古事記
原文 | 現代語訳 | 備考 |
於是亦、高木大神之命以覺白之「天神御子、自此於奧方莫使入幸。 荒神甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」 |
またタカギノカミは、「天神の御子よ、悪い神が沢山いるので、こ こより奧にむやみに入ってはならない。天から八咫烏を遣わすので 、その導きに従いなさい。」と教えてくれました。 |
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故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、 | 教えの通り八咫烏の後についていきますと、吉野川の下流に到着し ました。 |
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作筌有取魚人。爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名 謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。 |
そこに、筌を使って魚取りをする人がいましたので、「お前は誰で すか。」とお尋ねになると、「私は国津神の、ニヘモツノコです。 」と答えました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。 |
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從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答 曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。 |
さらに行くと、尾のある人が、光る井戸から出て来ました。「お前 は誰ですか。」とお尋ねになると、「私は国津神の、イヒカと申し ます。」と答えました。これは吉野首らの祖先です。 |
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卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」 答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。 」此者吉野國巢之祖。 |
山に入ると、また尾のある人が岩を押し分けて出てきました。「お 前は誰ですか。」とお尋ねになると、「私は国津神の、イハオシワ クです。天神の御子をお迎えに参りました。」と答えました。これ は吉野の國栖の祖先です。 |
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自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。 | それから地面を踏み抜くように山坂を上り越え、宇陀に到着しまし た。よって宇陀の穿と言います。 |
菟田穿邑顕彰碑 |
故爾、於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音、下效此也弟宇迦斯二人 。 |
この時、宇陀にエウカシ・オトウカシという兄弟がいました。 | |
故先遣八咫烏問二人曰「今天神御子幸行。汝等仕奉乎。」 | 先に八咫烏を遣わし、「天神の御子が到着したが、お前たちは従う か。」と尋ねさせました。 |
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於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使、故其鳴鏑所落之地、謂訶夫羅前 也。 |
従う気のないエウカシは鏑矢を放ち八咫烏を射返しました。その鏑 矢の落ちた処をカブラ埼と言います。 |
熊野那智大社 |
將待擊云而聚軍、然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿內作 押機、待時。 |
「待って撃つ。」と軍を集めましたが、集まらなかったので、「お 仕え申しましょう。」と嘘をつき、大殿を造りその内に罠を仕掛け ていました。 |
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弟宇迦斯先參向、拜曰「僕兄・兄宇迦斯、射返天神御子之使、將爲 待攻而聚軍、不得聚者、作殿其內張押機、將待取。故、參向顯白。 」 |
しかし、オトウカシが「私の兄のエウカシは、天神の御子のお使い を射返したが、攻めるための兵士が集まらなかったので、御殿に罠 を仕掛けて待っているところです。そのことをお伝えに来ました。 」と申しました。 |
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爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇 迦斯罵詈云 |
そこで大伴連らの祖先のミチノオミノミコトと、久米直らの祖先の オホクメノミコトの二人がエウカシを呼び、 |
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「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白 其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而 、追入之時、乃己所作押見打而死。 |
「貴様が作った御殿なのだから、貴様が先に入って中を案内せよ。 」と強く命じ、刀の柄を掴み矛をさしあて矢をつがえて中に入れる と、自分が仕掛けた罠にかかって死にました。 |
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爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者 、悉賜其御軍、此時歌曰、 |
更に引きずり出して、斬り散らしました。その土地を宇陀の血原と 言います。オトウカシが献上した御馳走は軍隊に賜わり、その時に 歌をお詠みになりました。 |
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宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加 紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊 能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。 |
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る 前妻が 肴乞はさば たちそばの 実の無けくを こき しひゑね 後妻が 肴乞はさば いちさかき 実の多けくを こき だひゑね ええ しやこしや こはいのごふそ ああ しやこしや こは嘲笑ふぞ |
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故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。 | そのオトウカシは宇陀の水取らの祖先です。 | |
自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待 伊那流。此三字以音。 |
次に、忍坂の大室に到着すると、土蜘蛛と呼ばれる、尾のある人八 十人の武士がその室で威張っていました。 |
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故爾、天神御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、 毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土 雲之歌曰、 |
そこで天神の御子の作戦で、八十人の武士に御馳走をするための、 八十人の刀を佩いた料理人を用意して、料理人に「歌が聞こえたら 、一緒に立って武士を斬れ。」と指示されました。その合図の歌は、 |
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意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊 母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯 |
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎い 石いもち 今撃たば宜らし |
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如此歌而、拔刀一時打殺也。 | このように歌い、刀を抜いて瞬く間に打ち殺してしまいました。 | |
然後、將擊登美毘古之時、歌曰、 | 次に、ナガスネヒコを倒した時に詠われた歌は、 | 鵄邑顕彰碑 |
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀 母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟 |
みつみつし 久米の子等が 粟生には 臭韮一本 そねが本 そね 芽繋ぎて 撃ちてし止まむ。 |
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又歌曰、 | さらに | |
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比 比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟 |
みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒 口ひひく 吾は忘 れじ 撃ちてし止まむ |
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又歌曰、 | さらに | |
加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美 能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟 |
神風の 伊勢の海の 生石に 這ひもとほろふ 細螺の い這ひも とほり 撃ちてし止まむ |
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又擊兄師木・弟師木之時、御軍暫疲、爾歌曰、 | またエシキ、オトシキとの戦で疲れた軍勢に対して | |
多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多 加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾 許泥 |
楯並めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね |
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故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子 | と詠われました。ニギハヤヒノミコトが天神の御子の所に来て | |
故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參 降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。 |
「天神の御子が天降ったと聞きました。そこで私も天降って来まし た。」と言い、天津神の印である宝物を献上されました。 |
石切劔箭神社 |
故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命 。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。 |
このニギハヤビノミコトがナガスネヒコの妹トミヤヒメと結婚して 生んだ子がウマシマヂノミコトで、これが物部連・穗積臣・采女の 臣らの祖先です。 |
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故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝 火之白檮原宮、治天下也。 |
このようにして、乱暴な神たちを平定し、服従しない人たちを追い 払い、畝傍の橿原の宮において天下をお治めになりました。 |
橿原神宮 神武天皇社 |
ゆかりの寺社(御朱印視点)
引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。
【おススメ度 ☆☆☆☆★】ゆかりの御朱印が頂けます。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
奈良県 | 橿原神宮 | 橿原市久米町934 | |
和歌山県 | 熊野那智大社 | 東牟婁郡那智勝浦町那智山1 | 八咫烏 |
【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
大阪府 | 石切劔箭神社 | 東大阪市東石切町1-1-1 |
【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
奈良県 | 神武天皇聖跡菟田穿邑顕彰碑 | 宇陀市菟田野宇賀志221 | |
奈良県 | 神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑 | 生駒市上町 |
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石切劔箭神社 |
当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神(あまてらすおおかみ)の御孫にあたられる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄、饒速 日尊とその御子、可美真手命(うましまでのみこと)の二柱をお祀りしています。 御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東征に先立ち、天照大神から十種(とくさ)の神宝 (かんだから)をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船(あめのいわふね)に乗り、哮ヶ峰(たけるがみね)(現在の生駒山)に天 降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊はその一族の家長である長髄彦(な がすねひこ)の妹、登美夜毘売(とみやひめ)(三炊屋媛)(みかしきやひめ)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その 後年月を経て神武天皇の東征に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢(あまのははや)を示し合い、共に天照大神の子孫であ ることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。 神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりまし た。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。また、可美真手命は、大和地方 の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救い ました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。 |
石切劔箭神社 |
神武天皇社 |
御所市「柏原」に鎮座するこの神社の祭神は「神倭伊波礼毘古命」。初代神武天皇の即位した場所であると言われています。享保21年 (1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原とい う地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。 一説にはこの神社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼いてしまったと 言われています。 |
御所市観光協会 |
熊野那智大社 |
日本サッカー協会のシンボルマークになっている「八咫烏」は神武東征の折、道案内をしたといわれる烏であり、熊野の神様のお使いと されている。 延喜式には「三足烏 日之精也。白兎 月之精也」と記され、朝廷の儀式用装束や祭具に、また日本各地の祭では鉾や的に太陽と烏、月 と兎が描かれる。 太陽の中に住む霊力を持つ鳥が「八咫烏」である。八咫烏の咫(あた)は寸や尺といった長さを表す単位の一つだが、八百万が「たくさ ん」を意味するのと同様、八咫は「大きい」を意味している。 当社では拝殿左手の御縣彦社(みあがたひこしゃ)にてお祀りされ、導きの神様・交通安全の神様と崇敬を集めている。 無事、大和までの道案内を務めた八咫烏は熊野の地に戻り、石に姿をかえて休んでいるといわれる「烏石」が境内に存在する。(拝観料 5名以内1,000円より) |
熊野那智大社 |
橿原神宮 |
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。 天照大神あまてらすおおかみの血を引く神倭伊波禮毘古命かむやまといわれびこのみこと(後の神武天皇)が、 豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うね びやまの東南の麓に橿原宮を創建されました。 第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のことです。 日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう。 |
橿原神宮 |