘諾
尊はこれをお聞きになり、褒められた。
及其與妹相鬪於泉平坂
也、伊弉諾尊曰「始爲
族悲、及思哀者、是吾
之怯矣。」時、泉守道
者白云「有言矣、曰、
『吾、與汝已生國矣、
奈何更求生乎。吾則當
留此國、不可共去。』
」是時、菊理媛神亦有
白事、伊弉諾尊聞而善
之。
ただし、自ら黄泉の国を見たこと、これが不
祥であった。そこで、その汚らわしいものを
濯ぎ洗おうと思い、阿波の水門と速吸名門を
ご覧になられた。ところがこの二つの海峡は
、潮流がとても速かった。それで橘の小門に
帰られて、払い濯ぎをなさった。そのとき水
に入って、磐土命を吹き出された。水から出
ると、大直日神を吹き出された。また水に入
って底土命を吹き出された。また水から出て
、大綾津日神を吹き出された。さらにまた水
に入って赤土命を吹き出された。また水から
出て、大地と海原のさまざまな神々を吹き出
された。
乃散去矣、但親見泉國
、此既不祥。故、欲濯
除其穢惡、乃往見粟門
及速吸名門、然此二門
、潮既太急。故、還向
於橘之小門而拂濯也。
于時、入水吹生磐土命
、出水吹生大直日神、
又入吹生底土命、出吹
生大綾津日神、又入吹
生赤土命、出吹生大地
海原之諸神矣。不負於
族、此云宇我邏磨穊茸
別伝11によると、伊奘諾尊が三柱の御子に
命じておっしゃるところ、「天照大神は、高
天原を治めよ。月夜見尊は、日と並んで天の
ことを治めよ。素戔嗚尊は、青海原を治めよ
」天照大神は天上にお出でになり、「葦原中
国に保食神がおられるそうだ。月夜見尊、お
前が行って見てきなさい」とおっしゃられた
一書曰、伊弉諾尊、勅
任三子曰「天照大神者
、可以御高天之原也。
月夜見尊者、可以配日
而知天事也。素戔嗚尊
者、可以御滄海之原也
。」既而、天照大神在
於天上曰「聞、葦原中
國有保食神。宜爾月夜
見尊就候之。」
月夜見尊は、その指示を受けて葦原中津国に
お降り、保食神のもとを訪ねた。保食神が首
を回し陸に向かわれると、ロから米の飯が出
てきた。海に向かわれると、ロから大小の魚
が出てきた。山に向かわれると、ロから毛皮
の動物たちが出てきた。それらの物を全部揃
えて、沢山の机にのせておもてなしした。
月夜見尊、受勅而降。
已到于保食神許、保食
神、乃廻首嚮國則自口
出飯、又嚮海則鰭廣鰭
狹亦自口出、又嚮山則
毛麁毛柔亦自口出。夫
品物悉備、貯之百机而
饗之。
このとき月夜見尊は、憤然として、「けがら
わしいことだ。いやしいことだ。ロから吐き
出したものを、わざわざ私に食べさせようと
するのか」と言い、そして剣を抜いて、保食
神を斬り殺された。月夜見尊は、復命してそ
の様子を詳しく申し上げられた。これを天照
大神は非常にお怒りになり、「お前は悪い神
だ。もうお前に会いたくない」とおっしゃっ
て、月夜見尊と昼と夜とに分れて、交代に住
まわれた。
是時、月夜見尊、忿然
作色曰「穢哉、鄙矣。
寧可以口吐之物敢養我
乎。」廼拔劒擊殺。然
後復命、具言其事、時
天照大神、怒甚之曰「
汝是惡神。不須相見。
」乃與月夜見尊、一日
一夜、隔離而住。
そののち、天照大神は天熊人を遣わして確認
させた。保食神は本当に死んでいた。ところ
が、その保食神の頭には牛馬が生まれ、額の
上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の
中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部には
麦と大豆・小豆が生じていた。天熊人は、そ
れをすべて持ち帰り奉った。
是後、天照大神、復遣
天熊人往看之、是時、
保食神實已死矣、唯有
其神之頂化爲牛馬、顱
上生粟、眉上生蠒、眼
中生稗、腹中生稻、陰
生麥及大小豆。天熊人
、悉取持去而奉進之、
すると天照大神は喜び、「これらの物は人民
が生きて行くのに必要な食物だ」と言った。
そこで粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水
田の種とした。それで天の邑君を定められた
。その稲種を天狭田と長田に植えた。その秋
の垂穂は、八握りもあるほどしなって、大そ
う気持ちよかった。また大神はロの中に、蚕
の繭をふくんで糸を抽くことが出来た。これ
により養蚤が出来るようになったとされる。
于時、天照大神喜之曰
「是物者、則顯見蒼生
可食而活之也。」乃以
粟稗麥豆爲陸田種子、
以稻爲水田種子。又因
定天邑君、卽以其稻種
、始殖于天狹田及長田
。其秋、垂穎、八握莫
莫然甚快也。又口裏含
蠒、便得抽絲、自此始
有養蠶之道焉。保食神
、此云宇氣母知能加微
。顯見蒼生、此云宇都
志枳阿鳥比等久佐。
素戔嗚尊が申し上げられた。 於是、素戔嗚尊請曰
「私はそのご命令に従って、根の国に参るこ
とにします。そこで高天原に参って、姉にお
目にかかり、お別れをしてきたいと思います
「吾今奉教、將就根國
。故欲暫向高天原、與
姉相見而、後永退矣。
伊奘諾尊は、「よかろう」と仰せられたので
、素戔嗚尊は天に昇られた。
勅許之。乃昇詣之於天
也。
故、其伊邪那岐大神者
、坐淡海之多賀也。
この伊邪那岐大神は、淡路の多賀の社にお鎭
まりになっておいでになります。
このあと、伊奘諾尊は、神の仕事をすベて終
られて、あの世に赴こうとしておられた。
そこで幽宫を淡路の地に造って、静かに永く
隠れられた。
是後、伊弉諾尊、神功
既畢、靈運當遷、是以
、構幽宮於淡路之洲、
寂然長隱者矣。
伊弉諾幽宮
├滋賀県:多賀大社
├兵庫県:岩樟神社
└兵庫県:伊弉諾神宮
また別の言い伝えでは、伊奘諾尊はお仕事を
終えても、徳が大きかった。そこで天に帰
られてご報告され、日の少宮に留まりお住み
になったとされる。
亦曰、伊弉諾尊、功既
至矣、德文大矣、於是
、登天報命、仍留宅於
日之少宮矣。少宮、此
云倭柯美野。


ゆかりの寺社(御朱印視点)

引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。

【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
三重県 花窟神社 熊野市有馬町上地130 【由】花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノ
ミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。
滋賀県 多賀大社 犬上郡多賀町多賀604 【噂】伊弉諾尊が幽宮を構えて余生を過ごされた地。但し、古事記(真福寺本)の誤記説もある。
兵庫県 岩樟神社 淡路市岩屋 【社】①蛭子神が産まれた地。②伊弉諾尊が隠れ給うた幽宮。御朱印は石屋神社で拝受可能。
兵庫県 石屋神社 淡路市岩屋799 【-】岩樟神社の本務社。
兵庫県 伊弉諾神宮 淡路市多賀740 【社】伊弉諾尊が幽宮を構えて余生を過ごされた地。
島根県 揖夜神社 松江市東出雲町揖屋2229 【伝】黄泉比良坂伝説地の近くにあることから、黄泉の国に縁の深い古社とされています。
島根県 黄泉比良坂 松江市東出雲町揖屋2407 【伝】黄泉比良坂の比定地。御朱印は平賀公会堂にて拝受可能。
島根県 比婆山久米神社奥の宮(熊野神社) 安来市伯太町横屋611-1 【伝】伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。
広島県 熊野神社 庄原市西城町熊野1160 【噂】伊邪那美命御陵の遥拝所だと伝えられています。御朱印はイザナミ茶屋にて拝受可能です。
福岡県 住吉神社 福岡市博多区住吉3-1-51 【由】当社の歴史は、およそ1,800年以上前に遡ります。全国に2,129社ある住吉神社の中でも、
最初の神社と云われており、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記され
ています。

【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
広島県 比婆山神社 庄原市比和町三河内3462 【伝】伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。
徳島県 小門神社 阿南市見能林町東浦16 【噂】「橘の小門の阿波岐原(たちばなのをどのあわきはら)」の伝承地の一つ。イザナギ神が黄泉の国から帰還し禊を
行ったところ。一般的には「竺紫」との記述があるため九州とされますが、「阿波岐原」とも記述があるため阿波国であ
るとも考えられなくもありません。
宮崎県 江田神社 宮崎市阿波岐原町産母127 【伝】敷地内には、伊邪那岐命が黄泉の国で穢れた体を清めるために身を沈めた「みそぎ池」があり、この地で天照
大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の3神を生み出した
と伝わります。

【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
滋賀県 三本杉 犬上郡多賀町 【由】神代の昔、国生みの大業を終えられた伊邪那岐大神は高天の原からこの峠に天降られ、休息をなさった
時に、土地の老人が粟の飯を献上した。大神はご機嫌麗しくお召し上がりになり、食後その杉箸を地面に刺し
たところ、その杉箸が根付き今見るような大木になったといわれています。
鳥取県 御墓山 日野郡日南町阿毘縁 【伝】『日野郡史』には、イザナミの葬られた地“比婆ノ山”は、御墓山のことだと伝えられているという記述
がある。
鳥取県 八石谷 日野郡日南町阿毘縁 【伝】イザナギは怒りのあまり、剣を抜き、カグツチの首を斬り落としてしまう。その血は、まわりの岩群
(いわむら)に飛び散り、そこから八柱(やばしら)の神が生まれた。大菅にある八石谷は、その八柱の神が生ま
れた地だといわれている。
島根県 猪目洞窟 出雲市猪目町1338 【伝】猪目洞窟は出雲国風土記に「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、
黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれ、夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ、ここは黄泉の穴であると
記されている。また伊邪那美命(イザナミノミコト)が、死んだ伊邪那岐命(イザナギノミコト)を迎えに
行った黄泉の国の入り口であるともいう。
島根県 岩坂陵墓参考地 松江市八雲町日吉 【伝】『古事記』によると、「国生みを終えた男神イザナギノミコトと女神イザナミノミコトは、さらに神々
を生み、火の神を生んだイザナミは火傷を負って亡くなってしまいました。イザナギはその遺骸を比婆山に葬
った。」とあります。松江市大庭町と八雲町との境にある神納山(かんなやま)がその地に比定され、南端に
ある古墳がイザナミノミコトの陵墓として古くから崇敬されていました。八雲町では親しみを込めて「神納の
御陵さん」と呼ばれています。
島根県 母塚山 米子市古市 【伝】伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。
広島県 千引岩 庄原市西城町熊野 【噂】最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」
と二人が問答したことから千引岩と名がついたと言われる。
徳島県 千引の岩 那賀郡那賀町内山日浦38 【噂】千人かかっても、動かせそうにない大きな岩であることから『千引(ちびき)の岩』と命名された。


伊邪那美


花窟神社
日本書記に「 一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬
村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌
い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。
南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。
此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月、及び元禄8年11月四至限界御定書を下
付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。
又、昭和23年4月10日天皇陛下が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立寄りあらせられる。
この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。
古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼
ばれる高さ12メートル程の岩がある。
この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。
花窟神社

母塚山
大国主(オオクニヌシ)の再生伝説の舞台「赤猪岩神社」から車で約15分、神社を見守るような位置に、母塚山は立っています。母塚
山は、国生みの女神、イザナミのお墓があった山といわれています。母塚山の展望台までは、道路が整備されており、車で行くことがで
きます。展望台からは、中国山地の山々から大山、島根半島から日本海まで、パノラマの景色が楽しめ、特にここから見る大山は山陰一
の絶景とも言われています。
展望台にはベンチもあるので、天気の良い日にはお弁当を食べるのにちょうど良いロケーションです。
南部町

比婆山久米神社奥の宮(熊野神社)
当社は、延喜式内社であって出雲風土記には久米神社・熊野神社とも記されています。主祭神は伊邪那美命でありこの比婆山は、伊邪那
美命の御神陵地としても有名で社殿奥の御陵がそれである。また尼子・松平(母里藩)の崇敬社として栄えてきたが時に子授・安産・子
育ての守護神として出雲・伯耆など近在はもとより全国各地からの参詣者が多く人々の信仰を集めている。
島根県神社庁

比婆山神社
古事記に記す伊邪那美命の葬所と伝えられている。もともとは比婆山の比和側に鎮座していた二千年以前の古社。
創建時代「不   詳」
所要時間5分
― 「平成21年度版 広島県観光便覧」より ―
ひろしま観光ナビ

御墓山
御墓山
『古事記』に「イザナミノミコトは、出雲の国と伯耆の国との境、比婆山に葬りし」と記されており、御墓山はイザナミノミコトの御陵
として、庄原市西城町と安来市伯太町にまたがる比婆山とともに伝説の地として伝えられています。
よりみちにちなん

熊野神社
中国山地にひっそりと佇む広島県庄原市の熊野神社は、古事記で日本を生んだとされる伊邪那美命(イザナミノミコト)を葬った比婆山
を遥拝する神社です。境内には杉が100本以上あり、そのうち11本が目通り幹囲(周囲)5m以上で県の天然記念物に指定されてい
ます。原始的な雰囲気さえ漂う神社をご案内しましょう。
TABIZINE

黄泉平坂・千引岩


揖夜神社
揖夜神社御鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻(かみよのまき)には「伊賦夜坂(いふやざか)」についての記述があ
り、『日本書紀』齋明天皇五年(西暦659年)の条に「言屋社(いふやのやしろ)」、『出雲国風土記』に「伊布夜社(いふやのやし
ろ)」、『延喜式』神明帳(じんみょうちょう)に「揖夜神社(いふやじんじゃ)」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知ら
れていた古社であることは疑うべくもありません。  神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜
大社」「揖屋大社」と称されていた様です。
ひがしいずもネット

黄泉比良坂
古事記神話に登場するイザナキ、イザナミの夫婦神は日本の国土と多くの神々を生み出したことで有名ですが、二人が現世と死後の世界
に引き裂かれた舞台となったのが、松江市東出雲町にある黄泉津比良坂(よもつひらさか)といわれています。
静かなたたずまいの中、黄泉(よみ)の国への入り口をふさいだ大きな岩が神秘的な雰囲気を醸し出しています。
この世とあの世をつなぐ舞台といわれる根拠は、黄泉津比良坂の近くにあるイザナミを祀(まつ)った揖夜(いや)神社が、出雲国風土
記に「伊布夜(いふや)社」と記され、古事記では「出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか)」と記されていることから、伝承地とされてい
ます。
揖夜神社は出雲地方でも最古級の一社で、堂々とした大社造りの本殿は風格が感じられ、拝殿に置かれた円鏡に写し出された光景はどこ
か幻想的です。
【以下略】
島根県

猪目洞窟
縄文から古墳時代にかけての埋葬や生活を物語る数々の遺物が発見された洞窟。「出雲國風土記」に記載のある黄泉の穴はこの洞窟だと
いわれます。
出雲観光ガイド

千引岩:徳島県
 この大岩は,『古事記や日本書紀』に書かれた「千引岩(ちびきのいわ)・千人所引磐石(ちびきのいわ)」に推定される。
日本最古の歴史書『古事記』によると,国造りの途中で亡くなった妻,伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉(よみ)の国,
比婆山(ひばやま)へ会いに行った伊邪那岐命(いざなぎみこと)は,「見てはいけない」と言われた醜い妻の亡骸を見たため妖怪達に
追われるはめとなった。
逃げる途中に投げつけた髪を束ねた葛や櫛が,山葡萄や竹の子に変わり,それを追っ手が食べている間に逃げのびたが,なおも追ってく
るので坂本にあった桃の実を投げつけると追っ手達は逃げ帰ってしまった。
最後に伊邪那美命(いざなみのみこと),自身らが追いかけてきたので,伊邪那岐命(いざなぎみこと)は,千引の岩で道を塞いだ。
黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎみこと)が,竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あわき
はら)で,禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさ
のおのみこと)が生まれたと書かれている。
『古事記』に書かれたこの物語は,現在の徳島県内の地名に当てはまる所が多く,徳島県山川町から阿南市見能林町までの地域を舞台と
して繰り広げられた物語と考えられるのである。
伊射奈美(いざなみ)神社は,『延喜式(えんぎしき)神名帳』(平安時代九二七年)に阿波国に一社のみ記録され,ほかの県にはあり
ません。
『古事記』の物語は,この式内社 伊射奈美(いざなみ)神社がある穴吹町舞中島から始まり,高越山(こおつざん)を経て「カズラを
投げたら実が生った」と書かれる。上勝町雄中面(おなかずら)・生実(いくみ)。
「くし櫛の歯を投げると竹の子が生えた」竹ガ谷・(旧やつら八面神社に竹を型取った,灯ろうがある)「桃を投げた」丹生谷(にゅう
だに)地域には,百合(もあい)・桃の木坂・桃付等の地名があり,神社には桃を型取った木彫りがある。また,相生町には,昔からヨ
ミ坂と呼ばれる坂もある。
黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎみこと)が,四国の東端の阿南市見能林町柏野で,禊(みそ)ぎ祓(はら)いを
すると天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれた。
以上が,『古事記』等に書かれる「千引岩(ちびきのいわ)」に関わる物語である。
「阿波古事記研究会」現地看板

阿波岐原


血洗神社
安岐明神御由緒と旧跡血洗池、腰掛岩の傅承
神代の或る御神 (伊装册命) 御子 (天照大神) を産み給ひその御胞衣 (胎児を包んでいる膜と胎盤) を洗いしに池の水赤くにぞなりけり。血
洗の池と呼名され、胞衣は恵那嶽に納む。胞山の名これより起る。我国に漢字移入以前の神代文字ホツマ (秀眞伝) の記録に判然として
残る。又日本名勝地誌、新撰美濃誌にも明らかなり。産終わりて母神、岩に腰掛け、御心地爽にして、安らかにぞなり給い、今よりこの
処を安気野の里と名付けよと宣り給う。和名抄に恵那六郷の内安岐郷はこの地に起因す。後安気から安岐となり明治以降阿木となる。住
時は深さ五米広さ一ヘクタールの大池にして、その周囲は古木うっそうと茂り幽邊の霊池たりしが、宝永年間の大雨など度重なる水禍に
より土砂混入し、昭和初期には一坪足らず小池となり何時しか埋没してその姿無し。池の近くに安産を深謝して安気明神を祀る。美濃国
明神帳に恵那郡七社の内従四位上安気明神とあるは血洗神社是なり。今天照大神、大山祇神を併せ祀る。安産、育児、山林守護の神とし
て霊験あらたかなること普く世人の尊崇する由縁なり。壬申の乱 (672) の折 大海人皇子(天武天皇) は伊勢の大廟を拝し、美濃地に入り
て当社を遙拝して戦勝を祈願し給ふと云う。今度改修されたる国道三六三号線は古くより東山道と三河路を結ぶ重要道路にして俗に中馬
街道とも呼ばれ明治中頃までは人馬かろうじて通る山路であり亦式内恵那神社 (権現様) 詣での参道でもあった。国道改修により社地の
一部が道路敷地となりその代償を以て血洗神社本殿を奥深く遷座し奉り、履舎を造営、腰掛岩の移築、血洗池の復原を育行し天皇在位六
十年記念事業として之を建つ。
昭和六十一年五月三日  血洗神社氏子一同
血洗神社境内由緒書

江田神社
「みそぎ発祥の地」「祝詞発祥の地」として知られる江田神社。その歴史は非常に古く、10世紀の初期に記された『延喜式』にもその名
を見ることができます。
日本最初の夫婦と言われる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と 伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っており、良縁を願う参拝者が多く
訪れます。
同じ敷地内には、伊邪那岐命が黄泉の国で穢れた体を清めるために身を沈めた「みそぎ池」があり、この地で天照大神(あまてらすおお
みかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の3神を生み出したと伝わります。
また、強いパワーを持つと言われる御神木が2つあり、1つは社殿左側に植えられた招霊木(おがたまのき)は天岩戸伝説に登場する赤い
実をつける木。もう1つは大きなクスノキで、木の下の方にあるコブに触れると強運を得られると言われています。
宮崎市観光サイト

住吉神社

住吉神社:福岡県
住吉神社は底筒男神(そこつつのをのかみ)、中筒男神(なかつつのをのかみ)、表筒男神(うわつつのをのかみ)の住吉三神を祭神と
しています。御出現は、伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされたときにお
生まれになったと「古事記」に記されています。
相殿(あいどの)には天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、神功皇后(じんぐう
こうごう)を配祀し、これを併せて住吉五所大神とも呼ばれています。
住吉神社の御神徳は、ミソギハラヘの御出現の由来から、「心身の清浄」を以てすべての災から身を護る神として古より広く信仰されて
います。
また、つつのを(筒男)の「つつ」には星の意味があると云われ、航海・海上の守護神としても厚い崇敬があります。
住吉神社

伊邪那岐


多賀大社
和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀
に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし
『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産
みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」
は「淡路」の誤写である可能性が高い。
Wikipedia

伊弉諾神宮
古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委譲され、
最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮」を構へて余生を過ごされたと記される。
その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、當神宮の起源である。地元では「いっくさん」と別称さ
れ日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められている。
本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は、禁足の聖地であった。御陵を中心として神域の周囲
に濛が巡らされたと伝え、正面の神池や背後の湿地はこの周濛の遺構という。 建物や工作物は、明治九年から同二十一年に官費で造営さ
れたものが殆どだが、神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進による。 境内地は、約一万五千坪。沖積地にあって天然記念
物の大楠など照葉樹林に覆はれ、四季を彩る草木が繁茂する日本最古のお社である。江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領した
とあり、広大な神域であった。
伊弉諾神宮

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