ぱしゃり。
竹を割って作った杯で水を掬っては、顔を、手足を清める。
群青の空を映し込んで瑠璃のように煌く水は、今日の汗と泥を流し、暗がりに浮かぶやわ肌の
色を、一層白く、清冽に引き立てていく。
ぱしゃり、また、ぱしゃり。
晩秋の禊は、決して心地良いものではない。ただでさえ温もりが欲しくなる季節なのに、
肌を落ちる沢の水は夕風に吹かれて、容赦なく体温を奪っていく。
水を注ぐたびに、小さく強張る身体……でも、大好きな人に逢いに行くのに、衣装を選ぶことも、
香を焚きしめることもできないのなら、せめて汚れた体を少しでも綺麗にして行こう。
竹を割って作った杯で水を掬っては、顔を、手足を清める。
群青の空を映し込んで瑠璃のように煌く水は、今日の汗と泥を流し、暗がりに浮かぶやわ肌の
色を、一層白く、清冽に引き立てていく。
ぱしゃり、また、ぱしゃり。
晩秋の禊は、決して心地良いものではない。ただでさえ温もりが欲しくなる季節なのに、
肌を落ちる沢の水は夕風に吹かれて、容赦なく体温を奪っていく。
水を注ぐたびに、小さく強張る身体……でも、大好きな人に逢いに行くのに、衣装を選ぶことも、
香を焚きしめることもできないのなら、せめて汚れた体を少しでも綺麗にして行こう。
綺麗になった体を純白の束帯(そくたい)で包み、手折った野の草花をお土産にして、
私は小早川の邸へ急ぐ。
恋人が少しでも喜んでくれるように、今の自分にできる精一杯を尽くして。
恋人が何より喜んでくれるはずの文は、まだ真っ白のままで……。
私は小早川の邸へ急ぐ。
恋人が少しでも喜んでくれるように、今の自分にできる精一杯を尽くして。
恋人が何より喜んでくれるはずの文は、まだ真っ白のままで……。
第ニ話 ―― しのぶれど、紅葉色 ――
「堪へず紅葉青苔の地――又これ涼風暮雨の天――」
ゆたかの『準備』ができたのを見て、私は舞を披露する。
邸の人に気付かれないよう、声量こそ抑えているけれど、それ以外は、自分の全てを篭めて。
薪の爆ぜる音を囃子代わりに、火明かりに浮かぶ袖を振るい……
ゆたかの『準備』ができたのを見て、私は舞を披露する。
邸の人に気付かれないよう、声量こそ抑えているけれど、それ以外は、自分の全てを篭めて。
薪の爆ぜる音を囃子代わりに、火明かりに浮かぶ袖を振るい……
「……ゆたか?」
「……あっ、うわっ、いいつの間にか引き込まれちゃってた。ご、ごめんね、気付けなくって」
「確かに、これは萌えざるを得な……って何魅了されてるんスかっ、落ち着け私っ」
私が覗き込んでいるのに気付いたゆたかが、お土産の紅葉を扇にして顔を隠す。
けれど、紅葉に負けないほど色付いた顔も、紅葉をかざす小さな手も、ずるい位に愛くるしい。
「ありがとう、私は、こんな舞しか……」
「ほら、『こんな舞』なんて言わないで?あんなに素敵だったんだから」
「でも……」
「みなみちゃん」
「そんな……ありがとう」
「……って無視っスか?私無視なんスかっ!?」
「……あっ、うわっ、いいつの間にか引き込まれちゃってた。ご、ごめんね、気付けなくって」
「確かに、これは萌えざるを得な……って何魅了されてるんスかっ、落ち着け私っ」
私が覗き込んでいるのに気付いたゆたかが、お土産の紅葉を扇にして顔を隠す。
けれど、紅葉に負けないほど色付いた顔も、紅葉をかざす小さな手も、ずるい位に愛くるしい。
「ありがとう、私は、こんな舞しか……」
「ほら、『こんな舞』なんて言わないで?あんなに素敵だったんだから」
「でも……」
「みなみちゃん」
「そんな……ありがとう」
「……って無視っスか?私無視なんスかっ!?」
褒められるのが苦手で逸らした顔を追いかけて、ゆたかが笑う。
世界で一番好きな人にそんな風に見つめられると、顔が月明かりでも分かるくらい火照って、
恥ずかしいのと同じくらい、胸がどきどきする。
それまで生きるための手段でしかなかった舞なのに、今では強制的に教えてくれたお母さんに
心から感謝している。だって、このたった一つの芸のお陰で……。
世界で一番好きな人にそんな風に見つめられると、顔が月明かりでも分かるくらい火照って、
恥ずかしいのと同じくらい、胸がどきどきする。
それまで生きるための手段でしかなかった舞なのに、今では強制的に教えてくれたお母さんに
心から感謝している。だって、このたった一つの芸のお陰で……。
「でも、さっきの詩……白居易だったよね?」
「朗詠では、よく出てくるから。漢皇、色を重んじて傾國を思ふ――とか」
「ちょ!長恨歌っスかっ!?」
「天に在りては願はくは比翼の鳥となり……そんな風に愛し合えたら、きっと素敵だよね。
ちなみに、今の詩をかな文字に直すと、いくね? か、ん、く、わ、う……い、ろ、を……
みなみちゃんも、書いてみて」
「朗詠では、よく出てくるから。漢皇、色を重んじて傾國を思ふ――とか」
「ちょ!長恨歌っスかっ!?」
「天に在りては願はくは比翼の鳥となり……そんな風に愛し合えたら、きっと素敵だよね。
ちなみに、今の詩をかな文字に直すと、いくね? か、ん、く、わ、う……い、ろ、を……
みなみちゃんも、書いてみて」
月の光を頼りにした秘密の稽古が始まって、二ヶ月。
最近はゆたかの綴る文字を、ゆたかが書き下ろすよりも早く読めるようになった。
私がこんなに早く覚えられたのは、ゆたかが私の知っている詩のような、私に一番身近な
題材で、文字を教えてくれるからだ。
好きな人に色々なことを教わって、間違えたり上達したりするたびに、一緒になって笑い合う。
それは本当に、例えようもなく嬉しいこと。でも、だからこそ……。
「すごいすごい、みなみちゃん本当に上手になったよ!」
「ゆたかが、教え上手だから……」
最近はゆたかの綴る文字を、ゆたかが書き下ろすよりも早く読めるようになった。
私がこんなに早く覚えられたのは、ゆたかが私の知っている詩のような、私に一番身近な
題材で、文字を教えてくれるからだ。
好きな人に色々なことを教わって、間違えたり上達したりするたびに、一緒になって笑い合う。
それは本当に、例えようもなく嬉しいこと。でも、だからこそ……。
「すごいすごい、みなみちゃん本当に上手になったよ!」
「ゆたかが、教え上手だから……」
舞の後は、私の謡った詩で書の練習。
今日みたいに月明かりの弱い日は、ゆたかが手本を書いてくれるだけで、後は雑談になるの
だけれど、ゆたかが頼んでくれたかがり火のお陰で、久しぶりに手習いができる。
「まだ転折がだめだめっスけど。あと、『おもんじて』みたいに長い線だとすぐよれよれに……」
「仕方ないよ、私だって、初めは全然……って、ひより何書いてるの?」
「え゙っ、これはその別に……それよりほら、また間違えてるっスよ、角度とか」
慌てて紙を隠しながら、私のずれた文字を指さすひより。
「かなはそういう所で上手下手が分かれるっスからね、ほら、そこも……」
「あ、みなみちゃんここはね、」
「っ!?!?」
今日みたいに月明かりの弱い日は、ゆたかが手本を書いてくれるだけで、後は雑談になるの
だけれど、ゆたかが頼んでくれたかがり火のお陰で、久しぶりに手習いができる。
「まだ転折がだめだめっスけど。あと、『おもんじて』みたいに長い線だとすぐよれよれに……」
「仕方ないよ、私だって、初めは全然……って、ひより何書いてるの?」
「え゙っ、これはその別に……それよりほら、また間違えてるっスよ、角度とか」
慌てて紙を隠しながら、私のずれた文字を指さすひより。
「かなはそういう所で上手下手が分かれるっスからね、ほら、そこも……」
「あ、みなみちゃんここはね、」
「っ!?!?」
ゆたかが小さな体をうんと伸ばして、私の前に潜り込んできた。
遠目には、座っているゆたかを、私が抱き寄せているように見えるくらいの至近距離だ。
「こんなふうに……次の画に入る前に一呼吸置いて、穂先を上に向けて書いてみて。
あと、こういう繋がってる所だけど、無理して一筆書きにしなくても大丈夫。
例えば『おもんじて』なら、『お』を書いた後、『も』に入る前に、ここでちょっと筆を休めて……」
袖が触れ合うだけだって、想像できないくらいどきどきしてしまうのに、
無邪気なゆたかは小さな体をくっつけて、私の拙い字の横に、すらすらと筆を走らせて……
遠目には、座っているゆたかを、私が抱き寄せているように見えるくらいの至近距離だ。
「こんなふうに……次の画に入る前に一呼吸置いて、穂先を上に向けて書いてみて。
あと、こういう繋がってる所だけど、無理して一筆書きにしなくても大丈夫。
例えば『おもんじて』なら、『お』を書いた後、『も』に入る前に、ここでちょっと筆を休めて……」
袖が触れ合うだけだって、想像できないくらいどきどきしてしまうのに、
無邪気なゆたかは小さな体をくっつけて、私の拙い字の横に、すらすらと筆を走らせて……
「……みなみちゃん?」
「あ……」
幸せ過ぎてくらくらしているうちに、ゆたかが手本を書き終えていて、ゆたかに目を合わされて、
真っ赤になって……そこで初めて、肝心の筆先の使い方を、全然見ていなかったことに気付く。
「ごめん、もう一度書いて」
「こっちで?」
「ここからだと、見えにくかった、から……」
「あっ、ご……ごめんね、そうだよね、そんなこと考えてなくて……じゃあ、もう一度書くね」
「あ……」
幸せ過ぎてくらくらしているうちに、ゆたかが手本を書き終えていて、ゆたかに目を合わされて、
真っ赤になって……そこで初めて、肝心の筆先の使い方を、全然見ていなかったことに気付く。
「ごめん、もう一度書いて」
「こっちで?」
「ここからだと、見えにくかった、から……」
「あっ、ご……ごめんね、そうだよね、そんなこと考えてなくて……じゃあ、もう一度書くね」
もう一度硯に向かうと、数瞬目を閉じて深呼吸。
上気した頬をさましたら、筆先を整えて、いくね、と笑ってから筆を動かし始める。
私のために、手本を書いてくれた時よりもゆっくり、筆の休みや返しを丁寧に説明しながら。
「こんどは、大丈夫だった、かな?」
いつもとは全然違う調子で書いた筈なのに、それを全く感じさせない出来。
大丈夫、と頷くのも忘れて、しばらくその例えようのない筆蹟に魅入ってしまう。
上気した頬をさましたら、筆先を整えて、いくね、と笑ってから筆を動かし始める。
私のために、手本を書いてくれた時よりもゆっくり、筆の休みや返しを丁寧に説明しながら。
「こんどは、大丈夫だった、かな?」
いつもとは全然違う調子で書いた筈なのに、それを全く感じさせない出来。
大丈夫、と頷くのも忘れて、しばらくその例えようのない筆蹟に魅入ってしまう。
「……やっぱり、ゆたかは綺麗」
「そんなことないよ、私もまだまだ」
「いやいやゆーちゃんの書は評判っスよ?黒井式部だって驚いてたし、あの赤染の上だって
『権大納言以来の名人になれるかも』って」
「ひひひひよりっ!?」
「権大納言……実里の邸の……?」
「そうっス、茅原長門!小野古泉、春日天皇と共に『三蹟(さんせき)』と称された書の大家っスよ」
「わぁっ、そんな、あれはきっとお世辞で、私は全然……」
「そんなことないよ、私もまだまだ」
「いやいやゆーちゃんの書は評判っスよ?黒井式部だって驚いてたし、あの赤染の上だって
『権大納言以来の名人になれるかも』って」
「ひひひひよりっ!?」
「権大納言……実里の邸の……?」
「そうっス、茅原長門!小野古泉、春日天皇と共に『三蹟(さんせき)』と称された書の大家っスよ」
「わぁっ、そんな、あれはきっとお世辞で、私は全然……」
持ち上げられて恥ずかしいのか、ゆたかは筆先を乱してわたわたしている。
そんな仕草は堪らないけれど、やっぱり好きな人には、自己否定なんてされたくないから。
「ゆたかは、上手……だから、私に言ってくれたみたいに、『全然』なんて言わないで。
私は、ゆたかの字が……」
本当に、だいすきだから。そんな気持ちを精一杯伝えると、ゆたかは
「ふふっ、そうだね。じゃあ、お返しにその書で、
みなみ風かよふ嵯峨野のもみぢ葉も甘く色づくきさなみの舞 ――って、ちょっと恥ずかしいかな」
「これ、その……!!?」
「えへへ、本当はもっといい紙が良かったんだけどね」
私とゆたかを暗示した、意地悪な三十一字。
それは、声よりずっと心に響く――けれど、同時に何より心を苛む、世界一幸せな歌だった。
「うぅ、そんなに見られるとやっぱり恥ずかしいよ、即興だし、推敲とかもしてないし、それに……」
「でも、凄く素敵。私には……」
「だいじょうぶだよ、みなみちゃんなら、練習すればすぐ詠めるようになるよ」
「えーと……私は今泣いていい、泣いていいんスよね?」
即興で綴られた歌を、寝待の月に照らしながらの会話。
ゆたかと語らう時間が少しでも長く続いて欲しい、そんな悪あがきだ。
けれど、やっぱり……。
そんな仕草は堪らないけれど、やっぱり好きな人には、自己否定なんてされたくないから。
「ゆたかは、上手……だから、私に言ってくれたみたいに、『全然』なんて言わないで。
私は、ゆたかの字が……」
本当に、だいすきだから。そんな気持ちを精一杯伝えると、ゆたかは
「ふふっ、そうだね。じゃあ、お返しにその書で、
みなみ風かよふ嵯峨野のもみぢ葉も甘く色づくきさなみの舞 ――って、ちょっと恥ずかしいかな」
「これ、その……!!?」
「えへへ、本当はもっといい紙が良かったんだけどね」
私とゆたかを暗示した、意地悪な三十一字。
それは、声よりずっと心に響く――けれど、同時に何より心を苛む、世界一幸せな歌だった。
「うぅ、そんなに見られるとやっぱり恥ずかしいよ、即興だし、推敲とかもしてないし、それに……」
「でも、凄く素敵。私には……」
「だいじょうぶだよ、みなみちゃんなら、練習すればすぐ詠めるようになるよ」
「えーと……私は今泣いていい、泣いていいんスよね?」
即興で綴られた歌を、寝待の月に照らしながらの会話。
ゆたかと語らう時間が少しでも長く続いて欲しい、そんな悪あがきだ。
けれど、やっぱり……。
「それに今のは、その、みな……」
「っ、ゆーちゃ」
「ゆたかっ」
「っ、ゆーちゃ」
「ゆたかっ」
本人が自覚するより早く、ゆたかの体が僅かにかしぐのを見て、慌ててその背を支える。
もうすぐ子の刻。体の弱いゆたかが身を起こ続けるには、辛い時間だ。
「辛いなら、ちゃんと言わないと」
「そんな、私はだいじょうぶだよ」
笑顔を作って平気を装ってくる。
でも、辺りを照らしていた火がすっかり衰えて、もう橙の光が炭の上を這うだけになっていても、
ゆたかが重くなった目蓋を擦りながら、一生懸命強がっているのがわかる。
「無理しないで」
「そうっスよ、たまには休んでも……」
「ううん、明日も明後日も、こうやって逢いたい。今日だって、みなみちゃんが良ければ……?」
もうすぐ子の刻。体の弱いゆたかが身を起こ続けるには、辛い時間だ。
「辛いなら、ちゃんと言わないと」
「そんな、私はだいじょうぶだよ」
笑顔を作って平気を装ってくる。
でも、辺りを照らしていた火がすっかり衰えて、もう橙の光が炭の上を這うだけになっていても、
ゆたかが重くなった目蓋を擦りながら、一生懸命強がっているのがわかる。
「無理しないで」
「そうっスよ、たまには休んでも……」
「ううん、明日も明後日も、こうやって逢いたい。今日だって、みなみちゃんが良ければ……?」
頑張って笑顔を作るわがままゆたかの頭を、さわさわ撫でてあげる。
「ひゃふっ、みな……」
「それなら尚更、無理したら駄目」
私だってもっと話していたいけれど、そろそろ切り上げないと色々と大変になってくるし、
何よりゆたかの体に障る。
季節ももうすぐ冬。無理されて倒れられたりなんかしたら、一晩二晩逢えなくなるより辛いから。
「もう、そんな子供扱いしなくたって……」
くすぐったそうに目を閉じて、むくれてくる。でも、その『ありがとう』に溢れた瞳を見れば、
互いの気持ちがちゃんと伝わっているのがわかる。
「ひゃふっ、みな……」
「それなら尚更、無理したら駄目」
私だってもっと話していたいけれど、そろそろ切り上げないと色々と大変になってくるし、
何よりゆたかの体に障る。
季節ももうすぐ冬。無理されて倒れられたりなんかしたら、一晩二晩逢えなくなるより辛いから。
「もう、そんな子供扱いしなくたって……」
くすぐったそうに目を閉じて、むくれてくる。でも、その『ありがとう』に溢れた瞳を見れば、
互いの気持ちがちゃんと伝わっているのがわかる。
「そろそろ、行くから」
幸せに甘えたい気持ちを押し込めて、ゆたかから離れる。
「大丈夫、私も……明日も明後日も、ゆたかと逢いたいから。ちゃんと、来るから」
「うん、絶対だよ?」
言葉の代わりに、ゆたかの小さな手をきゅっと温める。
契りの言葉一つ交わす間さえ、そばにいたい。
幸せに甘えたい気持ちを押し込めて、ゆたかから離れる。
「大丈夫、私も……明日も明後日も、ゆたかと逢いたいから。ちゃんと、来るから」
「うん、絶対だよ?」
言葉の代わりに、ゆたかの小さな手をきゅっと温める。
契りの言葉一つ交わす間さえ、そばにいたい。
「今日は本当に、これで……ひより、後はお願いね」
「そうっスね、ゆーちゃんも早く休まないと駄目っスよ? ……じゃあ、みなりんは『いつもの』で」
「うん……また、明日」
温もりが、冷えた指先に伝わった頃。絡めた指を解いて、ゆたかに背を向ける。
すると。
「あ、待って」
くいっ、と、袖を引かれて、立ち止まる。
振り返ると、廂(ひさし)からめいいっぱい手を伸ばして、
「みなみちゃん、これ……」
「ありがとう、後で、きっと…………」
「そうっスね、ゆーちゃんも早く休まないと駄目っスよ? ……じゃあ、みなりんは『いつもの』で」
「うん……また、明日」
温もりが、冷えた指先に伝わった頃。絡めた指を解いて、ゆたかに背を向ける。
すると。
「あ、待って」
くいっ、と、袖を引かれて、立ち止まる。
振り返ると、廂(ひさし)からめいいっぱい手を伸ばして、
「みなみちゃん、これ……」
「ありがとう、後で、きっと…………」
最後の最後に、ゆたかから『忘れ物』を受け取って、
私はまた、ひよりが透垣(すいがい:竹でできた垣根)に仕込んだ『抜け道』から、束の間の夢に
別れを告げる。
私はまた、ひよりが透垣(すいがい:竹でできた垣根)に仕込んだ『抜け道』から、束の間の夢に
別れを告げる。
でも……
ひよりと御堂で別れた後。
ゆたかとひよりには悪いけれど、私にはまだ、しないといけないことがあった。
ひよりと御堂で別れた後。
ゆたかとひよりには悪いけれど、私にはまだ、しないといけないことがあった。
幕間 ―― 瞬きするほど長い季節が来て ――
「みなみは……」
「ええ、きっとまた、遅くなるわね」
桂川を遡っていった先にある、茅野原の片隅。隙間だらけの壁に、古びた苫(とま)が被さって
いるだけの粗末な庵で、二人は目を閉じたまま言葉をかわしています。
一人は、齢三十半ばの精悍な男性。引き締まった筋肉に刻まれた幾つもの傷が、
過去の激しい戦歴を物語っています。
そしてもう一人は、男よりもう少し若く見える女性。
このような荒地でどんなに苦労を重ねてきたのでしょう。
髪はほつれ、肌も日焼けと土に汚れていますが、袖さえない粗末な麻の衣で、
ぼろぼろの筵(むしろ)に横になる姿にさえ、気品めいたものが感じられる美人です。
「ええ、きっとまた、遅くなるわね」
桂川を遡っていった先にある、茅野原の片隅。隙間だらけの壁に、古びた苫(とま)が被さって
いるだけの粗末な庵で、二人は目を閉じたまま言葉をかわしています。
一人は、齢三十半ばの精悍な男性。引き締まった筋肉に刻まれた幾つもの傷が、
過去の激しい戦歴を物語っています。
そしてもう一人は、男よりもう少し若く見える女性。
このような荒地でどんなに苦労を重ねてきたのでしょう。
髪はほつれ、肌も日焼けと土に汚れていますが、袖さえない粗末な麻の衣で、
ぼろぼろの筵(むしろ)に横になる姿にさえ、気品めいたものが感じられる美人です。
「明日、何かあるんですか?」
「舞の稽古つけて、都に薬草と蔓細工を売りに出て……それくらいだな」
「いつも通りですね。舞の依頼も、相変わらず?」
「ああ、あいつの『お出かけ』以外さっぱりだ。幸か不幸か知らねえけどよ。
けどほんと、毎日毎日どこに通ってんだか」
苦笑いをする彼に、彼女は困ったような、切ない息を漏らします。
「もしかして、心当たりあるのか?」
「ええ……多分、私達にとって、一番辛い場所」
「それって……あいつ!?」
「舞の稽古つけて、都に薬草と蔓細工を売りに出て……それくらいだな」
「いつも通りですね。舞の依頼も、相変わらず?」
「ああ、あいつの『お出かけ』以外さっぱりだ。幸か不幸か知らねえけどよ。
けどほんと、毎日毎日どこに通ってんだか」
苦笑いをする彼に、彼女は困ったような、切ない息を漏らします。
「もしかして、心当たりあるのか?」
「ええ……多分、私達にとって、一番辛い場所」
「それって……あいつ!?」
遥か遠い世界に呼びかけるような呟きに、彼が『あること』を察したのでしょう。
仰向けになっていた体を飛び起きるように寝返りさせて、彼女の肩を揺さぶりかけて……
そこで慣性に逆らって、強制的に手を止めます。
仰向けになっていた体を飛び起きるように寝返りさせて、彼女の肩を揺さぶりかけて……
そこで慣性に逆らって、強制的に手を止めます。
「そんなに気を使わなくても大丈夫なのに」
「うるせぇ」
肩に触れる寸前で止まっていた指先に微笑んでから、そっと視線を合わせます。
夫婦というより、むしろ幼馴染を見つめる視線。
ですが、外を再び草木のざわめきが通り過ぎていったのを切欠に、彼女はふと視線を逸らして、
青褪めた月が照らす草原の方へ、体を起こしました。
「うるせぇ」
肩に触れる寸前で止まっていた指先に微笑んでから、そっと視線を合わせます。
夫婦というより、むしろ幼馴染を見つめる視線。
ですが、外を再び草木のざわめきが通り過ぎていったのを切欠に、彼女はふと視線を逸らして、
青褪めた月が照らす草原の方へ、体を起こしました。
「でも、お前……いいのか?」
同じように身を起こした彼への沈黙は、肯定。
背中を向けているので、その表情は分かりません。ですが、顔を覗き込むまでもなく、
その身に凛と纏った空気が、嘘偽りのない感情を伝えています。
同じように身を起こした彼への沈黙は、肯定。
背中を向けているので、その表情は分かりません。ですが、顔を覗き込むまでもなく、
その身に凛と纏った空気が、嘘偽りのない感情を伝えています。
「あなたは、やっぱり迷っていますか?」
暫くの静寂を乱して、また風が吹き抜けた後。
「私も、本当は迷ってる。もし決めてしまえば、あなたに辛い思いをさせてしまう。恩を仇で返して
しまう。それでもやっぱり、私は我が侭で……あなたと私を引き換えでも、みなみに幸せに
なって欲しい。もうすぐ巡ってくる、紅葉の季節に」
その四肢を庇うように、静かに立ち上がると、そのまま月光の下に歩み出ます。
まるで、満天の星に舞を奉納する姫君のように。
暫くの静寂を乱して、また風が吹き抜けた後。
「私も、本当は迷ってる。もし決めてしまえば、あなたに辛い思いをさせてしまう。恩を仇で返して
しまう。それでもやっぱり、私は我が侭で……あなたと私を引き換えでも、みなみに幸せに
なって欲しい。もうすぐ巡ってくる、紅葉の季節に」
その四肢を庇うように、静かに立ち上がると、そのまま月光の下に歩み出ます。
まるで、満天の星に舞を奉納する姫君のように。
「本当に、いいのか?それがどんなに……」
「私なら大丈夫。後は、あなたの赦しだけ」
「っ……」
苦々しい言葉は、歯軋りにかき消されて。
それでも思わず伸ばした指先もまた、殺し切れない感情に震えています。
彼は知っていました。
彼女のしようとしていることが、どれほど危険で、分不相応なものか。
彼女のしようとしていることが、どれほど自分を、二人を苛むものか。
彼女を守りたいなら、無理にでも止めた方がいい。
ほんの五、六歩駆け出して袖に触れれば、まだその決意を鈍らせることができるかも知れない。
……でも、彼は分かっていました。
ほんとうに彼女を愛しているのなら、それは決してしてはいけないと。
「私なら大丈夫。後は、あなたの赦しだけ」
「っ……」
苦々しい言葉は、歯軋りにかき消されて。
それでも思わず伸ばした指先もまた、殺し切れない感情に震えています。
彼は知っていました。
彼女のしようとしていることが、どれほど危険で、分不相応なものか。
彼女のしようとしていることが、どれほど自分を、二人を苛むものか。
彼女を守りたいなら、無理にでも止めた方がいい。
ほんの五、六歩駆け出して袖に触れれば、まだその決意を鈍らせることができるかも知れない。
……でも、彼は分かっていました。
ほんとうに彼女を愛しているのなら、それは決してしてはいけないと。
「初めは、止めようかとも思った。釣り合わない恋なんて、きっと不幸になるだけだから。
でも、あなたも気付いているでしょう」
傍の尾花を扇代わりに折り取って、ふわりと腕を振るいます。
神楽とも雅楽とも違う、切ない詩歌の朗誦始めにたびたび見せる、彼女特有の型。
今の彼女には振るべき袖もありません。
舞を引き立てる衣装もなく、冷たい風に晒された腕は小さく軋んでいて……それなのに、
『構えを取る』、ただそれだけの動作さえ、着飾った貴族をも圧倒する存在感を放っています。
でも、あなたも気付いているでしょう」
傍の尾花を扇代わりに折り取って、ふわりと腕を振るいます。
神楽とも雅楽とも違う、切ない詩歌の朗誦始めにたびたび見せる、彼女特有の型。
今の彼女には振るべき袖もありません。
舞を引き立てる衣装もなく、冷たい風に晒された腕は小さく軋んでいて……それなのに、
『構えを取る』、ただそれだけの動作さえ、着飾った貴族をも圧倒する存在感を放っています。
「みなみは立派に育ったわ。舞だって、もう私よりずっと上手。
だから、後は一人前になったお祝いに、あの子が幸せになる道を作ってあげたい――
今までずっと、不幸だった分まで」
「それは……」
だから、後は一人前になったお祝いに、あの子が幸せになる道を作ってあげたい――
今までずっと、不幸だった分まで」
「それは……」
それは、本当に『幸せ』への道なのか。
お前は散々見てきた筈だろう、雅な世界の裏側も、絶対的な身分の壁も。
けれど、そんな叫びを捻じ伏せる彼を、痛いほど理解しているからこそ、彼女は全てを悟った
表情で、静かに振り向きました。
お前は散々見てきた筈だろう、雅な世界の裏側も、絶対的な身分の壁も。
けれど、そんな叫びを捻じ伏せる彼を、痛いほど理解しているからこそ、彼女は全てを悟った
表情で、静かに振り向きました。
「私は、大丈夫ですよ」
月明かりの中、風を受けてひらめく楓のように。
葛葉色をした前髪の奥で、群青の空を硝子に透かしたような、澄んだ瞳を煌かせて。
「くたびれた手足でも、それくらいはこなすのが親です。後は、あなたが私を信じてくれさえすれば、
迷うことなく舞います」
月明かりの中、風を受けてひらめく楓のように。
葛葉色をした前髪の奥で、群青の空を硝子に透かしたような、澄んだ瞳を煌かせて。
「くたびれた手足でも、それくらいはこなすのが親です。後は、あなたが私を信じてくれさえすれば、
迷うことなく舞います」
穏やかで、気高い微笑み。
隠居していた貴族はおろか、同業者や夜盗達からさえ慕われた、凄腕の白拍子。
沢山の想いを背負って舞い続けた彼女の、散り際の花に似た情緒がそこにはありました。
――だから。
隠居していた貴族はおろか、同業者や夜盗達からさえ慕われた、凄腕の白拍子。
沢山の想いを背負って舞い続けた彼女の、散り際の花に似た情緒がそこにはありました。
――だから。
「ったく、そりゃ反則だろ。そんな目でそこまで言われたら、もう頷くしかねえじゃねえか」
傷ついて欲しくないわがままを捨てて、彼も心を決めました。
折れることのない彼女に、最上級の敬意としての、呆れ果てた苦笑いで。
「ありがとう……では遠慮なく、好き勝手させて貰っちゃいますね?」
「ああ、俺のことは心配しないで、思い切りやってくれ、いわさき」
「はい、いわおさん」
傷ついて欲しくないわがままを捨てて、彼も心を決めました。
折れることのない彼女に、最上級の敬意としての、呆れ果てた苦笑いで。
「ありがとう……では遠慮なく、好き勝手させて貰っちゃいますね?」
「ああ、俺のことは心配しないで、思い切りやってくれ、いわさき」
「はい、いわおさん」
春の風に桃李花の開くる日、秋の露に梧桐葉落つる時、
西宮の南苑秋草多く、落葉階に滿ちて紅ひ掃はず――。
西宮の南苑秋草多く、落葉階に滿ちて紅ひ掃はず――。
秋と冬との狭間の夜、
世界で二人だけしか知らない、切ない恋の朗詠が続きます。
舞い手は、いわさき。
恋を知った娘のために、願いを込めた白い花。
聴き手は、いわお。
恋をしている人のために、花を支え、花と共に朽ちることを厭わぬ枝。
世界で二人だけしか知らない、切ない恋の朗詠が続きます。
舞い手は、いわさき。
恋を知った娘のために、願いを込めた白い花。
聴き手は、いわお。
恋をしている人のために、花を支え、花と共に朽ちることを厭わぬ枝。
暫くの間休んでいた夜風が、川下の方へ、ざぁっと吹き過ぎていきました。
扇代わりの綿尾花から、仄かに煌く種を巻き上げて、
小倉山の麓――小早川の邸の方へと。
扇代わりの綿尾花から、仄かに煌く種を巻き上げて、
小倉山の麓――小早川の邸の方へと。