霊思何皇后は、後漢後期の霊帝の二人目の皇后。少帝劉弁の世に皇太后となったため、何太后と呼ばれることも多い。董卓によって弑され、皇太后としての喪葬は取り行われなかった。


情報

霊思何皇后
(不詳)
(不詳)
本貫地 南陽郡宛県
家柄 宛県何氏
舞陽君 興
何真
位歴 貴人 皇后 皇太后
性は強忌、後宮は震懾せぬはなし。
死去 九月丙子の日(3日)、董卓毒を進められて弑される。
諡号 思皇后
陵墓 霊帝文昭陵
死後評
劉弁(少帝・弘農王)


事跡

 身長七尺一寸(約164センチ)。
 何家は、もとは屠殺を生業としていた。本来、掖庭(いわゆる後宮)には良家の女しか入る資格を持たないが、何氏の家は戸籍を管轄する官吏に金帛を賄賂してその資格を得たのだという。
 熹平二年(173年)、霊帝の皇子劉弁(後の少帝・弘農王)を生んだ。霊帝の子はこれまで成長せずに早世していたため、皇子は道人史子眇の家で養われることになり、敢えて名を正さず(劉氏の姓名で呼ばなかったという意味か)、号して「史侯」と呼び慣わされた。生母たる何氏は貴人の位を拜して、厚い寵幸を得たが、強忌(執拗で猜疑心が強い)な性格のために後宮で震懾しない者はなかった。
 光和三年(180年)、皇后に立てられた。翌四年(181年)、亡父の何真車騎将軍の追号を受け、舞陽宣徳侯の諡号を賜った。これによって母の興が舞陽君に封じられた。
 しかしこの頃、妃妾の一人である王美人が任娠した。王氏は何皇后を畏れ、を堕胎しようと服薬までするが、果たせず、同年(180年)に皇子劉協(後の漢孝献皇帝)を生むこととなった。何皇后は遂に王美人を毒で殺した。霊帝は大怒し、皇后を廃位しようとしたが、諸宦官が固く請うたので止めることができた。皇子劉協は実の祖母の董太后(孝仁董皇后)が自ら養うことになり、号して董侯と呼ばれた。
 この経緯から董太后は劉協を皇太子にしようとたびたび霊帝に勧めたため、何皇后は董太后を恨んだ。
 中平六年(189年)四月、皇太子が決まらないまま霊帝が崩御し、劉弁が皇帝に即位した。何皇后は皇太后となり臨朝して政事を聴き、太傅袁隗と異母兄の大将軍何進が録尚書事として輔政することになった。

 何太后は太后として立てられた当時、二祖(高祖と光武帝)の廟に謁しようと齋(ものいみ、清め)をしようとしたが、その度に変事が有ってついに謁を果たせなかった。時の有識の士は口に出さずにこれを怪しんでいたが、後に何氏に因って漢の祚は傾没したのだった。
 董太后が兄の子の驃騎将軍董重と共に政事に参与しようとし、何太后・何進はそれを妨害した。董太后は憤懣やる方なく何太后を罵ったため、何太后は経緯を何進に告げた。
 五月、何進、異父兄弟の車騎将軍何苗、及び三公は董太后を本国へ還すことを請うて上奏し、臨朝する何太后が当然これを可と詔した。何進は詔を得て兵を挙げ、驃騎将軍府を囲み、董重を収監した。董重は免官され自殺した。董太后は憂い怖れ、疾病して暴崩(にわかに崩御)した。
 何進は普段から世論が中官禁中で公私に渡って皇帝に側近する官。後漢の制では宦人が占有する)を憎むことを知っており、士人を厚く遇し、宦人の有力者の蹇碩や彼らと繋がりの深かった董太后を排除した。次いで袁紹の進言を容れて、権力を掌握する中官全体を誅しその地位を士人に取って代わらせようと何太后に告げた。しかし、中官には省闥(禁中の門内)に数十年も起居して桓帝・霊帝に寵遇され、侯に封じられて重きを為す宦人もあり、何太后自身も彼らを頼みにしていた。言うには、
「中官が禁省を統領するのは、古より今に及ぶまで、漢家の故事であり、廃すべきではありません。かつ、先帝が新たに天下を棄て(身罷られ)たばかりなのに、我がなぜ楚楚として(鮮やかなさまで)士人と共に事に対することができるのでしょうか?」
 何苗や何太后の母の舞陽君もしばしば諸宦官から賄賂を受けており、その擁護に回ったので何進も躊躇した。こうして時が過ぎ、策謀は漏洩し、逆に中官の張讓らに反撃を決意させることになってしまった。
 八月戊辰の日(25日)、何進は何太后の説得のために無防備に長楽宮に入り、その帰りに何太后の詔が出たと偽って引き止められ、張讓、段珪畢嵐らの率いる兵に斬られた。
 何進が殺されたと知り、その部曲将の呉匡張璋、袁紹と行動を共にしていた袁術らは決起して宮殿を攻め破った。張讓、段珪らは何太后と皇帝劉弁、陳留王劉協を連れて逃れたが、尚書の盧植が戈を執って威圧したために、何太后は釈放された。この間に舞陽君が乱兵に殺されることとなった。
 しかし、皇帝と陳留王は洛陽城外へ逃れ、駆け付けた董卓に保護されることになる。
 九月甲戌(1日)、董卓は皇帝兄弟を擁し、陳留王劉協が聡明で、かつて董太后の養育を受けたことから、皇帝劉弁を廃立して劉協を立てる計画を抱いた。羣僚を崇德前殿に集め、何太后を脅して言うには「皇帝は喪に在りながら、人の子の心が無く、威儀は人君に類するものではない。今、廃して弘農王と為す」
 こうして陳留王を立てた。これが献帝となる。董卓は弘農王を扶えて殿を下ろし、北面して臣と称させた。太后は鯁涕(嗚咽、流涕)し、羣臣は悲しみを含んで敢えて言葉もなかった。
 直後、董卓は何太后が永楽太后(董太后)を憂死させたのは婦姑(嫁と姑)の礼に逆らい孝順の節の無いものだとして、太后の宮である長楽宮から永安宮へ遷し、九月丙子の日(3日)、遂に毒を進めて弑した。何太后は崩御した。何進の死から八日後、劉弁の廃立から二日後のことだった。
 在位十年。董卓は献帝を奉常亭に出して哀を挙げさせ、公卿は皆白衣で会した。喪の期間は無かった。十月、霊帝の文昭陵に合葬された。


年表




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最終更新:2016年01月05日 00:58