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 金尚は、後漢後期の人物。
 同じく京兆尹出身の韋休甫第五文休と共に名声があって三休と称された。



情報

金尚
元休
本貫地 京兆尹
官歴 兗州刺史(長安献帝) 太尉袁術・拒絶)
三休
死去 逃還し、袁術の害する所となった。
追贈 詔して百官に弔祭させ、子の金瑋を郎中に拜す。
金瑋


事跡

 初平四年(193年)頃、長安献帝によって兗州刺史を拜して東に向かった。
 しかし、曹操が既に兗州牧を称していたため、南へ向かって袁術に頼った。
 春、劉表が曹操軍の糧道を断ち、袁術が陳留郡に進軍して封丘県に駐屯した。金尚もこれに随行した。袁術は将の劉詳を使わして匡亭に駐屯させた。曹操がこれを撃ち、袁術が救いに出て戦ったが、大破された、袁術は封丘県を保ったが、曹操の包囲を受ける前に襄邑県に逃走した。
 一連の戦いについて、後に袁術は呂布に書を送り、「昔、金元休が南して封丘に至り、曹操の敗る所となった」と記している。

 建安二年(197)、袁術は帝号を僭称し、金尚を太尉にしようと欲した。金尚は敢えて言葉を(あきら)かにせず、(ひそか)に人を使わして拒絶の意思を諷めかした。金尚が屈する意思がないことに、袁術もまた敢えて強いようとはしなかった。
 しかし間もなく(建安の初め)、金尚は逃亡して還ろうとし、袁術の害する所となった。
 その後、金尚の喪(遺体)は太傅馬日磾の喪と俱に京師許都)に至った。天子(献帝)は金尚の忠烈を嘉し、咨嗟(嘆息)して、詔して百官に弔祭させ、子の金瑋を拜して郎中とした。この恩典は馬日磾とは異なるものだった。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年03月22日 02:00