【track 4 : 二等辺三角形 (4)】
柊先輩に会った。
昨日、土曜日の放課後。
ここ数日に続いて、またしても何か用があるという友人たちと教室で別れ、一人でバスに乗り、
糟日部の駅前に降り立った私、岩崎みなみは、ロータリーの片隅に置かれたベンチに
見知った人物が座っているのを発見した。
「……柊、先輩……?」
思わず、声に出して呟く。
見間違いかと一瞬思った。
たった一人で、傍目にもひどく落ち込んだ様子で項垂れているその姿は、私の中にある力強い
イメージとは懸け離れていたから。
「……」
少し、迷う。
見知った相手ではあっても、直接話したことはほとんどない。だからどうしたものか、ためらった。
単に一人でいるというだけなら素通りしたかも知れない。会釈ぐらいはしただろうけど。
しかしあの落ち込みようを見てしまっては、放っておくのはさらにためらわれる。
「……」
ふと、記憶がよみがえる。
半年前。
今の学校で、今とは違う制服を着て。
入学試験の日、たまたま立ち寄ったお手洗いで、青い顔をして俯いていた小さな少女。
あのときの私は、しかしどんな思いで声をかけたのだったか。
その後、何度も同じような状況にあって、何度も上書きされてしまった感情は、既に曖昧だ。
同情か、気まぐれか、共感か、好奇心か。
分からないけど、でも――そうだ。
今の私には、ある。彼女に手を差し伸べる、明確な理由、義務がある。
彼女は制服を着ている。私も制服を着ている。
ならば素通りはできない。
だって私は、保健委員だから。
ここ数日に続いて、またしても何か用があるという友人たちと教室で別れ、一人でバスに乗り、
糟日部の駅前に降り立った私、岩崎みなみは、ロータリーの片隅に置かれたベンチに
見知った人物が座っているのを発見した。
「……柊、先輩……?」
思わず、声に出して呟く。
見間違いかと一瞬思った。
たった一人で、傍目にもひどく落ち込んだ様子で項垂れているその姿は、私の中にある力強い
イメージとは懸け離れていたから。
「……」
少し、迷う。
見知った相手ではあっても、直接話したことはほとんどない。だからどうしたものか、ためらった。
単に一人でいるというだけなら素通りしたかも知れない。会釈ぐらいはしただろうけど。
しかしあの落ち込みようを見てしまっては、放っておくのはさらにためらわれる。
「……」
ふと、記憶がよみがえる。
半年前。
今の学校で、今とは違う制服を着て。
入学試験の日、たまたま立ち寄ったお手洗いで、青い顔をして俯いていた小さな少女。
あのときの私は、しかしどんな思いで声をかけたのだったか。
その後、何度も同じような状況にあって、何度も上書きされてしまった感情は、既に曖昧だ。
同情か、気まぐれか、共感か、好奇心か。
分からないけど、でも――そうだ。
今の私には、ある。彼女に手を差し伸べる、明確な理由、義務がある。
彼女は制服を着ている。私も制服を着ている。
ならば素通りはできない。
だって私は、保健委員だから。
近くに寄ってみると、その憔悴ぶりはますますもって明らかだった。
落ち込んでいるというよりは疲れきった様子で、完全に脱力してベンチに全身を預けている。
すぐ目に前に立ち止まった私のことにも、気付いているのかどうか。
「あの……」
声をかけると、随分と細く見える肩が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと頭が上がる。
能面のような顔。そのうつろな目の焦点が私の顔の辺りで結ばれて、そして大きく見開かれた。
赤く、充血している。
ポケットからハンカチを取り出した。
「……使ってください」
柊先輩は、しかし反応らしい反応をしなかった。
視線だけは私の顔からハンカチへと移ったけど、それだけで、あとは引き続き凝視してくるのみ。
「……」
「……」
まさか本当に人違いなんてことは……そんな不安すら抱き始めたころ、ようやく先輩は動いた。
だけどそれは予想とは違って、ハンカチを受け取るでもなく、いらないと拒絶するでもない。
ただ、ふ、と。
皮肉げな笑いをこぼしたのだ。
或いはそれは、嘲笑だったのかも知れない。
落ち込んでいるというよりは疲れきった様子で、完全に脱力してベンチに全身を預けている。
すぐ目に前に立ち止まった私のことにも、気付いているのかどうか。
「あの……」
声をかけると、随分と細く見える肩が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと頭が上がる。
能面のような顔。そのうつろな目の焦点が私の顔の辺りで結ばれて、そして大きく見開かれた。
赤く、充血している。
ポケットからハンカチを取り出した。
「……使ってください」
柊先輩は、しかし反応らしい反応をしなかった。
視線だけは私の顔からハンカチへと移ったけど、それだけで、あとは引き続き凝視してくるのみ。
「……」
「……」
まさか本当に人違いなんてことは……そんな不安すら抱き始めたころ、ようやく先輩は動いた。
だけどそれは予想とは違って、ハンカチを受け取るでもなく、いらないと拒絶するでもない。
ただ、ふ、と。
皮肉げな笑いをこぼしたのだ。
或いはそれは、嘲笑だったのかも知れない。
「あんまり……誰にでもこういうこと、しない方がいいわよ……」
「え……」
意味が分からなかった。
何を言われたのか。
しかし、頭で理解できなかったはずのその言葉は、私の内部に突き刺さるように沁みこんだ。
そして軋む。
ギシリ、と。
「――ごめん、なんでもない」
抑揚のない声に、我に帰る。
我に帰ったことで、気付く。
自分の意識が数瞬、何処かへ飛んでいたということに。
「ありがと、岩崎さん。洗って、明日返すわね」
ハンカチで目元を押さえながら、やはりぼそぼそと抑揚のない声で先輩が言う。
いつの間に渡したのだろう。差し出した憶えはあるが。
というか、
「……明日は、日曜ですけど……」
「え? ……あ、ああ、そっか。そうね。あはは……」
「?」
なんだろう?
今、ちょっと、何か必要以上の焦りが見えたような。
「あの、さ」
視線も微妙に逸らしたままで、先輩は口を開く。
「はい」
「えっと、その……何か用?」
「……、いえ……」
用、というか。
「――って、そっか。これか。……心配してくれたのよね。ごめん」
ハンカチが握り締められる。
「ごめんね。……今、ちょっとヘンなのよ。わけわかんないってゆーか……見れば分かるか」
そうしてまた、今度は自嘲気味に、力なく笑う。
「なんなのかしらね……空回りってゆーか、取り残されたってゆーか……何やってんだろーなー……」
ぼそぼそと、聞き取りにくい声。
最初から聞かせるつもりはないのかも知れない。独り言のようなものだろう。
しかし耳にするだけで不安が増していくような、危うげな声。
「……何か、あったんですか?」
我慢できなくなって、口を挟んでしまった。
何を訊いているんだろう、私は。あったに決まってるじゃないか。
何もない人間が、こんな、目元を赤くするようなことになるわけがない。
「――何も」
「え?」
「……何もなかったわ。なぁんにも、ね」
けれど先輩はあっさりと否定の言葉を吐き出した。
静かな口調で、瞳で、無理をして強がっているといった様子はない。
しかし冷静というのとも違う。嵐が通り過ぎたあとのような、見捨てられた廃屋のような、虚ろな静寂。
「何もなくても――何もないからヘンになるってこともある、のかもね……」
そういう、ものなのだろうか。
人生経験が乏しいせいか、よく分からない。
「……私ってさ」
「え? ……あ、はい」
「私って……なんなのかな」
相変わらず視線をずらしたままで、先輩が不思議なことを言う。
ええと……
「……柊先輩、ですよね?」
いや、そんなことを訊かれたわけじゃないだろう。何を言っているのだ、本当に。
もう少し気の利いたことは言えないのか。
「ひいらぎ、か……」
先輩の反応は、さらに俯くというものだった。後悔が募る。
焦って口を開くが、言葉が出てこないまま閉じてしまう。それを数回繰り返す。
何が「私は保健委員だから」だ。何の役にも立たないどころか、悪化させているじゃないか。
そんなことだからゆたかも……ゆたかも?
「あ――ああ、ごめん」
と、
先輩が顔を上げ、少し慌てたような声を出す。
「気にしないで。ただちょっと、つかさと区別付かないな、とか、思っただけだから」
つかさ、さん?
そうか、双子の妹さんがいるんだ。
彼女が関係しているのだろうか。――いや、そんな詮索よりも、今は。
「すみません……」
頭を下げ、侘びる。
先輩の気配が、さらに慌てたような、困ったようなものに変わる。
「だ、だから、いいのよ。ってゆーかこっちこそごめん。……やっぱ私、ヘンだわ」
「いえ……じゃあ、か――」
言いかけて、喉に空気がつっかえる。
意地で飲み下した。何の意地かは、分からないけど。
「か?」
「か……かがみ先輩、と、呼ばせてください」
「……」
沈黙。
気配も消える。
そろりと視線を上げると、先輩は、
「……ええ」
薄っすらと、微笑んでいた。
儚げで弱々しい、しかし皮肉げでも自嘲気味でもない、きれいな笑顔。
安心より先に、呆気にとられる。
「ありがとう、みなみちゃん」
そして戸惑う。礼を言われるようなことはしていない。
言葉に詰まってしまって、先輩がさらにくすりと笑う。
「そう呼んでもいいかな、私も」
「え?」
……ああ、そうか。今、私の方も名前で呼ばれたんだ。
「はい。……ぜひ」
「ありがと」
もう一つ微笑んで、立ち上がる。
「……うん。なんか元気出たかも。ありがとうね、みなみちゃん」
「あ、いえ……」
まだいつもの力強さは戻ってないけれど、それでも本当に、いくらかは元気になってくれたみたいだ。
少しでも役に立てたのだろうか。
「じゃあ、私行くから。ちょっと買うものとかあるし」
「はい」
「また明日……じゃなかった。また、今度ね」
「はい。また」
微笑んで、頷いて。
危うげない足取りで去っていくかがみ先輩を、私はなんとなくその場に立ち尽くしたまま見送った。
それが昨日の話。
かがみ先輩に会った。
ただそれだけのこと。
でも、他に理由は思い当たらない。
その夜、夢を見た。
意味が分からなかった。
何を言われたのか。
しかし、頭で理解できなかったはずのその言葉は、私の内部に突き刺さるように沁みこんだ。
そして軋む。
ギシリ、と。
「――ごめん、なんでもない」
抑揚のない声に、我に帰る。
我に帰ったことで、気付く。
自分の意識が数瞬、何処かへ飛んでいたということに。
「ありがと、岩崎さん。洗って、明日返すわね」
ハンカチで目元を押さえながら、やはりぼそぼそと抑揚のない声で先輩が言う。
いつの間に渡したのだろう。差し出した憶えはあるが。
というか、
「……明日は、日曜ですけど……」
「え? ……あ、ああ、そっか。そうね。あはは……」
「?」
なんだろう?
今、ちょっと、何か必要以上の焦りが見えたような。
「あの、さ」
視線も微妙に逸らしたままで、先輩は口を開く。
「はい」
「えっと、その……何か用?」
「……、いえ……」
用、というか。
「――って、そっか。これか。……心配してくれたのよね。ごめん」
ハンカチが握り締められる。
「ごめんね。……今、ちょっとヘンなのよ。わけわかんないってゆーか……見れば分かるか」
そうしてまた、今度は自嘲気味に、力なく笑う。
「なんなのかしらね……空回りってゆーか、取り残されたってゆーか……何やってんだろーなー……」
ぼそぼそと、聞き取りにくい声。
最初から聞かせるつもりはないのかも知れない。独り言のようなものだろう。
しかし耳にするだけで不安が増していくような、危うげな声。
「……何か、あったんですか?」
我慢できなくなって、口を挟んでしまった。
何を訊いているんだろう、私は。あったに決まってるじゃないか。
何もない人間が、こんな、目元を赤くするようなことになるわけがない。
「――何も」
「え?」
「……何もなかったわ。なぁんにも、ね」
けれど先輩はあっさりと否定の言葉を吐き出した。
静かな口調で、瞳で、無理をして強がっているといった様子はない。
しかし冷静というのとも違う。嵐が通り過ぎたあとのような、見捨てられた廃屋のような、虚ろな静寂。
「何もなくても――何もないからヘンになるってこともある、のかもね……」
そういう、ものなのだろうか。
人生経験が乏しいせいか、よく分からない。
「……私ってさ」
「え? ……あ、はい」
「私って……なんなのかな」
相変わらず視線をずらしたままで、先輩が不思議なことを言う。
ええと……
「……柊先輩、ですよね?」
いや、そんなことを訊かれたわけじゃないだろう。何を言っているのだ、本当に。
もう少し気の利いたことは言えないのか。
「ひいらぎ、か……」
先輩の反応は、さらに俯くというものだった。後悔が募る。
焦って口を開くが、言葉が出てこないまま閉じてしまう。それを数回繰り返す。
何が「私は保健委員だから」だ。何の役にも立たないどころか、悪化させているじゃないか。
そんなことだからゆたかも……ゆたかも?
「あ――ああ、ごめん」
と、
先輩が顔を上げ、少し慌てたような声を出す。
「気にしないで。ただちょっと、つかさと区別付かないな、とか、思っただけだから」
つかさ、さん?
そうか、双子の妹さんがいるんだ。
彼女が関係しているのだろうか。――いや、そんな詮索よりも、今は。
「すみません……」
頭を下げ、侘びる。
先輩の気配が、さらに慌てたような、困ったようなものに変わる。
「だ、だから、いいのよ。ってゆーかこっちこそごめん。……やっぱ私、ヘンだわ」
「いえ……じゃあ、か――」
言いかけて、喉に空気がつっかえる。
意地で飲み下した。何の意地かは、分からないけど。
「か?」
「か……かがみ先輩、と、呼ばせてください」
「……」
沈黙。
気配も消える。
そろりと視線を上げると、先輩は、
「……ええ」
薄っすらと、微笑んでいた。
儚げで弱々しい、しかし皮肉げでも自嘲気味でもない、きれいな笑顔。
安心より先に、呆気にとられる。
「ありがとう、みなみちゃん」
そして戸惑う。礼を言われるようなことはしていない。
言葉に詰まってしまって、先輩がさらにくすりと笑う。
「そう呼んでもいいかな、私も」
「え?」
……ああ、そうか。今、私の方も名前で呼ばれたんだ。
「はい。……ぜひ」
「ありがと」
もう一つ微笑んで、立ち上がる。
「……うん。なんか元気出たかも。ありがとうね、みなみちゃん」
「あ、いえ……」
まだいつもの力強さは戻ってないけれど、それでも本当に、いくらかは元気になってくれたみたいだ。
少しでも役に立てたのだろうか。
「じゃあ、私行くから。ちょっと買うものとかあるし」
「はい」
「また明日……じゃなかった。また、今度ね」
「はい。また」
微笑んで、頷いて。
危うげない足取りで去っていくかがみ先輩を、私はなんとなくその場に立ち尽くしたまま見送った。
それが昨日の話。
かがみ先輩に会った。
ただそれだけのこと。
でも、他に理由は思い当たらない。
その夜、夢を見た。
『――――みなみちゃん、誰にでも、そういうことするんだ』
「――っ!?」
跳ね起きた。
まだ日も昇りきらない時間。薄暗い部屋の、自分のベッドの上。
全身を汗でぐっしょり濡らして荒い息をつく私がいた。
くぅん、と、異変を察知したらしいチェリーの声が聞こえた気がしたが、構うだけの余裕がない。
なんだ、今のは。
「……ゆめ?」
そう、夢だ。
細部は憶えていない。全体像すら既にほとんど忘れ始めている。
残っているのは、たった一つ。
暗い、昏い、闇そのものような冥い声。
跳ね起きた。
まだ日も昇りきらない時間。薄暗い部屋の、自分のベッドの上。
全身を汗でぐっしょり濡らして荒い息をつく私がいた。
くぅん、と、異変を察知したらしいチェリーの声が聞こえた気がしたが、構うだけの余裕がない。
なんだ、今のは。
「……ゆめ?」
そう、夢だ。
細部は憶えていない。全体像すら既にほとんど忘れ始めている。
残っているのは、たった一つ。
暗い、昏い、闇そのものような冥い声。
“――みなみちゃん、誰にでもそういうことするんだ”
「……っ!」
心臓が引き絞られて、さらなる汗がどっと噴き出す。
そんなはずがない。
そんなはずがない。
ゆたかが、そんなことを言うわけが……だって彼女は言ってくれた。
他の人を優先してもいいと。
寂しくなったらちゃんと言う、と。
だからこんなのは、夢だ。ただの夢。私の中のネガティブな部分が見せた、ただの幻。
現実の、本当のゆたかは――
心臓が引き絞られて、さらなる汗がどっと噴き出す。
そんなはずがない。
そんなはずがない。
ゆたかが、そんなことを言うわけが……だって彼女は言ってくれた。
他の人を優先してもいいと。
寂しくなったらちゃんと言う、と。
だからこんなのは、夢だ。ただの夢。私の中のネガティブな部分が見せた、ただの幻。
現実の、本当のゆたかは――
“――ごめんね、みなみちゃん”
え?
“今日はちょっと用事があるんだ。えっと……お姉ちゃんと”
“あ、今日も……ごめん。言えないんだ”
“べ、別にそんな、ぜんぜん大したことじゃないんだよ? でも大切な……じゃなくってっ”
“あ、今日も……ごめん。言えないんだ”
“べ、別にそんな、ぜんぜん大したことじゃないんだよ? でも大切な……じゃなくってっ”
あ……れ?
“違うのっ! みなみちゃんとはぜんぜん関係ないことだから”
“ほんとに、ほんとにぜんぜん関係ないから”
“だから……ごめんね?”
“ほんとに、ほんとにぜんぜん関係ないから”
“だから……ごめんね?”
ゆたか?
“ごめんねー、岩崎さん”
“Sorry、ミナミ”
“Sorry、ミナミ”
……田村さん? パトリシア、さん?
“――ばいばい”
……
……これも……
……これも、夢なの…………?
……これも……
……これも、夢なの…………?
★
「――なるほど」
私が話を終えると、みゆきさんは小さく息を付くように呟いて、アイスティーのグラスを持ち上げた。
あのあと――いったいどれだけの時間固まっていたのか。
勉強机の上で震えだした携帯電話の音で我に帰った私は、かけてきた相手であるみゆきさんに
泣きついた。
そして連れてこられたのがこの喫茶店。
みゆきさんお勧めだというこの店は、駅よりも私の家がある住宅街に程近く、静かで落ち着いた
雰囲気が漂っている。時間帯のせいか、客も私たち二人の他には誰もいない。
ことり、とグラスをテーブルに置く音。
反応してかすかに視線を上げると、みゆきさんは優しく微笑んでいた。
どうして笑っているのだろう。
「大丈夫ですよ、みなみさん」
「……」
こんな、根拠のない慰めを口にするような人だっただろうか。
分からない。
ほとんど物心ついた頃からの付き合いであるこの人のことすら信じられなくなっている。
ため息が聞こえた。
困ったような。聞き分けのない子どもに手を焼く母親のような。
「何か、心当たりはあるのですか? 皆さんに嫌われるような」
「……」
ない。
何度も考えた。考え抜いた。
でも、分からない。少なくとも私から何かをしたという記憶はない。
私が話を終えると、みゆきさんは小さく息を付くように呟いて、アイスティーのグラスを持ち上げた。
あのあと――いったいどれだけの時間固まっていたのか。
勉強机の上で震えだした携帯電話の音で我に帰った私は、かけてきた相手であるみゆきさんに
泣きついた。
そして連れてこられたのがこの喫茶店。
みゆきさんお勧めだというこの店は、駅よりも私の家がある住宅街に程近く、静かで落ち着いた
雰囲気が漂っている。時間帯のせいか、客も私たち二人の他には誰もいない。
ことり、とグラスをテーブルに置く音。
反応してかすかに視線を上げると、みゆきさんは優しく微笑んでいた。
どうして笑っているのだろう。
「大丈夫ですよ、みなみさん」
「……」
こんな、根拠のない慰めを口にするような人だっただろうか。
分からない。
ほとんど物心ついた頃からの付き合いであるこの人のことすら信じられなくなっている。
ため息が聞こえた。
困ったような。聞き分けのない子どもに手を焼く母親のような。
「何か、心当たりはあるのですか? 皆さんに嫌われるような」
「……」
ない。
何度も考えた。考え抜いた。
でも、分からない。少なくとも私から何かをしたという記憶はない。
“何もなくても――何もないからヘンになるってこともある、のかもね……”
かがみ先輩の言葉が甦る。
そういうことなのだろか。
何らかの義務を無自覚に怠って、それがゆたかたちを怒らせて、傷つけたのかも知れない。
でも、それは何?
「……そうですか」
優しく――そうとしか解釈できない調子で頷いて、みゆきさんはまたグラスを持ち上げる。
私の方は手を伸ばしてすらいない。
「私には、ありますよ」
「……え?」
「皆さんの態度に、心当たりが」
目を見開く。
なんて言った?
なんて言った!?
「お――教えてくださいっ!」
思わず身を乗り出した。
テーブルが揺れ、グラスの中で波が立つ。
「お、落ち着いてください、みなみさん」
「でも――」
「とにかく、座ってください」
「…………、はい」
浮かせていた腰を下ろす。
するとみゆきさんは、しかし困ったような表情になった。
「ですが、今は言えません」
「そんな……っ!」
再び声を荒げかける私を、彼女はやんわりと両手を掲げて制する。
「いえ、いじわるをしているのではないんです。ただ、申し訳ないのですが……田村さんの了解を
得ないことには、お話しするわけにはいかないんですよ」
「田村、さん?」
ゆたかではなく?
「ええ。先週のお昼休みに、彼女とお昼をご一緒する機会があったのですが……そのことは?」
……ああ。
そういえば、三、四日前だったか。
「漫画の……」
「あ、ご存知でしたね。はい、お恥ずかしながら、インタビューを受けさせていただきました」
照れたように首を傾げて、みゆきさんは言う。
漫画を描いている田村さんが、新しい作品の取材を、生徒会長でもあるみゆきさんに
受けてもらえることになったと、昼休みに抜けていったことがある。
「そのときに、ついでにした別のお話が、関係しているのだと思います」
「……」
確かに、時期的には一致する。
しかし、
「……なんなんです?」
「ですから、言えません」
にべもない。
俯いて、歯噛みする。
この人に約束を破らせるのは容易ではないと知っているから、余計に焦りが募る。
「ですがもし、私の想像している通りなら――最初に言ったとおりです。何も心配いりませんよ」
言い方は曖昧だけど、この顔は確信している顔だ。
信じてもいいのだろうか。
しかし、理由を聞かされなくてはとても納得などできない。
「……では、田村さんに連絡してみましょうか」
「……お願いします」
「分かりました」
そう言うと、みゆきさんは手提げカバンから携帯電話を取り出しながら席を立った。私も続く。
「あ、みなみさんは座っていらしてください」
聞かせるわけにもいかない、ということか。
相変わらず義理堅い人だ。安心もできるけど、もどかしい。
みゆきさんはお店の人に「電話してきます」と一言断りを入れて、そのまま一旦外に出てた。
窓の向こう、私から見える位置で立ち止まり、電話越しに誰か――恐らくは田村さんと話し始める。
時間にして、数分。
壁の時計を見なかったらその十倍ぐらいに思ったかも知れない。
戻ってきたみゆきさんは、座りなおすことなく伝票を手に取った。
「――では行きましょうか」
「行くって……」
自分も立ち上がりながら、この人にしては珍しく唐突な物言いに首を傾げる。
田村さんのところだろうか。
しかし返ってきたのは、まったく予想外の言葉だった。
「お買い物です」
「……は?」
間抜けな声が口からこぼれる。みゆきさんは可笑しそうに笑った。
「田村さんに連絡したのですが、もう少しお時間が欲しいそうです。ですから――最初に言いました
よね? お買い物をしながら時間を潰しましょう」
「……」
ええと。
しかし、迷う――というか、混乱している私を置いて、みゆきさんはさっさとレジに向かってしまった。
釈然としない気持ちのまま、仕方なく後を追う。
結局手をつけられることのなかったグラスの中で、融けかけた氷が所在なさげに揺れていた。
そういうことなのだろか。
何らかの義務を無自覚に怠って、それがゆたかたちを怒らせて、傷つけたのかも知れない。
でも、それは何?
「……そうですか」
優しく――そうとしか解釈できない調子で頷いて、みゆきさんはまたグラスを持ち上げる。
私の方は手を伸ばしてすらいない。
「私には、ありますよ」
「……え?」
「皆さんの態度に、心当たりが」
目を見開く。
なんて言った?
なんて言った!?
「お――教えてくださいっ!」
思わず身を乗り出した。
テーブルが揺れ、グラスの中で波が立つ。
「お、落ち着いてください、みなみさん」
「でも――」
「とにかく、座ってください」
「…………、はい」
浮かせていた腰を下ろす。
するとみゆきさんは、しかし困ったような表情になった。
「ですが、今は言えません」
「そんな……っ!」
再び声を荒げかける私を、彼女はやんわりと両手を掲げて制する。
「いえ、いじわるをしているのではないんです。ただ、申し訳ないのですが……田村さんの了解を
得ないことには、お話しするわけにはいかないんですよ」
「田村、さん?」
ゆたかではなく?
「ええ。先週のお昼休みに、彼女とお昼をご一緒する機会があったのですが……そのことは?」
……ああ。
そういえば、三、四日前だったか。
「漫画の……」
「あ、ご存知でしたね。はい、お恥ずかしながら、インタビューを受けさせていただきました」
照れたように首を傾げて、みゆきさんは言う。
漫画を描いている田村さんが、新しい作品の取材を、生徒会長でもあるみゆきさんに
受けてもらえることになったと、昼休みに抜けていったことがある。
「そのときに、ついでにした別のお話が、関係しているのだと思います」
「……」
確かに、時期的には一致する。
しかし、
「……なんなんです?」
「ですから、言えません」
にべもない。
俯いて、歯噛みする。
この人に約束を破らせるのは容易ではないと知っているから、余計に焦りが募る。
「ですがもし、私の想像している通りなら――最初に言ったとおりです。何も心配いりませんよ」
言い方は曖昧だけど、この顔は確信している顔だ。
信じてもいいのだろうか。
しかし、理由を聞かされなくてはとても納得などできない。
「……では、田村さんに連絡してみましょうか」
「……お願いします」
「分かりました」
そう言うと、みゆきさんは手提げカバンから携帯電話を取り出しながら席を立った。私も続く。
「あ、みなみさんは座っていらしてください」
聞かせるわけにもいかない、ということか。
相変わらず義理堅い人だ。安心もできるけど、もどかしい。
みゆきさんはお店の人に「電話してきます」と一言断りを入れて、そのまま一旦外に出てた。
窓の向こう、私から見える位置で立ち止まり、電話越しに誰か――恐らくは田村さんと話し始める。
時間にして、数分。
壁の時計を見なかったらその十倍ぐらいに思ったかも知れない。
戻ってきたみゆきさんは、座りなおすことなく伝票を手に取った。
「――では行きましょうか」
「行くって……」
自分も立ち上がりながら、この人にしては珍しく唐突な物言いに首を傾げる。
田村さんのところだろうか。
しかし返ってきたのは、まったく予想外の言葉だった。
「お買い物です」
「……は?」
間抜けな声が口からこぼれる。みゆきさんは可笑しそうに笑った。
「田村さんに連絡したのですが、もう少しお時間が欲しいそうです。ですから――最初に言いました
よね? お買い物をしながら時間を潰しましょう」
「……」
ええと。
しかし、迷う――というか、混乱している私を置いて、みゆきさんはさっさとレジに向かってしまった。
釈然としない気持ちのまま、仕方なく後を追う。
結局手をつけられることのなかったグラスの中で、融けかけた氷が所在なさげに揺れていた。
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- いやーもう、舌を巻く上手さ。
各キャラの動きを自然に絡め合わせる群像劇的手法が本当上手いです。
これはそれぞれのキャラの性格と行動原理をしっかり把握できてないと書けません。凄い。 -- 名無しさん (2008-03-09 08:33:49)