古事記
【日本書紀】 神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子 也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五 立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。 |
カミヤマトイハアレビコノスメラミコトは、実名をヒコホホデミと いう。ウガヤフキアエズノミコトの第四子である。母はタマヨリヒ メといい、海神トヨタマヒコの二番目の娘である。天皇は生まれな がらにして賢く、気性もしっかりしておられた。十五歳で皇太子と なられた。成長されて、日向国吾田邑のアヒラツヒメを娶って妃と し、タギシミミノミコトが生まれた。 |
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神武天皇御降誕伝説地 【詳細は前項】 |
(鵜戸神宮) (狭野神社) (皇子原神社) (肝付町宮下) (肝付町野崎) | |
神武天皇の幼少時の少宮趾 | 駒宮神社 | |
東征前までの皇居 | 都嶋御旧跡 | |
イツセノミコト御功績 | 神太郎水神 | |
神武天皇出発の地(どこへ?) | (神武天皇発輦跡) | |
神武天皇巡行地(どこから?) | (神武天皇御巡幸の地碑) | |
高千穂宮比定地 【詳細は「天孫降臨」】 |
(壹宮神社) (高千穂神社) (石體神社) | |
神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二 柱、坐高千穗宮而議云 |
カムヤマトイハレヒコノミコトが、兄のイツセノミコトと二人で、 高千穗の宮で相談し、 |
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「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」 | 「どこにいれば天下を泰平にできるだろうか。やはりもっと東に行 くべきではないか。」と決められて、 |
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【日本書紀】 及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、 舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天 關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養 正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖 降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑 於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老 翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余 謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降 者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我 亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。 |
四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに語られた。「昔、タ カミムスヒノミコトとアマテラスオオミカミが、この豊葦原瑞穂国 を、祖先のニニギノミコトに授けられた。そこでニニギノミコトは 天の戸を押し開き、路をおし分け先払いを走らせてお出でになっ た。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。 その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治めら れた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降 臨されてから、1,792,470余年になる。しかし遠い所の国では、まだ 王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っ ている。さてまたシオツチノオジに聞くと、『東の方に良い土地が あり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび 降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひ ろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。 そのとび降ってきた者は、ニギハヤヒというものであろう。そこに 行って都をつくるにかぎる」諸皇子たちも、「その通りです。私た ちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。こ の年は太歳の甲寅である。 |
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御駐蹕・駐輦伝説地 | 宮浦宮 | |
神武天皇神子落伝説地 | (霧島市国分川内) | |
狭野から宮崎へ遷御された際の休憩所 | 金崎神社 | |
神武天皇宮崎の宮の跡 | 皇宮神社 | |
卽自日向發、幸行筑紫。 | 日向国を出発し、筑紫国に行かれました。 | |
原文は「日向国」ではなく「日向」なので、「筑紫の日向」とも解 される。 |
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【日本書紀】 其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時 有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國 神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰 「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執 而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、 此卽倭直部始祖也。 |
その年の十月五日に、天皇は自ら諸皇子と舟軍を率いて、東征に向 われた。速吸之門にお出でになると、一人の漁人が小舟に乗って やってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」と言 われた。漁人は、「私は国津神のウズヒコと申します。曲の浦に釣 りにきており、天津神の御子がおいでになると聞いて、特にお迎え に参りました。」と答えた。天皇はまた尋ねる。「お前は私のため に道案内をしてくれるか」すると海人は、「御案内しましょう」と 言った。天皇は命じて、漁人に椎竿の先を差し出し、つかまらせて 舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜ってシイ ネツヒコとされた。これが倭直の先祖である。 |
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妃の吾平津媛はこの地に残り、武運長久を祈った。 | 大川内神社 吾平津神社 | |
この地の竹で矢を作った | (霧島市国分台明寺) | |
航海安全を祈願した | 戸柱神社 | |
神武東征の折、ここで湯浴みをした | 湯之宮神社 | |
この地で矢を研いだ | 矢研の滝 | |
御駐蹕・駐輦伝説地 | 甘漬神社 | |
武運長久を祈願した | 都農神社 | |
航海安全を祈願した | 立磐神社 | |
凧を揚げて風向を確認した | 湊柱神社 | |
神武東征に出発時、村人が見送りした。 | (高原町蒲牟田) | |
以前鯨を突いた鉾をこの島に建てられた。 | 鉾島神社 | |
暴風雨に遭って寄港し、航海安全を祈願した。 | 伊勢本社 | |
弓矢で海岸を掘るとたちまち清水が湧いた。 | 神の井 | |
大蛸の神剣を、海女姉妹が海底で入手し、神武天皇に献上した。 | 早吸日女神社 | |
故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以 音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。 |
豊後の宇佐に到着した時に、その国のウサツヒコとウサツヒメの二 人が足一騰の宮を作ってお迎えし、御馳走でもてなしました。 |
和尚山 宇佐神宮 妻垣神社 柁鼻神社 |
【日本書紀】 行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰 菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰 宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍 臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。 |
筑紫国の宇佐に着いた。すると宇佐国造の先祖でウサツヒコとウサ ツヒメという者があった。宇佐の川のほとりに、一柱謄宮を造って おもてなしをした。このときにウサツヒメは侍臣のアマノタネノミ コトと結婚された。アマノタネノミコトは中臣氏の先祖である。 |
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天照大神を祭祀した? | (簑島神社) | |
自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。 | そこから今度は、筑紫の岡田の宮に一年滞在し、 | 岡田宮 神武神社 一宮神社 |
【日本書紀】 十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。 |
十一月九日、天皇は筑紫国の岡水門に着かれた。 |
(神武天皇社) |
周防国に半年滞在。 | 神上神社 | |
山頂に立ち寄られた。。 | 箕山 | |
亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。 | 次に安芸国の多祁理の宮に七年滞在しました。 | 多家神社 (神武天皇御腰石) |
【日本書紀】 十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。 |
十二月二十七日、安芸国について埃宮にお出でになった。 |
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亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。 | その後は、備後国の高島の宮に八年滞在します。 | ★高島宮★ |
【日本書紀】 乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行館宮以居之、是曰高嶋 宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。 |
翌年、乙卯の三月六日に、吉備国に移られ、仮宮を造ってお入りに なった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を 蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。 |
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逆賊征伐時、武甕槌らの御旗を見て、この神らをお祀りした。 | 懸幡神社 | |
登臨された。 | 乙子神社 | |
斎服を調進するため、ここに麻を植え紡績なさった。 | 麻御山神社 | |
兵食を備蓄し舟櫂を修補した。 | 松江伊津岐神社 | |
御船を停め山の南端鳥越から、景色を眺望された。 | 幸地山神社 | |
御駐蹕・駐輦伝説地 | 伊登美宮 | |
御船の纜を掛けられた。 | 綱掛石神社 | |
妃の興世姫命が駐留した後、崩御された。 | 神島神社 | |
兄の五瀬命が数年間滞在した。 | 安仁神社 | |
故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。 | 次に移動している途中、速吸の海峡で、亀の背に乗って釣りをしな がら勢いよく身体を振りながら来る人に遭遇しました。 |
亀石神社 |
爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」 | 呼び寄せて「お前は何者だ。」と尋ねられると、「私はこの土地の 国津神です。」と答えられました。 |
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又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」 | また「お前は海路を知っているか。」と尋ねると「熟知しています 。」とのことでした。 |
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又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」 | また「案内をしてくれるか。」と問いましたところ、「いいでしょ う。」と申しました。 |
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故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之 祖。 |
そこで棹を差し渡して御船に引き入れ、サヲネツヒコと名乗らせま す。この人は倭国造らの先祖です。 |
保久良神社 椎根津彦神社 |
「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道 を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に 関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島 に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がた ちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波につい て翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先 に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」 「播磨鑑」伝 |
家島神社 | |
【日本書紀】 戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會 有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云 與許奈磨盧。 |
戊午の年、二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫あい つぎ、まさに難波琦に着こうとするとき、速い潮流があって大変速 く着いた。よって名づけて浪速国とした。また浪花ともいう。現 在、難波と呼ばれるのは訛ったものである。 |
(大阪天満宮) |
故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。 | また途中で、難波湾を過ぎて河内の白肩の津に船を停泊させました 。 |
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【日本書紀】 三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑靑雲白肩之津。 |
三月十日、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いた。 |
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此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入 御船之楯而下立、 |
この時待ち構えていた、登美を根城とするナガスネヒコの軍が襲っ て来ましたので、船にあった楯を取り出して下船して戦いました。 |
長髄彦本拠の碑 |
故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。 | この土地を楯津と言い、今でも日下の蓼津と言っています。 | (東大阪市日下町) |
【日本書紀】 夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行 、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天神子等 所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會 戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、 |
四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は険し く、2列で行くことができないほど狭かった。そこで引き返し、さ らに東の方、生駒山を越えようとした。ナガスネヒコがそれを聞 き、「天神の子がやってくるのは、我が国を奪うためだ。」と言っ て、全軍を率いて孔舍衛坂で戦った。流れ矢がイツセノミコトの肘 脛に当った。皇軍は先に進めなかった。 |
孔舎衛坂顕彰碑 (暗峠) |
於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。 | ナガスネヒコとの戦闘で、イツセノミコトが手にナガスネヒコの矢 をくらいました。 |
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故爾詔「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自 今者行廻而、背負日以擊。」 |
「自分は日神の御子なのだから、我々は日に向かって戦ってはなら ぬ。このため、奴の矢を食らったのだ。日を背中にするように回り 込もう。」と仰せられて、 |
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【日本書紀】 天皇憂之、乃運神策於沖衿曰「今我是日神子孫而向日征虜、此逆天 道也。不若、退還示弱、禮祭神祇、背負日神之威、隨影壓躡。如 此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且 停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、 |
天皇はこれを憂れいて作戦を練った。「今回、私は日神の子孫であ るのに、日に向って敵を討とうとしているのは、天道に逆らってい る。そこで、一度撤退して相手を油断させ、天神地祇をお祀りし、 背中に太陽を負って、日神の威光をかりて襲いかかるのがよいだろ う。このようにすれば、刃に血を付けずとも、敵はきっと敗れるだ ろう」と言われた。皆は、「その通りです」と言った。そこで軍中 に告げた。「いったん止まれ。ここから進むな」そして軍兵を率い て帰られた。敵もあえてこれを後を追わなかった。 |
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午後に戦闘をすれば、日を背にできたのに・・・ | ||
【日本書紀】 却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。雄誥、此云烏多鶏縻。因改號其津 曰盾津、今云蓼津訛也。 |
草香津に引き返すと、盾を立てて雄叫びをし、士気を鼓舞された。 このことから、その津を盾津と呼ぶようになった。いま寥津と呼ば れているのは、この訛りである。 |
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【日本書紀】 初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」 時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。 |
孔舎衛の戦いでは、ある者が大きな樹に隠れていて難を免れること ができた。それで、その木を指して、「この恩は母のようだ。」と 言った。当時の人はこれを聞き、そこを母木邑といった。現在、「 おものき」というのは、これが訛ったものである。 |
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期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。 | 南の方に回り込む途中で、血沼の海で手の血をお洗いになりました 。そこで血沼海と呼ぶようになります。 |
茅渟神社 |
從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、 故號其水門謂男水門也、 |
さらに回り込み、紀伊国の男の水門まで来ましたが「賤しい奴に負 けて死ぬのは無念。」と叫ばれてお隠れになりました。それでここ を男水門と言います。 |
水門吹上神社 |
【日本書紀】 五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。茅淳、此云智 怒。時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽 彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、 將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。 |
五月八日、軍は茅淳の山城水門に着いた。その頃、イツセノミコト の矢傷がひどく痛み、剣を撫でて雄叫びして、「残念だ。丈夫が賊 に傷つけられたのに、それに報いないで死ぬことは」と言われた。 人々は、その地を雄水門と名付けた。 |
男神社摂社浜宮 |
陵卽在紀國之竈山也。 | 御陵は紀伊国の竈山にあります。 | 竈山神社 |
【日本書紀】 進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。 |
紀伊国の竈山に到達したころ、イツセノミコトはお亡くなりになっ たので、竈山に葬られた。 |
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神武天皇即位前3年、神武東征に際して天種子命が勅命によって天児 屋根命・比売神の2神を東方山上の神津嶽(かみつだけ)に奉斎した |
枚岡神社 | |
【日本書紀】 六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。 |
六月二十三日、軍は名草邑に着いた。そこでナグサトベという女賊を 誅された。 |
(名草邑顕彰碑) 宇賀部神社 杉尾神社 千草神社 |
故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽 失。 |
カムヤマトイハレヒコノミコトは、そこから回り込んで熊野にたど り着いた時、大きな熊が現れて、消えてしまいました。 |
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紀ノ川を遡上するのは駄目だったのだろうか・・・ | ||
【日本書紀】 遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。 |
ついに狭野を越えて、熊野の神邑に至り、天磐盾に登った。そうし て軍を率いてさらに進んでいった。 |
狭野顕彰碑 阿須賀神社 神倉神社 |
頓宮跡。 | 渡御前社 | |
爾神倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。 | カムヤマトイハレヒコノミコトも、その兵士たちも皆気を失って倒 れてしまいました。 |
(熊野荒坂津神社) |
此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天神御子之伏地而獻之 時、天神御子卽寤起、詔「長寢乎。」 |
この時、熊野のタカクラジが一本の大刀を持って現れ、天神の御子 が寝ているところに来ると、「隨分寝てしまっていた。」と言いな がら起きられました。 |
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故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍 、悉寤起之。 |
その大刀を受け取ると、熊野の山の悪い神たちが自然に皆切り倒さ れ、兵士たちも起きることができました。 |
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故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰 | そこで天神の御子がその大刀を手に入れたいきさつを尋ねると、タ カクラジは、 |
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「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原 中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐 良志此二字以音。 |
「夢の中で、アマテラスオオミカミとタカギノカミのお二方がタケ ミカヅチノカミを呼んで、『葦原中国は戦乱の最中である。私の御 子たちは困っているようだ。 |
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其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』 | あの葦原中国はあなたが平定した国なのだからタケミカヅチノカミ よ、行ってきなさい。』と仰せになっていました。 |
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爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。 | しかし、タケミカヅチノカミは、『私が行くまでもなく、国を平定 した時の大刀を降しましよう。 |
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此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者 、坐石上神宮也。 |
この大刀の名はサジフツノカミ、またの名はミカフツノカミ、また の名はフツノミタマと言い、現在は石上神宮にあります。 |
(石上神宮) |
降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。 | この大刀を降すには、タカクラジの倉の屋根に穴をあけてそこから 落としましょう。 |
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故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天神御子。』 | タカクラジよ、目が覚めたら、この大刀を天神の御子に渡しなさい 。』と答えておられました。 |
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故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」 | そこで夢で言われた通り、倉を見に行くと本当にに大刀がありまし たので、この大刀を持ってきた次第です。」と答えられました。 |
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【日本書紀】 海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母 則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲 鋤持神。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海神。何爲起波瀾、 以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世鄕矣。 |
海を渡ろうとするとき、急に暴風に遇った。船は波に奔弄されて進 まない。イナヒノミコトが嘆いて言われたのは、「ああ、我が先祖 は天津神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海 に苦しめるのか。」そう言い終って剣を抜き、海に入り、サビモチ ノカミとなられた。ミケイリノミコトもまた恨んで言われた。「我 が母と姨は二人とも海神である。それなのに、どうして波を立てて 我らを溺れさすのか。」波頭を踏んで常世国にお出でになった。 |
室古神社 阿古師神社 |
ミケイリノミコトは高千穂に帰り、鬼八を退治した。 | (高千穂神社) |
ゆかりの寺社(御朱印視点)
引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。
【おススメ度 ☆☆☆☆☆】御朱印帳があります。(売切御免)
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
福岡県 | 岡田宮 | 北九州市八幡西区岡田町1-1 | 岡田宮 |
【おススメ度 ☆☆☆☆★】ゆかりの御朱印が頂けます。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
大分県 | 妻垣神社 | 宇佐市安心院町妻垣203 | 『足一騰宮』墨書 |
【おススメ度 ☆☆☆★★】期間限定で所縁の御朱印が頂けます。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
大分県 | 宇佐神宮 | 大分県宇佐市南宇佐2859 | 足一騰宮 |
【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
大分県 | 柁鼻神社 | 宇佐市 | 足一騰宮 |
広島県 | 多家神社 | 安芸郡府中町宮の町3-1-13 | 多祁理宮 |
広島県 | 斎島神社 | 尾道市因島大浜町四区1755 | 高島宮 |
広島県 | 八幡神社 | 福山市田尻町2423 | 高島宮 |
広島県 | 皇森神社 | 福山市内海町2797 | 高島宮 |
広島県 | 王太子神社 | 広島県尾道市浦崎町 | 高島宮 |
岡山県 | 高島神社 | 笠岡市高島4690 | 高島宮 |
岡山県 | 高島神社 | 岡山市中区賞田295 | 高島宮 |
岡山県 | 高島神社 | 岡山市南区宮浦3268 | 高島宮 |
岡山県 | 産土荒神社 | 倉敷市児島塩生 | 高島宮 |
岡山県 | 神島神社 | 笠岡市神島外浦1706 | 高島宮・興世姫命 |
岡山県 | 懸幡神社 | 岡山市北区東山内1303 | |
岡山県 | 幸地山神社 | 岡山市東区邑久郷1328 | |
岡山県 | 麻御山神社 | 岡山市東区邑久郷2948 | |
岡山県 | 綱掛石神社 | 岡山市東区東片岡1695 | |
岡山県 | 伊登美宮 | 岡山市東区東片岡1190 | |
岡山県 | 松江伊津岐神社 | 岡山市東区邑久郷1500 | |
岡山県 | 乙子神社 | 岡山市東区乙子237 | |
岡山県 | 安仁神社 | 岡山市東区西大寺一宮895 | 五瀬命 |
岡山県 | 亀石神社 | 岡山市東区水門町 | サヲネツヒコ |
兵庫県 | 保久良神社 | 神戸市東灘区本山町北畑680 | サヲネツヒコ |
大分県 | 椎根津彦神社 | 大分市佐賀関1812 | サヲネツヒコ |
兵庫県 | 家島神社 | 姫路市家島町宮1 | |
宮崎県 | 立磐神社 | 日向市美々津町3419 | |
鹿児島県 | 戸柱神社 | 肝属郡東串良町川東4027 | |
鹿児島県 | 宮浦宮 | 霧島市福山町福山2437 | |
宮崎県 | 鉾島神社 | 日向市細島353 | |
宮崎県 | 都農神社 | 宮崎県児湯郡都農町川北13294 | |
宮崎県 | 湊柱神社 | 日向市大字幸脇5 | |
宮崎県 | 甘漬神社 | 児湯郡川南町大字川南11393 | |
宮崎県 | 駒宮神社 | 日南市平山1095 | |
大阪府 | 茅渟神社 | 泉南市樽井5-11-9 | 血沼海 |
和歌山県 | 水門吹上神社 | 和歌山市小野町2-1 | 男水門 |
大阪府 | 男神社摂社浜宮 | 泉南市男里7-35-1 | 男水門 |
和歌山県 | 竈山神社 | 和歌山市和田438 | 五瀬命墓所 |
奈良県 | 石上神宮 | 天理市布留町384 | フツノミタマ |
鹿児島県 | 大川内神社 | 鹿屋市吾平町麓椎実田5645-1 | 吾平津媛 |
宮崎県 | 吾平津神社 | 日南市材木町9 | 吾平津媛 |
宮崎県 | 皇宮神社 | 宮崎市神宮2-4-1 | |
宮崎県 | 金崎神社 | 宮崎市大字金崎2995 | |
大分県 | 伊勢本社 | 佐伯市蒲江大字畑野浦371 | |
大分県 | 椎根津彦神社 | 大分市佐賀関1812 | |
福岡県 | 簑島神社 | 行橋市蓑島 | |
福岡県 | 神武神社 | 福津市津丸 | 岡田宮 |
福岡県 | 一宮神社 | 北九州市八幡西区12 | 岡田宮 |
宮崎県 | 湯之宮神社 | 児湯郡新富町大字新田18633-2 | |
大分県 | 早吸日女神社 | 大分市佐賀関3336-2 | |
山口県 | 神上神社 | 周南市下上西武井1054 | |
和歌山県 | 神倉神社 | 新宮市神倉1-13-8 | フツノミコト |
大阪府 | 大阪天満宮 | 大阪市北区天神橋2-1-8 | |
和歌山県 | 宇賀部神社 | 海南市小野田917 | ナグサトベ |
和歌山県 | 杉尾神社 | 海南市阪井1858 | ナグサトベ |
和歌山県 | 千草神社 | 海南市重根1125 | ナグサトベ |
和歌山県 | 渡御前社 | 新宮市新宮 | |
和歌山県 | 熊野荒坂津神社 | 新宮市三輪崎2300 |
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大阪府 | 枚岡神社 | 東大阪市出雲井町7-16 |
【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
宮崎県 | 都嶋御旧跡 | 都城市都島町837-3 | |
大分県 | 和尚山 | 宇佐市上拝田 | 足一騰宮 |
奈良県 | 長髄彦本拠の碑 | 生駒市上町2745-1 | ナガスネヒコ |
大阪府 | 神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑 | 東大阪市善根寺町1丁目 | ナガスネヒコ |
鹿児島県 | 神武天皇神子落伝説地 | 霧島市国分川内 | 神子落 |
鹿児島県 | 神武天皇の腰掛岩伝説地 | 霧島市国分台明寺 | 腰掛岩 |
宮崎県 | 矢研の滝 | 都農町尾鈴 | |
大分県 | 神の井 | 佐伯市日向泊浦517 | |
広島県 | 神武天皇御腰岩 | 安芸郡府中町宮の町5-4 | |
熊本県 | 神武天皇発輦跡 | 上益城郡山都町大野 | |
宮崎県 | 神武天皇御巡幸の地碑 | 東臼杵郡諸塚村七ツ山 | |
山口県 | 箕山 | 熊毛郡平生町大野南 | |
和歌山県 | 神武天皇聖蹟名草邑顕彰碑 | 和歌山市広原 | ナグサトベ |
和歌山県 | 神武天皇聖蹟狭野顕彰碑 | 新宮市佐野3-11 | |
和歌山県 | 神武天皇聖蹟熊野神邑顕彰碑 | 新宮市阿須賀1丁目2 | |
和歌山県 | 阿須賀神社 | 新宮市阿須賀1-2-25 |
駒宮神社 |
当社は初代天皇 神武天皇の幼少時の少宮趾として伝えられ、「駒宮大明神縁起」によると、弘治2年(1556年)6月には駒宮領二町、足洗 田一町を御供田として有していた。 往古は相当な大社であり、神宮寺という寺跡があり、神社の別当寺だったかもしれないが、安政元年の広渡川の氾濫で水没、また入田原 に大馬場があって流鏑馬神事で賑わったという。 |
駒宮神社 |
宮浦宮 |
醍醐天皇の御代、延長五年撰集の延喜式神名帳に所載の由緒ある古社である。 桃園天皇の御代、宝暦二年十二月十八日従二位神祇権大副卜部兼雄卿の昇階の事が天聴に達し、正一位の神階を授けられ、さらに勅許に より御幣十三体を内陣に納め、「正一位宮浦大明神」の勅額を正面鳥居に掲げるところから、宮浦大明神と称される。 宗源勅旨の内容は、当社の御祭神の嫌いな事として、氏子が麻苧を作ること、正月二十五日(神武天皇の旅立たれた日であり、明治以前 はこの日が例祭日であった)以前に機杼織ること、同日以前に灸をすることの三つがあって厳しいので、神位の昇叙により神慮の寛恕を 得る事が記されている。 他に神武天皇に因み、「御駐蹕伝説地宮浦」と記した石碑や「腰掛石」と呼ばれる座椅子型の石があり、北方三キロ程の海岸に突出した 若皇子鼻という地名は、かつてこの地を巡幸した神武天皇の若い時の御名・若御毛沼によるとの古伝がある。 社殿は寛政三年の大火で類焼し、当時の二十六代藩主斉宣公が再興したものといわれる。 |
鹿児島県神社庁 |
都嶋御旧跡 |
都嶋御旧跡(神武天皇の聖蹟)碑 神武天皇は、狭野皇子原(高原町)に誕生し、東征前までの皇居は都嶋にあったとされている。神武天皇の東征後、聖蹟を汚すことを畏 れた人々は、小高い塚を築いて「宮古神」として神社を建立したという。 永和元年(一三七五)、北条氏二代義久はこの地(都嶋)に城を築き、「都城」と名付けた。そして、神社が城内にあっては参詣に不便 だとして、城外に社殿を遷座し、『須久束大明神』と称した。 その後も、塚上の「宮古神」の社殿は残されていたが、間もなく兵火により焼失したため、跡地に樹木を植えてこれを記念したという (『稿本都城市上巻』)。 「都嶋御舊蹟」の碑は、神武皇居の遺跡を保存して後世に伝えようと、五十市村と都城町の有志らの寄付により、明治三六年(一九〇 三)八月一二日に建立された。当時の新聞『宮崎新聞』によると、石材は志布志の夏井から運ばれたとある。 平成二十六年一〇月 都城市教育委員会 |
現地案内看板 |
皇宮神社 |
御鎮座は、宮崎市下北方町皇宮地で神武天皇宮崎の宮の跡(江戸時代の碑)と伝えられる聖地である。 |
皇宮神社境内由緒書 |
金崎神社 |
金崎は大淀川の支流綾川に臨み、金崎神社の背後の小丘陵である。 神武天皇狭野より宮崎の宮に御遷御の時、この丘上にお休みになられ、橘の小戸の阿波岐原お望みになられた地として、紀元二千六百年 記念祭時に顕彰されている。 金﨑神社は桓武天皇の御代、金崎郷の総廟として鎮座されたものと伝える。昔時は金之御子、または金御児を冠して、六社大権現と称さ れていた。建久元年(1190)伊東祐経公日向の守護となり、社領高七石を奉納した。天正十五年(1587)秋月築前守の領地となって も、社領七石は旧に依って奉納され、更に元禄二年(1689)秋月式部種封公の領地になっても、社領は前例に依って奉納された。 当社はもと社殿背後の霧島山の山頂に鎮座し、元禄年間山麓に遷座したが、度々不思議 な事があって、宝永年間現在地に再遷したと伝える。 |
宮崎県神道青年会 |
神太郎水神 |
神太郎水神の伝説 当所の神太郎水神社は、高千穂郷 五水神社の一座である。太古往来にまだ道路がなく、嶺を伝うか、川の縁を利用して通行していた時 代、天孫降臨の地高千穂郷を守護するため神武天皇の兄、五瀬命は、この地方を貫流する、五ヶ瀬川流域の要害の地、五ヶ所に部下の臣 を遣わして守備させられたが、その地は、東は当所見立に「川の詰神太郎」西は三ヶ所廻淵に「雑賀小路安長」南は七折に「網瀬弥十 郎」北には田原の「漣 三郎」中央には三田井の「御橋久太郎」であり、神太郎様はその長兄であるといわれている。 はじめ国津神何々の命かが任命されていたとも思われるが詳でない。川の詰は見立川に沿い上流下流の何れから来ても、両岸絶壁で歩行 の止まる所、誠に要害堅固の地であって、川の詰の地名もこの地形に由来しているという。この地を豊後路の押さえとして侵入者を防ぐ 為、任せられた神太郎様はじめ太古国防の第一線に任ぜられていた命たちを祀った社でその建立の時代は不明であるが、由緒は古く同時 に各水系に配された水神様の内でも、霊験あらたかなことでもしられる。また水神社は武勇の神としても崇敬篤く、此処の氏子は日清日 露から大東亜の各戦役に出征し、一人の戦没者も出さなかったのも神太郎水神様の御守護のおかげと言われている。安全祈願から縁結 び、雨乞い、山火事の鎮火祈願、に至るまで、実に万能の水神様で更にまた此処の水神淵の水をつかい手習いすると上達すると言われ、 昔から遠近からの参拝者が多い事で有名であります。 建立平成三年二月吉日 |
現地案内看板 |
戸柱神社 |
不詳。一説によれば、神武天皇後東遷の際、準備発航の地である新川西字田畑の降神山(皇神山)に航海安全を祈って創建され、後約千 年前に当地へ遷座されたと言う。 |
鹿児島県神社庁 |
立磐神社 |
立磐神社は、その昔、神武天皇御東遷の際、美々津港より御船出するにあたり、航海の安全を御祈念され、海上の守護神であられる底筒 男命、中筒男命、表筒男命の三神を奉斎したことに因んで、第十二代景行天皇の御代に創祀されました。 天正六年、大友氏と島津氏の耳川の合戦の戦火により、社殿及び宝物、貴重なる文献等は消失しましたが、元和九年に再興されました。 境内には、神武天皇が座られたという「神武天皇御腰掛の岩」があり、玉垣を巡らして岩其のものを神武天皇の御神体として崇拝してお ります。 昭和九年には、神武天皇が当美々津港を御船出され二千六百年に相当することを祝う記念事業として、境内の拡張、社殿の修築が行われ ました。 |
立磐神社 |
都農神社 |
創建されたのは御即位6年前の神武天皇が宮崎の宮を発し東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神 を鎮祭された事と伝えられる。 旧記によれば、日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼 失したものの、御神体は尾鈴山麓に避難され難を逃れた。争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった。元禄5年に秋月 藩主 秋月種政が再興し、安政6年には篤志家の社殿の寄進があった。その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立 され、平成19年7月7日に現在の社殿が竣成されたのである。 |
都農神社 |
湊柱神社 |
幸脇はお船出の際、凧を揚げて風向を試みた所であり、口碑には御進発に際し軍船の修祓を斎行した所として顕彰されている。 また御滞在の間タブトキ峠に上られ御髻を櫛上げされ、遠く海路を眺められたと伝わる。 湊柱神社の創立年月日は不明であるが、高鍋藩の著した「続本藩実録」に文化元年(1804)八月八日立岩湊権現にお上(秋月藩主種徳) より銀一匁、雨乞いのお供料として奉献あった旨記載されている。両神とも水戸を司り、また水戸にあって祓除を掌る神である。 また明治三十九年四月「勅令第九十六号第一条ニヨリ神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社」として社格が村社になっている。 |
宮崎神宮 |
矢研の滝 |
「日本の滝百選」の一つ。県内唯一の国指定名勝「尾鈴山瀑布群」を代表する滝。神武天皇がご東征の折、矢を研がれたのが名の由 来。 |
宮崎県観光協会 |
湯之宮神社 |
座論梅の道路を挟んだ向かいに、鎮守の杜に囲まれひっそりと佇む神社。 神武天皇が東征の折、ここに立ち寄り湯浴みをしたと伝えられる「神武天皇御湯浴場跡」が残っています。 |
宮崎県新富町おすすめ観光情報サイト |
鉾島神社 |
鉾島はご東遷の際、鉾を納められた地として顕彰されている。 神日本磐余彦命は日向より船師を率いて、ご東遷の時、此の島の口(細島港口)にうの鳥が多く群れるをご覧になり、此の島は鳥辺島 (とりべしま)かとの詔せになった。これが今の「とべ島」である。これより進んで今の枇榔島(びろがしま)辺りにて大鯨の海中に浮 沈するをご覧になり、お持ちの鉾を以て、その鯨を突かせ給へばさながら美女に化し、天皇に向かって申し上ぐるに我は此の辺に住める 者、今子を生む間、何卒一命を助けたまへと一心に申せば、天皇憐みて是を許し給へば始めの大鯨に化り海中に沈みたり。天皇詔して此 の島は美女が島かと号し給へり。暫くして、追風凶くなり後に舟を返して此の島に懸らせ給ふた、その時此の地に釣する海人が小舟を浮 かべて急いで返るを呼び止めになり何に故に急ぎ返るかと問わせ給へば海人どもが申すには四時日の半ばより大魚が来るからそれが恐ろ しさに返ると申せば天皇曰「それは釣する日が少ない。出漁が自由でないであろう。此の後は此の島辺に来ぬ様に致して置うとて此の鉾 を島に納置した故に是を三鉾神として祭るべし」とて以前鯨に突きし鉾を此の島に建てられ此れは鉾島かと詔が有ったの で海人どもは大いに悦び有り難い事ぢゃこれは鉾島の鉾神様ぢゃと悦び帰った。此れより海人どもは鉾島鉾島と号へた。後世何にとはな く細の字になしたるものである。 昭和九年神武天皇紀元二千六百年の記念祭が全国に執行せられた時県下七聖地の一つとして顕彰せられ当時全国奉賛会会長故齋藤実子爵 の御来町を仰ぎ盛大なる式典が挙行せられたのである |
宮崎神宮 |
甘漬神社 |
甘漬はご東遷の際御駐輦された所として顕彰されている。 甘漬神社はその時、みずから大神を奉斎し群臣将兵と共に武運長久と国土の平定をご祈請されたのが創祀の始めといい伝える。 ここにご滞留中、さる高貴な御方が死去され、その方を葬った古墳が神社境内の中央神木老樹うっ蒼たる内にある。当社の例祭毎に第一 にこの古墳に御幣を奉上し、その後本社の祭典を執り行うことを古例としてきた。 棟札によれば、甘漬三所権現として、天文六年(1537)に再興されており、その後も、慶長二年(1597)卯月、寛永七年(1630)十二 月再興の記録がある。「県史蹟調査報告」によると歴代秋月氏の篤く崇敬した社で、慶長二年丁酉卯月には、秋月三左衛門種近公より神 領七石五斗、営繕その他一切の寄進があった。その後も、社参、代参等度々あり、社殿の改築修理もなされた。 明治四年十一月村社となり、明治四十年七月、地元の愛宕神社を合祀した。 |
宮崎神宮 |
伊勢本社 |
神武天皇東征の航海中、暴風雨のため航行に難儀され、芹崎を回って左方に湾入する津(畑野浦)に皇艦を入れられました。そこで、神 前に海の幸・山の幸を供えて天候の回復と海上の平穏を祈られたといわれています。その折、神武天皇自ら天津神に供えられた飲み物を 盛った斎器が、伊勢本社の御神体であると伝えられています。なお、上入津地区護国神社・恵美須神社・琴平神社が、本殿に合祀されて います。 |
ツーリズムおおいた |
早吸日女神社 |
佐賀関沖の豊後水道には、蛸(タコ)にまつわる伝説が残っています。紀元前667年、神武天皇が東征の際に、速吸の瀬戸(豊後水道) の海底に大蛸が住みつき、潮の流れを鎮めるために守っていた神剣を、関に住む海女姉妹が海底深く潜って大蛸よりもらい受け、神武天 皇に献上したと言われています。 早吸日女神社(はやすひめじんじゃ)は、その神剣をご神体とした神社で、古くより厄除開運の神として地元の人の信仰を集めていま す。また、神剣を守っていた蛸も崇められており、蛸の絵を奉納して一定期間蛸を食べずに願い事をすると成就すると言われる「蛸断ち 祈願」を行っている全国でも珍しい神社です。 境内には大きな藤棚があり、毎年5月3日には「ふじ祭」が行われています。 |
ツーリズムおおいた |
神の井 |
神の井 むかし神武天皇東征のみぎり 日向(宮崎)を舟出して ハヤスイノミナト 豊後水道を北上された征途 たまたま この地に寄港されたと伝 えられる。 沖合に舟撃ぎの岩と呼ばれる大小二ツの岩があり日向泊の地名もその故事に由来するという。 その時天皇は島中に水なきを憂い弓矢で海岸を掘るとたちまち美しい豊かな清水が湧き出たと伝えられる。この神の井は満潮時には海水 に没する不思議もあって大切に保存されている。 日本の昔を偲ぶ 文献 古事記 日本書紀の説話はとおい祖先の昔から語り継がれ 私たちの郷土に生きている。 佐伯市観光協会 |
現地案内版 |
大川内神社 |
当社は、古くは地王権現と称していた。 地王権現は、慶安四年(一六五一)宝殿再興、正徳五年(一七一五)奉寄進の棟札がある。これにより約三四〇年以前に造立されたもの という。 明治四年(一八七一)十二月村社となる。 主神吾平津媛は、神武東征に御子手研耳命を随伴させ、みずから吾平の地にとどまり、ひたすら夫の君やわが子の御東遷、武運長久を御 祈りになったという。 |
大川内神社境内由緒書 |
吾平津神社 |
当社は元明天皇の御代の和銅二年(七〇九年)の創建にて、乙姫大明神と称して、江戸時代、飫肥十一社の一つとして歴代の藩主の崇敬 篤く、明治維新に際し伊東祐相知事の意により吾平津神社と改称され、昭和八年郷社となる。 境内に御門神社二社があり櫛磐間戸命・豊磐間戸命の二柱の神をお祭りしてあります。 その外に境内末社として祖霊社、又豊漁及び商売繁盛の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。 主祭神の「吾平津毘売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり「古事記」によればお 二人の間には「多藝志美々命」・「岐須美々命」二人の皇子ありとあり、又「日本書紀」によれば「手研耳命」お一人の皇子ありとあ る。 神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津毘売命」は同行されず当地に残られ、この油 津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。 この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。 |
吾平津神社境内由緒書 |
和尚山 |
和尚山周辺説明板 ~ ①~③ 省略 ~ ④一柱謄宮(あしひとつあがりのみや) 神武天皇の東征の折、日向から莬狭(うさ)に到着した天皇一行を莬狭津彦(ひこ)莬狭津媛(ひめ)がこの地に宮を造りもてなしたと 伝えられている。 ~ ⑤~⑨ 省略 ~ |
和尚山周辺説明板 |
宇佐神宮 |
神武天皇聖蹟莬狭顕彰碑 日本書紀によれば、神武天皇は御東征のとき、日向を発たれ、椎根津彦命の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸されまし た。 このとき宇佐国造の祖である莬狭津彦命・莬狭津媛命が天皇一行をお出迎えになり、一柱謄宮を建て饗(ご馳走)を奉ったことなどが記 されています。 これを記念して昭和十五年にこの顕彰碑が建てられました。一柱謄宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、この一帯は謄隈 とよばれています。宇佐上陸の地とされる和気地区には柁鼻神社が、また大尾山の東側台地には椎根津彦命を祀る椎宮が鎮座していま す。 |
宇佐神宮境内顕彰碑 |
妻垣神社 |
今より2650年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる神武天皇(神倭伊波礼毘古命)は、この宇佐の地「妻垣」に立ち寄られました。 その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメは皇軍一行を快く迎え入れ、歓待申し上げたと記紀(「古事記」「日本書紀」)に 記されています。 翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をいたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(別名-妻垣山)の大石に母后玉依姫命 (比咩大神)の御霊をお祀りするため、自ら祭主となり、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えしました。その大石は「足一騰宮(アシヒト ツアガリノミヤ)」と名付けられました。 このことより当社の歴史が始まりました。 |
妻垣神社 |
柁鼻神社 |
八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、椎根津彦命(椎宮の御祭神)に先導された神武天皇一行はこの柁鼻の地 に上陸されたと言われている。 「日本書記」によれば、宇佐の豪族 菟狭津彦・菟狭津媛の御兄弟が天皇の御一行に一柱騰宮を建てて大御饗(食事)を奉りお迎えした と伝えられるのが、此の宇佐の地である。 また、この時神武天皇の勅諚により天種子命(後 藤原氏)は菟狭津媛を妻としたことによって大和朝廷と宇佐との関係がより深くな る。 よって、この柁鼻の地に三柱の神を祀りお社を建てたのが柁鼻神社の始まりである。 八幡宮御祭神の神宮皇后は三韓出兵に際し、和間の浜において軍船を築造し、ここにて柁神祀ると言われている。 また、勅使・和気清麿公上陸の地とされ、東側に船繋石の遺跡がある。 |
柁鼻神社境内由緒書 |
岡田宮 |
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を 熊手と号す。 神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。 仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭す る由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。 古来当地は北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要に位置し、皇室、公家武門、武将等の崇敬篤く、祭礼法度 を定め社領18所、末寺9坊と栄えたり。 天慶3年(940年)、藤原純友追討の折、追捕使の主将・小野好古、副将・源経基、戦勝祈願の為に当宮に参詣し、三環鈴を奉納す。 此の神鈴今も当宮に伝来す。 建久5年(1194年)、征夷大将軍・源頼朝の御家人・宇都宮上野介重業、平家討伐の功によりて筑前国遠賀・鞍手両郡のうち三千町 を賜わり、当宮の祭祀を波多野重満大夫藤原兼直に奉仕せしむ。 永禄2年(1559年)、大友宗麟の兵火に遭い社殿焼亡するも、永禄8年(1565年)、麻生上総介元重、社殿を再興せしむ。此れ の棟札今に残れり。 慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めら る。 爾来、藩主はもとより、長崎街道参勤の九州諸大名の崇敬篤く、社殿造営・社参奉幣等多く、又上り下りの文人墨客等数多く参詣せり。 慶応元年(1865年)三条実美卿、大宰府に流謫の途次、従士・土方久元を伴いて当宮へ参詣し、維新回天の大願成就を祈念し和歌一 首を奉納す。 現在では黒崎熊手地区50余町の産土神と敬仰され、近隣在民は勿論、広く北九州圏一帯よりの参詣多し。 |
岡田宮 |
神武神社 |
当社は、此の村の氏神なり。 神武天皇が東征の折、この地に暫く鳳輦を駐め給う。その陣跡に社を建立す。 神武天皇が天照大神から六世に当り給う故「六権現」と号し奉ると申し伝う。 その後明治に入り「神武神社」と改称す。 |
神武神社境内由緒書 |
一宮神社 |
この地方の氏神、王子神社大歳神社諏訪神社の三社を昭和二十五年六月吉日に合祀し社号を一宮神社と誦します。 王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で境内には古代祭場等 考古学的にも貴重な跡があります。 大歳神社は三代実録や続風土記にも表れている古くて且、由緒深い神社であります。 諏訪神社は、花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀し、厚く祭られた神社であります。 |
神武神社境内由緒書 |
神島神社 |
当神社は、延喜式神名帳に備中小田郡神島神社とあり、式内社である。 御祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)と興世姫命を奉斎する。 創建は奈良時代(726)神亀3年と伝えられ、室町時代(1547)天文16年に本殿の御造営が行なわれていることが棟札によって知ら れる。大正15年8月15日に第6回目の改修工事を行なった。 命は、皇祖皇考神聖にして日向より東征の砌、吉備高島に8年間駐屯された。その後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第 1代践祚の大偉業を成された。妃興世姫命は、部下を率いて当地に駐留され天業を扶翼してこの地に崩御された。近郷住民は、命たちの 高き尊き御神徳を畏みて一大崇敬産土神と斎き祀った。 |
岡山県神社庁 |
神上神社 |
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は、遠大な建国の御計画のもとに、舟師をひきいて、日向高千穂を進発され、長い年月と幾多の辛酸を経 て大和を御平定、橿原宮において我が国初代の天皇として御即位になった。 この神上の地は、天皇が日向御進発の当初、海上の遭難によってお立寄りになり、半年の間をお過しになった行宮であり、御東行の途 次、暫し安らかに憩われ、深くみこころに留め給うた聖跡である。 天皇は、日向より筑紫国を経て海路内海を御東行中、周防灘に至り思わぬ風波に御遭遇、北の方へ吹寄せられたので、ほど近い小島(竹 島)にお舟を留められた。この時天皇は御舟酔甚しく、島の対岸に漕ぎ入れてお休みになった。 里人は種々の薬草を献じ御快癒をお祈りした。これを含まれると忽ち御快くならせられ、「我心たいらかなり」と仰せられ、里の名を 「たいらの里」(平野)と命名された。 さらに、浪音のきこえぬ地でお休みのため、水際伝いに進まれると里があり、此の処の石に御腰をお掛けになるうちに夜が明けた。この 地は海上より微かな光を見た吉兆の地であり、微明(見明)という。 ここより山の麓をおのぼりになると、谷水の音が幽かにきこえる静かなところ、彼方に黒髪島 仙島などが夢のように浮かぶ瀬戸の海を 眼下にした絶勝の小高い丘にお着きになった。 ここに假宮の御造営を仰せ出された。 天皇は、近い高根に登って四方の地勢をご覧になり御東行の道を御案じになった。この時、四匹の熊が地に伏し頷いたこの山を「四ツ熊 の峯」(四熊嶽)と名付けられた。 およそ半年、この假宮で態勢を整えられた天皇は、「御舟は海の上を経よ、我は陸地を行かん」と仰せられて再び御進発、安芸国・吉備 国を経て遂に大和へお入りになり建国の方図は成った。 天皇は、この神上の地に深く御心をお留めになり、御出発にあたって「朕何国ニ行クトモ魂ハ此ノ假宮ヲ去ラザレバ長ク朕ヲ此ニ祀ラバ 国ノ守神トナラン」と宣らせ給うた。 里人等はその御旨を畏み、假宮の地に祠宇を建立し、「神上宮」と称して斎祀し奉った。 |
神上神社境内由緒書 |
箕山 |
箕山と神武さま 箕山は、標高四〇〇m、ここからは、平生平野を一望に見わたすことができます。古い昔この山頂に神武天皇がたちよられたという言い 伝えがあり、明治初年大野の里人や近郷の人々により祠が建てられました。 その後、「神武天皇遥拝所」とされ里人から「神武さあ」とあがめられてきました。 昔は、四月三日の例祭に、神舞や出店もあり、山登りをかねた人々で大変賑わったということです。「大野村郷土誌」より 尚、神武天皇を祀った神社として近隣には、新南陽市富田の奥地、徳山市大字下上に神上神社があります。 昭和六三年五月一五日 平生町観光協会 |
現地案内版 |
懸幡神社 |
本神社は、神武天皇御東征の際、富島の宮から吉備の奥津方面に荒振る神がいると聞いて、平定しようとこの里に入られた時に、山の 峰に御旗が懸かっており、その旗には武甕槌命、経津主命の御名があったので、この地を懸幡といい2柱の神を奉祀したと伝えられてい る。 創祀時は掛畑明見に鎮座していたが、明治45年5月11日に現在地に遷座し、御崎神社外数社を合祀した。 |
岡山県神社庁 |
幸地山神社 |
当社は、主祭神に応神天皇・相殿に神功皇后及び姫大神を祀る。 数度の火災により古文書は焼失したが、「備陽国史」によると八 幡宮は京都山城国石清水八幡宮、天満宮は京都北野天満宮から勧請された。 邑久郷はもと太伯(おく)の郷と言われ、邑久郡の原 (もと)で総社をこの地に定め、古来祝祭日には、郡内式内外古社18 社の神を奉斎し、里人は総社様と呼び、崇敬した。 幸地山は 「いでましどころ」と称し、天皇行幸地の意で、神武天皇御東征の時、御船を停め山の南端鳥越から、景色を眺望された所である。 また、古老の口碑によると寿永年間源平合戦の際、当社にあった鐘を弁慶が陣鐘に持ち去り、今は屋島寺にあるという。故に、備讃瀬戸 の船頭歌に「屋島の鐘の音聞けば備前恋しや程遠や」と歌われている。 |
岡山県神社庁 |
麻御山神社 |
本国総社神名帳に「麻御山神社」、山本氏本本には「従五位麻御山神」と記されている。貞享元年の神社改帳には、「祈祷村麻御山大明 神」と、また宝暦年中の神社書上帳には「邑久郷村之内吉塔山麻御山大明神」とある。今も神山を麻御山という。神武天皇の御東征に御 供をした者が、天皇が吉備の高島に御滞在のとき、詔によって斎服を調進するため、ここに麻を植え紡績なさったのがもととなって奉斎 した神社である。 |
岡山県神社庁 |
綱掛石神社 |
創建年月日不詳。神武天皇東遷の時、御船の纜を掛けられたという大きな石がある。この石の下に奉斎されている社であって、安仁神社 の末社として地方民の崇敬が厚い。周辺には環状列石らしい磐境(いわさか)があり古代の祭祀跡とみられている。この地より高島が一 望できる。 |
岡山県神社庁 |
伊登美宮 |
創建年月日不詳、伊登美宮は屯集宮の義で、神武天皇の御東遷の時、従い奉った将士の駐屯した処で、幾多の神を祭る社である。昔より 安仁神社の摂社として地方民の崇敬が厚い。 |
岡山県神社庁 |
松江伊津岐神社 |
邑久郷はもと太伯(おほく)の郷と言い、神武天皇御東征の砌、皇兄五瀬命、若御毛沼命(神武天皇)日向より海路吉備高島を経由、こ の太伯の海に到りて兵食を備蓄し舟櫂を修補した。大御船を待ち齋奉れる古跡である。松江は待江の義である。往古国の総社において 祈年、新嘗の祭典があったときは、国司の祭典に預ったという。一時は杵築大明神とも称した。安仁神社より神官奉務し摂社とある が、備前国古社128社の一社であり、古くは末社ではない。五瀬命は太伯の海から東行し難波の碕に到り河内の国にて長髄彦と挑戦し 給ふ時、賎夫の流矢に当り戦死した。神武天皇は大和の国に入られ給ひ登極された。五瀬命ゆかりのこの海辺の御在所跡に霊宮を建営し た。弘安8年(1285年)備前国神明帳に128社邑久郡18社正五位下松江伊津岐明神とある。本国総社の神主綿抜藤大夫家に持 伝えた国内神明帳に松江伊津岐明神と見え、吉備津彦神社の左楽頭熊代氏の本には松江伊津岐神とある。応永33年(1426年)写 本備前国上東郡(邑久郡)八日市村(行幸村)津野宮八幡宮神職山本氏所蔵国内神名位記に従五位上松江伊都岐明神とあり、金剛寺本に 従五位下松江伊都岐明神とある。 |
岡山県神社庁 |
乙子神社 |
当社は乙子城山に鎮座する神社である。創立は詳かではないが本殿内に乙子大明神、延喜4年(904)4月22日御内陣新調の記載が ある。 御鎮座の山は往古角岬と称え、西南とも入海になっており、東方から4キロメートル余り突出している。 若御毛沼命は五瀬 命(安仁神社)の御末弟であって、乙子大明神と尊称し奉った。「備陽国誌」に乙子村若宮大明神として見えるが同一神と思われ る。 また、神武天皇が御東征の際、御登臨されたとも伝えられている。近くに安仁神社や御東征の際海路を御嚮導された珍彦命が 祀られている神前神社などがあるのはこれに係わりが深いと思われる。 浮田直家が岡山城を築いた時、社領田を奉納し、大いに崇敬 した。また、備前藩主池田公も社領5斗を献じた。 |
岡山県神社庁 |
亀石神社 |
ここは、神武天皇の水先案内をした神が乗った大亀の化身(亀岩)を祭った神社で、毎年旧暦6月15日には、ちょうちんを飾った美し いシャギリ船が湾内を巡回する古式豊かな満潮祭が催されます。 |
現地看板 |
家島神社 |
播磨灘の中央に、44とも数えられる家島諸島が浮かぶ。ここは国生み神話の伝承地、そして、海洋交通の要衝として重要な位置にあ る。 当社の鎮座する家島本島は、諸島の中でも特に入り江が奥深く、絶好の港になっている。伝えられる処では、神倭磐彦命(神武天皇) が、大和橿原の地に向かわれる途次、当地へ御寄港になられたところ、港内が風波穏やかで、あたかも家の中にいるように静かであった ので「いえしま」と名付けたという。当社はこの時、武運長久と海上航海の安全を祈願して天神をお祀りしたに始まると伝わる。 家島諸島・播磨灘総鎮守である当社は、承和7年(840)官社に列せられ、つづく『延喜式』には「名神大」としてその名を連ねている。 境内地は岬の突端に位置し、境内全域にウバメガシ、シイ、トベラ等が生い茂り「天神の森」と呼ばれ瀬戸内海国立公園に指定されて いる。境内入り口には、菅公上陸の地とされる「詩オ書き石」と呼ぶ岩場があり、大鳥居横には万葉の歌碑がある。 平成13年(2001)に天神の森の保護も考慮し、海岸線を中心とする境内整備の大事業が施された。 当神社は、神倭磐彦命(即位して神武天皇)御東征の砌り、御寄港室の内の如く静かなるを以て家島と名付け、天神を祀り、皇師の武運 長久と海上安全を祈願し給うとぞ、又神功皇后三韓御門出の時天神を祀り給ふに山中ゆりければ、ゆるの山と古歌にもよまれ、朝廷の御 崇敬篤く、第四十八代称徳天皇天平宝字8年3月7日揖保郡福井庄家島の高島に支那福州の賊船襲来屯す、時の国司藤原朝臣貞国下知し て、戦勝を祈願せしめ、これを撃退神威毫し衰へず播磨を往来する船舶は、風波の難を祈り、崇敬怠る事なし。故に仁明天皇承和7年6 月官社と為り、醍醐天皇延喜の制に式内名神大社となる。此の大神は国土を開墾し、海運、漁業、医薬、禁厭酒造の方法を定め、温泉を 開発人畜の病に悩むを助け給ふ最も尊き神に坐す故に、大己貴神は大国様、少彦名命は薬神様として崇めたる。 |
兵庫県神社庁 |
保久良神社 |
古くは「あをぎ」と書いており、ここから丁度北の山中にある保久良神社の祭神椎根津彦命が青亀(おうぎ)の背にのってこの浜に漂着 したとあり、落合重信『埋もれた神戸の歴史』によると沖縄における「オオ(青)の信仰」という対岸の島ないし浜辺の社を死後の世 界・聖地とする信仰がかつては広く日本にあったのではないかと各地で研究が行われており、これも微かな「オオ」の痕跡ではと言われ ている。この辺りには神が波間から漂着したといわれる所が多く、そこから東の森稲荷神社もそれである。 |
Wikipedia |
椎根津彦神社 |
神武天皇は、大歳甲寅(西暦紀元前、六六七年前)東遷の為、日向国を出発せられ、その年の十月、当地速吸の瀬戸に於いて珍彦命の奉 迎を受け、命に御名を椎根津彦と賜わる。 椎根津彦名は統治より、水先案内として皇軍に従軍し、屡々勲功をたて、建国の偉業達成に盡瘁せられた。 皇紀二年(西暦紀元前六五九年)春二月、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦命を倭国造に任ぜられた。(日本書紀)これを伝え聞いた当 地の里人たちが、小祠を建てゝ命を祀ったものがその創祀と伝えられる。 【以下略】 |
椎根津彦神社現地由緒書 |
茅渟神社 |
大阪湾は古くは「茅渟の海」と呼ばれていました。神武天皇東遷の折、傷ついた兄の五瀬命が近くの「山の井」で血を洗い、海が血で染 まり「血の沼」となった事が「茅渟」の由来と伝わっています。茅渟湾(大阪湾)でよく揚がる「チヌ鯛」(黒鯛)の大漁祈願に、全国 から釣り人が訪れます。 |
泉南市観光協会 |
水門吹上神社 |
水門神社社伝によると、昔、紀水門の海上に、夜ごとに神光顕われ、いつしか波に従って浜辺に打ち上げられたのを見ると、戎様の神像 であったと言う。 そこで、湊村字和田濱鵜島に祠を建て、これを齋き祀っていたが、明應年間(1491―1500)に大海嘯が起こって砂に埋没したので、住 民らが今の西河岸町字元恵美須に移し、更に大永3(1523)年6月23日、現在位置に鎮座したものである。 吹上神社は、昔は、吹上三本松(今の植松町の南)と言う所に鎮座していたが、天正年間(1573―1591)、此地に合祀したものであ る。 その後、しばらくは、相殿でお祀りしていたが、後に、社殿を分け二神相並べてお祀りし、第二次大戦迄、水門神社・吹上神社と称して いたが、戦災により社殿一切が消失し、戦後は、同床共殿によりお祀りし、水門吹上神社と称するようになり現在にいたっている。 水門神社は蛭兒神(戎様)、吹上神社は大己貴神(大国様)が御祭神で、2柱の福の神をお祀りする全国でも例の少ない神社である。 (鎮座地) 現在の鎮座地は、神武天皇が御東征のみぎり、御皇兄の彦五瀬命が、和泉で長髄彦の流失に当り、出血甚だしく、崩御されたと言われる 旧跡である。 『古事記』に言う「男水門」とはこの地であると伝えられ、境内には、聖跡記念碑が立っている。 (十日戎) 神社は、紀州の十日戎祭発祥の社として知られ、正月9日、10日、11日の十日戎には、福を授かるべく老若男女が参詣し、吉兆(福笹) を求めて帰る人のおびただしい事は、今も昔も変わりない。 又、現在では、よく知られている「のし飴」も当社が発祥の物であり、これは紀州独特の物で、他では見られない。 (牛の舌餅投げ) 牛の舌餅という畳1枚程ある「のし餅」は、毎年11月23日の新嘗祭に、神饌として、御供し、祭典終了後、参詣者に、他の奉納された餅 とともに、投げ配られている。 これは何時の頃より始められたか詳らかではないが、牛祭りに投げたものと言われている。 |
和歌山県神社庁 |
男神社摂社浜宮 |
天神の森一帯は、往昔における海面であり、当時は水深もあり、船舶の碇泊に適した地で山城水門と言われた。日本書紀に皇兄五瀬命が 「敵に報いることなく手傷を追って死ぬとは残念極まりない」と雄々しく叫ばれたとあり、そのことから雄水門と呼ばれている。 |
現地看板 |
竈山神社 |
御祭神の彦五瀬命は、第一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衙坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水 門に至りて遂に崩御遊ばされ、竈山の地に葬られ給う。 今の社地は即ちその遺跡で、延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡、竈山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社であり、天 正年間まで社領8町8段を有したと伝えられている。 往古は社殿も宏大にして現地か東南山麓に鎮座し給うたが、戦乱の世を経て社頭衰微し、徳川氏の入国後、社殿を再興した。 明治18年、官幣中社に列せられ、大正4年、官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張し て現在に至っている。 寛政6(1794)年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて「をたけびの かみよのみこゑ おもほへて あらしはげしき かまやまのま つ」と詠んだが、竈山の岩根に鎮ります神霊は、日本の国の行手を永久に譲り給い、導き給うことと拝し奉る。 |
現地看板 |
宇賀部神社 |
古記録は戦国時代の兵火で焼失して、由緒を尋ねる確たる典拠がない。 しかし鎌倉期よりの神職、小野田家所蔵の文書によれば、「山城国、愛宕神社を勧請す」とあり、古来、祭神3柱の中央祀神たる「宇賀 部大神」を「迦具突智神」とする説に符号する。 また一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった名草戸畔 の首級を祀るともいわれ往古より頭の守護神として、「おこべさん」の愛称で広く親しまれてきた。 荒八王子命は、もと現在地の東方100㍍に、若宮八幡神社は南方約400㍍、高倉山の中腹に鎮座していたが宝暦4年(175 4)、本殿新築に際して、この地に合祀された。 当神社は「紀伊続風土記」によると、「一村の氏神にて社殿壮麗なり・・・宮作及ひ境内の形状 尋常村落の産土神とも見えす 必古 官知の神にして後世その神名を失ひしものならん」とあり、古くは由緒ある知名の神社であったが乱世を経て、衰微したようである。 元来、頭病平癒の神として尊崇されてきたが、現在では学業成就や入試合格等を祈願する若人の数が増え、四季を通じて祈願者の後は 絶えない。 なお、境内社として太神宮、天神社、山王神社、稲荷神社、祇園神社、多賀神社、秋葉神社、弁財天神社が祀られている。 |
宇賀部神社 |
杉尾神社 |
神武天皇軍に倒された名草戸畔の胴を祀っていると伝えられる神社。神額の隣には大きなしゃもじがあり、絵馬とともに「しゃもじ」が 奉納されるなど、「おはらさん(お腹の神様)」として信仰を集めています。 |
和歌山県観光振興課 |
千草神社 |
古くは百草神社と言った。 勧請年月日は詳かではないが、『紀伊続風土記』に「田津原・伏山・大谷 三ケ村の産土神なり 祀神詳かならず 百草は地名と見ゆ 応永・永正などの文書に百草の森の名見えたり……」とある。 旧記に「百草明神は人皇第三十六代孝徳天皇大化三丁未年雨ノ森と言ふ所へ御鎮座、右末社七社有……」とある。 雨ノ森とは百草の森のことと考えられるので、いずれにしても相当古くからのものと思われる。 明治43年、熊野神社(海南市別所)及び八王子神社(海南市扱沢)を合祀、社号を千種神社と改めた。 一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった、紀北地方を支配していた豪族である名草戸畔の足を祀るとも いわれる。 そのことから、神前に履物を供え、足腰の無病を祈る風習があり、足神様としてあがめられている。 境内には樹齢700年を越える老楠があり、中に地蔵を巻き込んでいる。 里謡に「行たら見て来ら 重根の宮の 楠に巻かれた地蔵尊」というのがある。 100年程前までは、地蔵尊の一部を見ることが出来たらしいが、今は完全に巻き込まれてをり、その姿を見ることは出来ない。 |
和歌山県神社庁 |
神倉神社 |
神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神 倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて[2]、あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高 倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。 しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつけ る所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。 |
Wikipedia |
阿須賀神社 |
当社は、古事記、日本書紀に記されている熊野村、熊野神邑であり、遠く第五代孝昭天皇53(皇紀238)年3月の創祀と申される。 御承知の通り、伊邪那岐・伊邪那美2神の熊野に参られ御産みになった神々をお祀りし、從って熊野は黄泉の国、常世の国と読まれ、熊 野発祥地とも云われている。 阿須賀とは、阿は接頭語、祭祀生活を営む好適条件を備えた霊場とか、或は浅州処と名づけられる地名で、飛鳥山を御神体とする神の鎮 座地としての信仰が古くからあったようである。 社後の森蓬莱山(飛鳥山)は、第七代孝霊天皇6(皇紀376)年、秦人徐福、始皇帝の命をうけ不老不死の仙薬を求め献じ奉らんと、童男 童女3千を卒い、五穀百工を携えて東海に船を浮べ、常世の郷、熊野邑、即ち飛鳥に参って帰らず子孫繁昌したと伝えられる徐福の宮が ある。 (社殿造営) 徳川幕府歴朝の聖慮を奉体し、昔時の尊厳を保持し造営維持の方法を設け、嘉永7(1854)年に将軍家定紀伊国主をして社殿の再建をな し、其の結構偉麗でしたが戦災の為悉々烏有に帰したが昭和51年に銅板葺社殿が復興した。 (蓬莱山[飛鳥山]) 飛鳥の森は古来禁足地となっていた聖域であり権現御創祀の神蹟、即ち初は孤立した斎島(神の森)原始期の磐座であって其の麓には 上、下、両古代祭祀遺跡と、後世両部信仰に関係深い熊野諸尊御直体埋納所(経塚)を営み、熊野信仰の一霊所であったことがわかる。 今に至るを蓬莱山に対する信仰には変りない。 (境内三光社) 熊野三毛津神として尊稱され又夫須美の荒御魂、熊野党の母神ともいわれるなど其の創社は普富として更に古代にさかのぼると思われ る。 (徐福宮) 第七代皇霊天皇の頃、秦の徐福が神薬を求めてこの熊野に来り、この地に奉祀されたと言われる。 (神宝) 古神宝等は国立博物館蔵として保存されている。 此の外、近年発掘発見された多くの弥生須恵、土師器の外、祭祀遺物を始め和鏡、銅板彫鏡、御正体諸尊像は、それぞれ御由緒深いご社 暦を証するものである。 |
和歌山県神社庁 |
渡御前社 |
境内は神武天皇頓宮跡と伝えられ、古来、速玉大社末社と江戸時代の古書に記されている。明治四年本社へ合祀。昭和四十六年五月二日 に再建した。 |
渡御前社現地由緒書 |
高島宮
斎島神社:尾道市 |
昔神武天皇、東国に行かれるとき、風波のため航海ができず、この大浜に船を留め、塞崎山にて数日嵐の靜まることを天神に祈られた。 即ち此の島は齋島である。後に変って隠の島となる。その由来により神亀四年十一月十五日、社殿を造り厚く祭った三代実録にある従五 位下の隠の島一の宮とは当社であるとの云い伝えがある。 |
斎島神社由緒書 |
高島神社:笠岡市高島 |
高島神社の創建は不祥ですが神武天皇を祀り、明治維新までは「神武天皇宮」「神武天皇社」と呼ばれて崇拝されていました。社は小さ いですが神武天皇が東征された際の仮宮である吉備高島宮の跡と言われています。 |
笠岡市観光協会 |
高島神社:岡山県岡山市南区宮浦 |
創建は神武天皇乙卯年三月、神階は従五位下である。神武天皇が御東征の砌、当地に行宮を創設せられたのにはじまる。光仁天皇の宝亀 三年に相殿として四柱の神を奉斎した。古事記に記載してある高島宮とは本神社のことで、(即ち昭和十五年五月六日文部省から官報第 三九九六号で高島宮伝説地として指定せられた)往古から朝廷、国司、藩主の尊崇厚く、神封、社領或は社殿の新改築等の寄進があっ た。明治維新に村社に列格した。昭和二十一年一月十四日に由緒上は県社に該当するものと神祇院考証課長から確認を受けている。 |
岡山県神社庁 |
八幡神社:広島県福山市 |
古来神武天皇ゆかりの宮として武ノ宮八幡宮と称えられたが、明治四年神祗制度の改革により、村社八幡神社と改称される。 現在は昭 和27年の宗教法人法により、八幡神社の名称となっているが、ここに由緒ある社名を社号標に表記する。 |
八幡神社御由緒書 |
皇森神社:広島県福山市 |
神武天皇(即位前)が東征途中に立ち寄られた行宮跡として語り伝えられ王太子さんとして古くから住民に親しまれてきた。 一九三五(昭和十)年四月には、当時の高島史跡顕彰賛助會の手により、吉備高島宮記念碑が建立され今も残されている。 境内には、樹齢数百年の椋の樹や、松、榎の高木が立ち並んでいたが、現在は椋の樹三本だけが、その名残りをとどめ、大日本老樹名木 誌に掲載されていた樹齢千年の大椋樹も、明治時代の大火に焙られ、今は二世の時代になっている。 内海町教育委員会 文化財保護委員会 |
皇森神社由緒書 |
神島神社:笠岡市神島外浦 |
当神社は、延喜式神名帳に備中小田郡神島神社とあり、式内社である。 御祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)と興世姫命を奉斎する。 創建は奈良時代(726)神亀3年と伝えられ、室町時代(1547)天文16年に本殿の御造営が行なわれていることが棟札によって知ら れる。大正15年8月15日に第6回目の改修工事を行なった。 命は、皇祖皇考神聖にして日向より東征の砌、吉備高島に8年間駐屯された。その後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第 1代践祚の大偉業を成された。妃興世姫命は、部下を率いて当地に駐留され天業を扶翼してこの地に崩御された。近郷住民は、命たちの 高き尊き御神徳を畏みて一大崇敬産土神と斎き祀った。 |
岡山県神社庁 |
諸説
大元山・高須八幡神社 | 広島県尾道市高須 |
御蔭山・貴船荒神社 | 広島県福山市柳津町 |
王太子神社 | 広島県尾道市浦崎町 |
産土荒神社 | 岡山県倉敷市児島塩生 |
高島神社 | 岡山県岡山市中区賞田 |