魏种は、後漢後期の人物。曹操により孝廉に推挙される。兗州での呂布の乱の際に一旦は逃走するが、のちに赦されて河内太守に任じられた。


情報

魏种
本貫地 済南郡または東郡
官歴 孝廉 河内太守


事跡

 曹操によって孝廉に挙げられた*1
 興平元年(194年)、張邈陳宮らが呂布州牧に迎え入れて兗州曹操に叛いた。兗州の郡県は悉くなびき、曹操の許には二県城しか残らなかった。曹操は曰く、
「ただ魏种だけは(わたし)を棄てぬのだ」
 しかし魏种は逃走した。曹操は怒って曰く、
「种よ、南は越に走り、北は胡に走らねば、汝を置かざるぞ!」
 魏种は後に河内郡に身を寄せた。眭固が曹操に敗れて射犬が陥落すると、魏种も(とりこ)となった。曹操は、
「ただその才だけだ!」
 と、その縛めを()いて彼を用いた。
 魏种は河内太守となり、その職を以って河北の事を属下に置いた。


年表




所属項目(タグ)


関連項目・人物

「魏种」をタグに含むページは1つもありません。



-
最終更新:2016年02月25日 01:07

*1 曹操が就任した守相は済南国相と東郡太守のみなので、魏种はそのどちらかの出身となる。