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 趙昱は、後漢後期の人物。春秋公羊伝を学んだ。長となり、黄巾討伐にて徐州刺史巴祇に功績第一と上表されたが、これを恥として家に還った。
 しばらくして徐州牧陶謙別駕従事に召されたが、後に疎まれ、広陵太守に転出された。笮融の侵入を阻んで戦ったが、敗死した。


情報

趙昱
本貫地 琅邪国
幼年評 郷党はその孝を称す。
起家 州郡請召(に病を称して応じず) 国相が召すも起たず(檀謨陳遵) 孝廉
官歴 長 功第一(黄巾討伐) 還家 辟召別駕從事陶謙) 茂才(陶謙) 広陵太守
高絜廉正、礼を抱き而して立つ。清英儼恪、その志を(おか)すもの無し。 徐方名士
死去 賊笮融が郡界に入り、趙昱兵を将いて拒戦し、敗績し害を見る。


事跡

 十三歳の時、母が病となり、三カ月癒えなかった。趙昱は慘戚消瘠*1して目は交睫(まばたき)もせず、を握って出してをし、祈祷しては血を涙した。郷党はその孝を称えた。
 処士綦毌君に就いて春秋公羊伝を受け、羣業を兼該*2した。歴年に至って志を潜ませ、自家の園圃(菜園)を窺うこともせず、親しい者も疎い者もその面を見るのは希なことだった。時に入って父母に定省したが*3、わずかな時間ですぐに還った。
 高絜廉正で礼を抱いて立ち、清英厳格でその志を(おか)すものはなにも無く、善を(あら)*4して風俗を興化し、邪を殫して俗を矯めた。
 州郡が請召したが、常に病を称して応じなかった。琅邪国相檀謨陳遵(琅邪国相)が共に召したが、起たなかった。或る者は盛怒(激怒)したが、ついに意を変えなかった。

 後に孝廉に挙げられ、莒県長に除任されると、五教を宣揚し、その(まつりごと)は琅邪国の表*5となった。
 そのころ黄巾が乱をなし、徐州の五郡を跳梁した。郡県が兵を発し、以って先辦と為した*6。徐州刺史巴祇が功第一と上表し、昇遷褒賞を受けるべきだったが、趙昱はこれを深く恥とおもい、官を委ねて家に還った。

 初平三年(192)頃、徐州となった陶謙によって別駕従事として辟召された。しかし趙昱は疾を口実として逃避した。陶謙は重ねて揚州従事呉範にその旨を宣べさせた*7が、趙昱は意思を守って移らなかった。陶謙が刑罰を以って威して、その後にようやく起って別駕従事に着任した。
 しかし、その頃には趙昱は徐方(徐州)に名を知られた名士であり、しかも忠直(忠誠正直)な人柄のために陶謙に疎んじられた。
 陶謙によって茂才に挙げられ、広陵太守に遷った。
 笮融臨淮から討伐を受けて、広陵の郡界に迸入(奔入)してきた。趙昱は兵を将いて拒み戦ったが、敗死した。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年04月02日 04:15

*1 さめざめとして痩せこけ

*2 様々な学問を兼ね身に着けること。

*3 礼で、子が朝晩に家宅の奥へ入って父母の様子を伺うこと。

*4 表彰

*5 模範

*6 趙昱の徴発が最も早かったという意味か。

*7 徐州牧陶謙が琅邪人の趙昱を召すために揚州従事を使わした理由は不明。或いはこの時代の徐州人によく見られるように乱を避けて揚州に避難していたのかもしれないが、それならば陶謙の脅しが州外へ通用した理由がわからなくなる。