衛茲は、後漢後期の人物。史書では『孝廉衛茲』と記されており、孝廉に推挙された後に職官には就かなかったのだろう。
 董卓を誅す決起の際、家財をもって曹操を援助し、その起兵を助けた。また、張邈の将であったともいう。曹操が単独で洛陽へ進軍した際に、張邈に遣わされて随行し、滎陽県汴水の戦に参加した。


情報

(姓名)
子許
本貫地 陳留郡襄邑県
家柄 襄邑衛氏
起家 孝廉
大節を有した。激詭の行いを為さず、流俗の名に徇(こだわ)らず、明慮淵深・規略宏遠だった。
衛臻


事跡

 大節を有した。激詭の行いを為さず、流俗の名に拘らず、明晰な思慮は深遠で、経略は遠大だった。
 郭林宗(郭泰)伝がいうには、衛茲は弱冠にして同郡の圏文生と共に盛徳を称えられた。郭泰は二人と共に市に行った。買物して、衛茲は売買の値に従って支払いした。圏文生は訾呵(大声で叱責)し、値切りをして買った。郭泰は曰く、
「子許は欲少なく、文生は情多い。この二人はただ兄弟に非ず。父子なのだ」
 後に圏文生は財貨に(きたな)いということで名声を損ね、衛茲は烈節を以って名声を垂れた。
 車騎将軍何苗辟召し、司徒楊彪再び旌命(表彰。は名声高い人物の美徳を表彰して自分の府に召し出した)を加えたが応じなかった。
 董卓が乱をなし、漢室が傾き動揺すると、曹操は兵を挙げて陳留郡に到り、初めて衛茲と出会った。衛茲は曹操を見て、
「天下を平らかとするのは、必ずやこの人だ」
 と言い、曹操もまた衛茲を異とししばしば衛茲を訪問して大事を議し、盟を結んで、武事を興すことと共に計画した。
 衛茲は曰く、
「乱が生まれて久しく、兵に非ずしてはこれが整(秩序回復)されることは無いでしょう。兵の興るのは、今より始めとなります」
 深く興廃を見て、曹操の遠大な(はかりごと)の最初の賛同者となった。
 兵三千人を合わせて、曹操に従って滎陽県に入り、董卓の派遣した徐栄の軍と汴水で戦った。
 終日力戦したが曹操の軍は敗れ、衛茲は戦死した。
 曹操は河南尹と陳留郡の郡境を渉るたびに、使者を遣わして衛茲を祠った。


年表






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最終更新:2016年02月01日 23:34