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海佐知毘古・山佐知毘古・豊玉毘売

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古事記

原文 現代語訳 備考
故、火照命者、爲海佐知毘古此四字以音、下效此而、取鰭廣物・鰭
狹物、火遠理命者、爲山佐知毘古而、取毛麤物・毛柔物。
ホデリノミコトは海幸彦として海の漁師になり、ホヲリノミコトは
山幸彦として山の猟師になりました。
爾火遠理命、謂其兄火照命「各相易佐知欲用。」三度雖乞、不許、
然遂纔得相易。
ある日、ホヲリノミコトがホデリノミコトに、「たまには道具を交
換してみようぜ。」と交渉し、三度断られましたが最後にようやく
取り替えることを承諾しました。
爾火遠理命、以海佐知釣魚、都不得一魚、亦其鉤失海。於是、其兄
火照命、乞其鉤曰
しかし、ホオリノミコトは一匹も魚を釣れずに、釣り針を失くして
しまう有様でした。ホデリノミコトが釣り針の返却を求めて
「山佐知母、己之佐知佐知、海佐知母、已之佐知佐知。今各謂返佐
知。」之時佐知二字以音
「山の獲物も海の獲物もそれぞれ捕る道具は自分の道具がよい。元
通りにするぞ。」と言った時、
其弟火遠理命答曰「汝鉤者、釣魚不得一魚、遂失海。」然其兄強乞
徵、
ホヲリノミコトは、「魚は一匹も釣れず、釣り針も失くしてしまい
ました。」と謝りましたが、兄はしつこく釣り針を返すよう求めま
す。
故其弟、破御佩之十拳劒、作五百鉤、雖償不取、亦作一千鉤、雖償
不受、云「猶欲得其正本鉤。」
そこで弟は、自分の十拳剣を潰して、釣り針を五百本作って弁償し
ようとしますが、許してくれません。千本でも許してくれません。
「やはりあの釣り針を返せ。」と言われます。
於是其弟、泣患居海邊之時、鹽椎神來、問曰「何虛空津日高之泣患
所由。」
弟が浜辺で途方に暮れて泣いていますと、やってきたシホツチノカ
ミに、「何か困り事で泣いているのかな。」と聞かれたので、
答言「我與兄易鉤而、失其鉤。是乞其鉤故、雖償多鉤、不受、云猶
欲得其本鉤。故泣患之。」
「私は兄の釣り針を失くしました。その釣り針を返せというのでた
くさんの針で弁償しようとしましたが、もとの釣り針を返せと言わ
れます。それで困って泣いています。」と答えました。
爾鹽椎神、云「我爲汝命、作善議。」卽造无間勝間之小船、載其船
、以教曰
そこでシホツチノカミが「わしに良い考えがある。」と言って、小
型潜水艦を造り、その潜水艦に乗せて
「我押流其船者、差暫往。將有味御路、乃乘其道往者、如魚鱗所造
之宮室、其綿津見神之宮者也。
「わしが潜水艦を出発させよう。少し行くと潮の流れに乗るのでそ
のまま進みなさい。鱗で造ったようなワタツミノカミの宮殿にたど
り着くじゃろう。
到其神御門者、傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女
、見相議者也。」訓香木云加都良、木。
その門前の傍の井戸の上に立派な桂の木があるので、その木の上で
待っていると、海神の娘が見つけて助けてくれるじゃろう。」と教
えてくれました。
故、隨教少行、備如其言、卽登其香木以坐。 出航すると、言われた通りだったので、その桂の木に登って待機し
ていました。
爾海神之女、豐玉毘賣之從婢、持玉器將酌水之時、於井有光。仰見
者、有麗壯夫。訓壯夫云遠登古、下效此。
海神の娘のトヨタマヒメのメイドがきて、玉の器に水を汲もうとし
た時、井戸に光が差したので見上げると、イケメンがいます。
以爲甚異奇。爾火遠理命、見其婢、乞欲得水。婢乃酌水、入玉器貢
進。
変な人がいると思っていますと、ホヲリノミコトがメイドに、「水
を下さい。」というので、器に水を汲んであげました。
婢乃酌水、入玉器貢進。爾不飮水、解御頸之璵、含口、唾入其玉器
、於是其璵著器、婢不得離璵。故、璵任著、以進豐玉毘賣命。
しかし、水は飲まずに、首に掛けていた珠を口に含み、その器に吐
き出しました。その珠が器から離れなくなったので、くっついたま
ま、トヨタマヒメに差し上げました。
爾見其璵、問婢曰「若人、有門外哉。」 トヨタマヒメが珠を見て、メイドに「もしかして、門の外に人がい
ますか。」と尋ねたので、
答曰「有人、坐我井上香木之上、甚麗壯夫也、益我王而甚貴。故其
人乞水故、奉水者、不飮水、唾入此璵、是不得離故。故任入將來而
獻。」
「王様よりも偉そうなイケメンが、井戸の桂の木の上に座っていま
した。水が欲しいというのですが、水を飲まずにこの珠を吐き入れ
ました。離れないのでそのまま持ってきました。」と申しました。
爾豐玉毘賣命、思奇、出見、乃見感、目合而、白其父曰「吾門有麗
人。」
不思議に思ったトヨタマヒメが出て見ると、たちまち一目惚れして
しまい、父に「うちの門の所に良い男がいます。」と伝えました。
爾海神、自出見、云「此人者、天津日高之御子、虛空津日高矣。」
卽於內率入而、美智皮之疊敷八重、亦絁疊八重敷其上、坐其上而、
具百取机代物、爲御饗、卽令婚其女豐玉毘賣。故、至三年、住其國。
海神も出て見て、「これはこれは貴い天津神の御子様だ。」と言っ
て招き入れ、海驢の皮八枚に絹の敷物を八枚敷いてそこに座らせ、
沢山のプレゼントと御馳走をし、娘のトヨタマヒメと結婚させま
した。そこで三年暮らしました。
於是火遠理命、思其初事而、大一歎。故豐玉毘賣命、聞其歎以、白
其父言
ある日ふと、ホヲリノミコトは釣り針の件を思い出し、大きく溜息
をつかれました。それをトヨタマヒメが聞き、父に
「三年雖住、恒無歎、今夜爲大一歎。若有何由。」 「ここに住みはじめて三年、いつもは溜息をつくことが無いのに今
夜は大きな溜息をつかれました。なにかあるのでしょうか。」と相
談されました。
故其父大神、問其聟夫曰「今旦聞我女之語云、三年雖坐、恒無歎、
今夜爲大歎。若有由哉、亦到此間之由奈何。」
そこで父神樣が婿殿に「今朝娘に『ここに住みはじめて三年、いつ
もは溜息をつくことが無いのに今夜は大きな溜息をつかれました。
なにかあるのでしょうか。』と言われたのだが、そもそもなぜここ
に来られたのかな。」と尋ねられました。
爾語其大神、備如其兄罸失鉤之狀。是以海神、悉召集海之大小魚問
曰「若有取此鉤魚乎。」
そのため、兄が釣り針を請求する状況などを詳しく説明しました。
それを聞いた海神は海中の魚たちを集めて、「釣り針を取った魚は
おるか。」と問いました。
故諸魚白之「頃者、赤海鯽魚、於喉鯁、物不得食、愁言。故必是取
。」
魚たちは、「この頃、鯛が喉に何か刺さって物が食えないと嘆いて
いました。きつとこれが取ったのでしょう。」と答えました。
於是、探赤海鯽魚之喉者、有鉤。卽取出而淸洗、奉火遠理命之時、
其綿津見大神誨曰之
そこで鯛の喉を見てみると、果たして釣り針が見つかりました。釣
り針を取り出し、洗ってホヲリノミコトに渡しながら、海神は
「以此鉤給其兄時、言狀者『此鉤者、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流
鉤』云而、於後手賜。於煩及須須亦宇流六字以音。
「この釣り針を兄に返す時に、『この釣り針は、鬱の釣り針、不安
の釣り針、貧乏の釣り針、愚者の釣り針。』と言って、後ろ向きに
返しなさい。
然而其兄、作高田者、汝命營下田。其兄作下田者、汝命營高田。 そして兄が高台に田を作ったら、あなたは低地に田をお作りなさい
。兄樣が低地に田を作ったら、あなたは高台に田をお作りなさい。
爲然者、吾掌水故、三年之間、必其兄貧窮。 私が水を司っていますから、三年の間にきっと兄様は貧しくなるで
しょう。
若恨怨其爲然之事而攻戰者、出鹽盈珠而溺、若其愁請者、出鹽乾珠
而活、如此令惚苦。」云、授鹽盈珠・鹽乾珠、幷兩箇。
これを恨んで攻めてきたら、潮満珠を出して溺れさせ、謝ってくる
なら、潮乾珠を出して生かし、苦しめてあげなさい。」と教え、潮
満珠と潮乾珠の二つをくれました。
卽悉召集和邇魚問曰「今、天津日高之御子虛空津日高、爲將出幸上
國。誰者幾日送奉而覆奏。」
鰐たちを呼び集め、「今、御子様が国に帰られろのだが、お前たち
はお送りするのに何日かかるのか。」と尋ねました。
故各隨己身之尋長、限日而白之中、一尋和邇白「僕者、一日送、卽
還來。」
鰐たちは身の丈に合った日数を答えましたが、その中の一丈の鰐が
「私が一日でお送りし、戻ってまいります。」と申しました。
故爾告其一尋和邇「然者汝送奉。若渡海中時、無令惶畏。」卽載其
和邇之頸送出。故如期、一日之內送奉也。
その一丈の鰐に「それならばお前がお送りしなさい。海中を渡る時
に怖がらせてはならぬぞ。」と言って、その鰐に乗せて送り出しま
した。
故如期、一日之內送奉也。其和邇將返之時、解所佩之紐小刀、著其
頸而返。故其一尋和邇者、於今謂佐比持神也。
宣言のとおり、一日でお送りされました。その鰐が帰ろうとした時
に、佩いていた小刀をその鰐の頸につけてあげました。そこでその
一丈の鰐は、今ではサヒモチノカミと言われております。
戻ってからの山幸彦の住居跡。 青島神社
是以、備如海神之教言、與其鉤。故自爾以後、稍兪貧、更起荒心迫
來。
こうして、海神に教えられた手順を踏んで、釣り針を返しました。
そのために貧しくなった海幸彦は荒ぶって攻めて来ます。
將攻之時、出鹽盈珠而令溺、其愁請者、出鹽乾珠而救、如此令惚苦
之時、稽首白
山幸彦は、海幸彦の攻撃時は潮満珠で溺れさせ、和睦時は潮乾珠を
出して救ってと苦しめましたので、最後には海幸彦はおじぎをし、
「僕者自今以後、爲汝命之晝夜守護人而仕奉。」故至今、其溺時之
種種之態、不絶仕奉也。
「私は今後、あなたの護衞兵となり、24時間警備します。」と申
しました。そこで今日まで、隼人はその溺れた時の様々な仕草を演
じて天皇にお仕えしています。
潮嶽神社
於是、海神之女・豐玉毘賣命、自參出白之「妾已妊身、今臨產時。
此念、天神之御子不可生海原。故、參出到也。」
その後、海神の娘のトヨタマヒメがやって来て「私は妊娠していて
、そろそろ臨月です。天神の御子を海中で産むわけにもいかないの
で来ました。」と申し上げました。
爾卽於其海邊波限、以鵜羽爲葺草、造產殿。於是、其產殿未葺合、
不忍御腹之急、故入坐產殿。
そこで海辺の波際に鵜の羽を屋根にした産室を造りましたが、その
産室を葺き終わる前に産気づかれたので、産室にお入りになりまし
た。
鵜戸神宮
狭野神社
皇子原神社
神明社
(御生誕伝承地)
爾將方產之時、白其日子言「凡佗國人者、臨產時、以本國之形產生
。故、妾今以本身爲產。願勿見妾。」
産む直前になり、「他国の者は子を産む時に、その姿を本国の姿に
戻して産むのです。それで私も元の姿になって産むつもりですから
、私を見ないでくださいな。」と申されました。
於是思奇其言、竊伺其方產者、化八尋和邇而、匍匐委蛇。 その言葉を不思議に思われたので、お産の最中を覗いてみると、八
丈もある長い鰐が腹這いになってのたうち回っていました。
卽見驚畏而遁退。爾豐玉毘賣命、知其伺見之事、以爲心恥、乃生置
其御子而、
びっくりして逃げ出してしまいましたので、トヨタマヒメは覗かれ
た事に気付いて恥ずかしくなり、生まれた子を置いて
白「妾恒通海道欲往來。然伺見吾形、是甚怍之。」卽塞海坂而返入
「私は海の道を通じて、ここに通おうと思っていました。しかし私
の姿を見られてしまったので、恥ずかしくて来られませぬ。」と申
して、海の道を塞いで帰られてしまいました。
風田神社
豊玉姫が民生を撫育された後崩御遊ばした地 豊玉姫神社
是以、名其所產之御子謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。訓波
限云那藝佐、訓葺草云加夜。
産まれた御子の名は、アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ
ノミコトと申します。
然後者、雖恨其伺情、不忍戀心、因治養其御子之緣、附其弟玉依毘
賣而、獻歌之。其歌曰、
しかし、後には覗かれたことを恨みながらも恋しくもあったので、
その御子を養育するために遣わせた妹のタマヨリヒメに歌を託しま
した。その歌は、
阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布
斗久阿理祁理
紅玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
爾其比古遲三字以音答歌曰、 そこで山幸彦が詠った返歌は、
意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能
許登碁登邇
沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
故、日子穗穗手見命者、坐高千穗宮、伍佰捌拾歲。御陵者、卽在其
高千穗山之西也。
このヒコホホデミノミコトは高千穗の宮に580年おいでなさいま
した。御陵はその高千穗の山の西にあります。
降臨の地。 若狭彦神社
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御
子名、
 アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコトは、叔母の
タマヨリヒメと結婚し、お生みになつた御子の名は、
五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、
亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。
イツセノミコト、イナヒノミコト、ミケヌノミコト、ワカミケヌノ
ミコトまたの名をトヨミケヌノミコトまたの名をカムヤマトイハレ
ヒコノミコトの四人です。
故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海
原也。
ミケヌノミコトは高波を超えて常世国へ渡られ、イナヒノミコトは
母の国である海原にお入りになりました。
アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト墓所。 吾平山上陵
タマヨリヒメ墓所。 宮浦神社

ゆかりの寺社(御朱印視点)

引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。

宮崎県 青島神社 宮崎市青島2-13-1
宮崎県 鵜戸神宮 日南市大字宮浦3232
宮崎県 潮嶽神社 日南市北郷町北河内8901-1
鹿児島県 豊玉姫神社 南九州市知覧町郡16510
福井県 若狭彦神社 小浜市遠敷65-41
宮崎県 風田神社 日南市風田3964 トヨタマヒメ
宮崎県 宮浦神社 日南市宮浦688 タマヨリヒメ
大分県 神明社 大分市佐賀関4652-1

【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
鹿児島県 吾平山上陵 肝属郡鹿屋市吾平町上名5250


青島神社
青島神社は彦火火出見命が海積宮からご還幸された御宮居の跡といたしまして「彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神」の三神をおまつり
いたしております。
奉祀の年代は、明らかではございませんが平安朝の国司巡視記「日向土産」の中に「嵯峨天皇の御宇奉崇青島大明神」と記されてあって
(約千二百年前)、文亀(室町時代・約五百年前)以降は、藩主伊東家の崇敬厚く、社殿の改築、境内の保全に力を尽くし、明治以後は御
祭神の御威霊を仰ぎ熱帯植物繁茂する国内絶無の霊域をたずねる人々いよいよ多く、縁結・安産・航海・交通安全の神として、御神威は
益々輝き今日に至っている。
青島神社

鵜戸神宮
山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に赴かれ、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結ばれた。山幸
彦が海宮から帰られた後、身重になられていた豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地に参られた。霊窟
に急いで産殿を造られていたが、鵜の羽で屋根を葺終わらないうちに御子(御祭神)はご誕生になった。
故に、御名を「ひこなぎさたけ
うがやふきあえずのみこと」と申し上げる。
鵜戸神宮

潮嶽神社
日南市北郷町の潮嶽神社はホスセリノミコト(海幸彦)を主祭神に祀る全国でも唯一の神社。ヤマサチに敗れたウミサチは、磐船に乗っ
てたどり着いた越潮山(こしおやま)を潮嶽(うしおだけ)と称するようになった
という。この地方では「ウミサチ・ヤマサチ」神話に
ちなみ、縫い針を他人に貸さない習俗があるという。
神話では海幸彦は山幸彦のに隠れ有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
魚釣舞を含む潮嶽神楽や、神武東征の折、別れを惜しみ里の乙女が舞ったことに由来する御神子舞等の神事芸能も現存し、祭典時には大
マグロや十数頭の猪頭も奉奠されるなど、海幸・山幸の御祭神の御神徳に因む漁業や狩猟の信仰が厚い。
宮崎市観光協会

豊玉姫神社
海の神である綿津見神(豊玉彦命)には二柱の娘がおり、姉の豊玉姫は川辺を、妹の玉依姫は知覧を治めることとなり、衣の郡(今の頴
娃、開聞のあたり)をご出発され、 途中、鬢水峠、御化粧水、飯野、宮入松、白水を経て取違にお泊りになった。
ここで玉依姫は川辺が水田に富むことをお知りになり、急いで玄米のままの朝食をとり川辺へ先発された。 平常のように白米をお炊きに
なった豊玉姫は遅れてしまったので、やむなく玉依姫の治めるはずであった知覧へ向かい、上郡の城山の下に居を定めて知覧を治められ
た。
ここで豊玉姫は民生を撫育された後崩御遊ばしたので、郷民はそのご遺徳を慕って社殿を建立し、鎮守の神として崇敬したのが当社のは
じまり
といわれる。
豊玉姫神社

若狭彦神社
 若狭彦神社の上社の祭神は「彦火火出見尊」で「若狭彦大神」と称え奉り、下社の祭神は「豊玉姫命」で「若狭姫大神」と称え奉る。
若狭国遠敷郡西郷ノ内、霊河の源、白石の上に、先ず彦神、次いで姫神が降臨されたので、その地に仮に社殿を営み、後、元正天皇の霊
亀元年(715)9月10日に今の地に遷し奉ったと伝えている。
古来から若狭国の「一の宮」として信仰されているが、殊に、水産業者には、海上安全、海幸大漁の守護神として崇敬されている。
また、奈良東大寺二月堂の「若狭井」の水源と伝えられる鵜の瀬の霊域は、当社の飛地境内地で由緒が深い。
下社は、元正天皇の養老5年(721)2月10日に豊玉姫命を遠敷の里に奉祀した。
古来から若狭国「二の宮」として信仰されている。
延喜式神名帳に「若狭比古神社 二座 名神大」と記載されているように上社と下社とを合せて「若狭彦神社」と尊称している。
天慶3年(940)正月6日に上社に「正一位」、永保元年(1081)に下社に「正一位」の高い神階を給い、明治4年5月に上社下
社共に國幣中社に列せられた。
御神徳は広大無辺で、称徳天皇が神護景雲4年(770)に鹿毛馬を献ぜられたのを始め、歴朝の御崇敬。
国司、守護、領主、藩主、武士、庶民一般の「守護神」として深く信仰されてきた。
楼門に安置してある随身は、御祭神の降臨の時にお供をされた神々である。
境内は、千年杉をはじめ老樹亭亭と聳え、閑雅幽邃の地で、神威渺渺とした神域である。
若狭彦大明神が、宇多天皇の御子敦実親王に告げられた「四神の御歌」。
みな人の 直き心ぞ そのままに  神の神にて  神の神なり 
福井県神社庁

狭野神社
第5代孝昭天皇の御代に神武天皇ご生誕の地にご創建されたのが始まりと伝えられています。
神武天皇はご幼名を狭野尊(サノノミコト)と申し上げますが、皇族のご幼名は生まれ育った地名を付ける慣習があった事から、当地の地
名の狭野が由来すると伝えられており、当社より西に1キロ程に有る末社の皇子原神社がご生誕の地といわれます。
また、直線の参道では日本で一番長いといわれる狭野神社の参道沿いは美しい杉並木となっており、ご参拝前に歩くと心が清められる感
じが致します。
当社の氏子が中心となり行われる祭祀に、2月18日の苗代田祭(ベブがハホ)、5月16日の御田植祭、12月第1土曜日の狭野神楽がござい
ます。
高原町観光協会

皇子原神社
当社が有る皇子原は我が国の初代天皇で在らせられる神武天皇がご生誕になられたところと伝えられております。お社の裏手に有る「産
場石」、参道の途中に有る「御腰掛石」の他、町内には多くの神武天皇伝承地が有ります。
高原町観光協会

吾平山上陵
吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)は、地元で「あいらさんりょう」という呼び名で親しまれています。鹿児島県下の神代三
山陵の一つとされており、全国でも珍しい岩屋の陵(塚墓)で、神武天皇の御父君と御母君の御陵です。500mほど続く参道は、緑が美
しく、川のせせらぎがやさしく、まさに神々しい雰囲気を醸し出しています。また、伊勢神宮に似ていることから「小伊勢」とも呼ば
れ、正月には多くの初詣客で賑わいます。春は桜の名所としても知られており、秋には紅葉も見られます。
鹿児島県観光連盟

風田神社
「日向地誌」によると、海浜の松林の中にあり、山下前にあった川上大明神と、御崎本にあった大将軍を明治五年遷座合祀し、いまの名
に改めたという。
日本書紀によると、天孫ヒコホホデミノ尊がワダツミノ神の娘豊玉姫を妻に迎えられ天孫の御子を海辺にて産むことを希望され、現在の
鵜戸の岩屋にて鵜戸神宮の祭神ウガヤフキアエズノ尊を出産された。
出産に際し夫と約束したことを夫が守らなかったことで、御子の養育を妹の玉依姫(宮浦神社御祭神)に託された。
この時の豊玉姫の御歌
赤玉の光はありと人は言えど君が装し貴くありけり
そして豊玉姫は夫と別れて亀に乗ってこの風田川を登り居住され、のちにその地に姫を偲んで地元民は川上神社を建立し、祭神として祭
られた信奉篤く現在も元宮と尊ばれている。明治の世になり野中神社と合祀されて、この奥風田川の左側に新たに社殿を建立し鎮座され
た。当時は社殿は海の方を向いていたと伝えられている。地元ではこの伝説を尊んで亀は神の使いと信じられて食さなかったと古老は伝
えている。
この地方には鵜戸神宮の祭神縁り深い神社が点在し、往古を偲ぶ神社としてその一社である。
宮崎県神道青年会

宮浦神社
創建の年月ははっきりしないが、社伝によると、玉依姫ご住居の跡に社殿を立つとあり、桓武天皇の延暦年間に再興すという。永禄三年
(1560)に伊東三位入道義祐が社殿を造営したが、その後寛永三年(1626)に伊東祐慶(飫肥二十代藩主)が再興し、文化九年
(1812)三月、伊東祐民(同二十九代)が、本殿ならびに拝殿の総修繕をした。藩政中は社録五石を寄進されていた。玉依姫大明神と称
して来たが、明治維新に際し、玉依姫神社と改称、一度鵜戸神社に合祀されたが、明治七年に復社、現社名となり、社殿の改造も行われ
た。更に明治四十年二月、神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。
中古以来、ここに鵜戸山仁王護国寺の末寺である弥勤院が置かれ、当社と玉依姫御陵伝説地を管理してきたが、のち弥勤院は仁王護国寺
内の脇坊となった。玉依姫は、鵜戸神宮の祭神鸕鷀草葺不合尊の母君豊玉姫が海に帰られたので、代わって育てられた叔母で、のちに葺
不合の皇妃となられた。
神武天皇ほか四柱の母君で、御陵跡は当社の南、七、八丁の田の中に円形の岡が、前方後円の前方がやや崩れた
形で残っている。この地の草を牛馬に食わせると、たちまち腹痛を起こすとして土地の人は恐れて近づかないという。
伊東義祐の「飫肥紀行」に「里人に問はすはいざや白波の玉依姫の宮の浦とは」の一首が残されており、古来、山越えの時代から安産祈
願に参詣するものが多く、とくに毎月午の日に参るのが古い慣わしである。
神社明細帳によると境内末社、祭神稲水氷命、由緒不詳とある。
宮崎県神道青年会

神明社
ここ小黒は、古事記より古いといわれる「豊国文字」で書かれた「上記」によりますと、神武天皇の御父である「鵜草葺不合尊」の生誕
の地
といわれています。そして、ここに尊を奉る「黒が浜神社」が、建てられておりました。
この神社を守る為、一六五〇年(慶安年間)のころから人が住み始めて、一八三〇年(天保年間)から、その神社に「天照皇大神」を合
祀して「神明社」と改めました。
佐賀関ボランティアガイド協会
神明社現地由緒書

その他
御生誕伝承地 伝承地碑・桜迫神社 鹿児島県肝属郡肝付町宮下
御生誕伝承地 森神社跡 鹿児島県肝属郡肝付町野崎

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