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 于毒(干毒)は、後漢後期の人物。黒山賊の有力者。黄巾が起きた後、各地の山谷間に拠って蜂起した賊の一人。
 史書では冀州魏郡周辺を寇掠したことが目立ち、一時は兗州東郡まで進出して曹操が東郡太守となる契機を作った。後に袁紹の本拠地である魏郡鄴県城を攻略するまでになるが、軍を返して来た袁紹に討たれた。
「于毒」(後漢書袁紹伝では「干毒」)とは渾名であって、本名ではないと思われる。


情報

于毒
于(干)?
毒?
(不詳)
本貫地 (不詳)黒山河内郡修武県の北部
死去 初平四年(193年)三月、袁紹に朝歌県鹿場山の蒼巖谷を包囲され、斬られる。
,渾名 于毒



事跡

 黄巾の乱(184年)の後に決起する。
 初平二年(191年)秋以降、黒山賊の白繞眭固らと共に、十余万の衆を率いて魏郡東郡を寇略する。東郡太守王肱は防ぐことができず、曹操が兵を率いて郡に入り、白繞を濮陽県で討ち破った。これによって袁紹は曹操を東郡太守とした。
 初平四年(193年)三月、袁紹が公孫瓚と交戦する間に、本拠の魏郡の兵が反した。于毒はこれと共闘して鄴県城を陥落させ、魏郡太守の栗成を殺した。賊は十余の部(軍団)、衆合わせて数万人は鄴城中に合流した。
 これを聞いた袁紹の諸賓客の鄴に家族を持つ者は、みな、憂い恐怖して色を失い、啼泣する者までいた。ただ袁紹は容貌を変えず泰然自若としていた。
 賊に陶升という者があり、「平漢将軍」を自称していたが、かつては内黄県小吏だった。善心が有って、独り部衆を率いて西の城壁を越えて鄴に入り、郡府の門を閉ざし、他の賊を入れず、車に袁紹の家属や諸々の衣冠(官吏高官)の者を載せ、自ら他の賊から扞衛(防衛)して、袁紹の目指す斥丘県に到った。
 袁紹が到着すると、陶升を建義中郎将とし、軍を率いて朝歌県鹿場山の蒼巖谷に入って于毒を討った。
 攻囲を受けること五日で于毒は破れ、斬られた。その時、長安(献帝を擁する李傕ら)が任命した冀州牧の壺寿も共に斬られており、于毒は李傕らと連携していた可能性がある。


年表




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最終更新:2016年01月20日 00:13