丞は、承なり。相は、助なり。(応劭

 丞相は、百官の首座にあり、天子を輔弼して政事の万機を掌る大臣。現代の首相に当たる。漢帝国の巨大化に伴い、権限は分散され、やがて三公に分割されることになるが、曹操諸葛亮など巨大な権力を集中する臣下が登場すると一時的に復活することがあった。


+ 概略と歴史
丞相
発祥 秦官。秦は、もとは次国(中規模の諸侯)であったので、三公は無く、命卿二人を以って左右の丞相に置いた。
職掌 天子を(たす)け万機を助理するを掌る。
秩石 万石
品秩 一品官
衣冠 金印紫綬
上位 天子皇帝
下位 御史大夫九卿ら、百官
先秦 -
武王二年(前310)、初めて左右の丞相を置く。
前漢 劉邦が漢王に即位する(前206年)と、丞相一人(蕭何)を置く。
高帝二年(前205年)、韓信を左丞相とし、左右体制とする。
高帝十一年(前196)、相国と改名する。
惠帝六年(前189年)、相国を廃し左右の二丞相を置く。
文帝二年(前178)にまた一丞相とする。
成帝綏和元年(前8年)、大司馬印綬官属を置き、御史大夫大司空として、これらと丞相の職責を三分する。
哀帝元寿二年(前1年)、大司徒に改名。
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後漢 献帝建安十三年(208年)、三公を廃し、曹操が丞相となる。建安二十五年(220年)、曹操が死去すると曹丕が後を継ぐ。
蜀漢 章武元年(221年)、劉備の皇帝即位に伴い、諸葛亮を丞相とする。死後は置かれず。
孫呉 黄武初(222年頃)、孫邵を丞相とする。
廃帝孫皓宝鼎元年(266年)、陸凱を左丞相、万彧を右丞相とし、左右丞相制を取る。
宝鼎三年(268年)、左御史大夫を司徒、右御史大夫を司空に改称し、建衡三年(271年)には太尉を置くが、丞相も並存維持される。
鳳皇元年(272年)、万彧の死後は置かれず。
天紀元年(279年)、張悌が丞相に任じられるが、翌年晋の侵攻によって敗死し、呉王朝も滅亡する。
西晋 魏の元帝咸熙二年(265年)、晋王国に丞相を置き、魏の司徒何曾を迎える。
泰始元年(265年)、武帝司馬炎が帝位に即くと丞相を廃し、何曾を太尉に任じる。
惠帝永康元年(300年)、司徒を改めて丞相とし、梁王司馬肜をこれと為す。
永寧元年(301年)、丞相を罷め、また司徒を置く。
永興元年(304年)、成都王司馬穎を丞相とする。
懐帝永嘉元年(307年)、司馬越が自ら丞相となる。
愍帝建興元年(313年)、鎮東大将軍琅邪王司馬睿侍中・左丞相・大都督陝東諸軍事とし、大司馬南陽王司馬保を右丞相・大都督陝西諸軍事とした。
愍帝建興三年(315年)、左丞相・琅邪王司馬睿を進めて丞相・大都督督中外諸軍事とし、右丞相・南陽王司馬保を相国とした。


目次



 一人。まれに二人を置いて左右体制がある。
 秩石万石金印紫綬
 魏晋以降は品秩第一品。


職掌

 万機を掌る。
 太尉を置く場合は文武を分掌する。


概説

 太尉が置かれた場合は文事と武事を分掌する。漢武帝期には中朝官の発展や御史大夫の重用によって丞相は「無力化」されていたという説もある。
 しかしながら、前漢前期において太尉が置かれることは多くはなく、武帝末においても丞相は吏員数382人という巨大な組織を有していた。また、武帝が太尉を罷めて代わって置いた大司馬印綬・官属を有しなかった*1ため、成帝期に何武が、建言して、
「今、末俗は疲弊し、政事は煩多であり、宰相の材は古に及ぶこと能わないのに、丞相が独り三公の事を兼ねております」
 とその職務の繁忙を説き、三公制の発足に到ることとなった。
 武帝期以降、皇帝の意思を受けて政策決定を主導する枢機の役割は外戚ら中朝官に奪われるものの、丞相は依然として百官の首座にあり、政事の実務を主導していたと言える。

 後漢末、献帝を奉戴した曹操は丞相となった。曹操は皇帝を抑え込み、三公制を廃して、華北を維持し南方と戦うための権限を全て自らに集中させたため、前例に無い巨大な丞相府を必要とした。この組織の中核となって軍事・国事・選挙刑獄・法制の全てを決裁したのが軍師集団であった。蜀漢の諸葛亮もまた、自ら北伐して巨大な軍集団を統率するため、多数の軍師監軍護軍典軍参軍らを置いた。両者の在任中には太尉は置かれず、まさに「万機を掌」ったと言える。魏王朝の成立以後や諸葛亮死後の蜀漢では丞相は置かれなかった。
 孫呉は王朝創設の当初から丞相を置いたが、大帝孫権の強大さもあり、漢代の丞相に近い存在だったと思われる。孫皓後期には左右丞相制や、三公との並立体制が取られた。
 西晋は魏を継いで丞相を常置としなかった。少数の丞相(および相国)就任者は「皆また尋常の人臣の職に非ず」と、大きな力を有した権臣に限られる。


属官

 丞相を副たるを掌る。
 成帝綏和元年(前8年)、大司空となり丞相の副を離れる。


 秩比二千石、一人。
 武帝元狩五年(前122年)、初めて置かれる。
 丞相を(たす)けて不法を挙げることを掌る。


属吏

前漢初

 吏員十五人、皆六百石。東曹・西曹に分けて置く。

  • 東曹
 九人。出でて州を督し刺史となる。

  • 西曹
 六人。
 そのうち五人は往来して東廂に事を白し、侍中となる。
 一人は丞相府に留まり、曰く西曹、百官の奏事を領する。

  • 騎亭長
 七十人、長安県が給する。
 六月に一度、倉頭廬児を更める。出入りには大車駟馬を使い、前後に大車駢車があった。中二千石と属官が次を以って送従する。


武帝元狩六年

 吏員三百八十二人

 二人、秩千石

 二十人、秩四百石。

 八十人、秩三百石。

 百人、秩二百石。

 百六十二人。秩百石。




建安期(曹操)の属官属吏



 軍師祭酒・中軍師・前軍師・後軍師・左軍師・右軍師を有す。
 軍国・選挙、及び刑獄・法制を皆決せしめる。

 左右の二名、千石。
 諸曹の事を署す。

 丞相が兵を領して出征すれば、留事を統べる。


 千石。
 兵を主る。

 六百石。
 謀議に参す。

 参軍祭酒一名? 参軍多数。

 主簿祭酒一名、主簿四名。
 衆事を録省する。


  • 徴事
 二人。建安十五年に置く。


 選挙を(つかさど)る。
 建安二十二年(217年)省く。

 選挙を(つかさど)る。

 民戸・祠祀・農桑を主る。

 兵事を主る。

 郵駅科程の事を主る。

 倉穀の事を主る。


 (裁判)を典る。法理に明達する者を選ぶ。
 建安十九年に置く。

    • 軍謀

    • 軍議






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関連項目・人物

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最終更新:2016年08月16日 20:53

*1 政務を決裁する権限と組織を持たないということ。