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 劉瓆、または劉質は、後漢後期の人物。漢の宗室
 太原太守となり、法を犯して百姓の患いとなっている小黄門趙津を収監して誅したことで宦官の怨みを買い、罪を上奏されて棄市となった。宗族を刑に致すのが忍びず自殺させたとも云う。


情報

劉瓆
瓆(質)
文理
本貫地 平原郡
家柄 漢の宗室
官歴 太原太守
死去 延熹九年(166)九月(或いは十一月)、棄市。或いは自殺


事跡

 桓帝の延熹年間(158-167)、太原太守となる。
 郡には豪強中官の親戚があり、百姓の患いとなっていた。劉瓆は深くこれを(にく)み、官に到るとその魁帥(首魁。小黄門趙津だとも云う)を収監して殺し、主人を蔵匿した者をも悉く座して誅に伏させた。一説では赦令の発布を挟んでいたにも拘わらずこれを無視して殺したとする。
 洛陽宦官は劉瓆を怨恚した。有司はその旨を承けて劉瓆の罪を上奏した。桓帝は震怒し、劉瓆を洛陽へ徴した。
 陳蕃劉矩劉茂が共に諫めたが桓帝は悦ばなかった。
 延熹九年(166)九月(或いは十一月)、劉瓆は成瑨と共に棄市となった。宗室であることから刑に致すのを忍びず、自殺させたとも云う。
 劉瓆のは郡吏の王允によって送られて平原郡に還った。王允は三年の喪に服し、その後太原郡の家に帰った。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年04月01日 06:12